星に願いを
Lady Rose のパッケージから細い煙草を取り出すと、祥子は銀のライターで火をつけた。じじじじ、と音を立てて上がる煙が、屋上の強い風に吹かれてななめに飛び去ってゆく。
「少しは落ち着いた?」
麗は金網に手をかけたまま黙っていた。バラの香りの煙が、ささくれた心に不思議にしみこんで、今まで知らない苦い安らぎを灯していた。
「兄は今でもタバコ吸ってる?」
麗は首を振った。
「そうか、あなたのためにやめたのね。結構苦労してたのに、大したもんだわ」
麗から顔をそむけて、風下に煙を吐きだした。
「なんかちょっといいことばかり言ったけどね、正直、兄貴は横柄な奴だったわよ。最初、そう思ったの。わたしたち連れ子同士でね、母に連れられてあの家に行ったとき、明らかに迷惑そうな顔してわたしと、二つ下の弟を見てたわ。
体も大きかったし、口も乱暴で、少しは遠慮ってものをすればいいのにね、人のハハオヤの作った食事に堂々と文句垂れるの。まだ家族になりたてなのに、自分のものは自分で片付けろよ、とか、わたしにもうるさくいってくるし。
でもね、おいしいときはすごい勢いで食べるのよ。で、ごちそうさま、またこれ食いたい、とか。ずるいでしょ。母もそんなときは嬉しそうだった」
祥子は風に巻き上げられる茶色の巻き毛を片手で抑えた。
「弟は少し発達障害があって、周り中に馬鹿にされてきたのよ。でも結構いいお兄ちゃんしてくれてね、辛抱強くあの子の遊び相手をしてくれてたわ。それで弟もすごくなついてた。でも二年生の夏、夏季教室で不幸な事故死をしちゃってね。そのことで責任を感じたのか、ものすごく落ち込んで、性格まで変わったように見えたわ。この話、聞いたことある?」
「知ってます」
麗は短く答えた。そう、といって祥子は少し黙った。
「初めて見るぐらい弱気になって、口数も半分ぐらいになって。だから高校生になったあたりからまた横柄になり始めたときはほっとしたぐらいよ。勉強は抜群にできたからよく教えてもらったけど、こんなことも分からないのかってすぐバカにするの。だから、その態度を改めない限り絶対もてないからねって言ってやったんだけど」
話しながら祥子は微笑んでいた。
「それでもね、抜群にいい女にもててくれればいい、そしたらあきらめようと思ってたのよ」
「なおきが、好きなの?」静かな声で麗は言った。
「ええ、ずっと好きだった。きっとあなたとおなじぐらい、彼を素敵だと思ってる」
そしてひと呼吸置くと、決心したように声音を改めて語りだした。
「あなたについては噂で知ってた。元AV嬢で実写暴力ビデオ事件の被害者。わたしは、両親が激怒しようと勘当しようと兄の側に立つ決心をしてたのよ。だから詳しく事件のことを調べたの。で……」
唇をすぼめて、音の出そうな勢いで薔薇の香りの煙を吸い込む。
「生まれてからこれまで、これほどいやな思いをしたことはなかったわ。
寝ても覚めても、知ったことが刃物になってわたしを襲った」
何人もの男たちに凌辱され、その手で何度もプールに突っ込まれる顔、蘇生させては泣き叫ぶ女性を水に落とす残酷な映像が蘇って、祥子はぶるりと全身を震わせた。
「……そして思ったの。心の傷が生きていけなくなるぐらい深いものだった場合、体も滅びてしまうなら、あなたは生きてはいなかっただろうって。そのほうがよかったんじゃないか、どうしてそうじゃないんだろう。兄はどうしてあなたのことを知ってしまったんだろう」
隣で麗は、目を伏せたまま両手を金網に食い込ませ、唇をかみしめていた。
「世の中には大雑把に分けて二種類の人間がいると思う。そういう事件を知ってもああそうか、でまた普通の日常に戻れる人と、いつまでもいつまでも自分のことのように血を流さずにはいられない人。
兄は明らかに後者なのよ、弟の件でも、人格が変わるぐらい悩んでたから。
あなたを知って、あなたに心を寄せて、あなたを守ると決心しても、あなたの傷を救える人なんているわけがない。そうでしょう。愛されても守られても、あなたは兄を男という人種すべての代わりに攻撃し続けてるんでしょ。
でも結局あなたが自分で会社と契約して、出ると決めたから起きたことよね。契約内容に騙されたと言っても、結局はあなたの落ち度でしょう。そんなことでどうしてまともに生きてる人間が傷つかなきゃならないの。どうしてわたしの大事な人が、そんなことで苦しめられなくちゃならないの」
大きく目を見開いて足元を見ながら、麗は表情をなくしていった。その風情は、生きたまま、ひとが足元から蝋人形に変身してゆくかのようだった。
「兄貴がここにいたら、わたしは殴り殺されてるわね。でもわたしは兄貴に幸せになってほしかった。どんな祝福されない結婚でもいい、相手の人が彼をしあわせにしてくれるなら、わたしは祝福したと思う。 でも、あなたは違うじゃない。あなたは生きている限り、兄の幸せを吸い取り続けるのよ」
名指し難い乱暴な感情があとからあとから湧き上がり、祥子は自分を止めることができなくなっていた。いまどうして、彼女にそんなひどいことが言えるのか自分でもわからない。この眼前の女性を地獄に落としたのは彼女の愚かさだけではないはずだ。けれど、かたちも姿も見せることのないその相手は、闇とも光とも融合して、薄く広くこの広い世界になじんでいる。彼らは決して苦しまないし、涙も流さない。 世界は彼らを歓迎し、呑み込んで、この夜景とともに醜く鮮やかに揺蕩っているのだ。
ばりばりばりというバイクの轟音が、高速道路の光の列の彼方から響いてきた。そして遠ざかるにつれ、轟音は切なく悲しい何か、別れの音楽のようになった。
いつの間にか自分が言葉を放置して黙っているのに祥子は気づいた。
音が消えかかるころ、麗のか細い声が隣から流れてきた。
「わたしも、なんども、……思いました。
わたしなんて、あのとき、水の中で死んでいればよかった。そうしたらもうあの時以上に苦しむこともなかったし、彼の家族も悩まなかったし、祥子さんも、彼も……」
麗は呼吸を荒くしてしばらく黙った。そして自らを励ますように上を向くと、また語りだした。
「……でも、死ねないの。彼と出会って、言われたの。辛いだろうけど生きてくれ、俺のために生きてくれって。他に理由なんか考えなくていい、わがままな俺のために生きてくれ。
君の都合なんて考えずに頼むけど、生きてくれって」
長くしゃべると、最後のセンテンスの終りのほうは、かすれてか細く震えた。
「この世が地獄でも、辛いことだらけでも、俺がみんな受け止めるから、自分を傷つけるぐらいなら俺を傷つけて、そうして生きてくれ。
俺は君に残酷なことを言っているんだ、それは知ってる、でも俺も君のために苦しんで生きるからどうか許してくれって」
「………」
麗の透明な声は、夜空に投げ上げられるガラス玉のようだと祥子は思った。その色彩はなにか太刀打ちできない音楽のように心の中に分け行って、手に余る感情を引き出そうとしていた。
「祥子さん、だから、もし彼がこのまま死ぬようなことがあったら、わたしを止めないでね。わたしの人生にその先がないのは、唯一の救いなの。でも、彼が生きるならわたしも生きる。彼を生かすために、わたしも生きる。
そのことで、どうかわたしを責めないで」
唇を閉じると同時に、大粒の涙が麗の白い頬を転がり落ちた。
祥子はポケットから携帯灰皿を取り出すと薔薇の香りのタバコをにじり消した。そして、血の出そうな勢いで金網を指に食い込ませている麗の細い指を、そっとほどいて網から外した。
「……兄貴は、あなたのために戦ったの?」
麗の細い指を握りながら聞く。
「……」
顎から涙を滴らせたまま、麗は頷いた。
「兄貴の打ち倒した相手は、そうされて当然の連中だったのね?」
小さな頭が、また同じように頷いた。
「……そうか」
しばらく口を押えたのち、祥子は語りだした。
「たぶん、これから先、どんなひどいことを他人に言われることがあっても、今のわたしよりはましだと思うわ。だから今聞いたことは覚えていたほうがいいわよ。
今日のことでわかったでしょう。あなたの最愛のひと、五島尚輝のその妹は、感情のままに弱った人に追い打ちをかけるようなことが平気で言える、最低の人間よ」
唇をかみしめて言葉を切ると、祥子は言葉を続けた。
「だから、ね。五島祥子がどんな嫌がらせを言おうと、どんなに大事な兄を返せと罵ろうと、あなたは何ひとつ後ろめたく思うことはないのよ。だってわたしはなんだかんだいっても兄貴がいなくても生きていけるもの。せいぜいその程度のしょうもない、身勝手なにんげんだもの」
祥子は麗を見た。悲しみからか怒りからなのか、白い頬が上気したようにうっすらとばら色に染まっていた。
「あれだけのことをいっといて、こういうのもなんだけど、あなたに死なれちゃ困るわ、麗さん。兄貴のいのちのために、くるしくても、あなたは死んじゃだめよ」
小さな子供のように、赤い目をして麗はまた頷いた。
祥子はじっと、麗の人形のような顔立ちと、濡れた瞳を見ていた。
つかんでいた麗の手を離すと、祥子は神妙な風情で言った。
「あのね、お願いがあるの。あなたを、抱きしめてさせてくれない?」
「えっ?」
麗は戸惑った様子で祥子を見た。
「同情とか友情とかじゃないのよ。ただ、兄貴の感触を知りたいの。あなたを愛している兄貴の感じている、あなたの感触を」
「………」
抵抗しないのをいいことに、大柄な祥子は両腕でそっと麗の細い体を包み、そのまま体に抱き込んだ。
力を入れると、華奢な体が折れてくだけてしまいそうだった。どこまでも細い麗の体は、生まれて間もない鳥のようにあたたかく、はかなかった。
石鹸のささやかな香りが、ふわりとした甘い体臭と混ざり合う。二つの優しい胸のふくらみは、ひだまりにふくらむすずめのようにいとしく小さかった。看護師の腕の中で暴れたのとは正反対に、麗の細い指がそっと祥子の背に添えられた。
そのとき、兄の思いが体の内側から押し寄せてくるような気がした。
それは何の理由も動機もいらない、ただ、ひとつの命を、ひとつの体を、ひとつの魂を心から愛しいと思う、涙に似た衝動だった。
不思議な旋律が彼女のなかに棲んでいた。
旋律は例えば風や月や記憶や香りといったものと同様に、形もなく祥子をいきなり包み込み、自分が一番弱く一番切ない想いにとらわれていた迷子のような時期に時間を戻して、ささやきかけるようだった。
あなたがひとりなら、歌ってあげる……
「目が覚めそうですね」
五島尚輝の点滴をとりかえながら、看護師が、そばで見ていた医師に言った。
「さっきから瞼が動いてますし、ほら、指も」
「五島さん、聞こえますか? 五島さん」医師は大きな声で呼んだ。
「聞こえたら、指を握って」
尚輝の呼吸がはやくなった。首がゆっくり左右に揺れる。
「あの二人はどこへ行ったのかな。呼んであげたほうがいいな」
「探してきます」
看護師は廊下へ駈け出した。
列車は鉄橋に差し掛かっていた。
ががんががん、ががんががん、という耳をつんざくような音が空間を満たす。
そのががんががんの中に、誰かの呼び声が混じっているような気がしてぼくは顔を上げた。
「聞こえた?」
「なにが?」
向かいの席で顔を伏せたまま、麗はドライフルーツを混ぜていた。バナナ、マンゴー、クランベリー、いちじく。花のついた麦わらの帽子が、彼女の白い顔に網目模様の影を落としていた。隣の籐製のペットケージの窓から、丸くなって眠っている小桃が見える。
「なんで今そこで混ぜるの」ぼくが尋ねると
「おやつにしたいフルーツのタッパーを、端から急いで放り込んできたから。これを入れるための壜も買ってあったの」答えになっているよな、なっていないような返事だった。
全部混ぜ終わると、麗は大きな透明な壜を振ってにっこり笑ってみせた。
「きれいでしょ」
「ああ、きれいだね。シリアルに混ぜるといいね」
「シリアルには混ぜないの。おやつにするのよ」
鮮やかなドライフルーツたちの中から、バナナチップをつまむと、かりっと前歯で噛んだ。その音を聞いて、ぼくはなんだか、身が震えるほど幸福だと思った。
健康な彼女。健康な彼女の歯。
それだけで、世界は輝く。
列車の外はいちめん、青空の下の大地に広がる緑の果樹園だった。
オレンジとレモン、オレンジとレモン、オレンジとオレンジとレモンとレモンと……
「オレンジとレモンが一つの木からぶら下がってるように見えてきた」ぼくがつぶやくと
「同じ木から成ってるじゃない」
「いや、ありえないよ」
「目の前で見ても? ほら」
確かに果樹園の木からは、レモンとオレンジとグレープフルーツが同時にもっさりと成っていた。
「カクテルツリーっていうのよ。接ぎ木すればできるの」
「なんだか、楽園ぽいね」ぼくが感心すると
「休日は楽園に行こうって言ったのは、あなたよ」
麗は笑って、今度はクランベリーを唇にはさんだ。
「あっちについたら、何をしようか」
「なおきはいつも、一日の予定を立てるのが好きね」
「そう、……かな」
「きょうはあれをしよう、これをしよう。家にいるときでも、裏庭に花を植えよう、一緒に木のベンチを掘ろう、小鳥の餌を切ろう、オレンジがいいかなりんごがいいかな、午後は何をしよう……」
「いじめるなよ」ぼくは苦笑した。だって、ぼくの予定を聞くときの麗はいつも楽しそうなのだ。
「わたし、木遊びがしたい」
「森でいつもやってる、あれ?」
「森の木は全部覚えてしまったもの」
木遊びは、麗の好きな遊びだ。天気のいい日によく二人でやった。一人が木を探す役、一人が案内役だ。探すほうに目隠しをさせ、案内役はその体をぐるぐる回す。東西南北がわからなくなったところで、手を取って、森の中に相手を連れてゆく。そして一つの木に触らせる。抱きつき匂いを嗅ぎ、その感触の記憶で木を覚えさせる。またぐるぐるぐるぐる回して、その場から離れさせる。
適当なところで相手の目隠しを取り、開放する。解放されたほうは、森へ戻り、においと、手触りと、大きさの記憶を頼りに、さっきの木を見つけ出すのだ。
ぼくは木を見つけるのが下手で、麗は上手だった。最初の覚え方がうまいのだろう。そっと木を撫でるようにし、そして両手で抱え、頬をつけ、唇をつけ、全身を摺り寄せてまるで恋する相手のように木を覚える仕草を見ると、ぼくは変な嫉妬を覚えたものだ。
「そんなに熱心に覚えなくてもいいんじゃない」ぼくが言うと
「熱心にしなければゲームにならないわ」麗は笑いながら答える。
「森の木々はみんなひそかにきみに恋してると思うよ。そんな風にきちんと覚えてもらえて」
「もう、相当誘われてるのよ。月夜の晩なんて、あなたが隣に寝てるのに、窓をたたいて誘うの。こっちのほうがいいだろう、こっちへおいでって」
すまして麗は答えた。
「いつもそうだもんな、あいつら。家の周り中、ライバルだらけだ」
「あなたがいつ森の妖精にさらわれてなにかの木にされても、わたしはちゃんと見つけ出せるからね」麗は得意そうに言った。
そして大きなバスケットの蓋をあけると、中を覗き始めた。
「お弁当も作ったの。あっちについたら、食べましょう。サンドイッチは、なにがいい? ハムチーズ、アボカドとえび、たまごと豆、パプリカとチキン……」
「あっつ」ぼくは突然の痛みに顔をしかめた。
「痛むの?」
「うん、足がね。なんかね、なんだろ」
麗は悲しそうな顔をした。
「そんな顔しなくていいよ、大したことないから」
また列車が鉄橋に差し掛かる。
ががんががん、ががんががん、の音の合間にあの声が聞こえないかと耳を澄ます。音は当たり中に反響して、あらゆる音を吸収し、蹴散らかし、破壊し脅かしそして放出する。ぼくを呼ぶ誰かの声が聞こえる気がする。耳からか、記憶の中からか、よくわからない。
麗はとても不安そうな目でぼくを見ると、細い指でそっと足をさすった。
彼女の指はいつも眠気を誘う。さすられているうちに、ぼくは頭がぼんやりしてきた。鉄橋を渡り終え、がたんごとんというのんびりしたリズムに戻った列車の音が何か楽隊の太鼓の音に聞こえはじめて、ぼくはあわてて眠気を払うように言った。
「きみは、そこにいるよね?」
「なんで? 目の前にいるじゃない」
瞼が重い、どうしようもなく重い。でも、眠ったらいけない。そんな気がする。
麗はじっとこちらを見ている。
「眠いの? なおき」その声は、どこか悲しそうだった。
「うん、きみはそこにいるよね? 起きても、いるよね?」
「あなたが戻ってくるならね」
「どうやったらここに戻れる?」
なにか彼女が答えているけれど、もううまく聞き取れない。
眠い、全身が沈み込むように眠い。どこかへいってしまう。どこかへ……
どうして泣いてる? うらら。ぼくは眠るだけなんだろう?
だめだ、もう言葉が出ない。
麗は俯いて、ドライフルーツをまた口に入れようとした。
そして、やめた。
歌を歌いだした。
星に願いを……
あの日の雪は美しかったね、ぼくときみが出逢った最初の冬。あの雪原。
赤頭巾のきみが歌っていた、あの美しい旋律。
迷ったら、あそこへ行くよ。そして一から出逢い直そう。
駆け寄ってきた茶色の子犬を抱き上げて、きみに手渡そう。
何度でもやり直せる。何度でもぼくはいく、君のほとりへ。
麗はじっとぼくを見ている。白い指がぼくに向かって伸ばされる。きみの指、きみの愛しい指。
頬に触れるか触れないかのその時、かすかな声が最後に響いた。
さよなら、なおき。
だいすきななおき。
また、会いましょう。