漆黒の翼竜
ドラゴンとは、この世界においても伝説もしくは空想の生物でしかない。
だからこそ、何者にも侵されることはなかった。
その存在を、ドラゴンとしての在り方を。
この世界に終焉を。
全ての人に奇跡を。
一人の少女に愛憎を。
それは、理解されることはない。絶望など、唯の一度も無いのだから。
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目の前にいる存在を理解するのに、それほど労力を必要としなかった。
彼女が想像していたよりも遙かに小さく、どこか人工的に作られたような漆黒の鱗。
しかし、それは疑う余地もないほどーーー。
「ドラゴン・・・」
目の前の"彼"は、いつもよりひとまわり大きく見える。
余すことなく全身を覆う鱗。そして、何よりも背中に生えた翼と尻尾がドラゴンだと物語っている。
・・・決して大きさなど関係なかった。
ドラゴンはやはり、どこまでいってもドラゴンでしかない。
彼が呼吸をする度に、吐き出されたマナが彼女の肌をビリビリと蹂躙する。
「―――ッ」
その圧倒的なマナを目の前にして、自身の身を案ずるのは当然のことだった。
しかし、ドラゴンは御構い無しに一歩ずつ、何かを確かめるように歩みを進める。焚き火の炎が怪しく照らし、さらに恐ろしさを増長させていた。
彼女の視界がやがて漆黒に埋め尽くされ、絶望の色で瞳が染まっていく。
「・・・いや」
足をふみ鳴らす度に沈む大地が、その重量の大きさを物語っている。それほど大きくない体躯に対して、あまりにも重過ぎる。
それが余計に脳を混乱させ、得体のしれない恐怖を植えつけているのかもしれない。
・・・しかし。これほどの絶望が迫って来ても、彼女はその場から動かない。逃げようとしない。
リンは始めから、その背中を見せることはしていない。
"彼"の過ちは、自身の変化に鈍感すぎたことだ。そして、彼女に不用意に近づきすぎた。
彼女は、決して屈しない。
リンの四肢に眩ゆい光が収束する。
『あの、リンさん?』
ポツリと困惑した声が虚しく響いた。酷く頼りなさげに発せられた一言は、残念ながら彼女には届かない。
フルフルと体が震えているのは恐怖から来るものではないのは、一目瞭然だった。
「いやあーーーー!!」
『ちょ、あぶなっ・・・、アギャーーー』
脊髄反射、もしくは一種の条件反射のような反応速度で彼女の一撃を躱す。辛うじて急所から外すことが出来たのは、彼女の性格をいい意味でも悪い意味でも理解している事に他ならなかった。
いつもの彼ならば無傷で終われたのかもしれない。しかし、アーティファクトによってに放たれた一撃は無常にも彼の"尻尾"の一部を穿つ。
彼は無自覚だった一部に謎の痛みを受け、雄叫びをあげた。
◇◇◇◇◇
「ちょ、ちょっと。タンマ!!ストップ!!」
「へっ?なんで・・・」
チヒロは余りの痛さに涙を浮かべながらも、トドメの一撃を放とうとするリンに呼びかける。彼女の拳は寸でのところで何とか停止するも、殺しきれなかった威力はそのまま彼の後方を突き抜けていった。
寸勁というものなのだろうか?
後ろの被害状況はあまり想像したくない。
「なんでって。こっちが聞きたいよ。いきなり攻撃してくるなんて気でも狂ったのかと・・・」
「むっ。私は!チヒロが首輪に取り込まれちゃったと思って・・・」
「何だよそれ。俺はこの通りしっかりしてるぞ」
「どこが!?」
ここでチヒロは視界の端に見慣れないものを捉える。パタパタと忙しなく動く、細長い物体がそこにはあった。
(シッポ?)
ゆっくりと謎の物体が続いている方へと視界を移動させていく。よく見てみると、とても硬そうな鱗で覆われ、根元に近づいて行くほど太く強靭になっているのがわかった。美しい曲線を描きながら根元へ吸い込まれていく。
いつか見た時とは比べることすら烏滸がましいほどに成長したアレである。
そして、一つの結論にたどり着いた。
そう、デジャビュである。
「尻尾レベルアップ!?」
「はあああ」
リンは盛大なため息を吐きながら、ぺたりとその場に座り込む。
いつもと変わらないチヒロの仕草に安心したからか、恐怖から解放された安堵からか。或いは、その両方だったのかもしれない。
毎度のことながら、チヒロには常識が通用しない。それは、出会ってから嫌という程味わったはずだった。
しかし、それでもやはり。・・・リンの想像を軽く超えてくるのだ。
尻尾だけでは飽き足らず、今度は全身がこの有り様である。
「それが、チヒロのアーティファクトなのね。ホント、意味わかんない・・・」
「これが俺の・・・」
改めて、チヒロは全身を眺める。
漆黒の鱗が幾重にも重なり合い、全身に張り巡らされている。部位ごとにしっかりと見ていけば甲冑に見えなくもないが、一部分だけ外せるような構造にはなっていなかった。
両手足の先には短い鍵爪があり、頭部も何かで覆われているようだ。
そして、おそらくは自分の意思で動かすことが出来るであろう"尻尾"と"翼"。
両腕はそれほど発達していない。二足歩行、もしくは飛行を前提としているように思えた。
躰の大きさに比べ、翼と尻尾が大きいことを考慮すると後者が正解でまず間違いないだろう。
これはひょっとしなくても。
「ーーードラゴンね」
リンの発した言葉に、頷くことで応える。
ドラゴン、龍、竜。
彼の見た目はそこから大きく外れるものではなかった。
しかし、これは本当にアーティファクトなのかと疑念を抱かずにはいられない。
武器や防具と云った、わかりやすい形状をしていればこれ程理解に苦しむ事はなかったはずだ。
見た目がドラゴンの鎧なのだろうか?それとも鎧のようなドラゴンなのか・・・当事者のチヒロも明確に区別を出来ないでいた。
尻尾も意のままに動き、翼に力を込めれば飛ぶことが出来ると感覚で分かってしまう。
果たしてこれを武器や防具と一括りにしてもいいのだろうか。
熟練した武を持つものは、得物を身体の一部のように扱うというが・・・。これはちょっと違う気がする。
「それにしてもすごいマナの密度、よく平気でいられるわね」
「べつに、今のところは問題ないな。不思議な感覚だけど」
なかば呆れたようなリンの問いかけに、チヒロはそれほど深く考えずに答える。
人のままでは、おおよそ知りえなかった感覚。
仮に翼が生えたとしても、人のままでは飛ぶことはできないだろう。人間はそんな風にできていない。翼をはためかせることはできても、大地からその両足が飛び立つことはない。
その理由を何となく理解することができていた。
当たり前に飛行を可能とし、周囲のマナを喰い散らかすその姿はドラゴンそのものだ。
不思議には思っても、違和感は感じなかった。
「ふぅーん。それじゃあ、アレに向かってなんかしてみて」
「?」
スッと彼女が指さす方向に体を向けると、そこには年輪を数えるのが馬鹿らしくなるほどの巨大な木が横たわっている。辺りは暗闇に包まれているが、くっきりとその輪郭を捉えることができた。ドラゴンは夜目が利くらしい。
何かやってみせろと曖昧模糊している要求に対し、こちらもぼんやりとした事しか浮かばなかった。とりあえず、ドラゴンらしいことをしてみようと思う。
先ほどから、パタパタと感情の変化に合わせて動いている尻尾を一瞥すると、確かめるように揺り動かす。
(これくらい、か?)
ゆらゆらと尻尾をしならせ、鞭のように走らせる。
ピシンっと小気味よい快音が辺りに鳴り響き、大木があっけなく分断された。その切り口は木目、節目など関係なしに、金属を〝せん断″したかのようだ。
「おお~!!すごいすごい!」
ぱちぱちと拍手しながら感嘆の声を上げるリン。手放しで喜ぶ彼女の反応が新鮮で、こちらも自然と嬉しくなる。
ブンブンと尻尾が揺れ、翼はパタパタとはためく。チヒロの制御下の"外側"で。
彼の周囲では荒ぶる尻尾が空気を切り裂き、翼によって土埃を上げていた。
「ちょ、あぶな!?」
リンは身の危険を感じ、たたらを踏みながら後ずさる。
多くの生き物は、豊かな〝表情筋″をもちあわせていない。嬉しさを体で表現してしまうのは仕方のないことだった。
それが無意識だったとしても。ドラゴンの喜怒哀楽は、犬や猫とは比べ物にならないほど苛烈である。
スケールが軒並み大きくなってしまったチヒロにとっては些細なことだったかもしれないが。
リンからしてみれば堪ったものではない。
「まって、わかった。わかったから!」
「ん?何が?」
チヒロは自分が原因だとは夢にも思っていない。彼からしてみれば、リンがいきなり狼狽し始めたように映っただろう。
次第に落ち着きのなかった尻尾は垂れ下がり、翼は徐々に萎んでゆく。
「もう!あぶないから早く元に戻って!」
「へ?あ、そうだな。元の姿にもどっ・・・」
当たり前のように、言い放たれた言葉。しかし、それがどれだけチヒロに絶望を与えただろうか。
リンがそれに気づく前に、彼はことの重大さを知る。そして、これからこの身に起こるであろう災厄を驚くほど簡単に想像できた。
つまるところ。マナを満たすことによってその効力を発揮するアーティファクト。その機能を停止させるためにとるべき行動はおそらく・・・。
「・・・」
「なによ?そんなにもどりたくないわけ?」
「いや、その・・・」
リンはしばらくの間、怪訝そうな顔を崩さなかったが、ついに気づいてしまう。彼が何者であったかを。
「あ!!あぁ~、なるほどね。ふ~ん。そう・・・」
彼の表情が絶望の色に染まる。いや、ドラゴンに表情筋はないのでそう見えるだけだが。
隠し切れない悲壮感は伝わってくる。
翼は垂れ下がり、尻尾は不安そうに小刻みに揺れていた。
「ねえ。何か言うことがあるんじゃない?」
そこには天使のような笑顔があった。・・・彼にとっては死の宣告以外の何物でもなかったが。
彼女はきっとこの好機を逃しはしないだろう。
「・・・ないでしょうか」
「なに?全然聞こえないわ」
「マナを・・・、この無駄に溢れ出るマナを止めて頂けないでしょうか?」
残念なことに、チヒロに主導権が回ることはない。彼の〝手綱″は初めから彼女の手中にあった。
チヒロは、マナの開放はできても蓋をすることはできないのだから。
完全なる服従の言葉にリンは歓喜する。そして優位に立った彼女は、非常にしたたかだった。
「んー、それじゃあ!お手!」
「くっ」
「ほら!早くお手よ、おーて!」
抵抗するだけ無駄なのはわかっている。拒絶の余りワナワナと震える手を、彼女の差し出された掌に添える。
しかし、無慈悲な命令はここで終わりではない。お手があるのならば・・・。
「おすわり!!」
「ぐぬぬ・・・」
「はい、よくできました!それじゃあ、次は三回まわってガオッて鳴きなさい」
「くっ、殺せ!誰か俺を殺してくれ!!」
「ぶっ。仕方ないわね。それじゃあ、これで最後。はい、"おかわり"して?お・か・わ・り!」
「・・・」
ドラゴンとしてのプライドを跡形もなく破壊し、人としての尊厳をも蹂躙された。もはや、お婿に行けない状態だ。
しかし、明けない夜はないのだ。いつかは終わりが来る。
チヒロは、粉々になった精神で〝お手″とは反対の手を差し出す。そこに、感情は一切残されていない。
辿々しく伸ばした手が彼女の両手に包まれると、暖かなマナの光がチヒロの全身を撫でる。
一瞬にして、何の苦労もなく。リンは彼を人間の姿に戻してみせた。
「はい。おしまい!」
その一言を聞いた瞬間、チヒロは糸を切られた操り人形の様に崩れ落ちる。
やり過ぎたと気付いたリンは、甲斐甲斐しくも彼を介抱するが余計なお世話だ。
自身の殻に閉じこもってしまった彼に、届きそうな言葉を彼女は持ち合わせていない。
「ごめんね?」
嬉しそうに謝るリン。
殻に閉じこもったチヒロはそれに気付くことはない。しかし、誰も彼を責めることは出来ないだろう。
自尊心をギリギリのところで保っているのだから。
それでも。
幸せそうに破顔する彼女。
その笑顔を見逃したことは、チヒロにとって大きな損失に違いなかった。