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次の季節に、お宅の品が崩れます

用済み扱いなので薔薇の台木の見立てを置きます。夏に枯れます

作者: 久瀬 澪
掲載日:2026/08/16

「古株は後でよいでしょう。家の者も同じですから」


 凍った土が、ユーフェミアの親指の下でかすかに鳴った。仮植えの台木は一本だけ根元が緩く、昨夜の霜で浮いた土を寄せ直しているところだった。


「ですがブレント、カドガンさんの手当は秋から延びています。席のことも——」


「薔薇の注文が入り次第、まとめて整えます。いま現金を外へ出すより、身内に待ってもらうのがよろしい」


 背中側で、手控えの頁がめくられた。ウェストコット伯爵家に入って十九年目の朝も、彼女の手当は彼女のいないところで先へ送られたらしい。


 ユーフェミアは台木の根元をもう一度押した。親指に返る硬さを確かめ、隣の一本との間を半足だけ広げる。


「カドガンさん」


 ベリンダ・ウェストコットの声が近づいた。振り返ると、奥方の隣で家令ブレント・ホークスが手控えを閉じていた。彼の外套には土の一点もない。


「仮植えは何本だ」


「東の畝に四十二、西に三十六でございます。北壁の七本は、午後まで日が当たりませんので別にしております」


「合わせて八十五だな」


「本数は」


 ブレントはそこで初めて台木を見た。一本ずつではなく、畝の端から端へ視線を滑らせただけだった。


「午前中に八十五と手控えへ入れておけ。春の接ぎも、その数で組む」


「北壁の七本は根の回りが遅うございます」


「日取りが遅れると商人に説明しにくい。予定を揃えろ」


 ベリンダは手袋の指先で襟元を直した。何か言いかけた口は、ブレントが差し出した次の手控えへ移った。


「カドガンさんなら、うまくなさるでしょう。長いことお願いしているもの」


「承知いたしました、奥方様」


 ユーフェミアは八十五本のうち、土を深く寄せた一本に小さな木札を立てた。五年目に入るその台木だけは、枝の向きが石垣の風と合わない。春までに半尺ずらすつもりで、札に印を二つ足した。


「それは何の数だ」


「数ではございません。根の向きと、接ぐ枝の高さでございます」


「なら、なおさら手控えには要らん」


 ブレントはきびすを返した。ベリンダもその横へ並び、二人の靴音は霜柱を一つも踏まずに館へ戻っていった。


 ユーフェミアの親指には黒い土が残った。手袋で拭わず、そのまま次の根元へ伸ばした。


    *    *    *


 昼前、ブレントは東の畝を端から歩いた。ユーフェミアが立ててきた見立て札を抜き、片手に重ねていく。


「家令殿、その札は接ぎ手ごとに残してくださいませ。五年目の三本は同じ列でも高さが違います」


「高さは切れば揃う」


「揃えるのは切り口ではなく、芽の——」


「札など要らん。本数だけ書いておけ」


 最後の一本から札が抜けた。ブレントは泥のついた束をケルヴィン・パイクへ渡し、納屋の扉に新しい紙を貼らせた。


 紙には、東四十二、西三十六、北七とある。その下には接ぐ日と担当の名が、罫線の中へ同じ幅で収まっていた。


「こっちのほうが分かりやすいでしょう、カドガンさん」


 ケルヴィンは紙の端を掌で叩いた。剥がれかけた糊が、もう一度扉へ貼りつく。


「太い台へ同じ高さで接げば、数は揃いますよ。俺たちだって刃は扱えます」


「本数でしたら、合っております」


「でしょう?」


「五年目のことは、札をお抜きになりましたので」


 ケルヴィンの掌が紙の上で止まった。ブレントは聞こえなかった顔で、貼り出した日取りを商人に見せた。


「今年からは誰が見ても回せます。ひとりの勘に頼る庭では、先々困りますからな」


 商人は返事をせず、紙とユーフェミアの手元を見比べた。彼女は抜かれた札の束から、自分の文字があるものを一本ずつ拾い上げた。


「それも捨てておけ」


「承知いたしました」


 泥を払い、札を木箱へ寝かせる。捨てる箱ではなく、十九年ぶんの控えを置いてある机の脇だった。


 ブレントは午後の作業席から彼女の名を外した。若い衆へ手順を覚えさせるためだと言い、ユーフェミアには立ったまま補助をするよう命じた。


「手当と席の件は、注文が片づいてからだ。それまでは今までどおり頼む」


 ユーフェミアは麻ひもの束を取り上げた。端を引き、毛羽立った一本だけを除ける。


「わたくしは、身内も同然でございますから」


「そういうことだ。話が早い」


 ブレントは商人へ笑い、ケルヴィンは新しい席に腰を下ろした。ユーフェミアは木箱から接ぎ刃を取り、今日使う四本だけを白布の上へ並べた。


    *    *    *


 刃先が枝へ入りすぎるたび、ユーフェミアはケルヴィンの手首を二本の指で戻した。注意は一度きりにし、二度目からは傷んだ切り口を黙って切り直す。


「もっと早くできますよ」


「その台は急がせると皮が裂けます」


「どれも同じ太さだ」


「では、次はお任せいたします」


 ケルヴィンが押し込んだ刃は、途中で木質へ噛んだ。力を入れ直す前にユーフェミアが柄を受け取り、角度だけを変えて抜く。刃には細い欠けもなかった。


 日が傾くまでに、貼り出された本数は揃った。ユーフェミアは余った麻ひもを太さごとに巻き直し、刃の樹液を湯で湿らせた布で拭った。


 納屋の隅には、朝の豆のスープが残っていた。表面に薄い膜が張っていたが、椅子は若い衆が道具台に使っている。


「カドガンさん、もう冷めていますよ」


「こぼれませんので、仕事着には具合がようございます」


 椀を両手で持ち、戸口に立ったまま飲んだ。豆は底へ沈み、最後のひと口だけが濃かった。


 空になった椀を洗うと、ユーフェミアは近隣三軒へ短い紙を出した。来週は雨が入るから、南斜面の台木だけ搬入を二日遅らせてほしい。それ以外は書かなかった。


「伯爵家の分も延ばすのか」


「いいえ。家令殿の日取りどおりでございます」


「なら、三軒に何を言う必要がある」


「先方の畝には、雨を逃がす石がございませんので」


 ブレントは手控えの数字を指でなぞった。三軒ぶんの紙には触れず、伯爵家の搬入日に丸をつける。


 夕刻、サルヴァトーレ・バロウズが荷車で麻袋を届けた。四十年台木を運んできた老人は、一本だけ残った仮植え場を見てから、ユーフェミアの靴についた土を見た。


「来年は何本だ」


「わたくしからは、お願いいたしません」


「そうか」


「今年の北壁の七本は、袋を分けてくださいませ。若い衆にも見分けがつきます」


 サルヴァトーレは手綱を握り直した。ブレントが納屋から出てくると、いつもの納品書だけを渡す。


「来年分は改めてこちらから注文する。もっと本数を増やす予定だ」


「注文を聞いてから決める」


「台木は売り物だろう」


「土も見ずに数を決めるほど、若くないんでね」


 荷車が門を出るまで、ユーフェミアは見送らなかった。接ぎ刃を四本とも拭き、一本ずつ鞘へ戻した。


 最後に机へ向かい、十九年目の頁へ日付を入れた。いつもなら翌朝の欄へ天気を書き足すところで、ペン先を止めた。


    *    *    *


 翌朝、ユーフェミアは十九冊の控えを机の中央へ積んだ。最初の冊子は糸が緩み、いちばん上の冊子には昨日の日付までしかない。


 接ぎ刃を白布で拭き、棚の二段目へ戻した。鞘の向きを他の刃と揃え、布は洗い桶の縁へかける。


「何をしている」


 戸口に立ったブレントが、控えの山へ眉を寄せた。ユーフェミアは机の鍵をその横へ置く。


「昨日までの務めは終えております。本日限りで、お暇をいただきます」


「急に何を言う。春の接ぎが始まる」


「本数と日取りは扉にございます。控えも、こちらへ」


「手当のことなら、注文の入金を待てと言っただろう。古株が忙しい時期に抜けてどうする」


 ユーフェミアは棚の戸を閉めた。鍵穴へ親指を当て、油が回っていることを確かめる。


「奥方様にも話していないのか」


「ただいま、ご挨拶に参ります」


「そんな勝手が通ると思うな。十九年も置いてやった家だぞ」


 机の端に、泥を落とした見立て札が束ねてあった。ブレントはそれを取り上げ、控えの上へ投げる。


「これだけ残っていれば誰でもできる。困るのはおまえのほうだ。外で庭師の女ひとりを雇う家が、いくつある」


「お言葉は、控えておきます」


 ユーフェミアは納屋を出た。ベリンダは朝食の卓についたばかりで、辞意を聞くとナイフを皿へ置いた。


「せめて春まで、とは頼めないかしら」


「昨日の分まで、すべて揃えてございます」


「ブレントは手当を整えると言っていたわ。わたくし、任せてしまっていて」


「奥方様のお庭でございます」


 ベリンダの手が卓布の折り目を押した。引き止める言葉は続かず、ユーフェミアは一礼して庭へ戻った。


 門へ向かう途中、五年目へ入る一本が仮植えの列に残っていた。石垣から落ちた霜の雫が、細い幹の片側だけを濡らしている。


 いつもなら、根元へ親指が伸びた。土の締まりを見て、半尺ずらすか決めるところだった。


 指は外套の脇で止まった。


「わたくしはこの一本を、十九年、わたくしの薔薇だと思うて仕立てておりました」


 背後でブレントが息を吐いた。返事を待たず、ユーフェミアは門の外へ出た。


 靴底の土は道へ二歩ぶん落ち、三歩目からつかなかった。


    *    *    *


 翌月も、ウェストコット伯爵家から使いは来なかった。冬のあいだ注文書は例年どおり届き、貼り出された本数と日取りに沿って、若い衆が枝を切った。


 ケルヴィンは十九年ぶんの控えを開いた。根の浅い株、石の多い畝、午後に陰る列まで文字にはなっていたが、目の前の一本をどの記述へ合わせるかは、頁をめくっても出てこない。


「太いのは北、細いのは東でいいだろ」


 彼は札を挿し直した。去年抜かれた場所とは、二列ずれていた。


 春になると、ユーフェミアが三年前に接いだ株がいっせいに花をつけた。淡い花弁が石垣を覆い、商人たちは例年と同じように門をくぐった。


「見事なものですな、家令殿」


「日取りと本数を整理した成果です。古いやり方を改めるには、多少の騒ぎがつきものですが」


 ブレントは花枝を一本持ち上げ、ケルヴィンの肩を叩いた。若い衆の刃使いも、冬より速くなっている。


「ほら、何も変わらん」


 声は、ユーフェミアが立っていた納屋の戸口までよく通った。


(薔薇なんぞ、買えば増える——)


 商人のひとりが見立て札を探した。代わりに貼り出された紙を読み、注文数を去年と同じ欄へ書く。


 そのころユーフェミアは、修道院の裏手で園芸講の女衆に刃の研ぎ方を教えていた。一本の枝を前に、誰の手が速いかではなく、どこで刃を止めたかだけを見た。


「先生、これなら花がつきますか」


「今年は枝を育ててくださいませ」


「では花は来年?」


「根が決めます」


 女衆は揃って足元を見た。ユーフェミアの親指は、鉢の縁から少し出た根を土へ戻した。


 伯爵家の春の花について、彼女に尋ねる者はいなかった。


    *    *    *


 夏の初め、ウェストコット伯爵家から未払いの手当が届くことになった。受領の署名だけは本人に求めると使いが告げ、ユーフェミアは久方ぶりに門をくぐった。


 薔薇園の入口で、一本の葉が裏返っていた。虫食いではない。幹を支える土だけが黒く沈み、根元から細い皮が浮いている。


 ユーフェミアの親指は動かなかった。受領に来ただけである。


「カドガンさん」


 ベリンダが勘定部屋から出てきた。封をした手当の袋を、自分の両手で差し出す。


「秋から滞っていた分を計算させました。ここで改めてくださる?」


 ユーフェミアは中身を数え、受領書へ署名した。袋を鞄へ入れるあいだ、ベリンダは庭へ目を向けたまま待った。


 奥の畝でも葉が伏せていた。同じ日、同じ高さへ接いだ株が、入口の一本から列を追うように根元を黒くしている。


「控えには北壁へ入れたとある!」


 納屋からケルヴィンの声がした。ブレントは冊子を抱え、貼り出した紙と畝を往復している。


「七本と書いてあるだろう。七本を分けたのは誰だ」


「袋には印がありましたよ。太いほうを北へ回せと家令殿が」


「おまえが選んだんだ!」


 商人が一人、注文書を持ったまま門の外へ下がった。紙を折らず、白い面を表へ向けたまま鞄へ戻す。


 サルヴァトーレの荷車も、門前で止まった。積まれている台木は布をかけたままで、一本も下ろされない。


「遅かったな。すぐ入れてくれ」


 ブレントが納品書を求めて手を出した。老人は手綱を膝へ置き、その手を見た。


「今年の台は向きません」


「注文どおりの太さで頼んだ。代金も払う」


「この庭には向かん」


「去年までは売っていたではないか」


「去年まで受け取っていた人は、どこだ」


 ブレントの手が宙に残った。サルヴァトーレは荷車の向きを変え、台木を門の中へ一本も入れずに去った。


 秋の贈り花を扱う商人からは、その場で注文を見送ると言い渡された。別の商人も同じ紙を鞄へ戻し、誰も次の納期を尋ねなかった。


「あの家は台が抜けた」


 門外の短い声に、ブレントが振り返った。呼び止めても、商人たちの靴は止まらない。


 ベリンダは枯れ始めた畝の前へ立った。弁明はせず、最初の注文先、次の仕立て先、その次の商人の名を手帳へ書き、自分で馬車を出すよう命じた。


「奥方様、まず植え替えの手配を。カドガンに控えを読ませれば——」


「ホークス」


 ベリンダが手を差し出した。ブレントは抱えていた冊子を渡そうとしたが、彼女の手は動かない。


「鍵です」


「いま私を外せば、誰がこの損失をまとめるのです」


「わたくしが詫びます。あなたは鍵を」


 ブレントの腰から鍵束が外された。金具が一度鳴り、ベリンダの掌へ落ちる。


 彼女はユーフェミアを見たが、庭へ入ってほしいとは言わなかった。ユーフェミアも枯れた根元へ近づかず、手当の入った鞄を持って門を出た。


    *    *    *


 門の外では、サルヴァトーレの荷車が道端に待っていた。荷台の布をめくると、乾いた根を包んだ台木が十数本並んでいる。


「修道院へ運ぶところだ」


「園芸講なら、今日はございませんが」


「講義の台じゃない。畝の台だ」


 老人は御者台へ上がるよう顎を動かした。ユーフェミアは荷台の根を一本ずつ見てから、隣へ座った。


 修道院の裏には、女衆が古い菜園を掘り返して待っていた。石を除いた細長い畝が二列あり、その端に近隣三軒の者が立っている。


「雨の週をずらせと言われた三軒です」


 一人が注文書を差し出した。家名ではなく、ユーフェミア・カドガンの名が受取人の欄に書かれている。


「こちらは春の分を十二本。向こうは八本。修道院の畝を借りる代金と、カドガンさんの見立て料は別にしました」


「まだ、何を植えるかも決めておりません」


「だから先に頼みに来たんですよ」


 三軒の者は注文書を畝の縁へ並べた。サルヴァトーレは荷台から一本を持ち上げ、ユーフェミアの前へ立てる。


「おれたちはあの家へ売っていたんじゃない。あんたの目へ売っていたんだ」


 台木の根元へ、ユーフェミアの親指が伸びた。すぐには押さず、畝の石と午後の日陰を見てから半歩右へ移す。


「ここでは根が片寄ります。もう一尺、井戸から離してくださいませ」


「ほら、始まった」


 女衆が鍬を持ち直した。別の一人が注文書を土で汚さないよう拾い上げる。


 秋の終わり、ブレントが修道院を訪ねてきた。鍵束はなく、磨いていた靴の片方だけに道の泥が跳ねている。


「カドガン、話がある」


「こちらで承ります、家令殿」


「もう家令ではない」


 ユーフェミアは返事をせず、植えたばかりの台木へ麻布を巻いた。ブレントは畝へ入ろうとし、女衆が置いた籠を避けて足を止める。


「奥方様も困っておられる。春まででいい、戻って控えを読み、若い衆へ選び方を教えてくれ」


「控えは机へ置いてまいりました」


「文字だけでは分からんのだ。おまえなら立て直せる。十九年いた家だろう」


 ユーフェミアは麻布の端を結び、余分を切った。刃を鞘へ戻してから、ブレントを見る。


「わたくしは、身内も同然でございますから」


「なら——」


「お代をいただく皆様を、先へは送れません」


 ブレントの口が閉じた。三軒ぶんの注文書が作業台に並び、どれにも見立て料の欄がある。


「伯爵家の名がなくて、いつまで続くと思っている」


「最初の花がつくまでは続けてもらわないと困るわ」


 女衆の一人が、土のついた鍬を肩へ担いだ。もう一人はブレントのぶんを空けず、畝へ続く道に苗籠を並べた。


 ユーフェミアは次の台木へ向き直った。背後の足音は、畝へ入らず遠ざかった。


 春、最初の一本に新しい芽が出た。ユーフェミアは根元を親指で押し、土の返りを確かめる。


 園芸講の女衆は畝の脇へ車座になり、豆のスープの椀を一つ多く並べていた。湯気が朝の光を細く曲げる。


「最初の花は礼拝堂でしょう」


「食堂です。冬じゅう豆を選ったのは誰だと思っているの」


「先生の卓という手もあるわ」


「先生の卓は畝ですもの。飾ってもご本人が座らないでしょうよ」


 ユーフェミアは空いた場所へ腰を下ろした。渡された椀を両手で包むと、指先の土が湯気で湿った。


「スープが冷めませんね。座っていただく朝というのは、ずいぶん忙しいものです」


 女衆が笑い、最初の花の行き先をまた取り合った。ユーフェミアは椀を置かず、温かいうちに豆をひと口すくった。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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