世界にとっての猛毒
言われてみれば一つくらいしかなかったことに気付く。リンの何気ない一言が、こんなにも自分に影響を与えるのかと自身の単純さに感心しながらも、一つひとつ組み上げていく。
靄がかかっていた思考が澄んでいくのが自分でもわかった。
自然と目を瞑り、リンの体温を右手に感じながら思考を沈ませていくーーー。
◇◇◇◇◇
ほんの数分前、丸焦げになりそうになった二人は、『山林火災』真っ只中を必死に駆けていた。
責任の所在をなすりつけ合いながら。
「どうしてこうなった・・・」
「・・・明るくなって良いんじゃない?」
(明るいどころの話じゃ無くなってきてるんだけどな)
今日、何度目かの溜息を吐く。
深い火傷こそ負わなかったものの、ヒリヒリと痛む腕が煩わしかった。
そして何よりも、
「あ、怒ってるでしょ?もうっ、盾にしたことは謝ってるじゃない!」
口先を尖らせ、少し伏し目がちなリン。
その様子をもう少しだけ眺めていたかったが、今はそんな余裕を持つだけの状況ではないようだ。
今まさに、背後にいる何かがそんな余裕を消し飛ばす。
「ちょっと、急に立ち止まってどうしたのよ?」
『リン、後ろに何かヤバそうなのがついて来てる』
即座に行動することができたのは、この森での生活が板についてきたおかげかも知れない。二人は身を寄せ合うようにして木陰に隠れると、すぐさま背後へと視線を向ける。
先程自らが引き起こした爆発のような何か・・・それがコイツを引き寄せた。そんな漠然とした予感を抱きながら。
『・・・なんか黒っぽい塊がいるわね』
『スライム的な何かに見えるけど、ちょっと邪悪過ぎやしないか?』
『・・・やばそうね』
それは、ただの真っ黒というには語弊が生じるほど凶悪な姿をしていた。ドロドロとしているのか、サラサラとしているのか。黒く、暗い。
炎の光を全く反射しないその姿は、不気味で。すべてを吸い込んでしまいそうな漆黒だった。
ーーーもし、〝アレ"を表現するならば闇だろうか?いや、それでもまだ足りないはずだ。
(・・・穴。あそこだけぽっかりと空いた穴のようだ)
『次元が違う』と 、全身が拒絶反応を起こす。視線は直視する事を拒み、奥歯は今にもカチカチと鳴り出しそうだった。
動きは鈍いが、何故か逃げ切れる気がしないのだ。
必死に体の震えを抑え、震える喉を無理矢理締付ける。
『いままで生き物の気配すらなかったのに。いきなりこれはないだろ・・・』
なんとか、言葉を吐き出す。
リンからの反応はないが、彼女も返すだけの余裕が無いのかもしれない。
もっとも、脊髄反射で発したような言葉だったのでしっかりとした返答が欲しいわけでは無い。
チヒロはこの世界に転移してから今に至るまで、必死に生きてきたつもりだ。それなりに適応してきている自信もある。
新しい環境に対して、期待に胸を躍らせる事もあれば、願望だってあった。
しかし、それがたった一つの存在によって、こうも簡単に崩れようとしている。
(こんなっ・・・。なんでこうなる)
異物はゆっくりと、しかし確実にこちらへ向かってきている。
自業自得。しかし、これほどの業を受けなければいけないのだろうか。
それすらも混乱した頭では上手く整理出来ない。
何故こうなったのかと原因を無意味に探ってみたり、今更になって後悔をしてみたりと、諦念ばかりが頭を駆け巡る。
ーーーチヒロは単純な事に気付いていなかった。世界は、〝ほんの少しの幸運"と〝ありったけの理不尽"しかないことに。
(逃げなきゃーーー)
まとまらない思考の中で、理性よりも本能が優勢になる。とにかくアレから少しでも離れないと駄目だと全身が訴えていた。
掴んでいたリンの左手を引寄せ、抱き抱える様に走り出す。
「ひっ!?どこ触ってnーーー」
チヒロと同じように、恐怖を必死に抑え込もうとしていたリンは突然の衝撃に戸惑いの声を上げる。しかし、そんな事を気にする余裕なんてとっくに消え失せていた。
望むことは『とにかく、出来るだけ速く、遠くへ行きたい』それだけだ。
(飛べ・・・)
チヒロはただの一点を見つめ、向う先を見据える。
マナの奔流が全身を撫で、周囲の大気を押し出す。それは彼の体を纏わりつく様に、発現の時を今か今かと待ちわびているようだった。そして、
「ーーー飛べっ」
周囲のマナが一瞬煌めくと、後方の空間が歪む。そこにあった大気は、彼によって著しく密度を変化させられ、爆発した。
地を這うような閃光が駆けたかと思うと、そこには置き去りにされた大気が渦を巻いているだけだった。
彼は膨大なマナと引き換えに。まさに、飛ぶように逃げたのだった。
◇◇◇◇◇
「うぅっ、気持ち悪い・・・」
背中から、か細い声が聞こえる。今にも吐き出しそうな声だ。
今回の判断が、正しいのか誤っているのかと問われればーーー。どちらだろう。
被害は最小限に収めているし、尊い犠牲は払ったものの、結果としてはプラスなのではないだろうか。
近い未来、二次災害が発生するだろうがそれは甘んじて受けようと思う。
今回は完全に自分の独断専行だった。その結果、リンの三半規管は"置いてけぼり"になったらしい。
何の準備もなしに、視界が目まぐるしく移動したら誰だってそうなる。
「・・・その、必死で。な?分かるだろ?」
「・・・」
「あ、あれしか出来そうになかったし。選択肢が他になかったていうか、なんというか・・・」
「・・・」
「・・・ごめんな」
「・・・ふん。知らない。あんなのただの暴走でしかないわ。バスガス爆発よ」
「・・・へっ?なにそr、いや、なんでもない」
背中から物凄いオーラが・・・。いや、この場合はマナか。
恥ずかしがるくらいなら言わなければ良いのにと思ったが・・・。彼女なりの気遣いなのだと気付くと、とても愛おしく感じる。
嘘は分かりやすいのに、好意は逆に分かりにくい。
(一応、心配はしてくれている?)
「今回は何とかなったけど、これからは絶対やっちゃダメ。分かった?」
「わかりました・・・」
「じゃあ、これでお終い!もう、くたびれたわ」
そう言うと、彼女は脱力したのか、背中にかかる重みが増す。
もたれかかるように体重をかけているようだが、元の体重が軽い為それほど苦にならない。
苦にはならないが、
(ーーーっ、ささやかではあるが何か柔らかいものが。これは!?腹か!)
「・・・死にたいようね」
「なぜ、バレた!?」
「ぶっ殺してやるっ!!」
チヒロの頭部に激痛が走る。殴られた様な痛みではなく、何か突き刺さる様な痛みが断続的に与えられていた。
「いだっ!?噛むな!ごめんって、あ、犬歯が刺さってすんごく痛い!??」
振りほどこうと必死に頭部を振るが、髪の毛をガッシリと捕まえられているので余計に痛い。リンの鼻息が獣のように荒い事を鑑みるに、とても怒っている様だ。
(ああ、これはダメなやつだ。諦めて、怒りが収まるのを待つしか・・・)
諦めの境地。永遠に続くかと思われた痛みが。
しかし、急にパタリと止む。
「うそ・・・。避けて!!」
次の瞬間、そのすぐ脇を漆黒の稲妻がのみ込んでいった。
地面はえぐり取られ、周辺に張り巡らされていた木々の根が痛々しく晒されている。
「追ってきた・・・」
恐怖で足に力が入らない。
二人のすぐ脇には、不自然に抉られた大穴が開いている。
先程の黒い稲妻。マナの行使によるものであり、こちらを一撃で消し去るほどの威力がある事を物語っていた。
反射的にリンの手を握り、無我夢中で走る。
(くそっ!またこれかよ!!)
呼吸すら忘れるなか、一つの感情が際限なく肥大していくのがチヒロにはわかった。混乱する思考すらも塗りつぶし、徐々にはっきりしていく輪郭。
ーーー目の前にいるやつが憎くて仕方ない。
何故、どうしてと。
ここでやっと気付くのだ。
意味なんてない。ただ理不尽に嬲り殺されるだけ。
握ったリンの手は小さく震えている。一緒に震えている自分自身に嫌悪感を抱く。
絶望に揺れる彼女の瞳も。
恐怖で震える吐息も。
そんなものはぜったいに許せなかった。
ゆっくりと息を吐き、リンの揺れる瞳を正面から覗くと、いつのまにか震えは止まっていた。
理不尽の塊はもう目と鼻の先まで来ている。
『逃げれそうにない』
『そうね』
『まだこの世界に来て何もしてない』
『うん』
『死にたくない』
『死なせないわ』
ーーーーー
彼女の紅緋が大きく揺れる。それに呼応するかのように、彼の背中には一つの紋様が浮かび上がっていた。それは、契約の証。
初めて出会った時に刻んだ証。
「先手必勝」
「オーバーキル上等」
煌々と輝く少女の瞳は今にも爆発しそうで、とても綺麗だった。
それは、幼い時に見た夕焼け空にすこし似ている。
二人はお互いの手を握りしめ、漆黒に対峙する。
いつの間にか、少女の頭上にも紋様が浮かんでいる。それはまるで花冠を授かる花嫁の様で・・・
ーーーこれは何て表現すればいい?
「イカヅチの
ーーー子供の時から、諦めたように空ばかり眺めて。
その速さで以って貫け」
とても綺麗なーーー
「「大雷」」
白色の雷光が漆黒に向けて疾る。
一瞬の閃光のあと、大気をバリバリと焦がしながら目標に大穴を開けた。
不自然に空いた穴は、赤く爛れ、そのまま漆黒を飲み込んでいった。
ーーー二人が世界に嫌われたのは、今この瞬間だった。