未踏 10号 <創作メモ>
<創作メモ>
● 風―――夏にあって、一陣の風に秋を感じた。
● 水たまり―――カッパ、魔者、不思議、吸い込まれる感じ、太古、中世人の意識。
● 一点透視法の世界―――ポプラ並木の風景、ベランダからの風景、
● ニセアカシヤのトンネル―――木々に包まれる感じ(頭上に木の意識)
● 広場の紅葉した草―――あの朱色、太古の太陽の色。
● 朝のスズメ―――昼間とは違う懸命に生きる姿、虫を追っている、住み分けている。
● 猫をからかうオナガ―――笑い声のような叫びで、猫を木の上からからかっていた。
● エスニック―――CDの原始の人の感情の記憶、
● 目、耳、皮膚、あらゆる感覚を小説のためにではなく、一日へ、印象へかたむけ、異化体験をさぐること、惑星ソラリスのように。
<創作メモ>
● 風―――夏にあって、一陣の風に秋を感じた。
● 水たまり―――カッパ、魔者、不思議、吸い込まれる感じ、太古、中世人の意識。
● 一点透視法の世界―――ポプラ並木の風景、ベランダからの風景、
● ニセアカシヤのトンネル―――木々に包まれる感じ(頭上に木の意識)
● 広場の紅葉した草―――あの朱色、太古の太陽の色。
● 朝のスズメ―――昼間とは違う懸命に生きる姿、虫を追っている、住み分けている。
● 猫をからかうオナガ―――笑い声のような叫びで、猫を木の上からからかっていた。
● エスニック―――CDの原始の人の感情の記憶、
● 目、耳、皮膚、あらゆる感覚を小説のためにではなく、一日へ、印象へかたむけ、異化体験をさぐること、惑星ソラリスのように。
① 忘れている太古の感覚を思い出すために。
② 一生に一度しか使わない感覚を―――死、発狂の感覚の再現。
③ 宝は足元にある、日常の、何げないものの中に、この発見をこそ。
残された自然を求めての旅行などではなく、今に全ては無くなるとするなら、感覚を調律すること、呼び戻すこと。ディキンソンように、限られた中の無限の中に。
④ 旅などの外的刺激、非日常的な刺激はそれだけのもの、そこには探る意識、感覚というものがない。しかし、光、水、風、生きもの、などからの感情は身近でいつだって蘇らせられるもの。私の胃がないことからくる病気感覚のように。
⑤ バシュラールの蝋燭に寄せた散文、哲学詩のように、それを一日を対象にして描く。
⑥ ギフチョウの世界での、こどものセリフ、どこから来て、どこへ行くんだろう?の疑問は、現在も哲学の疑問である点。
⑦ あるシュチェーションにおける、ある感情の作品は読んでいて面白くない、書きたくない。そうした感情は、ある作られた状況のものであって、現実の感情ではないといった拒否感情がある。日常の中の感情なら、体験も出来るし、自分のこととして無理しないで解る。タルコフスキーの水、風、思い出などの世界は、なつかしく、自分のことのように、作者と同じ時空間を生きている気分になれる。
⑧ ありふれた日常の中の地球という意識---。生命も、石も、宇宙においては、ありふれた、存在そのものといった気分が、どれだけ気持を休ませてくれることか。
⑨ 病んだとき、典型や、普遍は役にたたなかった、聖書も、歎仁抄も、それは私の解決にはならなかった。私の解決とは、一日の意味、私の一日の意味であった。
⑩ ある何ものかに向かって---。何かは解らない、解らないから不思議であり、価値がある。そうした一日への視点、書き方。
⑪ 読者、他人は、意識しないで、自分ために、明日生きる糧のために、私のバイブルを目指して書くこと、いつか訪れるあの日のために、自分の生きる部分として。
⑫ 一日がつかめれば十年がつかめるということ、ああこんなものなんだなっと。たとえ再発があっても、なくても、捉えておかねばならないもの。
ムルソーでは死にたくない。物達への即融の関係、つながりの中で絆をもって死にたい。包まれるように、私の星、私の木、私の山よと、語って抱かれて、共感の意識で。生き生きとして相互に喜びあえるような---。
子供の感覚---一日の中に包まれる神秘の発見として。
母の祈り ---一日への私の祈りとして。
失われてしまっている一日の発見を。
透明な感覚、思考---自己における真実、生きている意味。
小津が戦争を通し、無を実感し、日常を描くことに意味をみいだしたように。日常の意味を私の実感で問うこと。小さく日常には回帰しないで。
ベケット風、サロート風、ロートレアモン風、ジョイス風。又は散文詩風---。詩集スタイルなら、一日一編を書く。抽象ではなく、省略はしないで、自分が感じられものを。
追記として、病院でのOとの対談として、透明な思考というものを入れ、場合によっては私の手紙も入れて、こうして一日を探っていた私へ、突然、襲ってくるのが現実の一日というものと、現実の私とOを入れ、こんな中で有効なものは、人間の心の問題。何をどう感じるかの問題であったと---。
わたし自身の所有と存在なのだから、わたし自身が所有していく、わたしに於ける一日が定着させられればいいのだから---。私の方法で、私自身が深まる方法で---。
ジョイス、プルーストをやり直すことではなく、無名の小片を発見するために。未知のかくされたものを明らかにするための形式の発見へ向かって---。
ぼくの「所有」と「存在」
一日というものがどういうものか、少し判ってきた気がする。それは一つの印象でいいのだった。たとえばきょう、終日ヒヨドリがベランダの手摺で啼き続けていた。いつもの威嚇の声ではなく、悲痛の、痛々しい声で。
はじめ親鳥は、自分の居場所を知らせるだけの単調な啼き声で、子供は可細い声で それに応え、親と子は声でつながっていた。親は見通しの良い場所に居て啼き続け、 子はそんな親の姿と声に安心してあっちこっちと飛び回り、時には餌も取ってもらっ て、巣離れの最中だった。ついこの間まで、巣から長い首を伸ばして餌をねだってい ただけの雛が、今では一飛び五十メートルの敏捷な翼に---。子供は行動範囲を広 げ、声が何度か聞こえなくなる。が、親鳥はそんな子供に、変わらず声をかけ続けて いた。しばらくすれば戻てくる子供の声だったから。ところが何回目かの飛翔の後、 子供は戻って来なかった。親鳥は声のオクターブを上げ、木の枝で、ベランダの手摺 で、闇が迫るまで啼き続けていた。
その日、親鳥と子供が巡り合ったかどうかは知らない。ただ、ぼくの部屋に終日響いていた、その親鳥の声。これがその日のぼくの一日というものの印象。一日というものが、何かの印象で形つくられていくと思う。
勿論、何の印象も感じない一日というものも多い。そんな時はたいてい手なれた動きの中にいるようだ。掃除、洗濯、炊事、仕事、テレビを見るといった。
掃除をして、物たちが生きかえって見える。ステレオの音がきれいになったよう。 花瓶の表面には光が粒となって煌めき、ぼくの部屋に、音と光と風が充満し---。と、後から探ってもそれは印象にならない。印象とは、同時性のもの。一つか二つの、初体験なもの。そうした印象だけが、一日というものを思い描かせてくれる。ぼくは、真夜中によく散歩をする。公園の外周を一回りしてくるだけの、時間にして三十分たらずのことだったが。目よりは耳がはたらき、耳よりは意識がはたらくというように。目は刺激を受けない黒の単色だから、耳は人々が寝静まった静寂だから、意識はそうした刺激の少なくなった外界の中で、リラックスしていく。外界からの印象というものは、短絡的。風の音、木々のざわめき、時々疾走していく車ぐらい。輪郭のぼやけた風景の中で、ぼくの意識だけが浮かんでいるような気がしてくる。確かめたかったぼくの一日というものが、ぼくにおける一日の意味が感じられる気がしてくる。これからの数ケ月、何がぼくに一日というものを印象づけていくのか、どのように一日は記憶されて行くのか?
舗道に枝を伸ばした街路樹。ニセアカシヤ、挟竹桃、樫の木、柳。木のトンネルと なって下を行くぼくを包む。ニセアカシヤは頭上すれすれに伸び、そこを歩く時、い つも頭を撫でられるような気がする。挟竹桃は暗がりにボーッと白く花を浮かび上が らせ、時々ボソッと、思わぬほど大きな音をさせぼくを驚かす。樫の木は枯れた硬い 葉をカサコソ音させ、柳はこの数日で伸びた枝で、ぼくの顔をぬぐう。真夜中の公園 は木達の気配で溢れている。
ところで、今ぼくは何を探ろうとしているのか?。一日の印象、ある印象が一日を形づくるということ。初体験な印象が、同時性に於いて捉えられたとき---。
公園の外周に植えられたポプラ並木、一点透視法の不思議な世界。背丈が二、三十 メーターはあるポプラが、低い家並と平行に植わり、その中を細い道が公園の外周を はるか越えて伸びている。ポプラ並木の空に伸びた鋭角的な三角形と、地平に横たわ った家並の三角形。そこを歩く時いつも、吸い込まれるような感覚になる。遠く視界 の届かない一点を見つめて歩くと、絵の中に入って行くような、風景と一体となって いくような不思議な気分に包まれる。
初体験ではないが、日常の繰り返されるものの中でも記憶されていく一日の印象---なにげないものでも、ふと見つめた時に感じた印象。そんな印象も、今のぼくには忘れがたい一日として形つくられていく。
舗道のくぼみに出来る水たまり。ひとまたぎほどの浅い、いつも枯れ葉などで汚れ ている水たまり。またぐ時ふと覗いて見た。瞬間おとづれた感覚、色のない白黒のも う一つの世界のこと。水銀が禿げ落ち黒い染みの浮き出た古鏡を見ても、おとずれる あの不確かなもう一つの世界が、街なかのあちらこちらに、口をあけているように思 えた。しゃがみこみ、更に覗きこむと、自分の顔が薄黒く醜く映り、もう一つの世界 の景色そのものだった。木の茂み、電柱、そして雲、見えるのはそれだけ、色彩の無 い、単純な、暗い、井戸の中の世界---。今ではもう埋められてしまった、数々の 沼や池のことも思い出された。飛び込み自殺のあった三ッ池、フナ釣りの用水池。河 童が住んでいると聞き、けっして泳げなかった新池のこと。これらいたる所にあった 池や沼の思い出が、水たまりには映っていた。
今のぼくは、何故このような、ありふれたものの中に、一日を印象づけていくのか?。散歩の度に思い出すこれらの感覚。日常の、身近なものの中にあるからこそ蘇り、立ち返ることになる。今のぼくにとっての一日。蘇り、立ち返らざるを得ないもの。何かの目的や行為のためにあるのではなかった。やらなければならないことは色々あったが、ぼくには意識と行動の間にズレがあった。意識してもすぐには行動ができなかった。それが、たった数分で終わる行為であっても。何かの弾みで行動に移ることはあったが、湧いてくるものを待つ時間が常に必要だった。休息は、労働の後の眠りより強く要求された。眠りも、目覚めも、その日の身体の調子によってしか出来なかった。一日にやれることは少なく、一日がリズムをもって訪れることはなかった。
夏の夜の一陣の風に秋を感じるということ。これは幾度も重ねられてきた印象。秋 を知っていて、その侘しさや、もの哀しさの記憶の上に初めて感じられる印象。重ね られてきた行為がなかったら、風に印象は乏しい。朝夕の景色はまだ夏なのに、肌に 印象づけられた秋の気配。肌が感じとっていた。樫の木林の白い風、くぬぎ林の黄い 風。少年の日一人の世界で感じた、風への印象の記憶。
ぼくは、何よりもこれからの十年というものを感じてみたかったのだ。それができないでは、安心して一日がおくれない心地だった。十年というものがどんな感じなのか? 何によって構成され、何によって印象づけられていくのか?。そのためには一日を、そして日常を、日常の中のさり気ないものの探究を---。
印象だけが、人の心に残っていくように思えるのだった。芸術や、科学、宗教、哲学、どれも形をもって表されてはいるが、それは人の印象の残骸物、そして、それらは誰かのものであって、ぼくのものではない。時間の無限の中にあっては、ただの物、外界物。しかし、ぼくの印象だけは。生きてあるぼくの、一日の中に含まれて在るその印象の中だけには---。あの生き物の持つ、生きて変化していく色彩のような輝きがあるはず。
どこの道端や荒れ地にも生えている、秋になると思い出し、出会える一つの草がある。名も知らない、背丈五〇センチほどのヒョロヒョロとした、その草のさほど大き くはない何枚かの葉のうち、一枚か二枚が、血に染まったとしか思えないような朱に 染まり、ぼくを驚かす。他の葉も幾つかは緑葉にまじって様々な赤を現し、見ていて 飽きない。一本の草でこれほどの変化を感じさせてくれるものを知らない。ぼくはそ こに夕陽、朝日、深山幽谷の紅葉を見るのだった。十年も前、散歩の途中で味わった その草の印象は、今も消えることがない---。間もなく会えるあの草のこと。
あらゆる哲学、芸術、宗教でも表せないものが、時間と空間とを統一したところの生きて流れている一日というもの。説明したり、定義づけたりは出来るが、その絶対的な、不可逆の時そのものを表すことは出来ない、表していくその隅から消えていく一日というもの。一日の時空は、その不可逆の時を生きて感じる、その人だけのもの。ぼくはいま、印象を通して一日を考えようとしているのだったが、何がぼくにこれほど一日というものにこだわらせるのか?---。あの日、ぼくは、ぼくにとっての一日の意味を知らなかったが為に、うろたえ、とまどったのだった。
<これが本当に死というものだろうか?>アンドレイは、草や、にがよもぎや、く るくる廻る黒い球から噴き上げている煙の流れなどにまったく新しい羨望の眼を注ぎ ながら考えるのだった。<おれは死にたくない。おれは生きることが好きだ。この草 や空気が好きなのだ--->(中略)---<だが、今となってはもう同じことじゃ ないか、---いったい、あの世には何があるのだろう、また、この世には何があったというのだろう?。なぜおれは生と別れるのが惜しかったのだろう?。この人生に は、おれの分からなかった、そして今だに分からない、何かがあったのだ> (トルストイ、戦争と平和より)
いずれ訪れるぼくの消滅の日、その日の為に探り、書いておくこと。このことが、意識する生命としてのぼくの使命だと、理解したのだから。一日というものが、ぼくにとってどんなものか?。そこには何が含まれているのか?。解ってはいる、そして感じてもいるのだが。ただ、それらを言葉を使って表そうとする時、過ぎ去る一日のようにとどめられない不可能を感じるだけ。一日というものは、健康の恢復、日常性の中で、日々変化していく。輝いたり曇ったり---。そんな一日の何分の一かでも、何時間かでも、探り、書き表しておきたいのだった---。ぼくの一日というもを。
タゴールを読んでいると、心地良い気分に浸れる。自然、存在そのものへの調和といった、一体へと誘ってくれる心地良い調べに包まれる。ぼくは一日の中に、こうした調べをこそ見付け、感じたいのだった。感じてはいる。考えることから、感じることへ---。唯一なるものへ、ユニティーへ---。
ぼくにとっての一日のイメージ。一日とは、人々を包むものでなくてはならない。 やさしさ、神秘さに満ち。生きた一日が、喜びとなって記憶され、積みあげられ、充 分に味わえたと感謝し終われる。そんな一日が、明日も、またその明日も続くという ことの恍惚でなければ---。ぼくはそうした一日をイメージしてみたいのだった。
一日がノスタルジヤではなく、未来へのタイムトンネルのような、神秘性を持って拡 がっていないなら、人にとって何のための一日なのか?。過去も未来も含んだところ の、無限の一日というものを---。
健やかな一日、公園の街灯の光が届かない、木の下のベンチに腰掛け時を過ごす。夏の夜と違って、今、晩秋、蚊はいない。少し肌寒いが、風呂あがりのぬくもりがあり、コートの衿を立てれば、心地良い風。黄色の半月、星、人のいない公園、眼に優しい暗がり、一日の印象を反芻させ、刺激に疲れた身体を休ませてくれる。小一時間も、立ち去りがたく、何を思うこともなく、いい気持、いい気持と座り続けていた。
ぼくが台風の中に立ち尽くすのは、麦畑を浪打たせ、渡っていた風の印象や、スス キの葉裏を逆立て渦巻いていた彼らの印象があるからだった。夏の暑さにシャツを吹 き抜け、身体をゆさぶった、少年の日の記憶。色々な一日がある中で、風の中の一日 は、ぼくに立ち止まる一日を与えてくれた。
いつもの散歩道を行く。舗道には枯れ葉が積もっている。秋草がおい繁っている。風が木の葉を揺らす。肌にやさしい風。溢れる物たち、家々の灯り、漏れてくるテレビの音、人の笑い声、あらゆるものが一日の中には詰まっている。真実も、神も、全世界が、この中にはあり、ぼくはいま、その気の遠くなるほどの出来事と、物達の詰まった一日の中を歩いている。山紫水明の自然の中に居るわけではない。外国旅行の、知らない街を歩いているわけではない。いつものありふれた、幾度となく目にした、どこにでもある景色と、物達、空間の中---。色あせることのない一日というものの中に。
立ち止まって、思い出して、沈黙して、眼にするどんな物でも、凝らし見つめてご らん。美と、不思議さと、豊かさとが見えてくるはず。自分自身も不思議だが、あら ゆるものが---。様々な形、様々な暮らし、「おお、水の上を回転し、のたまうも のよ、小さな黒いチョッキを着て、お前はそこで何をしているのか」と。ぼくが、ぼ くを創造的に語ること。個人として、この世に発見したぼく個人を。ぼくがぼく個人 の奇蹟を感じたいのなら、ぼくがすべての物に、名をつけ、交感していくこと。現実 をより高い次元でとらえ、それを再構成していくこと---。小さなものの中に偉大 なものを。偉大なものの中に小さいものを見て---。
ぼくは毎日を、一日とは何かを考えて過ごしている。ぼくにとっての一日、一日は考えなくとも、書かなくとも、今もぼくの目の前に拡がっているのに。一日は、誰に知られることもなく、それぞれの中に、豊かに、美しく、どこにだって拡がっているのに---。あのブナの木の、陽に映える喜び。獣たちのあの暮らし。彼ら、一日を意識などはしていない。あたりまえの、信頼し、任せきった生きものたち。ぼくが、ただちに彼らのように一日を生き始められるなら。一日は、今も、明日も、永遠に続いて行くと思えるのに、有限を意識している。ついえ去る日のことを考えてしまう。
日常の、一日の中に無限を見い出す哲学を、これは人の祈りとして、普遍のもの。いかに見い出すかは、ぼくの祈り、人の祈りの中にある。いつの時代にあっても、人は有限の生命にあって、生命が一日こっきりであることを知っているのだから。人のその生命とはこの一日の体験の中にあるとは解っているのだがら。
存在してしまっている物達に、人は何も付け加えるものなどないのだけれど、存在しているぼくの一日にも、何も付け加えることなどないのだけれど、人はいつの日か存在を終えねばならないことが、何物かを一日に付け加えたい欲求にかられる。あらゆる芸術が、この存在から非存在への不安と虚無に抗って書かれ、創られている。存在していたその作者には、無限の一日というものがあったのだけれど、この日常は、この一日は、何より奇蹟的なものとして、全身で感じられる確かなものであったのだけれど。たとえ、無秩序、無意味に見えても、その人が存在していることにおいては、意味と秩序を感じられるものであったのだけれど。一日は指の間からこぼれ落ちていくのだった。
日常が消えるとき、人は日常を発見する。病んで健康を、ぼく自身もそう。あんなに、健康だけを願い、一日の中に生きることだけを願った日々だったのに。この日常の中にあって、このぼくの肉体にあって、それは色あせ、失われていく---。この平穏な日常に問題が?。このぼくの、健康を恢復した肉体に問題が?---。健康と、平穏。何より求めたものだったのに---。
赤道下の常夏の楽園に生きる彼ら。海と山からの自然の恵みを、必要なときに、必 要なだけ取り、生きている。食べることが満たされれば、遊び、眠るだけ。一日の終 りには、恵みに感謝し、祭りをする。踊り、歌い、祭りは夜毎に行われる。一日に包まれて生きている彼ら。年中行事ではなく、一日を生き、一日を死ぬように。始まり もなく、終わりもなく---。太古、人類はこうした、豊かな生きていくことに何の 抵抗もない、感謝が自然な環境に住んでいたと思える。いつの日か、北へ南へ、高地 へと、子孫を増やし、住み辛い地へと移って来てしまつたと。
一日を考え続けているのだけれど、またそれを作品化しようともしているのだけれど、一体それらはぼくにとってどんな意味があるのだろうか?。---一日はフルスピードで去っている。ぼくは何も変わっていないのに、回りは目まぐるしく変わっていく。一日について考え、それを記憶しようとしていただけのぼくの三ケ月だったのだけれど、季節はもう秋、そして冬。ついこの間、ニセアカシヤの花の舗道を歩いていたのに、今枯れ葉舞う舗道に。ぼくは何も変わっていないのに、回りが変わってる---。
ぼくが一日を考え続けているのは、今日の一日が、ぼくにあるということが、何にも替えがたい存在として刻印されたからだった。否、今のぼくは、一日の重さに、一日というものの大きさに打ちひしがれているのだ。一日が当たり前のものとして戻って来ている今、かつての掛けがえのなさ、神秘性、奇蹟性は薄れ、一日の存在が、死よりも自明のものと考えられ、安逸---。多くの戦争体験が、いつの時代にも風化されてきたように。
忘れられない、変わらない、蘇ってくる記憶を---。
ぼくは一人ぐらしの母が、毎日どんな暮らしをしているのか、見てみたいと思い、 前もって遊びに行くことを告げないで出掛けた。夕暮れの薄暗くなった部屋に、電気もつけず母の小さな後ろ姿---。「何を祈っていたの?」「貴方たちの健康と、御 先祖さまへのお祈り」「朝晩、欠かしたことはないわ、朝にお祈り夕べに感謝。今日 もどうか一日無事でありますようにと」。母に祈られていた驚き、一日を、習慣のよ うに祈り続けてきた一人の母の発見---。
もう十年も前になるこの記憶を、いまぼくは新鮮に思い出している。朝に祈るということ、今日一日無事でありますようにと、そして無事であった夕べにその日を感謝する。一日の意味を、一日というものがどういうものかを、すでに母は知っていたのだろうか?---。近ごろのぼく、一日の無事を、本当に当たり前のように考えている。一日という神秘と、奇蹟を感じてない。宇宙の果てまで繋がっていたぼくの一日というもの、空間への畏敬、生かされて在った生命という---。今ぼくも一日というものを祈ろうと思う。祈りをもってぼくの一日を送ろう---。
目---。ぼくはこの目で何をみるのだろうか?。
火、人間にとって火は神を手に入れたようなもの。寒さから、獣から身を守り、太 陽とは違った、身近な、神に等しいもの。洞窟に赤々と揺れて燃える火、火を使い、 火と共に生きる人間は自然に対し優越を感じ、安心を見い出し、火を見つめて、囲ん で、知性を広げて来た---。
水、水が光に出会うとき輝き、生き返る。川面、雨だれ、草の葉の水滴、手になじ んだあの重さ、感触、人類が幾度となく味わってきた水への感情。生命と同義語の、 限りなく、優しく包み、潤し、慰めてくれるもの---。
耳---。ぼくはこの耳で何を聞くのだろうか?。
バロック音楽---。ドードミソ、ミーミソシと、初め甘く引っ張る音があって、 そのメロデーと対話でもするように、次の音が重なって---。心地良い音の連続、 繰り返しの中を、一人寝ころんで、何考えることなく、流れていく時間を楽しむ一日 ---。ぼくはこのバロック音楽のようなものは何一つ作れないが、ぼくはそれらを 聞き楽しむことが出来る。ぼくは砂粒の一つも作れないが、存在するそれらを味わう ことが出来る---。
時空間、存在との一体感。死は終わりではなく、新たな始まりである自然達の姿。木は葉を落とし春へ、虫は卵を生み子孫へ、どうして人間だけが彼らとは違っていると考えるのか。一体感がないから、彼らとの一体感を無くしてきたから。時空の意識、立ち止まり振り返る一日、見つめる一日が少ないから---。生きるということが、自分を生きるという、一度限りの、一人対時空間という関係で捉えられていないから。無数の私ではあるが、私の死が私だけの死であるように、私の生は私だけの生である。私が一人となって、この時空と繋がっているという意識。この私を存在そのものと捉えられる意識、精神と言われるものを持ってはいるが、石と同じ存在には違いない、私は存在そのものであるという意識---。
文芸評論をたどった。カフカ、プルースト、ジョイス、ブロッホ、ブラッショ、マラルメ。夥しい闘いの跡。今、一日というものを考えているぼくに、洪水のごとく押し寄せてくる作品。ぼくの一日は、誰が何と言おうと存在しているのに。この一日をすくいあげたいだけなのに。一日というものが、彼らにとっては、何物かを創造することのためにあったよう。ぼくにとっては、一日がここに在るだけで、そうした一日をとらえたいと願っているだけなのに。何かを成そうが成さまいが、存在している一日というもの。存在をどれだけ考察したとしても、それは、相対性理論が、生きてある人の寿命を考えに入れられていないように。それは、石がぼくの心を理解出来ないと同じ距離。一日とは、作品とは無関係の、死とは無関係の、カフカがどれだけ苦しんだとしても、プルーストがどれだけ描いたとしても、厳然と訪れていた一日という、宿命のように、絶対者として君臨していた一日というものを---。ただぼくは意識していたいだけ。人間のあらゆる科学、芸術、文化を生み出している、進歩という人類の一日ではあるが、それらは死んでいる細胞、フケのようなもの。一日とは、生きている細胞そのものなのだから。ぼくの前には一日があり、ぼくの後ろには一日はないのだから。
その日の最初の声である看護婦さんの声を聞いて、六時には体温計を脇に挟み、ま だ心地良い眠りをむさぼり、ベッドの中で朝の物音を聞く。足音、トイレの水の音、車、街の音。誰かがカーテンを開ける。目をあけると、冬の日の朝陽が、林に注いで いた。一日がそこに始まっていると、人と人が話し始め、眼と眼が合い、人が動き、 空気が動き、間もなく朝食が始まった。
一日一日を朝の光で迎えていた、三年前の記憶。眼と眼、手と手、心と心で捉え、味わっていた一日というものの記憶。それが、いままたぼくに新たな一日を考えさせていく。
人は死ぬことが分かっても、何も出来ないということ。死ぬ時が分かっても、何の力にもならないということ。明日死ぬとしても、五年後死ぬとしても、諦めだけを迫られ、後、何事かを後を生きる人のために成すかもしれないが、死によって人は何かをするのではない。希望へのエネルギーは醸しだされるが、創造への力は又別のもの。創造への欲望は死の忘却の内にあるものだから---。
四ケ月が経つ。ブッシュマンの意識と、宮沢賢治の意識を考えていた。ブッシュマンは個人の想像力と自然への信頼のもとに、どのような世界をも、調和、因果的に説明解釈する。存在への感情移入を自在に行い、人が人として生まれ、生きる喜びを味わっていく。木になり、鳥になり、カモシカになり---。宮沢賢治、木の心、鳥の心、鹿の心を歌ってはいるが、それは自分を歌っているにすぎない。木そのもの、鳥そのものの心ではない。人として生きることだけが、人を生きることではなく、ブッシュマンのように、何にでもなって生きられるなら、一日も、一年も、一繋がりのものに思える気がする。少年の日、ファーブルの昆虫記の中に見つけた虫たちの世界。ぼくはその時、たしかに虫を生きた気持だった。
玉ころがしが、ぼくたちよりずっと豊かに暮らしていることを知った。牛のウンは 彼らの食糧で、時に家で、ダンゴにして、後ろ足で転がし巣穴まで運ぶ。その巣穴ま での道のり、山あり、谷あり、時に転んで---、フンが食糧だなんて。フンがマイ ホームだなんて---。
ブッシュマン。朝日を見て、一日の始まりを感じる。始まる一日。鳥や、獣たち、 もうとっくに起きて、一日を生き始めている。獲物を追い、はしゃぎ、ころげ、飛回 る彼ら。一日は、豊かに、目の前に、まだ生きたことのない一日として拡がっている 。全ての存在は、意味をもって、関係をもってそこには在った。朝日は、狩り日和を 意味し、草木は、身を隠す為に、獣たちを生かすためにあった。
ブッシュマンは、○○おじいさんの星、○○おばあさんの星、と星にそれぞれが名前を付け、何処へ行っても、何をしていても、何に出会っても、自分のことは彼らはとても良く知っているはずと、あらゆるものに一体感を持ち、孤独という感覚がない。シリウスと語って、バオバブの木と語って、国家、社会、罪を知らず、所有物といえば、弓と矢ぐらいなもので、自然を所有するのではなく、自然に所有されて、二万年を生きて来た。
---想像してごらん、想像してごらん。ぼくはいま、一日を想像の中に生きてみようとしているのだった。今在る世界のこと、この続いてる一日一日の中を。譬え世界に何が起ころうとも、紛れもなく在る一日のこと。この時間、この空間、この意識の中を---ブッシュマンのように---。
ウスバカゲロウの一日---。朝に生まれ、夕べに死ぬとはどんな感覚?。川面を何 層にも、一日を生きるためだけだった、銀の羽根を敷き詰め、流れていく彼ら。一日 は、ぼくが感じるどんな印象よりも、深く、激しく、一秒がぼくらの一日で---、
初めて君が二本の足で歩いたときのこと---覚えてる?。長い間、脱臼でギブス をはめられていて、一才の誕生日も随分過ぎて、ギブスが外れた数日後。一歩二歩、 三歩を機械仕掛けの人形のように歩いた。---あのときの君の感動、その日からの 君の冒険、世界旅行。自分の背の高さを知り、身体の重さを感じた。突然三十センチ もの視線の高さ、花も、虫も、猫も、犬も、一度に君の家来に。一歩踏み出せば揺れ る重い頭。その頭と一緒に、これからはどこへでも出掛けられる。足に伝わる土の温 かさ。陽や風は友達に、君の頬に、足の間に、降りそそぎ、くぐりぬけ、君の行く所 どこへども付いて行き。数歩を歩いて転び、手をついた石の硬さ、土の柔らかさ。見 つけた花に、君の瞳はズームアップ。一枚一枚の花びらが、葉っぱが、様々の色彩と 形に、---君の瞳は何十倍もの双眼鏡を付けたよう。見つけた物を手に、口に、苦 い、甘い、酸っぱいと---。
生命というものが、目には見えない、形もない、人にはとらえることの出来ないも のであったことをぼくは知らなかった。あの日---、可愛がっていた小鳥の身体か ら、風船の空気のように、突然抜け出してしまった生命というものを、ぼくはどうし ても理解できなかった。小鳥は動かない、足は冷たく蒼く、目は白い、そしてこれが 死なのだと。---でもどうして?。小鳥はここに、こうしてぼくの手の中にいるの に?。小鳥は、白い羽根と、赤いくちばしと、美しい声で出来ていたのではなく、そ れらはただの衣装で、もっと大切なものが小鳥の中には入っていたなんて---。ぼ くは知らなかった。一晩中、手の中で抱き続け、汗でグッショリとなり、変わり果て た小鳥。朝起きても、生命は帰って来なかった。小鳥の生命はどこかえ飛んで行って しまった。---どこへ?。ぼくは探し続けた。目には見えない、形もない、生命と いうもの、どんなに探したって、考えたって見つかりっこない。何もわからない、た だ面影だけか、それも冷たく小さくなった身体からは、しだいに消えて行く---。一日が真っ暗になって過ぎていく。抱き続けた小鳥を手から離せなかった。どこへ やるかも、どうしたらいいのかも---。わけの解らない悲しみ、誰にも話せない苦 しみ。困り果て泣き伏すぼくに、---「ピィちゃんは、お星になったのよ」と、母 の声---。「星に?---。あのお空の星に?」---星にだったらわかる。あの 一つ一つの星が生命で、小鳥に、猫に、犬に、どんな生きものにも入っていたのなら ---。お墓を作って、お参りをして。ぼくの小鳥は、ぼくの心の中に。思い出しさ えすればいつだって、心の中を飛び回っている。赤い嘴、真っ白の羽根---。そして、小鳥の生命は夜空にいつまでも瞬いている。
一日、一日を、ぼく流の祈りと、想像で埋めていく日々。---単純なこと、小さなこと、謙虚なこと、子供の心をもって、信頼し求めはするが、自分で得ようとはしないで、母のように慕い、自分に構わず、唯在る一日というものを祈って---。温かな早春の日差しの中で、街を行く人々の顔が自然にほころぶように、一日を所有しているだけで幸福感に満たされる日々。そんなぼくの一日の中へ---。突然届いた友人の発病の知らせ。---流れている一日、現実の一日というものは、こういうものであるのだった。
君は毎日出かけているという。どこへ?。喫茶店、雑踏、林、川?。考えているこ とは病気のこと、寿命のこと、覚悟のこと、子供のこと、家族のこと、何より自分の 存在と死のこと。君の瞳に映るもの、頭に浮かぶもの、ぼくに伝わってくるよう、ぼ くとは違った切迫した君の心が。いづれ君は諦めへ、そして希望へと到る。が、其れ までの君の、ぼくの不安、恐れ、宙ぶらりんな時間。ぼくは諦めきれない、諦めの後 の希望など持てない。耐えられなくて、手紙を書く。入院前の君に、ぼくの不安、気持は言えなくて。会って話しても出せなくて、ただ の検査であっても、最悪を考えてしまうぼくにあって、経験者のぼくにあって、たと え君が覚悟は出来ていると言っても、辛くて、手紙でぶちまけたくて、君をただ見守 るなんてぼくにはできないこと。「この世で一人の理解者が得られれば生きていく意 味があるんだ」とぼくを得た時言った君、そしてぼくも。いまその一人が病んで、最悪を考えると、あと何年かの時間、尋常ではいられない、何も手につかない。自分のことで精一杯だろう君、いくら平静を装ってもぼくには分かる、辛い、書き なぐらないでは居られない。君の諦めを、希望を撹乱することになっても、ぼくの心 は君との相互侵食を望んでしまう。君が、最悪の場合、二年後、時に五年後であるか も知れないが、君が世界から消えると考えることの淋しさ。君にとっては苦しさかも 知れないが、ぼくの淋しさは耐え難いもの、時が忘れさせてくれるかも知れないが、 それまでの淋しさ、哀しみ---。こんな手紙、君は何と言うだろう、冷静に判断し、ぼくをいなし、なだめてくれる だろうか?。覚悟した人間は強い。危機に遭遇した人間は強い。ぼくの心配、不安な ど、今の君には通じないかも知れないが。いや、君も不安で一杯なはず。そして、一 匹の弱い生きものに返っているはず。なのに、いまぼくはこんな手紙を書いている。 今のぼくには君への労りという心が働かない。悩める君に示せたあのいい加減な労り という心が出てこない。君の危機にあって何も果たせない。今のぼくは弱く、立場は 逆転している。こんなぼくを君は何と思うのだろうか?。---この数週間の欝積、 懊悩。ぼくは君の病状を聞いて以来、耐えて来ているのだ。友人にも聞き、最悪を考 え、そして君の口からも---。耐えて来たのだから、悲しんで来たのだから。これ までぼくは幾つかの死に対面してきた。が、君の死は違う。ぼく自身につながってし まう。いつかぼくは君に絆のことを話した。絆とは、相手に所有されている時間のこ とと。君は何と多くのぼくの時間を所有してきたことか。いや、時間ではない、ある 決定的なもの。求めた者と、求められた者、選んだ者と、選ばれた者という関係。この、人において最上のものが失われんとすることに、ぼくは耐えられない。これは健 康者の、死を忘れているところの悲しみ、乱れなのかも知れないが---。ぼくが病んだ時、ぼくには家族も君も胸中になかった。ぼくはぼくであり、強かっ た。強さを増幅していった。それだけが不安に対するぼくの希望だったから。が、今 のぼくは家族の立場、君の立場---。君はぼくが病んだ時「山口君は何んて、生へ の執着が強いんだろう」「これなら、ぼくは山口君に見とってもらって死ねる」と妻 に語ったという。ぼくは今、この言葉を君に返上したい。今のぼくは弱い、参ってい る。あの日、君が自殺すると言ってきた時、ぼくはまだ君を得ていなかった。が、今 のぼくは君を得ている。その君が倒れて---。ねえ、励ましてよ、ぼくに希望を与えてよ。そして、忘れさせてよ、そして、この 乱れた日々から救いだしてよ。君の心の内を知らせて欲しい。病院は藤が丘だから、 度々見舞いに行けるからと喜んではいるけれど、入院前の、君の気持を知らせてよ。---またぼくに時間は止まってしまった。一日が伸びきってしまった。今日も、 明日も、一年も、君への希望が見えないのなら、同じものに---。輝きを失った世 界、暗い、息苦しい、虚しい、また戻ってきてしまった、あのもう一つの世界。助け てよ! 御免、準備している君に。でも許して欲しい。大した貸しではないけれど、 君には貸しのあるぼくに免じて---。君は、ぼくの涙を知っているの?、あれから何度泣いたことか。どれだけ耐えてき たか。君も、ぼくが病んだ時、感じただろう悲しみ、不幸を今ぼくが味あわされてい る。涙が流れて止まらない。君はいつか東京を去る時、泣きに泣いたという、今ぼくも、君を泣いているのだけれど、自分自身も泣いている。もし君がぼくより先に死ん だなら、君は星になる。今から自分の星を決めておいてよ。それを頼りにぼくは君と 生きていくから---。なんて君の人生は辛いのだ、ぼくの父に似て---。もうだめだ、いつまで泣いていたって。涙を拭って、速達を出そう。君に優しい音 楽はあるのだろうか?。君に優しい眠りはあるのだろうか?。慰みを何一つ所有して こなかった君に---。せめて一日の優しい眠りだけは。運命は、ぼくを君に返したように、ぼくに君を治して返してくれるだろうか?。入 院日時を知らせて欲しい。電話でいいから。 友へ
一九九一年一月七日 Am 三:三〇
「ぼくはね、いまとても透明な気分なんだ。透明といっても何もないのではなく。視界がどこまでも遮られることなく拡がっていて、その中をぼくの思考が宇宙のどこまでも、ビックバン以前の、人間の想像を越えた世界にまで、届いているような感覚なんだ---この気持を君に伝えるのがむつかしいのだけれど---。いまのぼくはね、生も死も、存在も無も、何の注釈もなく理解出来る地点。詩でも音楽でもない、ある透明な思考としか言いようのない。何か温かいものに包まれているんだ---。」
鳥の心。きのうの意味なんて知らない。だから、この今日の朝は生まれて初めて見 る朝。空の色が、黒から青、橙色から赤、桃色から白。色の名前なんて知らないけれ ど、目に飛び込んでくる賑やかな光に目が醒めると、そこはもう世界。虫、草の実、果物がきっとどこかに用意されていて、探して食べる喜び。腹がふくれたら、仲間と はしゃいで、空を翔んで、疲れたら昼寝して---。意味なんて何も知らない、明日 なんて知らない---。
わからない、君は死を覚悟しているということなのだろうか。恥ずかしそうに、うつむきかげんにぼくを見て、でもにこやか、楽しそう---。
有機体の一員としてのぼく。ブロッコリーの花の一つ一つが私で、そうした私が今 を生きて感じている。戦争の悲しみを、自然の営みの豊かさをと。そうした様々な私 というものの一員である私。押しひろげれば、全有機体の中の一員である私。木は今 風をとらえている。鳥は空間を。虫は匂いをと、今を生きて感じている。ぼくとは、 そうした有機体の一部、そうしたぼくの死、それは自然死ということ。
「例えば、こんな気分なんだ。このあいだ、ヒロヨとアユが見舞いにきてくれてね、帰るときぼくがアユにオーバーのボタンをかけてやったんだ。そうしたら、帰りの電車でアユが、これはパパがしてくれたボタンだから外さないと言って、ずっと家までオーバーを着て行ったというのだ。これを子供の無邪気な行動と言ってしまえばそれだけなんだが、ここには今ぼくが感じている透明な思考というものがある気がするのだ。単一かもしれないけれど、豊かな、温かい、ぼくらが大人になるにつれて捨てて来てしまった思考」
ぼくらは、文化や歴史、社会を通して様々なものを所有してきた。動物たちと比べ れば、未熟児で生まれて来るのに、生まれ落ちたその日から所有を始める。所有と同 時に罪悪感も---。透明な思考とは、所有するのではなく、所有されることへ。一 日は何も君が所有などしなくてもて存在している。存在している一日を、君が所有し ようなどと考えないで、所有することから、されることへ---。君はひとまず、書 くことをやめて---。書くことを考えなかった少年の日へ、あの頃、ぼくらは一日 の中に所有されていた。今の君にとって、書くことが最大の所有となり、空虚感にさ いなんでいる。書くことで失っている一日というもの。一日の中に唯存在だけを見つ け、出来事、出会い、世界と、隔てのないの繋がりの中へ---。時間はまだ、たっ ぷりとある。一日、一ケ月、一年---。
「アユはね、パパが病気になっちゃって心配なの。ママと二人きりのアパートで、毎日淋しいの。ほんとうはね、パパをアパートに連れて帰りたかったのだけれど、病気は治さなければいけないから---。パパがしてくれたオーバーのボタン---、おしゃべりしながら、ゆっくりゆっくりかけてくれた---。笑ってはいたけど、淋しそうだったパパ---。アユはね、パパをオーバーに入れて連れて来たの。」
「ぼくはね、今病んで初めて思うんだけど、子供の透明な思考というもの---。子供たち、生きているという意識ではなく、生かされているという無意識の意識、それがあの無邪気さ、透明さを形つくっているのだと思うんだ。自分を生かしてくれている親への無意識の感謝が愛らしさとなってさ---。ぼく自身、親と一緒に暮らせることだけを願っていた時代があった。あの頃の唯一さ、透明さを今懐かしく思い出すんだ。病んで今、あの透明さは一体何んだったのだろうと考えると、生かされて来たことへの感謝だったと思えるのだ。ぼくの病気が、今後どうなっていくかは解らないけれど、この生かされて在ることへの感謝から発想される、透明な思考というものだけは失うまいと思っているんだ」
私が私に出会うということ、出会った私を抱きしめるということ、私はいつだって 私と一緒にいるのだけれど、いつも出会えるという訳ではない。私が私に出会うと、 私は気持が温かくなり、大きく、偉大な感情に包まれる。神というより、神秘なもう 一人の私。私がそうした私とこの時空を共に生きている。観念、イメージではなく、 全宇宙、存在に張り巡らされ、つながり、浮かんだ、もう一人の私。そんな私が時々 私に訪れる---。二人で私は魂の世界に遊ぶ、自分たちの回りが、何か光で蔽われ ていて、形のない、しかし何かの塊となって宙に浮かび、それは意識が物質という脳 を抜け出てきたような、時に魂と呼ばれるような---。どんなに文明というものが 発達し、歴史が流れても、変わらない私というものの意識。五百万年前の人間と、今 の私と何の変わりもなく、同じ神秘に満たされ、この神秘さだけで充分な、私は私の 一日を生きて行けたら---。
1991,4,