Ⅲ
花と暮らし始めて一週間。
植物の花弁が取れれば、繋がっている人間も、また……
*若干のグロテスク注意*
冬士と花の暮らしが始まってから、一週間が経った。
朝、昼、晩と毎日食事を一緒に取る。おはよう。いってきます。いただきます、ごちそうさま。おやすみ。一通りの挨拶もするようになった。
だが、それ以外、二人の間に変化は見られなかった。
基本、冬士は一日を読書とパソコンに費やす。花が話し掛ければ顔を上げるものの、会話が終われば字を追う作業に戻ってしまう。
それでも、花は根気強く冬士に話しかけ続けていた。好きな食べ物。本の内容。何を調べているのか、何を見ているのか。冬士は質問に一言、それか頷きで肯定か否定かを示す。大抵、そこで会話が終わってしまう。そうすれば花は、また違う話題を冬士に振るのだ。
この部屋に、花の話し相手は冬士しかいない。花の出来ることといえば、テレビを見ることが冬士と話すことだけだ。
元々娯楽の少ない部屋で、しかも身体の小さい花の出来ることは限られている。多少の鬱陶しさを感じながらも冬士は花を哀れに思い、無視はしなかった。
しかし、冬士から話かけることは一度もなかった。
ある日の昼下がり。
読書中、冬士はふと違和感に気づいた。早く捲れているページ。静か過ぎる部屋。何かが足りなかった。気にせずにいようとしても、読書に身が入らない。冬士はぱたりと本を閉じ、首を傾げて違和感の原因を探る。
答えは割とすぐに出た。
いつもは冬士の傍で騒いでいる花が、いないのだ。
踏み潰してはいないかと、冬士はソファから立ち上がる。だが、小さな身体は見当たらない。一先ずは安心して視線を上に上げれば、探しものは簡単に見つかった。
テーブルの中央に置いてある鉢の中で、花は身体を小さく丸めて眠っていた。日を遮るように葉の日陰に顔を置き、口をもにゃもにゃと動かしている。良く耳を澄ませば寝息が聞こえてきた。
無意識に息を吐き、冬士は読書に戻ろうとソファに腰掛ける。しかし、冬士の視線が本に下りることはなかった。
冬士は再び立ち上がり、鉢の置いてあるテーブルに近づく。そして人型の花ではなく、植物の花にそっと触れた。
化身が眠っているにも関わらず、蕾にならずに開いている花弁。その一枚を指で摘む。
指に取った花弁は枯れかけていた。
右上の花弁だけ、他の花弁と比べて色が悪い。ピンク色に茶色が混ざり、萎れていく皺もある。
いつから枯れていたか冬士は知らない。
毎日水はやっている。しかし、花弁の色など気にしていなかった。
瞬きを数回した瞳が、眠っている人型に移る。良く見てみれば花の顔色も悪かった。朝、花はいつも通りに煩い声を冬士に向けていた。その花の顔を、冬士はろくに見ていなかった。
無表情のまま、冬士はどうしようかと考える。
たった一枚枯れかけているだけだ。茎や葉に異変はない。動く化身も元気に声を張り上げていた。
冬士は一人納得すると、深く考えないまま、摘んでいる花弁を引っ張った。
ブチン!
思った以上に大きな音を出して花弁は抜けた。それと同時に、
「うあ、あああぁあっ!」
花の悲痛な叫びが、部屋を満たした。
弾かれたように冬士は起床した花を見る。虚ろの瞳が、見開いた。
「あ、ああ、あああっ!」
花の右手が、ない。右肩のシャツが、赤色でぐっしょりと濡れていた。
胴体から離れたぐったりとした右手は、土の上に転がっていた。ぴく、ぴくと小指だけが痙攣している。ひらりと、たった今引き抜いた花弁が指の間から落ちた。
「ぐあっ、あ、ひ……あああ」
シャツの上から切断部分を押さえ、花は痛みにのた打ち回る。腕が取れた瞬間の痛みで落ちたのか、身体はテーブルの上にあった。限界にまで見開かれた瞳は充血し、涙が壊れた噴水のように噴出している。
花が暴れる動きに合わせて血が飛び散る。シャツはまだら模様に、鉢は水玉模様になり、テーブルには赤の水溜りが出来た。
そんな花を見て、さすがの冬士も顔に驚きを浮かべていた。思考は完全に静止し、身体は固まる。冬士はただ、花を見つめることしか出来なかった。
「て……っ」
右へ左へと転げまわっていた花の身体が、止まった。ひゅーひゅーと鳴る喉で、花がようやく言葉らしい声を吐く。弱弱しい声は今にも消えてしまいそうだった。
「くっつ、け……て……」
痙攣する左手が、微かな動きすらなくしてしまった腕を指差す。揺れる冬士の瞳が、腕を見た。
「うでっ、手……くっつけ、ないと……!」
花は足で土を蹴り、離れた腕に向かおうとしている。その行動で、冬士は花の言葉の意味を理解した。
冬士は呪縛から解き放たれたように駆け出した。棚の奥にしまいこんでいた救急箱を取り出し、テーブルへと戻る。花が右腕を掴む前に、冬士がそれを手に取った。
掌の中に収まる腕。力をなくし、でろりと垂れ下がる手にはまだ温もりがあった。早い脈も感じる。切断部からは血が流れ、冬士の手を汚していく。ピクと親指が動き、肌が粟立った。
冬士は唾を飲み、離してしまいそうになった腕を持ち直す。鉢の隣に常備しているジョウロを反対の手に取り、段々と冷たくなっていく腕にかけた。土の汚れが落ちていく。
「あ、や……っ」
次に、冬士は花の服に手をかけた。優しく脱がしている余裕などなく、箱に入っていた髪切りハサミで切った。花の肌が露となる。肩を押さえている小さすぎる指の間から、赤い肉と白い骨が見えた。
冬士は乾いていく喉に唾を入れながら、箱から出した消毒液を花に吹きかけた。肩だけにかけるつもりでも、消毒液の大きさから必然的に花の顔や身体に掛かってしまう。花が噎せたが、焦る冬士には届かなかった。
消毒液を置き、冬士の左手が花の身体を抱く。花はもう暴れる力さえなく、声も発しない。冬士は花に声をかけようと口を開ける。だが、かける言葉を見つけられず、無言のまま肩と腕を密着させた。
人差し指、中指、薬指の先が微かに動いた。ほうと、花からも安堵の息が漏れる。これで合っているのだと花の表情を見て判断した冬士は、包帯を縦に裂き、まだ血が溢れている肩と腕の間に巻きつけた。
「そっち、も……」
無事な手が、痙攣しながらも花弁を指さす。出された声に従うまま、冬士は花びらを救い上げる。元の位置に押し込み、落ちてこないようにと更に裂いた包帯で固定させた。
それから消毒液まみれの花の身体を拭き、服を着せ、一つと一人に水を与えた。花の指示ではなく、冬士が考えて行った行動だ。
そうしている間に、花は冬士の親指を左手で抱きかかえるように眠ってしまった。開いていた花弁も閉じ、蕾になった。
花の身体は燃えるように熱い。それに反して、顔色は今にも消えてしまいそうなほど白かった。
冬士は花の身体を両手で支えながら動き回った。起こさないようにと気を使いつつ、植物に栄養剤を与え、病院に電話をした。
振動を与えないようにしても、必然的に花を持つ手は揺れてしまう。それでも、花は起きる気配すら見せない。それが、冬士を不安の不安を掻き立てる。
そうしている間に、早々に時間は過ぎていた。
子どもの叫びのような声で、カラスが鳴いている。窓の外を見れば青かった空は赤く染まっていた。時刻は六時五分。夕方だ。
空の色は、花の腕から溢れ出した血の色とよく似ていた。まだ片付けていないテーブルの血を思い出し、冬士の肩が僅かに揺れる。
「ん……」
その時だった。掌の擽ったさで、冬士の視線が手元に向く。花が、薄らと目を開けていた。
「……痛い」
目を覚ました花の第一声は、それだった。
まだ顔色は真っ白だ。熱も引いていない。しかし、聞きなれたものに近い声は、高ぶっていた冬士の心を幾分か落ち着けていく。
「なに、すんだよ……くっそ、痛い」
「花びら、枯れてたから、取ったら」
冬士の声は普段と大して変わらなかった。それでも、表情には曇りが見える。
「栄養が足りてねぇんだよ!」
「でも、食事はちゃんと……」
「ストレスでも、こうなるんだ! 一週間も俺はろくに話してねぇんだぞ! ストレスも溜まるっつの!」
花が、無事な手で抱えている冬士の親指を叩いた。
「花もいだら俺の一部ももげるんだよ! 基本的なことだぞっ」
「知らなかった」
「説明書、ちゃんと、読めよ……っ」
もう一度、親指が叩かれる。ぺちりと頼りない音がなるだけで、冬士のダメージはゼロに近い。変わりに、動いた花の腕に衝撃が伝わった。花の顔が痛みで歪む。
冬士は口を開き、閉じる。何かを言おうとし、だが何を言ってよいか分からずに終わってしまう。
「……器用、だな。俺の腕に、こんな上手く巻けるなんてさ」
そんな冬士を見た花が、話題を変えた。突然変わった話に冬士は急いで頷こうとし、それをやめた。
「細かいことするのは、好きなんだ」
冬士が答えを声に出せば、花は痛がる表情を驚きに変えた。真っ白だった顔色に、微かに色が戻る。
「大丈夫なの?」
「お、おう! 何とかな。人間だって小指落としてもすぐくっ付ければ元通りになるだろ。あれと同じだって」
「病院、は」
「これくらいなら行くほどじゃねーよ。あ、俺たちは、だぞ。人間の腕がもげたら即病院行かないと死ぬからな」
「……そっか」
「そうだよ。てか、知ってるか。俺たちを見る医者は特別な奴らだから、診察だけでも凄い金がかかるんだぞ」
「……知らない」
「やっぱりな。ま、ここからじゃ俺を見てくれる医者のいる病院は遠いしな。じゃあ、これは知ってるか? 俺たちは普通の病院じゃ診てもらえないんだぞ」
「知ってる。さっき病院に電話したら、断られたから」
「だろ。またこんなことにならないようにちゃんと俺らの説明読んどけよ。ったく、利き腕じゃないからよかったようなもののさぁ」
冬士の一言に花は倍以上で返す。体調は悪そうだが、饒舌さから分かるように、機嫌はとても良さそうだ。
それから花は、先程腕がもげたとは思えないほど口を動かし続けた。冬士が答えを返す度に、花の顔色はみるみる良くなっていった。
そんな花の笑顔を見て、冬士はやっと、言わなければいけない言葉を見つけた。
「ごめん」
花の会話を遮るようにして、冬士は謝罪した。
「説明、もっとちゃんと読むよ。だから、ごめん」
花に向けて、冬士は頭を下げた。知らなかったからとはいえ、冬士がしたことは殺人未遂のようなものだ。もしも、違う花弁を抜き、花の腕ではなく首が取れていたら……
考えただけで冬士は罪悪感に蝕まれ、更に腰を深くまで折り曲げた。九十度に近いお辞儀だ。冬士が人に頭を下げるのは、これが初めてだった。
花はぽかんと口を開き、頭を下げたままの冬士を見つめる。それから徐々に顔を赤くしていき、ピンク色を取り戻した唇を開く。
「……ハンバーグ……」
「ハンバーグ?」
冬士が頭を上げて復唱すれば、花は赤い頬を隠すように瞳を鋭くさせた。
「夕食、ハンバーグにしてくれんなら許してやるっつってんだよ! 分かれよ!」
花が足で冬士の掌を蹴る。痛みはない。ふんっ、というわざとらしい鼻息を吐き、花は身体を覆っているハンカチの中に顔を引っ込めてしまった。
「ありがとう」
今度は感謝の言葉を出せば、小さく「ああ」と返ってきた。花は顔を隠したまま、まだ言い足りないと口を動かす。
「あと、俺ともっと話せ……そうしたら、多分、花も枯れない」
「努力、する」
「おう。しろ。せめてさっきくらい、長く会話を続かせろよな」
「……頑張るよ」
「あとは……そうだ。服、買え。ミホちゃんだかエミちゃんだかっていう人形の服がちょうどいいって、由夏が。言っておくけどな、スカートなんか買ったらぶん殴るからな! ちゃんとズボンで、男っぽいものだからな!」
ハンカチの中で、花がもそもそと動く。乗せてあっただけのハンカチは姿を変えていき、花の全体を包んでいく。最終的に、ミノ蟲のような形となった。
掌に伝わっていた肌の感触がなくなる。それが、冬士に花が裸だということを思い出させた。
「さすがに、シャツ一枚はもう嫌だ。小さくたってな、俺にも羞恥心はあるんだよ」
花の服は着てきた一枚のシャツしかない。花の言葉で、冬士はそれに気付くことが出来た。反対に、言われるまでそれに気づけなかった。
その唯一の服も、数時間前に冬士が切り裂いてしまった。今から服を買ったとしても、届くまで花は裸体でいなければいけない。
ハンカチの隙間から見えた花の赤い顔に、冬士は罪悪感を覚えた。
「ごめんね」
「分かれば、いいんだよ」
ひょこりと、花がハンカチから鼻の上半分だけを出す。熱のせいもあるだろうが、額まで真っ赤になっている。「裸、見るなよ」という忠告に、冬士はうんと言って頷いた。