眺める男
時代は昭和。消費税も携帯電話もない頃のお話です。
ある小さな町に六郎という男が一人で住んでおりました。六郎は見るからに不潔で、髪は伸び放題、髭は生やし放題。それがため、彼が何歳なのか見た目ではわかりません。その上服は一年中黒いTシャツと藍色のジーパン。どちらも薄汚れています。近所の人達も全く付き合いがありません。六郎の方も近所の人と顔を合わせても挨拶もしませんし、町会にも入らず、ゴミも出しません。周囲の人々は六郎がどうやって生活しているのか噂し合いましたが、関わり合いになりたくないので、誰も尋ねたりしないし、彼自身や家に近づく事はありませんでした。
近所の人が六郎の姿を見かけるのは、決まって町の真ん中を通り抜けている片側三車線の幹線道路の舗道です。彼は何をするでもなく、舗道に直に腰を下ろして、行き交う車や自転車や歩行者を眺めていました。中には、薄汚い格好の六郎のいる舗道を通らないようにしている子供や、若い女性達もおり、見かねた町会長が地べたに座っている六郎に意見した事があります。しかし、六郎はその時はヘコヘコして頭を下げるのですが、次の日になると、同じ服、同じ顔、同じ態勢で、同じ場所に座っているのです。小学生達は六郎について、
「あいつは妖怪だ」
という噂をしました。昼間は舗道に座って大人しくしているが、夜になると町を徘徊して、夜道を歩く人を襲って食っているのだと。しかし、実際には、六郎の姿を夜見かけた者はおらず、それは小学生の間だけの「伝説」で止まっていました。
それでも、毎日舗道にベッタリと腰を下ろし、車両の流れをジッと眺めている六郎の奇異な行動は、町会の会合でも取り上げられました。とりわけ婦人部の声が強く、町会長も動かない訳にはいかなくなりました。
そんな中、遂に町の青年団の有志達が、舗道にいる六郎を力ずくで排除しようとしました。すると六郎は涙を流しながら言いました。
「あと三日、あと三日だけ、待ってくれ。そうしたら、この町から出て行くから」
そう言われてしまうと、青年団の有志達もそれ以上の事はできず、三日だけ猶予する事を認め、その場を立ち去りました。あまり強硬な姿勢に出られなかったのは、六郎が何かを仕出かした訳ではないからです。中には、
「何もしていないのに、実力行使はやり過ぎではないか」
という意見もありました。しかし町内の最終的な結論は、「要注意人物」でした。
次の日、六郎はまた舗道に座り、走り去る車や自動二輪、自転車を眺めています。幹線道路沿いの住民達は、遠巻きに六郎の様子を眺めています。もし何か行動を起こしたら、すぐに警察を呼ぶ段取りです。しかし、六郎は朝から晩までそこに座っているだけで、何をする訳でもなく、日が暮れる頃になると家へと帰って行きます。青年団の有志達は、交代で六郎を見張る事にしました。
「三日で出て行くというのは、三日目に何か仕出かすつもりに違いない」
それが有志達の最終意見です。六郎の家の玄関の前、裏木戸の前の二箇所に有志達が陣取り、見張りをしました。ところが、一晩中見張ったのですが、六郎は外に出て来るどころか、自分の部屋からも出ないまま、夜が明けました。そして朝食をすませた様子の六郎が出て来るのを確認して、青年団の有志達はその場を去りました。
六郎はまた幹線道路に行き、いつもの場所に腰を下ろし、道行く車を眺め出します。何も起こりはしないのでは、と言い出す者もいましたが、別の者達は、
「出て行くまでは気を緩めちゃいかん」
と言い、見張りを続ける事を決めました。
六郎は日暮れ時になると立ち上がり、家路に着きます。有志達はそれを遠巻きに見て、彼が家に入ると同時に監視体制が敷かれます。しかし、結局その夜も何事もなく明けました。
六郎はまたいつものように幹線道路に行き、彼が座っているのを見かけてから、誰もそばに寄らなくなった場所に腰を下ろします。ここまで来るとさすがに脱落する者が増えて来ました。すると強硬派の一人が、
「それこそ奴の思う壺だ。気を抜くのは奴が本当にここから出て行ってからだ」
「そこまで付き合いたくないよ」
そういう意見の人々は監視団から次々に抜けて行きました。
「今夜だ。今夜が危ないぞ」
強硬派の人達は今宵こそと鼻息を荒くし、バットや竹刀を手に六郎の家を見張りました。しかし、その夜も何事もなく明けました。六郎は何もしませんでした。
「ご迷惑をおかけしました」
六郎は朝、町会長の家を訪れ、町を出て行く事を告げました。町会長は引きつった顔で彼を送り出しました。
「ようやく町が落ち着く」
町会長からの連絡で、六郎が町を出て行った事を知った住民達は顔を見合わせて溜息を吐きました。
彼らは知りません。その日の午前零時で、ある銀行強盗事件が時効を迎えた事を。