Ⅴ
過去の夢。
そして、今。
冬士は祖母の家にいた。だが、そこに祖母はいない。祖母が亡くなった後の静かな家だった。
小さな冬士は絵本を読んでいた。読書家であった母が買い溜めていたものだ。絵本はまだ字を読めない冬士でも楽しめる。よい暇つぶし道具だった。
本の中では女の子と男の子、そしてクマが仲良く遊んでいる。ふわふわとしたタッチの絵で、クマはもしかしたらたぬきかもしれなかった。
夕方になり由夏が帰って来た。化粧をしていない幼い姉は素朴な顔をしている。 久々に素顔を見たと考えている間に、由夏は笑顔で幼稚園でのことを話し始めた。
おにごっこ、かくれんぼ、こおりおに。由夏が話すものは冬士の知らない遊びばかりだった。
その話が終われば、由夏は必ずと言っていいほどこう聞いた。
「ようちえん、いきたい?」
そう言う時の由夏からは笑顔が消える。冬士はいつも首を横に振っていた。
それから姉の覚えてきた「おままごと」や「いろおに」をやってから、夕食となる。母が置いていったチラシを見て、好きなものを注文する。今日は由夏の希望でピザだった。
食事を取ってからシャワーを浴びれば、由夏は眠ってしまう。大体、時計の短い針は八を指していた。
その時間ではまだ眠くない冬士は由夏の横に座り、またひたすらに絵本を眺める。時計の針が両方十二を指す頃に欠伸が出るようになり、眠るのだ。
目が覚めれば、起きる。針は相変わらず十二に向いているが、外は明るくなっている。一週回ったと、この時の冬士は分かっていなかった。
由夏の姿はもうなくなっている。部屋に放られていた黄色い帽子がないので、幼稚園に行ったのだ。
冬士は一人で顔を洗って歯を磨きまた絵本を読む。手に持つ絵本の中では、目が異様に大きい猫が男の子と遊んでいた。
景色が変わった。
木製のイスに座り、木製の机に両肘を付けて、冬士は本を読んでいた。開いている本に挿絵はない。文字ばかりのものになっている。
机の横に掛かる、貰い物の赤いランドセル。前を向けば黒板があった。周りには同じイスと机が並び、幼稚園の頃よりも大きくなった冬士と同じ年程の男女がたくさんいる。
冬士は学校にいた。
同級生の騒がしい声を聞きながら、冬士は字を読み進める。兎が人間になりたいと願うファンタジー小説だ。
学校に行き始めても冬士の生活はそれほど変わらなかった。
休み時間は本を読む。授業中はノートを取りつつ教師の話を聞き、内容を覚える。空き時間になれば本を読む。
「冬士くん、あそぼ!」
誘われれば、冬士は本を閉じて頷いた。
「いっしょに帰ろ!」
そう言われれば、素直に下校を共にした。
「昨日のテレビみた?」
話しかけられれば、冬士も答えた。
だが、その答えが、行動全てが。同級生にも上級生にも、下級生にも気に入られなかった。皆、冬士の答えに眉間に皺を寄せるか、冬士の行動に眉を釣り上げるかして逃げていく。
入学当時こそ遊びに誘われ、会話をしていたものの、半年もすれば冬士に話しかけてくるのは教師だけになっていた。
机から筆箱が、鉛筆が、消えていく。クラスメートが笑って取っていく。盗んでいく。隠していく。
それでも物はいずれ返ってきた。帰ってこないものは教師が何とかしてくれた。帰ってこようがこまいが、冬士は構わなかった。
何をされても反応も示さず本を読み続ける。そんな冬士を皆は「変な子」やら「変わり者」と呼んでいた。
他人の評価など、冬士はどうでもよかった。気にならなかった。
どんどんと周りからは人が居なくなっていく。やがて、教室には冬士一人となった。
冬士は本を読む。周りなど気にせず、字を追い続ける。
手に持つ本の種類が変わった。漢字と難しい言葉が羅列する、脳科学の書物だ。
視線を上げれば、黒板は二倍の大きさに。机やイスも、小汚いものから新品に近いものに変わっていた。服も制服になっている。
有名な私立中学。勧められるままに入ったそこでは、他人の冬士への接し方ががらりと変わった。
手でゴマをするような動きをしながら、教師が冬士に話しかける。
「次のテストも期待しているよ。君みたいな優秀な生徒は初めてだ」
机の上にテスト用紙が浮かび上がっていく。数字がびっしりと並んでいる紙の右端には、赤い文字で百点と書いてある。
冬士が頷けば、教師は満足気に去っていった。そこから、じわりと教室の中に生徒の姿が現れ始める。
授業外だというのに皆が席に付いている。右隣の男子は分厚い本を読んでいる。左隣の女子はノートに何かを書き込んでいる。
前も後も、斜めさえも、どのクラスメートも勉強をしている。教室にはカリカリとシャーペンの走る音と、ぱらぱらと紙を捲る音が主だ。会話は少ない。あっても、古典の訳し方や数式の当て嵌め方など、日常的ではないものばかりだ。
冬士が会話をしなくとも、ずっと本を読んでいようとも、誰も否定しない。寧ろ、それが当たり前の世界。口数は一段と減り、一日口を開かないことも珍しくなくなった。
そのまま高校、大学時代へと背景が移り変わっている。冬士はずっと、イスに座り本を読んでいる。
周りが黒くなった。
机とイス、冬士だけが暗闇の中にある。字は読めた。英文で、宇宙について長々と語られている。
浮遊感の中に置かれる状況でも、冬士は文字を頭に流し込んでいく。
「冬士」
宇宙の素晴らしさについての語りが終わりに差し掛かった時だった。一つの声が、冬士を呼んだ。
聞き覚えのある声だった。冬士は本を閉じ、声の方向を見る。
そこには母がいた。
若い頃の心労が祟り、歳より大分老けて見える母の顔。しかし、最近茶色に染めた髪からは白髪が消えていた。老人のように黒白茶色ばかりだった服も、いまや薄ピンクなどの明るい色でまとめられている。
その隣には男がいた。冬士を呼んだのは、この男だ。
母が再婚して出来た、新しい義父。あまり後退していない黒の髪に、清潔感の溢れる服装をしている。優しい笑顔が印象的の男だった。
まだ、顔に皺は少ない。何しろ、母親よりも一回りも若いのだ。
「冬士、何を読んでいるんだい?」
義父が笑顔で本を覗き込んできた。冬士は題名だけを口にし、本を開いて義父に渡した。
ページが捲られていく。初めは文字を読もうとしていた義父だったが、応用がなければ解けない英文に眉を潜めていく。
分らないなと、困った顔で本は返された。本を受け取り、冬士は首を傾げる。そんな冬士を見て義父は印象的な笑顔を崩し、困ったように笑った。
隣にいる母も、眉尻を下げて視線を伏せる。二人は困った表情で、溶けるように暗闇の中に消えていった。
二人と入れ替わるようにして現れたのは、由夏だった。
付け睫毛を二枚重ね、チークを塗りすぎて熱があるようにも見える姉の心配そうな顔が闇に浮いている。身体はない。顔だけがそこにある。
由夏は口を動かしていた。何かを話している。しかし、顔が遠すぎるのか、音量が小さいのか、声は届かない。
届かない。何も届かない。聞こえない。何も、聞こえない。必死の由夏の想いを、冬士は受け入れることができない。
やがて由夏の顔は両親同様に消えていった。冬士は一人、暗い狭い世界に取り残される。
もはや黒の世界にあるのは、本だけだった。机も椅子もない。読み終えた本だけが、冬士の隣にあった。
瞼が開く。開いても、そこには黒しかなかった。
指がシーツを握る。そこには感覚があった。今しがた本を捲っていた感覚とは別物だ。目が慣れてくれば黒も和らぎ、天井にある蛍光灯が見えてきた。ここが現実だと、冬士は寝ぼけた頭が把握する。
夢。今まで冬士が見ていたものは、全て夢。
上半身を起こす。何故か動機の激しい胸を手で押さえてみる。つぅと、額からは汗が流れ落ちた。クーラーのかかっている部屋は涼しいのにも関わらず、冬士の身体は熱を持っている。
「どうした」
寝ているはずの声がした。
ベッドヘッドの横にある、少し前まで本置き場になっていた、足の長いアンティークのテーブル。そこに今は、インターネットで取り寄せた天窓付きの小さなベッドがある。
耳をそばたてなければ聞こえない布の擦れる音を立て、ベッドに横になっている花が身を捩る。目が、薄らと開いていた。
「汗、かいてるな。暑いのか?」
声は掠れていた。起きたばかりなのだと分かる。しかし、瞼を上げたばかり目は冬士の異変に気づいている。
冬士は声を出す気になれず、違うと首を振った。身体を起こしているのも億劫になり、鼻から目を離して仰向けに戻る。
「調子悪いのか?」
冬士はまた首を横に振る。最近は出るようになった単語すら、今は喉を通らない。寝てしまおうと目を細めていく。
花は数秒声を止めてから、ベッドから起き上がった。素早く立ち上がると、青と白のストライプが入ったネグリジェをはためかせて走り出す。そして、ぴょんとテーブルから飛び降りた。花が枕に着地した際、冬士の頭が僅かに揺れた。
「じゃあ、どうしたんだよ」
枕の上で仁王立ちしている花は、完全に眠気を吹き飛ばしていた。髪を掴んで額へとよじ登り、大きく開いた瞳で真っ直ぐに冬士を見下ろす。
冬士からの言葉を求めている。
「夢を、見た」
頭を動かせば花が落ちてしまう。視線を下げても、花は首の方へと降りてくるだろう。
仕方なく冬士は口を開いた。夢の内容は覚えている。それを花に伝えればいい。言えば終わる。
だが、言葉はそれ以上出てこなかった。
夢に出演した由夏と、花の顔が重なる。二人の顔は全くの別物だ。だが、重なる。二人は同じ目をしていた。
一度は切り捨てた夢が膨らんでいく。
冬士は、分かっていた。
クラスメートが仲間に入れてくれようとしていたことも。義父は冬士と仲良くなろうという誠意を見せてくれていることも。母や姉が心配していることも。
どうして嫌われてしまうのか。どうして心配されているのか。それが分らないだけだった。それも、頭のいい冬士が本気になって考えれば、答えは必ず出ることだ。
しかし、冬士はそれをしなかった。
噂話も姉の助言も母の視線も全てを無視し、本を読んだ。知識を頭に詰め込んでいる間は何も考えなくてよかった。
何も考えず、答えを出さずに、現状を保とうとしていた。
「今のままじゃ駄目だって、分かってる」
冬士は、花に聞かれたこととはまったく別の言葉を吐き出していた。
「でも、このままがいいとも、思ってしまうんだ」
クラスメートが楽しく話している光景を羨ましいと思ったことはある。それでも、新しいことの書いてある本も魅力的だった。冬士は本を取った。
政治のことを議論したいと思ったこともあった。だが、一人でレポートを書く方を教師に進められた。冬士はレポートを書くことに専念した。
姉や母を心配させたくはなかった。その為には部屋に篭ることをやめ、積極的に外にでなければならない。冬士は、それを諦めた。
小さい頃から泣いた記憶がない。寂しい、恋しいという感情も分らない。簡単には驚かない。好きという恋愛感も知らない。花の腕がもげたあの日まで、焦って走ったことなどもなかった。
それが、冬士の当たり前の世界だった。今更それを、
「変えるのは、怖い」
全てを言い終えてから、冬士は花の質問に答えていないことを思い出した。伏せかけていた目を上に向ければ、花は変な顔一つせず、冬士の言葉を噛み締めていた。
「焦らなくてもいいだろ」
花は髪を持ち、慎重に額から降り始める。冬士が顔を傾けてやれば、花はサンキュと言って枕に着地する。
「俺が話し相手になって、世話までしてやってるんだ。そのうちどうにかなる。俺が、どうにかしてやるよ」
花は枕の上でバランスを取りつつ、横を向いた冬士の鼻をぺちりと叩いた。痛みはない。
小さな手は暖かい。言葉の温度そのままの熱が、冬士の鼻から全身に広がっていく。鉛でも入っているかのように重かった身体から力が抜けていく。熱が薄れていく。鼓動が、正常に戻っていく。
「うん」
冬士が頷けば、花は笑いながら欠伸をした。それにつられるように、冬士も眠気を思い出す。
「もう、今日はここで寝る」
花が、目を擦る冬士の布団の隙間に潜り込む。危ないのではいか。そう出かけた冬士の声は、冬士のパジャマを握った花の行動で止まってしまった。
「一緒に寝れば、きっと夢も見ないだろ」
花はもう目を閉じていた。安心しきって、冬士に身体を任せている。
「潰すなよ」
「寝相は、いい方だと思う」
「よし。信じてやる」
それを最後に、花から声が消えた。すーと、伸びた鼻息が顔の下で聞こえ始める。
無音の中に流れる花の吐息に、冬士の瞼も蕩けていく。瞬きを数回すれば、冬士は瞬く間に眠りへと誘われていった。
寄り添うようにして、二人は昼近くまでぐっすりと眠った。