マルソー 後編
炎の光粒が踊る。
点いては、消えるを繰り返す真赤の光。
(今にも爆発しそうだな・・・)
今ならば、彼女の気持ちがわかる気がした。燻っている炎が溢れ出そうと、急かしてくるのだ。
燃焼を、爆発を待ち望んでいるかのように明滅し、主張している。
まさにリンらしいと言える。彼女の溌剌とした性格にピッタリ当てはまっていた。
そのことに、ある種の感動を覚えたチヒロではあったが・・・自身もそれに引っ張られていることに気付いていない。
獰猛な笑みを浮かべ、重心を低く保つ姿はまさにーーー肉食獣のそれに違いなかった。
「あギっ?!ウデ、ウで、ウデ!おレの腕がっっ!?」
目の前の化物が痛みを感じているのかは分からないが、のたうち回るように巨体を震わせている。
先ほどよりも短くなった腕。その先端が煤で覆われ、揺り動かすたびにボロボロと崩れ落ちる。
先程までの余裕に満ち溢れていた姿は・・・今はもう見る影もない。
相手が混乱しているこの瞬間が、チヒロにとっての好機だった。
(・・・飛べ)
願いを込め、自身の理想を追い求める。
果てしない飛翔を幻視していた。
一点に絞り込まれたマナの放出は、チヒロの背中を押し出すように破裂する。
空気とマナがこすれ合い、まるで流星のように尾を引くような疾走。否、〝疾走”と呼ぶには程遠く、跳躍と呼ぶにはあまりにも速すぎた。
自身の身を焦がしながら、数十メートルにわたる距離をたった一度の踏込で詰めてみせる。
「っ、ぶっ飛べ!!」
「ギっっ?!!」
見上げるほどの巨体の腹部が撓む。
チヒロの両腕から放たれた掌底により、クの字に折り曲がる上半身。
その場に留まろうとする巨体は、一瞬の抵抗をみせるが・・・その両足はすでに地から離れてしまっていた。
突如、訪れた衝撃と浮遊感にマルソーの混乱は極まる。
圧倒的な重量を誇る自身の身体。それが浮いてしまっているという事実。まるで信じられないといったような表情が浮かぶ。
しかし、マルソーが恐れることはない。自身の身体が、人間の拳ごときで傷付くはずがなかったからだ。それは、ヒトを超越したという自負の表れでもある。
少年がこの巨体を浮かせるほどの衝撃を生み出したことに驚きはしたが、所詮はただの衝撃でしかない。
刃物で切断されたわけでも、先ほどのように燃やされたわけでもないのだ。
ーーー脅威に値しない。このまま、落下の勢いですり潰してしまえるほど矮小な存在だ。それなのになぜ、来るはずの〝安堵”が一向に訪れない?なぜ、浮いたまま落ちようとしないのだ?
「ーーー雲の高さまで飛んだことはあるか?」
「ーーーア?」
少年の腕に押さえつけられたまま、止まる思考。
投げかけられた言葉の意味を理解する暇もなく、景色が引き延ばされていく。
マルソーは今、曇天へと〝落ちて”いた。
真下に映る景色はあまりの速度にぼやけ、地上の輪郭が曖昧になる。
ふと見上げてみると何もない青だった。自分の髪の色をしたような、暗い青がどこまでも広がっている。
誰にも穢されることのない青に、ポツリと放り出された自分がひどく醜い存在に思えて仕方なかった。
「ヒッ!?ヒぃッ?!」
孤独に悲鳴が上がる。
周りには自分以外に何もない。切り取られてしまったかのような恐怖が胸を埋め尽くしていた。
どす黒く炭化し、ちぎれてしまった腕を必死に彷徨わせる。
何かを掴みたかった。縋り付くものが必要だった。
「・・・あ」
めぐらせた瞳が何かを捉え、歓喜する。
自身と同じ色をした物体だったからだ。真っ黒に全身を染める黒点がそこにはあった。
周囲の光をまるで反射しない、漆黒が空中に浮いている。
自分よりもよほど悪い、邪悪の塊のような存在に心が躍った。
ーーー大きく拡げられた翼。鎧のように堅牢な体表。裂けるように開かれた口。
「ひひ、最後まで嫌な奴だぜ」
それが何なのかを悟った瞬間、一条の光が胸を通り過ぎた。
なんの抵抗もなく、指先ほどの穴を穿つ。周囲の雲、水蒸気のすべては蒸発し消え失せていた。
マルソーはポッカリと真円に開いた穴がひどく滑稽で、笑いが起こるのを止められなかった。
ドラゴンブレス
この日。漆黒の翼竜はその産声を上げた。
彼女の特性を受け継いだ緋炎の閃光は、リバーデのはるか上空を焼き尽くす。
墜落を始める体のまま、必死に手を伸ばす男の顔には羨望のまなざしが張り付いていたのだった。
◇◇◇◇◇
「ーーーイテェーじゃねえか」
「・・・」
薄暗い森の中、マルソーの声が木霊する。
彼の胸の中心には穴が空き、飲み込もうと侵食し始めていた。身体の大部分を失いながらも、まだ息のあるマルソーを見つめ、チヒロはグチャグチャになった精神に蓋をする。
「なにか、言い残すことはあるか?」
トドメを刺す必要すらない、ボロボロの男に問いかける。
彼の表情からは先程までの憎悪は消え失せていた。胸をチクリと射す痛みに、チヒロの顔は歪んでいく。
「ハッ!なにもねえよ」
彼の瞳が鈍く揺らいだ。
当てもなく虚空を見つめる瞳は、もう何も映してはいないようだった。
「ーーーいや、一つだけあったな。ブロンズ、先輩からの忠告だ。〝協会″には気を付けろ。この世は悪意で満ちている」
「協会?それは一体ーーー」
その質問に答えが帰ってくることはなかった。
あまりにも呆気ない終わり。一人の男の人生が、こんな薄暗い森の中で終わってしまった。
溢れそうになる涙を、歯を食いしばって耐えることしかチヒロには許されない。
「・・・やっぱり、痛かったんじゃねえかよ」
無音の慟哭が大気を震わせた。
彼の嘆きは、誰に聞かれる訳でもなく・・・だたひっそりと森の中に響き、霧散していったのだった。