Ⅷ
一度は枯れてしまったものでも、愛を注げば、生き返るものもある。
ベッドの横には玩具のような点滴があり、花の腕に繋がっている。腕に刺さる針はピンセットでなければ扱えないほどの小ささだ。
何とか接合に成功した手足には、数日前から色が戻りつつある。それでも、このまま動かないことも覚悟して下さいと医者に言われていた。
その花の指が、ぴくりと動いた。
昨日、酸素マスクが外された口がむにゃと可愛い声を出し、もったいぶるように、それは、それはゆっくりと瞳が開いた。
久々に見ることのできたピンク色の瞳は、揺れながら白い天井と、冬士を映していた。
「姉さん」
花が瞬きしたことを確認すると、冬士は咄嗟に姉を呼んだ。
震える声に、今しがた帰ろうとしていた由夏がバッグを落とした。
由夏は聞き取れない奇声を発して、花のベッドへ駆け寄った。破壊する勢いで白のテーブルに手を付き、その上に乗っているベッドを覗き込む。
「私、私よ。名前、分かる?」
「由、夏……だろ」
ぽつりと声が出た。掠れてはいたが、懐かしい花の声だった。小さな口元が無理やり孤を描く。
「よかった……」
それ以上の会話はなかった。言葉を続けようとした由夏が、涙のせいで声を失う。
嗚咽が聞こえる。肩が小刻みに震える。ようやく泣けると小さく漏らし、由夏が掌で顔を覆った。
花が、目を覚ました。冬士に発見されてから、丁度一週間目の夜だった。
「私、先生に報告してくるわね」
泣き声だけが流れていた部屋に、しっかりとした声が通った。花の頬に一度触れてから、由夏が歩きだす。
マスカラは取れ、チークもファンデーションも涙の痕に剥がれ落ちていた。眉毛も片方なくなっている。
それを指摘するべきか否か。そんな考える余裕を冬士が取り戻すよりも前に、由夏はドアを開けていた。
「ありがとう」
由夏は花にそう言い残して病室を出て行った。ヒールの音と鼻を啜る音が、数秒足らずで聞こえなくなった。
白の世界に、花と冬士の二人きりとなる。
視線が合う。まだ半分しか開いていない瞳と、瞬きを忘れている瞳が、一週間ぶりの対面を果たした。
「金持ちの、独身男」
「え……」
「俺の、前の主人だよ」
声を出せない冬士を見越してか、花の口が唐突に開かれた。首を捻る冬士に構わず、花は咳払いをして声を絞り出す。
「よく話すやつで、俺が会話に乗れば、すごく、喜んでくれた。だから俺は、常にしゃべってた。そいつといるときは、喉が枯れてもずっと、話してた。あいつが笑ってくれるだけで、俺も、嬉しかったんだ」
途切れ途切れになりながらも、花は声を出す。冬士の目をまっすぐに見つめ、昔を語る。
「でも、忙しい人でさ。食事とか時々、忘れられた。植物の方なんて、栄養剤を刺して終わり。水は、俺が自分でやってた。小さいんだから、風呂なんていらないよなって言われて……こっそり洗面台で、石鹸で全身洗ってた。トイレなんて、ゴミ箱で済ませって言われた。でも、嫌って言えずに、従った」
花の小さな声が、更に小さくなっていく。
「家に帰って来るのは、かならず、深夜だった。俺は寝てても起きて、そいつが寝るまでの話し相手をするんだ。仕事の疲れが癒えるって、そう言って笑ってくれるから、嬉しくて。俺に名前をつけてくれないのも、色々忘れちまうのも、仕事が忙しいから仕方ないって、思ってた。あいつが向けてくれる笑顔と会話で、ストレスなんて吹き飛ばせた。でも」
花の眉が下がる。瞳に、涙が浮いていく。
「そいつに、彼女ができたんだ。女に夢中になって、俺とは話もしてくれなくなった。食事もくれない、水もくれない。最終的に俺が病気になったのを見て、汚いって一言そう言って」
聞こえるほど大きく息を吸い、花は最後の一言を出そうとして、咳き込んだ。身体が揺れた反動で、眼球に膜を張っていた雫がベッドに落ちていく。
「捨て、られた」
それでも花は、言い切った。
「ごめん、ごめん……もう、いい……」
更に開こうとした花の口を冬士が止めた。消毒液臭い指で花の口を抑える。そこには、暖かさがあった。
花の身体は震えていた。冬士に触れられたことで余計と震えだす。それでも冬士は、花から手を離すことができなかった。
嫌な過去。思い出すだけで、口に出すだけで、その時の苦しみが込み上げてくる。
冬士も本当は、その苦しさを知っていた。
過去を話すだけで精神が不安定になり、夢にまで出る。寂しい、悲しい。そんな気持ちは知らないと奥へと隠し込み、いつしか感情は麻痺していた。本当に知らないものとして考えられるようになっていた。
分らないふりをすることで、受け入れる覚悟から目を逸すことで、苦しみから逃げていた。
「お前、俺がどんな気持ちで、待ってたか、分かるか」
花は首を捻り、冬士の指を口から退かす。
「もう、帰ってこないかも、しれない、とか。あんな、怒鳴らなければよかったとかっ、色んなこと、ぐるぐるぐるぐる、一人で考えて……泣きたくもないのに、ずっと、泣けて……食欲ないし、でも食べなきゃって食べたら、吐くし。調子悪くなったってのに、お前は、帰って来ない、し……俺、また……捨てられるんだって、思った……っ」
ぼろぼろ、ぽろぽろと、涙が花の頬を伝い落ちていく。
「お前も、俺を、捨てるのか? なぁ……なんとか、言えよ!」
まっすぐに冬士を見る瞳は、怯えていた。
言葉を求めながらも、花は冬士が言うであろう言葉を、『捨てる』という単語を聞きたくないと、片手で耳を塞いでいた。
痛みではない、ただ捨てられるかもしれないという恐怖で、花は可哀想なほどに震えていた。
「よかった……」
そんな花を見て、冬士はそう呟いた。
花の目が大きく見開く。冬士の変化した顔を見て、ぱっと恐怖が瞬散させた。
冬士からは、いつもの無表情が消えていた。眉を下げ、必死に開けている瞳を揺らし、唇を震わせて。
冬士は、泣いていた。
「ごめん、でも……生きてて、よかった……」
それだけ言って、冬士は息を詰めた。呼吸が上手くできない。鼻すら詰まり、咳が出た。
涙が止まらない。今まで枯れていると思っていた雫が、意思に関係なく瞳から流れ落ちていく。
目頭が熱い。喉が引きつる。頭も痛くなっていく。風邪のような、それとはまた違う苦しさが冬士を襲う。
記憶がない幼い頃以外で初めて出した涙に、冬士は対応ができない。
「そんな顔も、できんじゃねぇか」
濁っていた花の瞳に、光が戻る。あれだけ暗かった表情には笑顔が咲き、唯一くっついている右手が、冬士の指を叩く。
「お前、痩せたな」
「そんなことないよ」
「いや、痩せた。飯食ってなかっただろ」
「食べたよ。昨日は」
「今日は食ってねーんじゃんか。てか、俺どれだけ寝てた?」
「一週間」
「げ、マジかよ。おい、もしかしてお前、一週間もまともに飯食ってないのかよ」
「……ちゃんと、食べてたよ」
「もっとマシな嘘つけ。ガリガリになりやがって」
「ガリガリ仲間だね」
「そんな仲間はお断りだ」
ぽつぽつと交わす会話は、少し前までの二人の日常そのものだった。花は声を出す度に痛みを顔に浮かべ、冬士は泣いている。それにも関わらず、二人は深い意味のない会話をいつまでも続けた。
「俺も、ごめん……」
話題が一段落ついた頃、花が突然謝罪した。
何故花が謝るのか冬士には分からなかった。涙を流して首を傾げる冬士に、花は瞬きの増えた瞳を天井に向ける。
「勉強の、邪魔した。だからごめん。夏休みに俺に構ってくれてたから、レポートってやつがギリギリになったんだろ。一人になった時考えて、分かった」
「それは……」
「俺がうるさくしてなけりゃ、お前は、そんなギリで焦ることはなかったんだ。で、最後まで邪魔して、お前をイライラさせた。だから、お前はあんなこと俺に聞いたんだ。そこに俺がキレたから、お前もムカついた」
再び長くなった言葉を咳で切り、花は迷いながらも冬士を見る。
「お前が構ってくれるのが、嬉しくて、俺……わがまま、してた。だから、お互いさまだ」
「そんなこと、ない……僕が悪いよ」
「だから、どっちも悪かったって言ってんだろ」
「でも」
冬士は首を振る。頑なに、花が悪いという意見は聞き入れなかった。
どれだけ考えても悪いのは冬士だ。花を死にかけさせた。その間、冬士はのうのうと遊んで過ごしていた。花が目覚めるまで苦しんでいたとはいえ、花の痛みには到底届くものではない。
「じゃあ、詫びってことで……お前の名前、教えろ」
一向に折れない冬士に、花が折れた。しかし、その言葉に冬士は動きを止めてしまう。
意味がよく分らない。そう視線で言えば、また花が冬士を叩いた。
「キョトンとすんな!」
「だって、僕の名前って……」
「お前、俺に名前教えてくれてないんだぞ! いちよう由夏に聞いて知ってはいるけどな、お前から直接聞いたことは、ない」
花の表情は、嘘をついているものではなかった。そこで冬士は思い出す。
目を合わせたその日は朝の挨拶から始まり、それから会話は花の独擅場だった。次の日も、その次の日も、冬士は自分の名前を言ってはいない。
「俺の名前だって、聞いてくれてないんだからな……っ」
花から一度も名前を呼ばれたことがない。冬士も、花の本当の名前を知らない。
二人は、きちんと始まってすらいなかったのだ。
「僕の名前は冬士。君の名前、教えて」
深く息を吸い、冬士は噛みそうになりながらも遅い自己紹介をした。人に名前を聞くことがこんなにも緊張することを、冬士は初めて知った。
花は泣きながら笑って「遅ぇよ」と言ってから、
「アイ」
綺麗な名前を奏でた。
「お前の姉ちゃんが、お前のためを思って俺に女みたいな名前付けたんだ。せめて漢字はやめろって頼んだから、カタカナな」
「アイ……アイ」
「おう、なんだ……冬士」
「ずっと、花って名前かと思ってた」
「ちっげーよ、ばか」
互いに気恥しさを隠すように、とにかく笑った。だが、どちらの目にも涙があり、笑う振動で頬に冷たい雫が落ちてくる。
その涙は、もう悲しみではない。
「俺が言えば、お前は気付く。だけどな、それじゃ意味ないことも多いんだよ。お前から気づかなきゃいけないことだってたくさんあるんだ、この世の中には。俺でもまだまだ、気づけないことも多いし」
冬士が指をベッドに添えれば、花は、いやアイはその手を握った。握力はほぼない。だが、微かな力が冬士を掴んでいることだけは分かる。
「僕は、アイが過去を言いたくないことが分からなかった……でも、もう分かった」
冬士は反対の手で、花の頭を撫でた。少なくなった髪は触り心地もよくなかったが、もう抜けはしなかった。
「今まで、何で人が僕から離れていくか分からなかった。いや、考えれば分かったのに、分かろうとしなかった。分らないままでいいと思ってた」
「……そうか」
「でも、もう分かった。はっきり、言葉にして言える理解じゃないけど、感覚的に分かった気がするんだ。大学で、びっくりするほど、人と話すことが出来た。会話も続いた。全部が上手くできたわけではないけど、昔みたいに、離れていかなかった。それは、アイのおかげなんだ」
「そっか。成長したじゃねーか」
「うん。だから、これからも色々と教えてくれると嬉しい」
握られている指を労って握り返す。アイは怯える素振りすら見せなかった。冬士を信頼しきり、指の力を強める。
「俺だって、間違えたことをいっぱいする。自分がつまんねーからって、お前の邪魔したりしちまう。お前が……冬士が、構ってくれるのが嬉しいから、構え構えって、言う」
「うん」
「だから、お前は俺の間違えたことを正せ。俺は、お前をなんとかしてやる」
「うん……」
「友達いっぱい作れ」
「ん」
「俺がこんだけ身体張ってやってんだ。これからちゃんとしていかないと、俺本気で死ぬぞ。殺したら承知しねーからな!」
「……うんっ」
力強く、冬士は頷いた。
一度は止まりかけた涙が波のように戻り、溢れ出す。つられたかのように花も震えて泣き始め、無理に上半身を起こした。
そして、冬士が止める間もなく、冬士の指に抱きついた。
「俺のこと、捨てるな……っ」
全身で伝わる想いに、冬士は当然だと言わんばかりに頷き、小さな背に手を添えた。
「捨てないよ、絶対」
「ん……っ」
「ずっと、一緒にいようね」
暖かな冬士の言葉に、今度はアイが、首が取れるほど頷いた。
次で終わります。