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彼女の森  作者: pinkmint
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叫びとささやき

 がちゃん、と裏口の白いドアをあけると、両手に栗を抱えた幼い少年のびっくりした顔が目に入った。

小さな両手からころころと栗が零れ落ちる。4,5才だろうか。

「きみは、ごんぎつねかな?」

 薄い色の髪が午前の木漏れ日に透けている。少年の大きな瞳は、どこか彼女に似ていた。

「おとといはお花だったよね。あれはなんていう花だったの?」

少年はかがんで栗を下ろすと、じりじりと後ずさった。ぼくはそっと右手を上げると、掌を彼に向け、声を潜めた。

「待って。……待ってくれよ。いちど話がしたかったんだ。逃げないで。どこの子かな、この近く? どこかで会ったっけ?」

 少年はさらさらした髪を振った。

「じゃあ、彼女にどこかで会ったんだね。きみのくれたお花を、とても喜んでうちのあちこちに生けていたよ。とても部屋が華やかになったよ。見ていかない?」

 少年はそっと背伸びをして部屋の中を覗くようにした。

「彼女を呼びたいんだけど、まだ眠ってるんだ。なかなか目を覚まさないんだ。ちょっと心配になるぐらい。きみは眠りは深いほう? どんな夢を見る?」

 立て続けにしゃべる。裏庭の木々がくすぐったそうにおかしそうに身をよじっている。笑えばいいさ。でも、やっとあの裏庭のプレゼントの主に逢えたんだ、離すものか。

「おうたをね」

「うん?」

「おうたを、うたってくれたの」

 ぼくは頷いた。

「そうか、おうたか。いつ聞いたの? どんなうただった?」

 少年は少し首をかしげるようにすると、小さな声で口ずさんだ。らららら、ららら。らららら、ららら。

「わかった。それは、星に願いを、だね」ぼくは思わず微笑んだ。「ぼくが初めて会ったときも、それを歌っていたよ」

 少年もにっこり微笑んだ。

「その綺麗な声を聴いて、ぼくは彼女が好きになった。きみも、そうかな?」

 少年はこっくりとうなずいた。

「泣いていたらね」

「うん?」

「泣いていたら、うたってくれたの」

「そうか、泣いてたんだ。森で迷子にでもなった? そして彼女にあったのかな?」

「ひとりぼっちで、早く会いたくて」

「誰に?」

「ママと、パパに」

「じゃ、やっぱり迷子か」

 少年は後ろを振り向いた。

「いかなくちゃ」

「ママとパパが待ってるんだね」

「はやくきてって、伝えて」

「誰に?」

「ママに」

「え?」

「ぼく、もうこない」

 少年はくるりと背を向けるとりすのように走り出した。

「ちょっと、きみ!」

 そろが、しいが、えんじゅが、にわとこが、しゃらしゃらしゃらしゃらと笑いながら身をゆすって、たちまち少年の姿を隠した。森は光と影の綾織りの向こうに気配を閉じ込めて、また素知らぬ顔に戻った。

 気が付くと、裸足で裏庭に立っていた。

 足元で、垂れ耳の飼い犬の小桃が、尻尾を振って僕を見上げていた。

 栗が、裏口から森にかけて点々と散らばり、緑の日差しにきらきらと光っている。ぼくは頭上の木を見上げた。そして森の奥を見やった。

 森の木々は一点透視に見えるときもあり、多点透視に見えるときもある。多点透視に見えるのは疲れているときだ。そんな時の森の無慈悲な広がりは、闇のむこうはまた闇だぞと、お前は終世ここから出られないのだぞと脅してくるようだ。いったいこの森の外の世界を思い出すことはあるのか? お前はどこから来て、どこへ行くのか。考えなくていいのか? 思い出さないでいいのか?

 ふと、足が痛んだ。太腿の上のあたり。けがをした覚えはない、なのに重苦しく、時に鋭く、足が痛い。これはなんだろう。いつから痛いんだっけ?

 そのとき、視界の端を白い姿が駆け抜けた。

 しまった!

 白いすとんとしたナイトウエアのすそを花弁のように広げて、足音もなくぼくの脇をすり抜け、斜めに木漏れ日のさす森へ彼女は走りこんでゆく。木々は身を震わせて木の葉を散らし、彼女の姿をぼくの視界から隠そうとする。小桃が飛び上がるようにすると、わんわんと甲高い声で吠えて彼女の後を追った。

「うらら、待て、走るな!」 

 ぼくは叫んで駆け出した。

 ドアを開けたままにしていたせいだ。いつもこうなのに。もう元気、ありがとう、おかげですっかり大丈夫、と笑っていた次の瞬間に刃物を持ち出す。眠っていたと思ったらいきなり走り出す。いつもそばにいてとせがむのに、一刻を惜しむかのようにぼくの目の前から消えようとする。抱きしめてと繰り返しせがんだ直後にお前なんか死んでしまえとすごい勢いで物をぶつけてくる。彼女の行動はいつも予測がつかない。一瞬一瞬が繋がらない。ドアを開けていてはいけなかったのだ。

「走るな、頼む、走るな!」

 ああ、昔こんな風にしてぼくの前を走り抜けた命がある。

 まだ幼い、無垢な命だった。ぼくは止められなかった。もうやめてくれ、もう行かないでくれ。森はいつだって彼女の味方で、天使のはしごと呼ばれる斜めの光線を天から簾のようにおろし、森の木々で分裂させて、光と影の目くらましをかけてくる。ちらちらちらちらと風景がハレーションを起こし、動いているものと動いていないものとの境すらあいまいにする。生きているものと生きていないもの。いまほんとうにここにあるものと、ないもの。手に入れたもの、取り戻せないもの……


 気が付くと、目の前に彼女がいた。立ち止まって、不思議そうにぼくを見ている。足元に小桃がじゃれついている。初めて森の中でオオカミという生物にあった赤ずきんのような顔をしている。ゆっくり近寄ると、すっと手を伸ばしてきた。手の甲が、ぼくの頬に触れた。ぼくはされるままになっていた。そのまま手の甲でぼくの頬を撫で上げると、今度は掌で頬に触れてきた。左手が添えられた。彼女は両手でぼくの頬を包んだ。

「どうして、泣いているの?」

 他人事のように彼女は言った。

 オオカミは赤ずきんの手を取った。

 そして彼女の細い腰を抱き寄せると、背中に手を回し、思い切り抱きしめた。

 しばらく嗚咽が止まらなかった。彼女の掌が、やさしくぼくの背をさすった。泣かないの、もう、泣かないのよ。わたしはここにいるわ。暖かい日差しのような、小さな声が聞こえた。

 それからゆっくりと、二人と一匹で、森の中を歩いた。


「両親は再婚同士だったんだ」

 問わず語りにぼくは話し始めた。

「実母の記憶はない。父のところに来た若い女性には二人連れ子がいた。ひとりはぼくより二つ年下の気の強い女の子。もうひとりは四歳年下の少し頭の弱い男の子。この子は苛められっ子で、いくらいじめられても相手に遊んでもらおうとなついてゆくんだ。そしてまた苛められる。ぼくはかなり人望の厚かったほうでしかもガキ大将で、周り中から小突かれてもニコニコしてる弟が恥ずかしくてしょうがなかった。 でも、いいおにいちゃんができてよかったわねえ、よろしくねとか新しい母に言われて、まあ一応いいかっこしたんだよ。そしたら、捨て犬みたいにまとわりつかれて、もう正直嫌気がさしたんだ」

 くいながキュッキュッと鳴きながら青灰色の腹を見せて頭上を追い越して行った。うららが手を伸ばして軌跡をつかもうとした。

「ぼくは六年生で、あいつは二年生だった。休み時間もほっといてくれない。組の仲間と遊ぼうとしても兄ちゃん兄ちゃんて強引に入ってくる。かくれんぼや缶けりであいつを撒いて放置して帰ったことも何度もある。でもあいつはいつまでも待ってるんだ、いつまでもいつまでも。馬鹿だから」

 森の中ほどに少し広い場所があって、木々の陰りも薄く、枝えだの間から空の光が見えた。横たわった丸太を削ってぼくがベンチにしたやつが転がっていた。二人並んでそこに腰掛けた。小桃はぼくらの足元で丸くなった。

「何かもう我慢ならなくなってたんだと思う。そのころ縦割りチームとか言って、上級生が下級生の面倒を見るために編成された班ごとに、夏季教室が開かれてた。ぼくとあいつは同じ班だった。プール付きの施設で、水泳の時間もあった。ふざけあいっこのふりをして、弟はプールでみんなにいじめられてた。おまえの弟、おぼれてるぞと友人に言われて、いやただふざけてるんだよと無視をした。自分のことぐらいいい加減自分で何とかしろよと、そう思って知らん顔してた。恥ずかしかったんだ、あいつが。あいつはぼくのほうを見ていた、ずっと。

 最後の日、丘の上の公園でキャンプファイヤーが予定されてた。その準備の最中、あいつがフラッと立ち上がって、ぼくのほうに来たんだ」

 あさってのほうを向いていると思っていた彼女は、いつの間にかぼくの顔を見つめていた。ぼくは戸惑って一瞬唾をのみ、また話し始めた。

「何か言われると思って一瞬身構えた。でもあいつはぼくのほうを見ないでそのまま脇を走り抜けた。そのとき、小さな声が聞こえたんだ。

 兄ちゃん、さよなら。

 ぼくはぎょっとして弟のいく先をみた。高台の展望台の手すりを身軽に乗り越えて、そのまま弟の姿は空に消えた。一瞬、自分が何を見たのかわからなかった。近くにいた女子が悲鳴を上げた。人がどんどん手すりのほうに走って行った。ぼくは行けなかった」

 彼女はじっとぼくを見ている。

「弟の死を聞いて、母は半狂乱になった。学校側からの説明にも納得しなかった。いじめのことは誰も口にしなかった、ほとんどが面白半分の加害者だったからね。

 どうしてなの、どうしてなのと叫び続けた母に、ぼくは何も言わなかった。葬式でも泣けなかった。あなただけがあの子にやさしかったのよね、ありがとう、と母に言われて、涙が凍りついた。

 生きている資格なんてない、ぼくにはその資格がないと、あの言葉の記憶がずっとささやきつづけるんだ。

 あいつが走り抜けたとき、ぼくは弟の手をつかまなかった」

 うららは目をそらした。しばらく前を見たのち、ささやくように言った。


「わたしは、なおきの、記憶の中の、その子なの?」


 ぼくはうららの手をそっとつかんだ。

「きみはきみだよ、ほかの誰でもない。きみに会ったその瞬間から、ぼくはきみしか見えなくなった。

 いつかこれが話せる相手に出逢えたらと思ってた、それがきみなんだ。迷惑だったら謝る。でも、ぼくにも誰か、誰かが必要だったんだ」

 足がまた痛んだ。ぼくは顔をしかめた。上のほうから、誰かに呼ばれた気がする。木々の間を抜けて、ぼくの名を呼ぶ声にならない声が反響する。ぼくは頭を巡らせて樹上を見ようとした。うららは手を上げて、ぼくの両耳を軽く塞ぐようにした。そして、顔を近づけてささやいた。

「なおき、どこにもいかないでね。ここにいて。何も聞かないで、お願い。ここにこのままいましょう、ずっとふたりで」

「きみはあの子を見た?」

「誰?」

「裏口に花や果物や、いろんなものをおいていってた子。ぼくはひょっとして弟だったらいいと思ってた、そうさ、なんて都合がいいんだ。

でも違ってた。親とはぐれた子どもだった。いや、弟だったのかな。もう、よくわからない。

 待っているとママに伝えて、と言われたんだけど、あの子のママなんて知らない。だから伝えられない。きみの歌を聴いたと言っていたよ、きみにも合わせたかったな。

 きみは迷子の子どもに歌を歌って慰めてあげたことはある?」

「あるわ」

 彼女は小さく微笑んで答えた。

「いま、目の前にいるわ」



 夜更けの屋上からは、わずかな街の灯りと、高速道路のオレンジの灯りのうねりが見渡せる。ごうごう、しゅうしゅうという車の音が麗の耳にもかすかに届いた。金網にジグザグに区切られた風景に顔を寄せると、隣で祥子も同じようにした。

「あの騒ぎでも、起きてくれなかったわね」

 祥子は遠景に視線を投げたまま、つぶやいた。


 二人で喫煙室に向かおうとしたそのとき、彼は集中治療室から出てきた。瞼はぴたりと閉じたままだった。麗は走り寄って、小さな声で名前を呼んだ。なおき、なおき、なおき。看護師が、点滴台をつかもうとする麗を制した。大丈夫ですから、朝にはきっと目覚めますから、そんなに呼ばないで。起きないのは、今は眠る必要があるからですよ。体って、にんげんって、そういう風にできてるんですから。

 病室でも、彼はびくともしなかった。

 なおき、夢を見てるの? 何の夢を見てるの? わたしはそこには入れないの? どうしてこっちにきてくれないの?

 なにかのたがが外れたように、麗は考えていることを口に出して呟きつづけた。しばらく離れて彼女を見ていた祥子の背後に人の気配がして、ふり向くと、制服の警官が二人と、目つきの鋭い私服の男がひとり、戸口に現れた。

「現場にいらした方は、そのかたですか? ちょっとお話がうかがいたいんですが」私服の刑事が野太い声を出した。

 祥子は麗を振り返った。彼女は首を子どものように左右に振ると、怯えた目をして窓のほうに後ずさった。

「ちょっとだけです。お嬢さん、あなたはお身内ではないんですよね?」

 麗は答えなかった。代りに祥子が声を上げた。

「身内はわたしです、五島の妹です。現場にはいませんでした。その方は兄の知り合いで付き添っていらしたんですが、あの、あまり……」

「帰って」麗が切羽詰まった声を出した。刑事はできる限りの優しい表情を作って話しかけた。

「現場で一応の聞き取りはしたんですよ。近所のかたに呼ばれたんで一応ね。現場でけがをしていた三人の誰も、被害届は出さないと言ってます。顔見知りの小競り合いだと。だからもし、五島さんご自身も被害届を出さないとなれば、大したことにはならないんですよ。でも、五島さんのお怪我が一番ひどいのでね。意識がないということなので、いちおう付添いのあなたに、当時の様子をきちんとお聞きしたいと思って」

「いやです。帰って」

 麗は片手で尚輝の手を握り、もう片方の手でベッドの柵を握りしめていた。

「じゃあここで、簡単に聞くから答えてください。あなたはどうしてあそこにいたんですか? 最初から一緒にいた?」

「麗さん、話したほうがいいわ。ちゃんと話せばそれで帰ってもらえるわよ」祥子が口を挿んだ。

「その通りですよ」制服の警官が微笑みながら答えた。

「わたしを見ないで」

 麗の異常な様子に気づいたようで、刑事は声を落として答えた。

「わかりました、じゃあ見ませんよ。答えてくれますか? 最初から一緒でしたか?」

「最初からではありません」

「じゃあどうしてあそこに?」

 麗は呼吸を整えると、下を向いたまま答えた。

「彼が、帰ってこなくて、連絡が取れなくて、探していたら、電話があって」

「誰から?」

「わかりません…… 友だち、かも」

「彼の友だち? どういう電話?」

「住所を言って、彼がトラブルに巻き込まれているかもといって、切れました。それでそこに行きました」

「ふーん?」

 刑事のそばで警官が忙しくメモをしていた。

「行ったら、喧嘩してた?」

「もう、そのときは、……倒れて、いました」

「彼はどんな様子だった?」

「頬を切られてて、足が、……太ももの当たりが血だらけで、何かで縛ってあって、呼んでも、返事がなくて」麗の呼吸がはやくなった。

「相手もみんな倒れてた?」

「はい」

「あなたの知った顔はいなかったかな。全然知らない人?」

「……」

「知らない人たちだった?」


 倒れている彼にすがりついた次の瞬間、隣でうずくまっている大きな体に気が付いた。何を忘れても、そいつのにおいを知っている。体臭と、記憶。そいつにされたことを全身が覚えている。飛び上がり、悲鳴を上げて逃げ出しそうになった。でもできない、彼をおいてなんていけない。そんなことをするぐらいなら死んだほうがいい。必死で彼の体を引っ張った。遠くへ、ここから離れて遠くへ。悪夢の向こうへ。誰が助けてくれるだろう、どこまで運べばいいんだろう? 涙があふれ、悲鳴は口の中で反響した。助けて、誰か助けて。


「どうしました? やっぱり知っている人だったの?」

 麗は顔を上げた。そして両手で口を塞いだ。重力を失った空間で、自分の髪の毛が巻き上げられていくのがわかる。息ができない。息が……


 突然、深夜の病棟に切り裂くような女性の悲鳴が響いた。看護婦詰所から夜勤の看護師が飛び出してきた。悲鳴は切れ切れに続き、鳥の雄叫びのように廊下のガラス窓を震わせた。患者の半数がたたき起こされ、廊下に数人が顔を出した。

 当直室から顔をだし、白衣を羽織る医師に、駆け付けた看護師が声をかけた。

「あの怪我人の付添いのかたです。先生、来てください」

 廊下にはこだまのように同じ声が反響していた。いや、いや、いや、いや。

 該当の病室に駆け付けたとき、警官ら三人は廊下に出され、体の大きな男性看護師が麗の小柄な体を押さえつけていた。その両手の中で彼女はますます半狂乱になっていた。医師は背後から咎めるような声をかけた。

「ああ、その人はそれじゃだめだ。警官の方たちはひとまず面談室のほうへ。

で、きみ。男性じゃだめだ、女性の看護師に変わってあげて。っていうか、あの、五島さんの妹さん」

「はい」

 部屋の隅でつっ立ったまま、緊張した顔で祥子が答えた。

「押さえつけるのをやめれば落ち着くだろう。きみはそばで手を握っててあげて。それでいいから」

 男性看護師が体を離すと、麗は床に崩れた。祥子はかがんで麗の背をさすった。

「鎮静剤打ちますか?」若い看護師が声を潜めて尋ねた。

「針なんて持ち出しても興奮に拍車をかけるだけだよ。とりあえずリーゼあたりを処方してあげて。あとここから関係ない全員が出てあげればいい。あとね、私から説明しますから、刑事さん」


 レントゲン用のモニターが並ぶ面談室で、若い医師の前に警官ら三人が神妙に着席していた。

「ということなので、彼の意識が回復したらご連絡しますから、それまではそっとしといてもらえませんか。本人に聞けばいいでしょう」

 刑事は頭をがりがりと掻くと、いやあ、と言った。

「聞いたことはあったけどね、あの事件の被害者か。AV 嬢連続リンチ殺、いや、殺されてるのはいなかったっけ、いたっけ」

「内容的にはスナッフビデオに近いですよね、あの社のは」制服の警官が小声で答えた。

「訴え出たのは全体の三分の一とも言われてて、訴え出てない中には命を落としたのもいると言われてるけどね。内容が内容だけに、裁判沙汰になると身内の恥扱いされるから。その三分の二の一人か、あの子が」刑事は煙草を取り出そうとしておっとと呟き、そして鞄にしまった。

「二年前、僕のところにもひとり女優さんが運ばれてきたんですよ。その子はアルコール・薬物系でひどい状態にされてね、急性で危なかった。で、一人、自分よりひどい目にあった子がいるって、とても心配だって言ってたんです。 

 自殺したって噂もあると言っていて、ぼくはその名前と彼女の話した特徴を覚えてたんですよ」医師はカルテをぱらぱらめくりながら語った。

「ああいうのの被害者になるのは、親とのつながりが薄い子か、不幸な家の子が多いんだよね。怪我した彼は、どうも建築士だとかいう話だが、なんでも某代議士の息子さんだとかでね」刑事はメモ帳をペンで叩いた。

「まあ、親の職業はどうでもいいんだけどね。どこで彼女と接点があったんだろう。恋ってのは難儀で唐突なもんだからねえ」

「だいぶ精神的にやられてますよね、彼女。事件からかれこれもう二年ですよね?」若い警官がドアのほうを振り返りながら言った。同じ方向を見ながら医師は答えた。

「あれだけの目に遭えば、トラウマはほとんど一生ものですよ。彼はそばでそれを見続けてきたんでしょうね」

「まあ、当の本人が目覚めて被害届を出さないと主張するなら我々の仕事もそこまでですが」刑事はメモ帳を閉じた。

「長い戦いになるね、あの子も、彼氏も」


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