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短編

或る腐りぬもの

作者: 留龍隆

 ある木曜日の朝、目覚めた時に瞳へ差しこんだ光を辿って窓辺に寄ると、すぐ目の前で庭の景観を遮っている車がとても邪魔に思えた。手放すことを決意した。

 もう長いこと乗っていなかったビートルはバッテリーがあがっていないか心配ではあったが、私が運転席に座り込み鍵をまわすと、きゅるきゅると不機嫌そうな音を立てながらもエンジンを動かしてくれた。がたがたする車体の震えが少し気にかかったものの、まだ使える状態ではある。引き取ってはもらえるだろう。そうしよう。

 満足して車外に降りた私は、狭い車庫をぐるぐるまわって愛車をためつすがめつ目で愛でた。長く洗車もしていないからだろうか、表面はくすんで色あせている。妻の近所への買いだしに利用されるに留まっていた数年間が、この古ぼけた印象の生みの親であると感じた。

 とはいえ、十数年を共にした車である。送り出す時くらいはきれいにしてやろうと、私は庭へホースを取りに行く。ついでに、物干しざおに吊られていたぼろきれにも手を伸ばし、バケツのふちにそれをひっかけて歩く。朝の庭は、湿った土のにおいで満たされていた。

 腕に重たく感じる空のバケツを左右に振り振り戻ってきた車庫は、無機質なコンクリートの中に、排気ガスが染み込んだような、つめたい灰色のにおいがした。車を少しだけ動かして車庫の前へ停め、水を流しはじめると、においはすぐに薄れた。私は車体をスポンジで拭く。洗剤なども出そうか迷ったが、物置のどこにしまったか思い出せなかったのでやめておいた。

「車洗ってるんですか」

 庭に面した部屋で寝ている妻が、水音に目を覚ましたのか起きてきた。眼鏡に跳ねた水滴のために見にくかったので、服の裾でレンズを拭いながら応じた。寝巻に白いカーデガンを羽織っていた。

「売ろうかと思ってな」

「売れるんですか、そんなの」

「そんなのってなんだ。壊れちゃいない、動くぞ」

「いつ止まるかわからないんだから、むしろ壊れて止まってる車より怖いですよ」

 へりくつ言いながら、しゃがみこんで私の作業を眺め出した。私も合わせたわけではないが、腰をおろしてナンバープレートのあたりをみがいた。ずっと立っているのは疲れる。

「だいたい、この間秀明と言い合いしたばかりじゃないですか。車を売る、売らないだのって」

「ありゃ車のことじゃない。私の免許をどうするかだ」

「そうでしたっけ」

「そうだ。私が歳で、あぶないからもう乗るなってことだろう。そのうち返納してくる」

「おじいさんがそうなら、わたしもそろそろですねぇ」

「ちがいない」

 フロントバンパーのあたりをみがき終え。ボンネットにとりかかろうと足に力を込める。膝から下がふるるっと震えて、ボンネットについた両手首に負担がかかった。身体を起こして腰を曲げ、水あかをこすって横へ流す。

「車がないと、ますます家から出なくなるだろうな」

「らくちんですもの。ああ、でもいくら楽だからって免許を返しに行く時は、車に乗っていっちゃだめですよ」

「そこまで耄碌しとらん」

「あら、ごめんなさいね」

「それにその前に手放すさ」

 物忘れが激しくなった私を揶揄するような物言いに、すこし不機嫌になりながら、私はスポンジをバケツに投げ込んだ。代わりにぼろきれを手に取り、みがいた部分を拭いていく。黒くなった布を手にとり、折り返してまた使おうとしたら、あ、と妻がつぶやいた。なんだろうと思い手元に目を落とすと、私が持っていたぼろきれは、私の股引だった。だいぶ目が耄碌しているのかもしれない。


 日当たりのいい、二階の廊下の窓辺でピースの缶にゴールデンバットの灰を落としながら、雲ひとつない空、ではなく灰色の紙面に目を滑らせる。新聞の一面、天気予報、テレビ欄、と目を通し、つばをつけて一枚めくり、面白くもなんともない四コマまんがの横にある原発についての記事と、どこかのだれかの訃報と、株価の上下、高枝きり鋏の広告を通り過ぎ、政治関連の記事を読み終えればぱらぱらとページを数える。

 階下から響く掃除機の音が止んだ頃に新聞に興味が失せ、居間に降りるとコーヒーのにおいがした。陽が差さないためにどうにも肌寒い居間なので、安楽椅子の背もたれにかかるカーデガンを着こむ。テレビでは旬の食材を用いた料理を作っていて、妻は手に納まるほどに短い鉛筆でレシピのメモをとっていた。ぬるいコーヒーを少しずつすすり、ぼんやりとテレビを見る。手慰みにまた煙草に火を灯し、一服終えると、ふと掌が気になった。膝の上におかれた自分の手が、なんだか自分のものではないような感覚に囚われた。

「おじいさん、昼からどうします」

 テレビを消し、かばんを片手に出かける準備を済ませた妻が、空になったコーヒーのカップを私から取り上げながら尋ねてきた。

「今日はつかれた、出かけん。おまえは、碁会所か」

「ええ。帰りにさっきの料理の材料、買ってきますけど。ほしいものありますか」

「煙草」

「いつもの」

「ああうん」

 じゃあ夕方帰ってきます、と出ていった妻を見送って、戸に鍵をかけようと差し出す掌が、また気になった。ひょろりと伸びて遠くにあるような気がして、かぶりを振って引っ込めた。

 かと思いきや、二階の廊下に戻って本を読み始めると、さきほどの感覚が現れることはなく掌は気にもならなかった。袋に包まれ小分けにされたチョコレイトをかじる時、指についたそれを舐め取る際も、気にはならなかった。ただ掌の皺が薄れ、摩耗したように映る。そのぶん手の甲は皺が寄っている。爪が黄色い。歳かあ、そうだなあ、と先日息子に言われたことが脳裏をよぎった。しょげてしまいそうで、またそんな自分の様子が子に言いくるめられてしまったように思うので、面白くない。自分で歳だ歳だというのは自虐とすら思わないほど自然なことなのだが、他人に指摘されると面白くない。たとえ相手が息子でも、だ。


 いつの間にか眠りこけていて、窓枠に肘をついて押さえていた右頬が痛んだ。階下に降りると昼過ぎで、電話機にはシルバー人材派遣会社から庭木の手入れについての依頼があった、と留守電が入っていた。土曜は写経に行くので日曜にしてくれ、と返事をしておく。

 さほど腹は減っていなかったが喉は乾いたので、昼間だがビールをあけた。二階に戻って窓辺に腰かけると、本にしおりを挟み忘れていたせいで、どこまで読んだのかわからなくなってしまった。おまけに、落ちていたしおりを拾おうとした際に、持っていた缶の存在をすっかり失念していたので、ばしゃばしゃと靴下にビールを吸わせてしまう。

「こりゃいかん」

 床に缶を置いて靴下を脱ぐが、靴下だけでなくしおりまでビールに浸ってしまっていた。真にもらった、朝顔の押し花を画用紙にのせ、ラミ……なんとかで加工したしおりだ。だから水気に触れても多少は問題ないとわかってはいたものの、どうにも慌てた。慌てたせいで、ビールに触れず無事だった方の靴下でしおりを拭いてしまい、なんだか足蹴にしたような、まずいことをしたとばつが悪くなって、結局丁寧に洗うことにした。

 靴下としおりを干して二階に戻ると、廊下はまだわずかに酒気が漂っていた。妻に怒られるかもしれないと、雑巾でしっかり床を拭く。今度は、股引と間違えるようなことはなかった。

 床を綺麗にし終えると、黒くなった雑巾が気にかかる。階下はさっき掃除していたが、二階はまだだったようだ。ちらりと本と、椅子の方を向くが、本は続きがどこからかを探すのに難儀しそうであったし、椅子も座るところにビールがかかってしまっていた。溜め息をついて、私はまたバケツを取りにいった。

 今日は掃除する日なのだろうと諦めて、床を水拭きする。そういえば秀明などは、亭主関白だなんだといって幸子さんに家事の一切を任せているようだが、私は時流に逆らって生きてきたためそういう風に育てた覚えがない。私の背中はこのように、床に向かって丸められて、家事に向き合っていることも多かったはずなのだ。

 つまり性格は環境によって決まるものではないのだろう、良くも悪くも。真は良い子に育っていて幸子さんの手伝いもしているそうだから、あのままぜひ秀明に似ずに育ってほしい。

 ごしごしと床を拭いていると、ふいに大きな埃が、私の前を横切って和室から出てきた。おっとっと、と手を伸ばしてつかんだが、よくみれば室内はずいぶん埃っぽく、湿気た風が渦巻いていた。ついでとばかりに、私は部屋の中に足を踏み入れ、軽く畳を一拭き。雑巾に汚れはない、どうやら畳の方はそれほど汚くはないらしい。では埃はどこから、と立ち上がって見回して、壁から出っ張った棚が目に入る。指の腹でなでると、白く粉のような埃に満ちた表面に道筋をなぞったように見える。

 道筋を消すべく、雑巾をしぼった。棚を拭き、隣にあった箪笥の上を拭き、そうしているうちに天袋に行きあたる。腰をかがめたり背伸びしたりでつかれていた私は、何の気なしに天袋の縁を拭こうとして、そこの中身に思い当たる。

「そういやここだったなあ」

 たてつけが悪いらしくなめらかには開かない戸を押しあけ、見えない中へ手を伸ばし、指先の感触を頼りに引っ張りだす。掌にあった鈍い色の鍵は居間の押し入れにある金庫のもので、最近は開ける用事もなかったために忘れかけていた。

 そのうちにボケてしまって、存在を伝え忘れたら困る。ふとそう考えた私は戸を閉め階下に走り、秀明の家の留守電に一報いれた。受話器を置いてから、車のことは伝え忘れていたのに気付いたが、かけ直す気にはならなかったので、一瞥くれてその場をあとにした。

 二階に戻ると途中で投げっぱなしになってしまった掃除の痕跡が出迎えてくれて、中断したことも手伝ってすっかりやる気を削がれた。私はバケツに雑巾を放りこむと和室のふすまを閉め、また廊下の日向でうつらうつらすることにした。掌の皺を眺めているうち、ことりと首が垂れて眠りに落ちたのを、自覚した。


 夕食は予告通りに、テレビで見たのとまったく同じ献立であった。たけのこの天ぷらが、胃には重たいもののおいしく感じられた。妻はそれほど食がすすまず、まあいつも通りだった。

「おじいさんよく食べますね」

「昼にも少し動いたからな」

「お酒のんでただけじゃないんですか」

「なんで、知ってる」

「空の缶が干してあれば、だれでも気付くもんですよ」

 昼からの飲酒を咎められたようで気まずくなった。話題を変えようとリモコンでチャンネルを変えるが、私が見たい番組はもうしばらくあとなので、興味がないためどうにもならなかった。テレビに映っているのは、妙にごつごつととがった髪型をした、甲高い声のアニメキャラクターだ。どうにもよくわからない分野なので、またチャンネルを変える。

「あ」

「なんだばあさん」

「いまの、真がみてるなんとかいうアニメですよ」

「なんとかってなんだ」

「最近のアニメはやたらカタカナの題名で、おまけに長いもんですから覚えちゃいませんよ」

「子供ってのは変なところで覚えがいいというか、驚くほど集中できるもんだ」

「この前もおじいさんが買ってあげたピコピコをやってましたよ」

「おかげであんまり話ができなかったな」

「かまってもらえませんでしたね」

「おい、かまってもらう、とはなんだ」

 私としても欲しいものを買ってやりたいし、喜んでくれるのはいいのだが。結果として孫と話す時間が減るのでは、ゲーム機憎しとの思いが募るばかりである。

「子供が出てった時にはさほど、なにもありゃしませんのにねぇ」

「真が帰る時はさみしいんだよ、な」

 同じことを考えていた様子であり、妻としみじみうなずきあった。少ししてからチャンネルを戻すと、次回予告でアニメの題名が出てきた。しかし一瞬のことだったので、完全には覚えられなかった。

「ボケ、なんとか、スターですって」

「ボケじゃなくてポケットじゃなかったか」


 風呂から出ると、肌の乾燥が気にかかる。などといったら、幸子さんに笑われた。義父さん、若い女の子じゃないんですから、と。

 もちろん老いて枯れていくだけのこの身で、私が美容に気を遣っているはずもない。ただ、亀の甲がごとくひびわれてぱさぱさとした角質が感じられると、手を擦り合わせているこの所作だけで肌が崩れ落ちていきそうで。思わずその不安を口にしてしまっただけである。止まらぬ衰えに怯えることはなくとも、やはりすこし、悲しさはあるのだ。

 老いてからつい口をついて出るようになった「もう長くない、長くない」という言葉は、先を定めることで少しでも今のままに留めたいと願う気持ちの表れかもしれない。際限なく削り取られていく若さだが、それでもいつかは終わりがくるのだ、と。

「牛乳ですか」

「ん」

 ぬるくあたためられた牛乳をのんで、先に風呂をでていた妻と椅子に並ぶ。テレビでは一昔前の洋画が流れていた。しとしと、音がしたのでなにかと思ったが、テレビの中から聞こえる雨音だった。

「明日も碁会所にいきますが、おじいさんはどうしますか」

 頭をタオルでくるみ、インド人のような格好になった妻がいう。

「明日も用事はない。土曜日が写経で、日曜は人材派遣から庭木の手入れについて仕事があった」

「気を付けてくださいよ。田所さん、庭のけやきを整えようとしてはしごを転げ落ちて、左腕折っちゃったそうですから」

「折ったか」

「ええ。ごきばきと。骨粗しょう症だったんですかね、ひどく折れてて、というか砕けてて、ちょっと骨が元に戻るかわからないそうですよ」

 この歳になってくると仕方のないことではあるが、衰えとは恐ろしいものだ。

「嫌な話だ。元気で死にたいものだなあ」

「おもしろいことおっしゃいますね」

「痛いのは嫌だ、おそろしいのも勘弁だ」

 満州から逃げる時に左腿にくらった弾丸を思い出す。骨を折ったことはないのだが、銃弾の痛みとどちらが上なのだろうか。

「おじいさんは元気じゃないですか。今日も朝から車洗ってて」

「たまたまやろうと思っただけだ。それで車だがな、夕方に見積もりの電話をかけておいた。明日にも来てくれるそうだ」

「売れるんでしょうかね」

「ちょっと金出して引き取ってもらうのでも、かまわんだろ。どうせ子供たちがほしがるわけでもなし。秀明以外は国内にすらおらんのだから」

「孝秀と明孝は長いこと会ってませんね」

「そろそろ会えるんじゃないか。大型連休が近いだろう」

 などと話していたら、三十分ほどしてから電話がかかってきた。それぞれインドネシア、オーストラリアに渡っている孝秀と明孝からで、大型連休に子連れで里帰りするとの連絡だった。ひさしぶりに真以外の孫に会えるので、ずいぶんと楽しみに思った。


 それからの一週間が妙に短く過ぎ去った。早起きしたり、家事をやったりしているうちに、あっというまに時間が経っていた。幼いころの、すべての経験が新鮮で、なにもかもが楽しくわずかな時間のうちに通り過ぎていく感覚を思い出していた。

 そのあいだに誕生日が過ぎ、私は八十五歳になっていた。孫たちが、祝ってくれると電話越しに約束してくれた。二人の孫にはもうずいぶん会っていないが、いくつになったのだろう。どちらかが中学生で、どちらかが小学生であったと思う。


 だが結局私は、孫に会うことができなかった。

 夜中に息がつまり、両腕が強張った。胸に異物があるような感覚に、思わず金縛りを想像した。まるで上にだれかが載っているようだ、と半開きのまなこを巡らしてはみるものの、薄暗闇の中、眼鏡もないのでは私の目はガラス玉と同じである。その表面が、つるつるとした曇りに覆われていく。眼前に霞がたちこめ、空気の出入りを止めた喉から、胸の方に向けて硬直がはじまる。ほどなくして、顎、耳、鼻、目玉、額という順に、硬直は続いていった。なにがどう理解できたわけでもないが、私はただ、なるほど、と納得の溜め息を心中に漏らす。

 ぼうっとした頭の霞が取り払われた時には、口をへの字に曲げて半開き、股引をべとりと小便で濡らした私の亡骸が布団の中に転がっていた。ああ、とまた心中に溜め息が漏る。それはこの歳で寝小便を垂れたことに対して、ぼんやりと浮かんだ感慨であったように思える。というより元より、他の感慨は湧いてこなかった。

 ふむ、つまりこりゃ、死んだな。

 音は出ないが自分の中に声は聞こえた。息が詰まったのは死んでもそのままであるらしい。

 だがまあ、こうして地に足つかずに自分の枕元に立ってみてわかったのだが、私はここ数日、こうなるための準備を済ませていたように思えてならない。うすうす感づいていたのだ。衰えに取り巻かれて、身体が動かなくなる日は近いのだと。鏡面越しでなく見る自分の顔は、死んでいるからこそ、仮面じみた愉快さと、最期の瞬間の必死さとが同居していた。

 明け方まで待つと、起きだしてきた妻が扉を開けて入ってきて、おじいさん起きてくださいと声をかけると台所に戻っていった。扉はすぐに閉まったため、私は向こうに行きそびれた。仕方なしに待つが、やたらと長く感じられた。すっとんすっとん、包丁がなにかを切る音が、頭上から響いている。

 一時間ほど経って、再び現れた妻は、扉から見据えた私の上にかかる布団が微塵も動かないことを奇妙に思ったようで、すたすたと近づいて亡骸の顔に触れる。えええ、となんだか面倒臭そうな声をあげている彼女を尻目に、そっと私は部屋の外に出た。なまじ自分の状態を知っているため、妻に寝小便のことなどを気付かれた時、この場にい続けるのは恥ずかしいと思ったこともある。ふらふらと、後ろの声に耳を塞ぎつつ部屋を出た。

 開け放たれた扉の向こうへ歩みを進め、居間に出る。机の上に湯気が見えた。常の通り二人分用意されている食事をみて、もうその匂いすら感じられない自分に気付き、なんだかとても悲しくなった。手を伸ばすと、茶碗に触れることはできるが、持ち上げたりとかかじろうとしたりだとか、状態を変えることはできないようだった。当然、煙草を口にすることもできない。

 しまった昨夜が最後の一服だったのか。どうせ最後の一服なら、ゴールデンバットではなくピースがよかった。未練だ。


 通夜はつつがなく行われた。

 ぐすぐすと皆泣いていて、湿っぽい。もっと適当な態度があるだろうに、あまり悲しい悲しいとばかり言わないでほしいものだ。事故でもなんでもない、大往生に近いものだったのだから。まあ実際は心筋梗塞だったようだが、がんで長々闘病して苦しんで死んだわけではない、やはり大往生で差し支えない気がする。

「気楽なもんです、先に死んだら」

 ふと飛んできた言葉にどきりとして、どきりとした自分がいたことにまたどきりとした。考えに浸っていた私は横を向いて、言葉の主を探した。

 どうもこの状態になってからは、匂いも感じられず味も感じられず触れても動かせず、おまけに視界も色が薄くて、耳も聞こえが悪い。声を聞いてるというより、録音した音声が頭の上から降り注いでいるような感じなのだった。

 だから先刻の言葉も、実際に口を動かしている奴を見つけるまではだれの言葉かわかりづらい。聞き覚えのない声だったので、身内ではないと思うが。探してみると、おむかいに住んでいる三橋の奴だった。

「残った方がしんどいし、たいへんです」

 三橋の伴侶はまだ死んでいないというのに、まるで悟ったような口ぶりであった。周囲も同調してほんとにねえ、ほんとにあとの方はたいへんですよねえ、などと話し合っているが、どいつも連れ合いをなくしていない奴だった。あの中では一人だけ、三橋の娘は夫をなくしているが、単にそれは離婚によるものなので含まれない。三橋とその家族は、かわるがわる私の妻の前に立ち、気を楽にだの気をしっかりもてだの、惑わすようなことを言っていた。慰めているつもりなのだろうか。

 とはいえ、経験者として語らせてもらうのなら、たしかに先に逝った方が気楽ではあるようだった。あとのことはなにも考えずに済むのだ。金庫の鍵についても話しておくことができたし、私の人生はなかなかに良いものだった。あとは意気揚々と、どこに向かえばいいかはわからないが、とにかくどこぞへ向かうだけだ。

「でも、まあ、」

 しばらく三橋の話を聞いていた妻が、おもむろに口を開いた。

「でも、まあ、わたしが先に死んでたら、おじいさんに心配かけたでしょうから。結局しんどいのはどっちか、わかりませんよ」

 楚々とした笑みのまま、妻はそんなことを言った。三橋一家は、そうですか、ときまりの悪そうな顔をして、そそくさと隅の方へ去っていった。

 私が後ろから顔をのぞきこむと、妻は気付いたはずもないが、まるで私に見られたくないかのように、振り切るように棺の方へ歩いていく。狭い棺に納められた亡骸の前に立つと、頬に手を触れひゃあ冷たい、などとつぶやいた。

 私はどうしたらいいかわからなくなって、控室の方へ歩いた。異国から戻ってきた二人の孫はひさしぶり、などとあいさつをかわしており、異国暮らし同士で通じるところでもあるのか、なにやら英語も交えながら談笑している。息子たち三人は、それぞれの嫁と固まって、今後私の妻をどうするべきかと相談を重ねている。先ほどの三橋一家は遠く隅に固まっているが、近隣のひとびとと町内会について話をしている。どこもあまり近づけない感じがしてしまい、逃げるように私は控室に急いだ。

 布団をしいてあり今晩泊まる用意のできている控室は、十畳ほどの部屋だったが、誰もいないためか妙に広く感じられた。隅にあった座布団の上に腰かけ、といっても触れたところでなにも変わらないため気休めにしかならないのだが、とにかく私は安息の場を得た。

 もうなにもできない、してやれない。

 いまさらながらのしかかる事実に、深く溜め息をつこうとしたが、いまの私の状態は死に至る直前のまま、息が詰まっていてなにも出て来ない。身体があるということはとても楽なことなのだと、またいまさらながらに気がついた。いまの状態はとても窮屈で、なにもできないことが歯がゆい。

 眠ることもできないために、うとうとすることも叶わない。私は畳の目を眺めつつ、今後について思いを巡らした。と、すきまが開いていることに気付いただれかが、しゃっとふすまを閉めてしまった。私はものに触れても動かすことはできないため、もう控室から出られない。

 溜め息しか出て来ない状況で、けれど空気をかき乱すことすらできず。私は茫然としてまぶたを下ろす。眼前に開けた暗闇は居心地がよかった。遠くから音が降ってくる。「えー、それでは故、瀧山源次郎さんの告別式を」


 どれくらいそうしていただろうか。大した時間ではなかったのかもしれない。感覚の薄くなったいまだからこそ、思うところがあるだけで。

 かちかちと、なにか硬い物を押しこむような音が聞こえた。首を振って辺りを見回すが、音の出所を探ることが不得手になった現状では、なかなか見つけることもできない。しばらくうろうろしてようやく、押し入れの隙間に音の主を認めることができた。真だった。

 さいきんの真を思い浮かべるにあたり真っ先に脳裏に姿をあらわす、ゲーム機を抱えて背を丸めたあの姿勢で、布団と枕の間にすっぽりと収まっているのだった。様になっているというか、最初からそこにいたような収まり具合で、ゲーム機の画面からの光で暗闇に輪郭を示す様子など、私よりも生者らしくない。暗いところでピコピコやると目が悪くなる、とよく注意したのだが、さっぱり覚えていないのか、熱心に瞳に画面を映している。

 部屋の外では式がはじまっているのか、耳を澄ませば念仏が上から降ってきた。私の式に参加もせずにピコピコとは、いよいよ寂しさが極まってくるものだ。しかしここから出ることはできないので、じっと真を見ているほかない。式など見物に来ず、家にいればよかったと心底後悔し始めた。

 やがて念仏がおわり、がやがやと話し声も聞こえてくる。食事についてどうするかなどを相談しているようだ。ならばもうしばらくだろう、だれかがここへ戻ってくるまで、耐えるとする。

「……おわった?」

 そんな決意を固めた矢先に、真がちいさな声をあげて押し入れから這い出してきた。なにごとだろうと私はいじけた心持ちのまま振り返ったが、真はあくびをしているのみでピコピコを置いて歩き出した。ふすまを開けて左手、トイレの方へ去っていく。

 来なければよかった、とまた心持ちが暗くなり、式場へ戻る気がさっぱりなくなった私は真のピコピコの横に腰を下ろす。なあ、おい。おまえは真と私の時間を奪いとったんだぞ。死んでもまだ奪うのか。むかっ腹が立って、ピコピコの奴に握りこぶしを落としたかった。

 だがそんなこともできない私は、こぶしを落として、うなだれた。笑いがこみあげる。どうにもならないことに出会うと、人は笑いがこみあげるのだ。やっていられない。そう思って、ピコピコの画面をのぞいた。

 画面にはいかにもおどろおどろしい龍が映っており、そいつには名前がつけられていた。ひらがなで打たれた名は、五文字で、「げんごろう」。

 呆気にとられた私は、どうしようもないな、と笑みに苦味を混ぜて。結局、ここをあとにした。


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