第1話 地味な虫刺繍女、婚約破棄される
「婚約破棄だ、リディア」
シャンデリアの光が降り注ぐ大広間に、その一言だけが冷たく落ちた。
拍手も、ため息も、同情の視線すらもそこにはない。ただ、遠巻きに私を見る貴族たちの、退屈しのぎの好奇心だけがあった。
私、リディア・アーレンスは、目の前に立つ婚約者――いいえ、もう元婚約者となったグレアム・ヴァイクリフ公子を、静かに見上げた。
「理由をお伺いしても?」
「わかりきったことを聞くな」グレアムは苦笑した。「お前には、何もないだろう。魔力もない、社交も苦手、趣味は薄暗い部屋にこもっての刺繍だけ。……セシルを見ろ。彼女には光属性の癒しの力がある。国のために尽くせる女性だ。お前とは違う」
彼の隣には、目に涙を浮かべた治癒師の少女、セシルが寄り添っていた。「リディア様……ごめんなさい、こんなつもりじゃ……」
謝りながらも、彼女はグレアムの腕を離さなかった。
会場の隅から、忍び笑いが聞こえる。
「刺繍しか能がない令嬢ですって」
「陰気な女よね。よくあれで公爵家に釣り合うと思っていたこと」
嘲笑の輪が、さざなみのように広がっていく。
――ああ、そう。
私は、静かに納得していた。悔しさよりも先に浮かんだのは、拍子抜けするほどの平静さだった。
彼らは知らない。私の刺繍が、ただの手慰みではないことを。
母から受け継いだ、あの技術のことを。
私は懐に忍ばせた小さな針箱に、そっと指先で触れた。祖母から母へ、母から私へと渡された、古い銀の針。その一針は、ただの糸を通す道具ではない。魔力を編み込み、術式を紡ぎ、この世のどんな盾よりも強固な結界を布に宿す――〈結界刺繍〉。今ではもう、誰も名前すら知らない失われた古代技術だ。
けれど、それを証明する気は、今はなかった。
証明したところで、この場の誰も、私の言葉に耳を貸しはしないだろうから。
「承知いたしました」
私は深く一礼した。乱れのない、令嬢としての最後の礼儀だった。
「どうぞ、お二人でお幸せに」
会場がわずかにざわついた。泣き崩れるとでも思っていたのだろうか。生憎、涙はとうに涸れている。
その夜のうちに、私は最低限の荷物をまとめた。年老いた侍女のマーサだけが、涙を堪えながら見送ってくれた。
「お嬢様……本当に、辺境の領地に行かれるのですか。何もない土地ですのに」
「何もないから、いいのよ」
私は小さく笑って、針箱を膝の上に抱えたまま馬車に乗り込んだ。
窓の外を、見慣れた王都の灯りが遠ざかっていく。
誰にも必要とされない女。誰の目にも留まらない、地味な刺繍しか能がない女。
――それでいい。私は、私の針で生きていく。
馬車ががたりと揺れ、王都を囲む外壁の門にさしかかった時だった。
「そこの馬車、止まりなさい」
低く、鋭い声が夜気を裂いた。
御者が慌てて手綱を引く。窓の外に、黒い外套を纏った長身の人影が立っていた。腰には見覚えのある紋章――王家直属、近衛騎士団の剣。
「な、何のご用でしょうか」
私が窓を開けると、その人物は外套のフードを上げた。鋭い目が、まっすぐに私を射抜く。
「あなたが、リディア・アーレンス嬢で間違いありませんね」
「はい……」
彼は懐から、ぼろぼろに擦り切れた一枚の外套を取り出した。ところどころ焦げ、裂け、それでも辛うじて原形を保っているその布地には――見覚えのある、銀糸の紋様が縫い込まれていた。
心臓が、跳ねた。
それは、五年前、まだ幼かった頃の私が、母に教わりながら初めて完成させた結界刺繍だった。行き倒れていた旅の商人に、憐れんで譲った、たった一枚の古い外套。
「これは……」
「三年前、王太子殿下の暗殺未遂事件をご存知ですか」
騎士の声が、静かに震えていた。
「この外套の持ち主だった行商人が、とっさに殿下へこれを着せかけたのです。刃は、殿下の身体に届く寸前で、まるで見えない壁に阻まれたかのように弾かれた。……我々は三年間、この結界術式の作り手を探し続けていました。国中の魔導士に鑑定させても、誰一人再現できなかった。存在しないはずの、失われた古代の術式だと」
彼は、外套を捧げ持ったまま、雪のように白い月明かりの下、静かに片膝をついた。
「ようやく見つけました。あなたが――あの伝説の〈結界刺繍士〉ですね」
会場でのどんな嘲笑よりも、今この瞬間の沈黙の方が、よほど雄弁だった。
私を「何もない女」と切り捨てた、あの人たちは知らない。
王国の近衛騎士が、こうして跪いている事実を。
私は、震える声を抑えながら、静かに口を開いた。
「――はい。それは、私が縫ったものです」
月明かりの下、物語の風向きが、今、静かに変わり始めた。




