Ⅵ
クーラーも利かないような猛暑日。冬士は花の服が小さくなっていることに気が付いた。
シャツから臍が見えている。膝下まであったハーフパンツは太腿に食い込む短パンになっていた。
花はふふんと鼻を鳴らし、その格好で一回転した。得意げな顔とぴちぴちの格好があまりにも不似合いで、冬士は思わずくすりと笑ってしまう。そうすれば、前よりも重くなった体重で腕を蹴られた。
服が小さくなったのではない。花が大きくなったのだ。
顔を赤に染めて怒る花を宥めつつ、冬士はパソコンで新しい花の服を十着近く注文した。いつもならば本で消えていく親の仕送りは、今では花の服や家具を揃えることだけに使うようになっていた。
どんよりとした曇の日。冬士は植物の方の花に、新しい蕾が実ってきたことを知った。
背丈を伸ばし、葉が大きくなっていたのは気づいていた。だが、蕾に気付いたのは今日だ。昨日はなかったものだ。
蕾にいち早く気付いたのは花よりも冬士だった。蕾のことを冬士が知らせれば、花は文字通り飛んで喜んだ。
急いで花の背を測ったところ、三日前と変わってはいなかった。だが、二人でくまなく植物を観察したところ、蕾になりそうな部分があと三つはあった。
その日の夜は、ステーキでのお祝いとなった。
曇か晴れか分らないような日。冬士は花の髪が長くなっていることに気づいた。
最近はサイドテールやポニーテールにされていた花の髪が、その日は珍しく下ろされていたのだ。
ただ、綺麗に揃っていた髪はざんばらになっていた。右が短く左が長い。由夏が忘れていった眉毛を揃える小さなハサミを持ったまま、花は涙を堪えるような顔で冬士に助けを求めてきた。
腰にまで到達しそうな髪を、花は鬱陶しいと自分で切ったらしい。だが、思うようにハサミを扱えず、流行を先取りしたような髪型になってしまったのだ。
花の髪は、無理やり器用な冬士へと託された。
散髪などやったことのない冬士だったが、床屋の親父を思い出しながら花の髪をカットした。
刃が肌に当たらないようにしながらカットすること数分。花の髪は、この家に来た当初の同じ長さ、髪型に戻された。
美容師になれるぞと鏡を見て興奮する花に、冬士はとりあえず感謝の言葉を述べた。
夏休み最後の日。特に何もせず、半日以上を花とソファの上で過ごしていた。
再放送のドラマを付けたまま、二人はテレビに目を向けずひたすら会話をしていた。いつも通り、主に花が主導権を握って会話は進んでいく。
大きな風呂に入りたい。散歩に行きたい。コンビニでプリンを買いたい。
最近、花は歳相応の大きさになれたら何をしたいかを話すのが日課になっていた。目標がまだまだと分かっていながらも、それが待ち遠しいということが言葉数で冬士に伝わる。
冬士はそれを、頷くだけではなく相槌や賛同、若干の否定も見せながら聞いていた。どんな冬士の答えにも、花は顔をころころと変えて喜んだ。
甘い恋愛をテーマにしたドラマの内容は、欠片も頭に入ってこなかった。
ゆっくり、ゆっくりとだが、二人の関係は確実に変わりつつあった。
他人ではない、だが、まだ名前ははっきりとしない何かに、変わろうとしていた。
風が強い、台風のような日。冬士はもう何時間も無言でキーボードを打ち続けていた。
後期の授業が始まってから数週間が経つ。後期の中間レポートの日が間近に迫ってきていた。
その提出物がまだ終わっていない。今までの冬士からは、ありえないことだった。
一週間前に出された課題内容。さっさと終わらせてしまおうと出されたその日にレポートに取り掛かろうとした冬士だったが、すぐに花に捕まってしまった。
どうしてもトランプがやりたいと花がごね、深夜まで神経衰弱に付き合った。その日はワードを開いただけで終わってしまった。
次の日は花がラーメン丼で作った風呂の中で溺れ、恐怖で泣きじゃくる花を落ち着かせるうちに眠ってしまった。また次の日は花が食べすぎて腹を壊し、看病で一日終わってしまった。またその次の日は、突然訪ねてきた酔っ払いの由夏を二人で介抱する羽目となった。
何だかんだと色々なことがあり、気付けばレポートの提出期限まであと一日となっていた。
止めることなくキーボードを叩く。白かった画面は黒の文字で埋まっていくが、終りは見えてこない。
急がなければという気持ちが先走り、文章がおかしくなる。落ち着いてやればないミスを何度もしてしまう。額には汗が滲んでいた。
提出期間に間に合わなかったことなど今まで一度もない。普段ならば三日前には必ず全てを終えているのだ。期限が切れてしまった時どうすればよいか、なんと言われるか。冬士にとっては未知の領域だった。
とにかく間に合わせれば問題ないと、冬士はレポートにだけ意識を向ける。集中しろと自分に言い聞かせ、周りで聞こえる音を遮断する。
「なぁ、腹減った」
だが、手元で発せられる声はどうしても耳に入ってきてしまう。
花はキーボードの周りをぐるぐると歩き回っていた。赤色のシャツは、嫌でも目に入ってしまう。
今朝方に冬士がかき集めてきた資料を踏み、散らばるシャーペンなどを蹴り飛ばす。音を立てて、冬士の気を引こうとしている。
夏休みが開けてから冬士は午前に大学へ通っていた。それ故に、自然と午後は花と過ごす時間と決まっていた。
それが今日は覆された。
学校から帰って来た冬士は花への挨拶もそこそこでパソコンに向かい、口すら聞いてくれなくなった。どうにか学校の宿題というものをやっていることは理解した花だったが、久しぶりに一人にされ立腹気味だ。
「テレビ見たい」
与えられた玩具なども当に遊びつくしてしまった。花は持て余す暇を見せ付けるように冬士の視界に入り込もうとする。食事もテレビも、自分でもできることを冬士に要求する。
いつもの冬士なら、頷いて全てを実行してくれる。しかし、今日の冬士は花の方になど目もくれない。指を動かし、画面を黒くする作業に熱中している。花への返事をする余裕も見せてはくれなかった。
「返事くらいしろよ!」
花は頬を膨らませ、資料の上で地団駄を踏む。紙に僅かな皺が寄った。
それでも、冬士は答えない。
返事をしたが最後、そこからなし崩しにレポートから意識を逸らさせるのは目に見えている。
食事を作れ。寒い。気分が悪いかもしれない。花の注文に答えているうちに、今日はすぐに終わってしまう。今日だけは、それは許されないのだ。
「おい! 聞いてんのかよ!」
そんな冬士の心など知らず、花の声はどんどんと大きくなっていく。
集中しようとしても気が逸れてしまう。一行打ち間違え、押したくないバックスペースキーを長押しする。一つの棒のようになっていた字列が消えていく。また一つ、苛立ちが増えた。
「なぁ、なんか話せよ!」
今にもキーボードに上がってきそうな花を見て、このままでは今日中に終われないという焦りが冬士を苛立たせる。
だが、そこで冬士は思い出した。花に聞いていなかったことが、まだあると。
「捨てられる前は、どんな暮らしをしていたの?」
久々に出した冬士の声は、パソコン画面にぶつかって消えた。吹いて出たような声だった。
声は、パソコンの横にいる花には届いていた。だが珍しく、花はぱっと答えない。数秒、一分が経っても、花は話し出そうとはしなかった。
話せと言っておきながら質問に答えない花の態度にむっとしながらも、ようやく静かになった空間は好都合だった。冬士は頭の中で纏まった構想を打ち付けていく。
しかし、書こうとしていた文章は、花がキーボードの上に乗ったことで「あ」の連打となった。冬士が注意しようと口を開けた時にはもう、花は冬士の指を思い切り踏んでいた。
「……痛い」
rggggggと、花の体重をかけられた指が訳の分からない文字をワードに入力した。急いで指を上げたが、gは上から下までまっすぐに伸びていた。
日に日に体重の増えている花の攻撃は、冬士の片眉を歪めさせるほどの痛みを与えた。だが、冬士は怒りを発せずに口を紡いだ。
花の表情を、見て。
「捨てられたんだ! いい思い出なんてあるわけないだろ!」
花は泣きそうな顔をして冬士を怒鳴った。どんとキーボードを踏めば、今度はdが並び始める。
「お前のそういうとこがダメだって言うんだよ! 話すときはなぁ、人の気持ちを考えろ!」
何が花の逆鱗に触れたのか分からず、冬士は痛みも忘れて目を瞬かせる。
冬士が出した言葉が、花を激憤させてしまったことは分かる。だが、今まで聞いてきた性別、好きな食べ物、嫌いなものと何が違うのかが、冬士には分らない。
「お前だって、話したくないことあるだろ!」
「話したくないことなんて、ない」
冬士は考えながらも、横に首を振る。
「僕は前、君に聞かれたから普通に話した」
冬士は自分の過去を惜しげもなく話した。聞かれれば生い立ちから身長体重、家族構成に問題がなければ住所ですら、把握していることは全て話すことができる。
話してはいけない、話せないことなど、ない。
「お前が、おかしいんだよ! 普通は、そんな過去を淡々と話すやつなんていねぇ!」
「知らない。人の心なんて、言ってもらわなきゃ分からない」
「言わなくても普通は分かるんだっつの!」
「分からないよ」
珍しく冬士が言い返したことで、口論が始まった。花は叫び、冬士も言葉を続ける。違う、違わないと、いつまでも続いていく。
いつもの軽い言い合いとは違った。お互いが、本気になって言葉を吐き出している。
「あーっ、もう! 埒があかねぇ!」
何十分もの言い合いは、花によって打ち切られた。花は顔を真っ赤にさせたまま髪を掻き毟る。そして一言、
「出てけよ!」
冬士に背を向けて、そう言った。
「ここ、僕の家だよ」
「うるっさい! 俺が出ていけないんだから、お前が出ていくのは当然だろ!」
だんだんと、花が地面を蹴る。カチカチと音がした。
そこで冬士は、花がキーボードの上にいることを思い出した。パソコンを見れば、画面はdやらfで真っ黒に染まっていた。冬士が書いていた文章は、もう見えない。
急がなければいけない課題。一分でも無駄にできないというのに、どんどんと無駄な時間が増えている。
花の、せいで。
「分かった」
冬士はマウスを握り、開いていたワードを保存する。メモリースティックを抜き、パソコンを閉じた。机の周りに散らばっていた資料を無造作に掻き集め、足元にあった適当な鞄の中へと押し込む。
いつもならば数分掛けてやる動作は、ものの数十秒で終わった。
「じゃあ」
花に一切視線を向けず、冬士は部屋の出口へと向かった。花の声が聞こえないようにわざと大きな足音を立てて歩いた。
壁にかけていた薄手の上着を取ったとき、小さく「あ」と聞こえた。だがその声を無視して、冬士はさっさとドアを開け、靴を中途半端に引っ掛けて家を出た。
冷たい風が頬を叩く。雨はいつの間にか小雨になっていた。
人一人いない細道を冬士は早足で進んでいた。強い風のせいで、落ち葉やゴミが飛んでいる。空き缶や重そうな石が冬士の隣を通り過ぎていく。雨を冷たいと思いながらも、傘を差すことはできなかった。
雨と風で、熱を持っていた冬士の身体はすぐに底冷えしてしまった。
だが、身体の中心だけが熱さを消さない。煮え滾るとはまた違う、じんわりと熱くなっていく胸を抑えながら、冬士は無表情のまま奥歯を食いしばる。
冬士の中で何かが弾けた。
家を飛び出すという選択肢は、冬士の中でないものだった。普段の冬士ならば怒る花を宥め、謝れば済むと頭を下げるはずだ。
しかし、今日はそれができなかった。
花と顔を合わせたくない。謝りたくない。ここにいたくない。そんな初めて生まれた感情を、冬士は初めて制御できなかった。
「どうして、僕は……」
小さな声が、風に攫われ消えていく。
花の言った言葉の意味が分かりそうで、分らない。自分の行動が理解できそうで、出来ない。
足は家に帰る気を見せず、そのまま雨の中へと進んでいく。
澱んだ空を見上げながら、冬士は苦しさにも似た感情を持て余したまま、口を閉ざした。