用済み扱いなので薔薇の台木の見立てを置きます。夏に枯れます
「古株は後でよいでしょう。家の者も同じですから」
凍った土が、ユーフェミアの親指の下でかすかに鳴った。仮植えの台木は一本だけ根元が緩く、昨夜の霜で浮いた土を寄せ直しているところだった。
「ですがブレント、カドガンさんの手当は秋から延びています。席のことも——」
「薔薇の注文が入り次第、まとめて整えます。いま現金を外へ出すより、身内に待ってもらうのがよろしい」
背中側で、手控えの頁がめくられた。ウェストコット伯爵家に入って十九年目の朝も、彼女の手当は彼女のいないところで先へ送られたらしい。
ユーフェミアは台木の根元をもう一度押した。親指に返る硬さを確かめ、隣の一本との間を半足だけ広げる。
「カドガンさん」
ベリンダ・ウェストコットの声が近づいた。振り返ると、奥方の隣で家令ブレント・ホークスが手控えを閉じていた。彼の外套には土の一点もない。
「仮植えは何本だ」
「東の畝に四十二、西に三十六でございます。北壁の七本は、午後まで日が当たりませんので別にしております」
「合わせて八十五だな」
「本数は」
ブレントはそこで初めて台木を見た。一本ずつではなく、畝の端から端へ視線を滑らせただけだった。
「午前中に八十五と手控えへ入れておけ。春の接ぎも、その数で組む」
「北壁の七本は根の回りが遅うございます」
「日取りが遅れると商人に説明しにくい。予定を揃えろ」
ベリンダは手袋の指先で襟元を直した。何か言いかけた口は、ブレントが差し出した次の手控えへ移った。
「カドガンさんなら、うまくなさるでしょう。長いことお願いしているもの」
「承知いたしました、奥方様」
ユーフェミアは八十五本のうち、土を深く寄せた一本に小さな木札を立てた。五年目に入るその台木だけは、枝の向きが石垣の風と合わない。春までに半尺ずらすつもりで、札に印を二つ足した。
「それは何の数だ」
「数ではございません。根の向きと、接ぐ枝の高さでございます」
「なら、なおさら手控えには要らん」
ブレントはきびすを返した。ベリンダもその横へ並び、二人の靴音は霜柱を一つも踏まずに館へ戻っていった。
ユーフェミアの親指には黒い土が残った。手袋で拭わず、そのまま次の根元へ伸ばした。
* * *
昼前、ブレントは東の畝を端から歩いた。ユーフェミアが立ててきた見立て札を抜き、片手に重ねていく。
「家令殿、その札は接ぎ手ごとに残してくださいませ。五年目の三本は同じ列でも高さが違います」
「高さは切れば揃う」
「揃えるのは切り口ではなく、芽の——」
「札など要らん。本数だけ書いておけ」
最後の一本から札が抜けた。ブレントは泥のついた束をケルヴィン・パイクへ渡し、納屋の扉に新しい紙を貼らせた。
紙には、東四十二、西三十六、北七とある。その下には接ぐ日と担当の名が、罫線の中へ同じ幅で収まっていた。
「こっちのほうが分かりやすいでしょう、カドガンさん」
ケルヴィンは紙の端を掌で叩いた。剥がれかけた糊が、もう一度扉へ貼りつく。
「太い台へ同じ高さで接げば、数は揃いますよ。俺たちだって刃は扱えます」
「本数でしたら、合っております」
「でしょう?」
「五年目のことは、札をお抜きになりましたので」
ケルヴィンの掌が紙の上で止まった。ブレントは聞こえなかった顔で、貼り出した日取りを商人に見せた。
「今年からは誰が見ても回せます。ひとりの勘に頼る庭では、先々困りますからな」
商人は返事をせず、紙とユーフェミアの手元を見比べた。彼女は抜かれた札の束から、自分の文字があるものを一本ずつ拾い上げた。
「それも捨てておけ」
「承知いたしました」
泥を払い、札を木箱へ寝かせる。捨てる箱ではなく、十九年ぶんの控えを置いてある机の脇だった。
ブレントは午後の作業席から彼女の名を外した。若い衆へ手順を覚えさせるためだと言い、ユーフェミアには立ったまま補助をするよう命じた。
「手当と席の件は、注文が片づいてからだ。それまでは今までどおり頼む」
ユーフェミアは麻ひもの束を取り上げた。端を引き、毛羽立った一本だけを除ける。
「わたくしは、身内も同然でございますから」
「そういうことだ。話が早い」
ブレントは商人へ笑い、ケルヴィンは新しい席に腰を下ろした。ユーフェミアは木箱から接ぎ刃を取り、今日使う四本だけを白布の上へ並べた。
* * *
刃先が枝へ入りすぎるたび、ユーフェミアはケルヴィンの手首を二本の指で戻した。注意は一度きりにし、二度目からは傷んだ切り口を黙って切り直す。
「もっと早くできますよ」
「その台は急がせると皮が裂けます」
「どれも同じ太さだ」
「では、次はお任せいたします」
ケルヴィンが押し込んだ刃は、途中で木質へ噛んだ。力を入れ直す前にユーフェミアが柄を受け取り、角度だけを変えて抜く。刃には細い欠けもなかった。
日が傾くまでに、貼り出された本数は揃った。ユーフェミアは余った麻ひもを太さごとに巻き直し、刃の樹液を湯で湿らせた布で拭った。
納屋の隅には、朝の豆のスープが残っていた。表面に薄い膜が張っていたが、椅子は若い衆が道具台に使っている。
「カドガンさん、もう冷めていますよ」
「こぼれませんので、仕事着には具合がようございます」
椀を両手で持ち、戸口に立ったまま飲んだ。豆は底へ沈み、最後のひと口だけが濃かった。
空になった椀を洗うと、ユーフェミアは近隣三軒へ短い紙を出した。来週は雨が入るから、南斜面の台木だけ搬入を二日遅らせてほしい。それ以外は書かなかった。
「伯爵家の分も延ばすのか」
「いいえ。家令殿の日取りどおりでございます」
「なら、三軒に何を言う必要がある」
「先方の畝には、雨を逃がす石がございませんので」
ブレントは手控えの数字を指でなぞった。三軒ぶんの紙には触れず、伯爵家の搬入日に丸をつける。
夕刻、サルヴァトーレ・バロウズが荷車で麻袋を届けた。四十年台木を運んできた老人は、一本だけ残った仮植え場を見てから、ユーフェミアの靴についた土を見た。
「来年は何本だ」
「わたくしからは、お願いいたしません」
「そうか」
「今年の北壁の七本は、袋を分けてくださいませ。若い衆にも見分けがつきます」
サルヴァトーレは手綱を握り直した。ブレントが納屋から出てくると、いつもの納品書だけを渡す。
「来年分は改めてこちらから注文する。もっと本数を増やす予定だ」
「注文を聞いてから決める」
「台木は売り物だろう」
「土も見ずに数を決めるほど、若くないんでね」
荷車が門を出るまで、ユーフェミアは見送らなかった。接ぎ刃を四本とも拭き、一本ずつ鞘へ戻した。
最後に机へ向かい、十九年目の頁へ日付を入れた。いつもなら翌朝の欄へ天気を書き足すところで、ペン先を止めた。
* * *
翌朝、ユーフェミアは十九冊の控えを机の中央へ積んだ。最初の冊子は糸が緩み、いちばん上の冊子には昨日の日付までしかない。
接ぎ刃を白布で拭き、棚の二段目へ戻した。鞘の向きを他の刃と揃え、布は洗い桶の縁へかける。
「何をしている」
戸口に立ったブレントが、控えの山へ眉を寄せた。ユーフェミアは机の鍵をその横へ置く。
「昨日までの務めは終えております。本日限りで、お暇をいただきます」
「急に何を言う。春の接ぎが始まる」
「本数と日取りは扉にございます。控えも、こちらへ」
「手当のことなら、注文の入金を待てと言っただろう。古株が忙しい時期に抜けてどうする」
ユーフェミアは棚の戸を閉めた。鍵穴へ親指を当て、油が回っていることを確かめる。
「奥方様にも話していないのか」
「ただいま、ご挨拶に参ります」
「そんな勝手が通ると思うな。十九年も置いてやった家だぞ」
机の端に、泥を落とした見立て札が束ねてあった。ブレントはそれを取り上げ、控えの上へ投げる。
「これだけ残っていれば誰でもできる。困るのはおまえのほうだ。外で庭師の女ひとりを雇う家が、いくつある」
「お言葉は、控えておきます」
ユーフェミアは納屋を出た。ベリンダは朝食の卓についたばかりで、辞意を聞くとナイフを皿へ置いた。
「せめて春まで、とは頼めないかしら」
「昨日の分まで、すべて揃えてございます」
「ブレントは手当を整えると言っていたわ。わたくし、任せてしまっていて」
「奥方様のお庭でございます」
ベリンダの手が卓布の折り目を押した。引き止める言葉は続かず、ユーフェミアは一礼して庭へ戻った。
門へ向かう途中、五年目へ入る一本が仮植えの列に残っていた。石垣から落ちた霜の雫が、細い幹の片側だけを濡らしている。
いつもなら、根元へ親指が伸びた。土の締まりを見て、半尺ずらすか決めるところだった。
指は外套の脇で止まった。
「わたくしはこの一本を、十九年、わたくしの薔薇だと思うて仕立てておりました」
背後でブレントが息を吐いた。返事を待たず、ユーフェミアは門の外へ出た。
靴底の土は道へ二歩ぶん落ち、三歩目からつかなかった。
* * *
翌月も、ウェストコット伯爵家から使いは来なかった。冬のあいだ注文書は例年どおり届き、貼り出された本数と日取りに沿って、若い衆が枝を切った。
ケルヴィンは十九年ぶんの控えを開いた。根の浅い株、石の多い畝、午後に陰る列まで文字にはなっていたが、目の前の一本をどの記述へ合わせるかは、頁をめくっても出てこない。
「太いのは北、細いのは東でいいだろ」
彼は札を挿し直した。去年抜かれた場所とは、二列ずれていた。
春になると、ユーフェミアが三年前に接いだ株がいっせいに花をつけた。淡い花弁が石垣を覆い、商人たちは例年と同じように門をくぐった。
「見事なものですな、家令殿」
「日取りと本数を整理した成果です。古いやり方を改めるには、多少の騒ぎがつきものですが」
ブレントは花枝を一本持ち上げ、ケルヴィンの肩を叩いた。若い衆の刃使いも、冬より速くなっている。
「ほら、何も変わらん」
声は、ユーフェミアが立っていた納屋の戸口までよく通った。
(薔薇なんぞ、買えば増える——)
商人のひとりが見立て札を探した。代わりに貼り出された紙を読み、注文数を去年と同じ欄へ書く。
そのころユーフェミアは、修道院の裏手で園芸講の女衆に刃の研ぎ方を教えていた。一本の枝を前に、誰の手が速いかではなく、どこで刃を止めたかだけを見た。
「先生、これなら花がつきますか」
「今年は枝を育ててくださいませ」
「では花は来年?」
「根が決めます」
女衆は揃って足元を見た。ユーフェミアの親指は、鉢の縁から少し出た根を土へ戻した。
伯爵家の春の花について、彼女に尋ねる者はいなかった。
* * *
夏の初め、ウェストコット伯爵家から未払いの手当が届くことになった。受領の署名だけは本人に求めると使いが告げ、ユーフェミアは久方ぶりに門をくぐった。
薔薇園の入口で、一本の葉が裏返っていた。虫食いではない。幹を支える土だけが黒く沈み、根元から細い皮が浮いている。
ユーフェミアの親指は動かなかった。受領に来ただけである。
「カドガンさん」
ベリンダが勘定部屋から出てきた。封をした手当の袋を、自分の両手で差し出す。
「秋から滞っていた分を計算させました。ここで改めてくださる?」
ユーフェミアは中身を数え、受領書へ署名した。袋を鞄へ入れるあいだ、ベリンダは庭へ目を向けたまま待った。
奥の畝でも葉が伏せていた。同じ日、同じ高さへ接いだ株が、入口の一本から列を追うように根元を黒くしている。
「控えには北壁へ入れたとある!」
納屋からケルヴィンの声がした。ブレントは冊子を抱え、貼り出した紙と畝を往復している。
「七本と書いてあるだろう。七本を分けたのは誰だ」
「袋には印がありましたよ。太いほうを北へ回せと家令殿が」
「おまえが選んだんだ!」
商人が一人、注文書を持ったまま門の外へ下がった。紙を折らず、白い面を表へ向けたまま鞄へ戻す。
サルヴァトーレの荷車も、門前で止まった。積まれている台木は布をかけたままで、一本も下ろされない。
「遅かったな。すぐ入れてくれ」
ブレントが納品書を求めて手を出した。老人は手綱を膝へ置き、その手を見た。
「今年の台は向きません」
「注文どおりの太さで頼んだ。代金も払う」
「この庭には向かん」
「去年までは売っていたではないか」
「去年まで受け取っていた人は、どこだ」
ブレントの手が宙に残った。サルヴァトーレは荷車の向きを変え、台木を門の中へ一本も入れずに去った。
秋の贈り花を扱う商人からは、その場で注文を見送ると言い渡された。別の商人も同じ紙を鞄へ戻し、誰も次の納期を尋ねなかった。
「あの家は台が抜けた」
門外の短い声に、ブレントが振り返った。呼び止めても、商人たちの靴は止まらない。
ベリンダは枯れ始めた畝の前へ立った。弁明はせず、最初の注文先、次の仕立て先、その次の商人の名を手帳へ書き、自分で馬車を出すよう命じた。
「奥方様、まず植え替えの手配を。カドガンに控えを読ませれば——」
「ホークス」
ベリンダが手を差し出した。ブレントは抱えていた冊子を渡そうとしたが、彼女の手は動かない。
「鍵です」
「いま私を外せば、誰がこの損失をまとめるのです」
「わたくしが詫びます。あなたは鍵を」
ブレントの腰から鍵束が外された。金具が一度鳴り、ベリンダの掌へ落ちる。
彼女はユーフェミアを見たが、庭へ入ってほしいとは言わなかった。ユーフェミアも枯れた根元へ近づかず、手当の入った鞄を持って門を出た。
* * *
門の外では、サルヴァトーレの荷車が道端に待っていた。荷台の布をめくると、乾いた根を包んだ台木が十数本並んでいる。
「修道院へ運ぶところだ」
「園芸講なら、今日はございませんが」
「講義の台じゃない。畝の台だ」
老人は御者台へ上がるよう顎を動かした。ユーフェミアは荷台の根を一本ずつ見てから、隣へ座った。
修道院の裏には、女衆が古い菜園を掘り返して待っていた。石を除いた細長い畝が二列あり、その端に近隣三軒の者が立っている。
「雨の週をずらせと言われた三軒です」
一人が注文書を差し出した。家名ではなく、ユーフェミア・カドガンの名が受取人の欄に書かれている。
「こちらは春の分を十二本。向こうは八本。修道院の畝を借りる代金と、カドガンさんの見立て料は別にしました」
「まだ、何を植えるかも決めておりません」
「だから先に頼みに来たんですよ」
三軒の者は注文書を畝の縁へ並べた。サルヴァトーレは荷台から一本を持ち上げ、ユーフェミアの前へ立てる。
「おれたちはあの家へ売っていたんじゃない。あんたの目へ売っていたんだ」
台木の根元へ、ユーフェミアの親指が伸びた。すぐには押さず、畝の石と午後の日陰を見てから半歩右へ移す。
「ここでは根が片寄ります。もう一尺、井戸から離してくださいませ」
「ほら、始まった」
女衆が鍬を持ち直した。別の一人が注文書を土で汚さないよう拾い上げる。
秋の終わり、ブレントが修道院を訪ねてきた。鍵束はなく、磨いていた靴の片方だけに道の泥が跳ねている。
「カドガン、話がある」
「こちらで承ります、家令殿」
「もう家令ではない」
ユーフェミアは返事をせず、植えたばかりの台木へ麻布を巻いた。ブレントは畝へ入ろうとし、女衆が置いた籠を避けて足を止める。
「奥方様も困っておられる。春まででいい、戻って控えを読み、若い衆へ選び方を教えてくれ」
「控えは机へ置いてまいりました」
「文字だけでは分からんのだ。おまえなら立て直せる。十九年いた家だろう」
ユーフェミアは麻布の端を結び、余分を切った。刃を鞘へ戻してから、ブレントを見る。
「わたくしは、身内も同然でございますから」
「なら——」
「お代をいただく皆様を、先へは送れません」
ブレントの口が閉じた。三軒ぶんの注文書が作業台に並び、どれにも見立て料の欄がある。
「伯爵家の名がなくて、いつまで続くと思っている」
「最初の花がつくまでは続けてもらわないと困るわ」
女衆の一人が、土のついた鍬を肩へ担いだ。もう一人はブレントのぶんを空けず、畝へ続く道に苗籠を並べた。
ユーフェミアは次の台木へ向き直った。背後の足音は、畝へ入らず遠ざかった。
春、最初の一本に新しい芽が出た。ユーフェミアは根元を親指で押し、土の返りを確かめる。
園芸講の女衆は畝の脇へ車座になり、豆のスープの椀を一つ多く並べていた。湯気が朝の光を細く曲げる。
「最初の花は礼拝堂でしょう」
「食堂です。冬じゅう豆を選ったのは誰だと思っているの」
「先生の卓という手もあるわ」
「先生の卓は畝ですもの。飾ってもご本人が座らないでしょうよ」
ユーフェミアは空いた場所へ腰を下ろした。渡された椀を両手で包むと、指先の土が湯気で湿った。
「スープが冷めませんね。座っていただく朝というのは、ずいぶん忙しいものです」
女衆が笑い、最初の花の行き先をまた取り合った。ユーフェミアは椀を置かず、温かいうちに豆をひと口すくった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




