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婚約破棄と癒しの庭

アメリは、自分の生涯において、今日という日より酷い日はないのでないだろうか、と思った。なぜなら、アメリは本日、幼少の頃からの婚約者に婚約破棄されたからだ。


子爵令嬢のアメリと、伯爵家の子息であるトーマスは、親同士が友人同士であり、本人たちの相性も悪くないという理由で婚約していた。トーマスには兄が二人いて、いずれどこかの家に婿入りすることが望ましいこともあり、子爵家の跡取り娘であるアメリとは、利害関係も一致していた。

なによりアメリは、幼い頃からずっと、トーマスのことが好きだった。陽の光に当たるときらきら光る金色の髪も、神秘の泉のような深い緑色の瞳も、長い手足も、何よりアメリのことを優しく呼んでくれる声も、すべて好きだった。


幼い頃はトーマスも、アメリのことが好きだと言って、大事そうに抱きしめてくれた。でも、成長するにつれて、トーマスは次第によそよそしくなって、アメリを見る視線の熱が冷めていくのがわかった。

それでもアメリはどうしても、トーマスとの仲を解消することはできなかった。いつか昔のようにまた自分を好きになってくれるのではないか、自分さえずっとトーマスのことを変わらず好きでいれば、きっといつか、と思うと、諦めることはできなかった。


それが結局、今日という日を迎えてしまった。トーマスの隣には、桃色の髪の可愛い令嬢が立っていた。伯爵令嬢で、学園の成績優秀者の上位にも名を連ねる令嬢だった。平凡な栗色のふわふわした髪の毛で、そばかすの散ったアメリは、到底勝つことができなかった。容姿も、成績も、そして身分すら完敗である。でもだからといって、大勢の前で婚約破棄しなくたっていいではないか、と思う。なにも、学園のお昼休みの時間に、人が行きかう大階段の前で婚約破棄しなくったって。誰もアメリの味方をしてくれなかった。頭が真っ白になったアメリは、そのままその場を走り去って逃げてしまった。お迎えの時間にはまだ早いせいで、家の馬車はまだ迎えにきていない。何をする気力もないまま、アメリは大通りまで向かって辻馬車に乗り、王都の町中に降り立って、とぼとぼとあてもなく歩いていた。


これからどうしよう。お父様とお母様にどう説明すれば。あんなところで婚約破棄されたせいで、きっと明日には学園中の噂になってしまう。もう学園にも行きたくない。これからどうしよう。アメリは泣きたい気持ちでいっぱいになりながら、石畳の道を歩いた。箱入り娘で、そうでなくても真面目な貴族のアメリは、自分の足でこうも商店街を歩いたことはない。昼間の大通りは人が多く行きかい、活気に満ち溢れている。レンガ造りの商店が立ち並び、どこからかパンのいい匂いがした。そんな賑わいの中にいると、ますます自分が場違いな気がした。貴族学園の制服を着たアメリは、とても浮いている。それを自覚すると、この世界に自分が溶け込めるような場所はどこにもないような気さえした。


「もし、お嬢さん。そこのお嬢様」


だから、呼び声が聞こえた時に、自分のことだとは思わず、俯いたまま無視をした。すると今度は、肩を二回叩かれた。


「お嬢様、ごめんなさいね。でもこれ、落としましたよ」


アメリが振り返ると、そこには困ったように笑う女性が立っていた。長い艶やかな茶色の髪をゆるい三つ編みにして、左肩からひとつ垂らした女性だった。透き通るような白い肌に林檎のような赤い唇。シンプルな生成りのワンピース姿だというのに、驚くほど美しい女性だった。大きな漆黒の瞳を睫毛が覆い隠すように生えている。それでも親しみやすく感じるのは、彼女が微笑んでいるからか、それともたれ目気味だからか。アメリは息を飲んだ後、ふと、彼女が差し出しているリボンに視線を落とした。赤と白のギンガムチェックのリボンは、十六歳の誕生日に妹から貰ったものだ。


「あ、ご、ごめんなさい。ありがとうございます」


アメリは、慌ててリボンを受け取った。髪の毛を束ねていたものだったが、走り回ったせいで解けてしまったようだ。女性はアメリの手の上にリボンを置いて、それから首を傾げた。


「お嬢様。不躾ですが、お時間はありますか?」

「え?」


驚いたアメリに、女性は穏やかに微笑んだ。


「髪が乱れてしまっています。よろしければ、私が結って差し上げますよ」


リボンが落ちたことで、髪の毛は無様なほど乱れていたようだった。アメリはもう、涙を我慢できなくなった。どうしてこう踏んだり蹴ったりなのだろう。貴族の娘は公共の場で泣くなんてあってはならないことだ。だからずっと我慢していたのに。そう思うのに、アメリは涙を止めることが出来ない。熱いものが後から後から流れ出る。どうしてこうも上手くいかないの。

急に泣き始めたアメリに、女性は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに先ほどと同じように優しく微笑んだ。


「もう大丈夫ですよ。さぁ、私と一緒にいらして」


泣いたままのアメリの肩を抱えるように、女性は歩き始めた。すぐ近くの商店の隣の路地に曲がると、そのまま裏路地に入る。普段、アメリが入ることのない細い通りだった。壁の間の道は昼間だというのに薄暗いけれど、不思議と怖くはなかった。道にゴミが落ちていないからかもしれないし、軒を連ねたこじんまりした店がどれもお洒落で美しかったかもしれない。


不思議な気持ちになったものの、アメリの気持ちは晴れなかった。心配性の母親にバレたなら、知らない人に付いて行くなんて卒倒されるかもしれない。でも、もう今のアメリは、自暴自棄になっていた。もう、どうにでもなれ、と思っていた。


女性は慣れた足取りで路地を進み、そのうちの一軒の店の前で立ち止まる。小さなお店だった。木製の看板に『癒しの庭』と彫ってある。木戸を開けると、花の良い匂いがした。天井にドライフラワーが掛かっている。入ってすぐに、小さな木の丸テーブルと椅子が二脚。その後ろにカウンターがあり、カウンターの隣に引き戸があって、奥に部屋があることを窺わせた。

女性はアメリに椅子を進めると、戸口の木の板をひっくり返し『CLOSE』にし、アメリの真向かいに座った。


「私は『癒しの庭』店主のオリヴィアと申します。当店へようこそ」

「当店?」

「我が店は、お客様へ癒しを提供することを生業としています。お嬢様、今現在怪我していたり、どこか触られたくないところなどありますか?」

「い、いいえ」


首を振ったアメリに、オリヴィアはにこり、と微笑んだ。


「では、当店のフルコースをお嬢様に受けていただきましょう」


ポカン、と驚くアメリの手を取り、オリヴィアはカウンターの隣の戸を開けると、中へ入るように促した。細長い廊下の先に、向かい合うようにふたつの部屋がある。左手はバスルームで、猫足のバスタブの横に、脱衣スペースあった。右手の部屋には、幅が狭いベッドと、鏡台がある。戸惑うアメリをオリヴィアは、バスルームへ案内した。


「まずは、入浴をお勧めしています。血行が良くなり、肌艶も見違えるようになりますよ」


子爵令嬢であるアメリは、自分で服の着脱ができないが、オリヴィアはまるで熟練の侍女のようにアメリの服を脱がせると、バスタブへ案内した。


バスタブには湯が張られ、真っ白に濁っている。薔薇の花びらがいくつも浮いているせいか、薔薇の匂いがした。お湯が張られた湯舟など、ほとんど入ったことはない。お湯を贅沢に使うのは、それこそ王族やそれに連なる貴族くらいだろう。家が裕福であるとはいえ、子爵令嬢のアメリは、生まれてこの方、数回しか湯に入ったことはなかった。なんという贅沢だろう。


恐る恐る湯に入ると、とても心地良い温度だった。思わずため息を吐いたアメリの肩から力が抜ける。


「頭をこちらに載せてくださいませ」


オリヴィアは小さな枕を差し出し、湯から頭を出すようアメリに指示した。アメリが枕に頭を載せると、オリヴィアはタオルをアメリの顔に掛け、それから髪の毛を全てバスタブの外に出した。


「今から髪を洗います。熱かったり冷たかったりしたら、おっしゃってください」


髪が解かれ、櫛で梳かれた後、お湯が優しく頭に掛かった。花のような香りがする液体が髪に掛けられ、オリヴィアは頭を解すようにマッサージをしている。何と気持ちがいいのだろう。ほっと、息を吐くと、アメリは目を閉じた。オリヴィアはお湯で液体を流し、また液体をアメリの髪に掛けてマッサージをし、再びお湯で流す。これを数回繰り返した頃には、アメリの身体から強張りが解けた。


「お身体を拭きますので、バスタブから出てください」


オリヴィアに呼びかけられ、アメリはバスタブの外に出た。湯舟は気持ちよくて、ヘッドマッサージと相まって、ほわっとした気持ちになる。少し浮かれたような心地で、アメリはオリヴィアに促され、向かいの部屋に移動した。狭いベッドの先端には丸い穴があいている。オリヴィアはうつ伏せで穴から顔を出すよう指示した。


アメリは言われたとおり、うつ伏せで横になった。枕元からカチャカチャと瓶の開け閉めの音がした。


「これから全身のマッサージを行います。オイルはオレンジから抽出したものです。肩の力を抜いて、リラックスしてください」


アメリの身体に温かいオイルが垂らされると、オリヴィアの言葉どおり、柑橘の爽やかな香りが漂った。オリヴィアの温かな手のひらがオイルを全身に広げ、背中を優しく指で押し始めると、何とも言えない気持ちよさが広がった。


「そのまま寝てしまってもいいですよ」


柔らかく優しいオリヴィアの声に誘われるように、アメリは目を閉じる。気持ちいい、眠りたいけど眠ったら勿体ない気もする。うつらうつらするアメリを余所に、オリヴィアの優しい手のひらが全身を丁寧に解していく。


何の価値もない、何の意味もない、と思い、自暴自棄だった心が癒されていく。こんなに大事に扱ってもらえるなんてと、思う。


夢と現実の狭間を彷徨っているうちに、いつの間にかマッサージが終わった。ぼんやりしたアメリを着替えさせ、オリヴィアは鏡台の前に座るよう誘導する。


「髪型の希望はありますか?」


オリヴィアに尋ねられ、アメリはゆっくりと首を振った。するとオリヴィアは少しアメリの髪を触ると、丁寧に編み込みを始めた。魔法のようにあっという間に結われている自分を、アメリは驚きながら眺めた。オリヴィアはアメリの髪の再度を編み込み、最後に小さな白い花を挿していく。


それからオリヴィアはアメリの肌に何かを塗り込み、化粧を始めた。あっという間の出来事だった。


「できましたよ」


鏡台の向こうの顔が、驚きで目を見開いている。可愛らしく編み込みをされた少女がいた。コンプレックスのそばかすはおしろいの下に消え、いつもより大きく見える瞳がこちらを見ている。肌が驚くほど艶々している。これが自分、と思うと、にわかには信じがたかった。


「いかがでしょうか、お嬢様」


そっとオリヴィアが問いかけると、アメリはパチパチと瞬きを繰り返した。


「魔法みたい。私ではないみたい」

「間違いなくお嬢様ですよ。そばかすをどうしようか迷いましたが、お嬢様は気にされているようだったので、隠しました。でも、出されても可愛らしいと思いますよ」


オリヴィアはそう言うと、優しく微笑んだ。


「お嬢様、こちらに『化粧水』『乳液』を入れております。朝と夕方、洗顔の後それぞれ顔に塗ってください。それから、髪用の香油も入れておりますので、毎晩馴染ませてくださいね」

「ありがとう、あ、でも、お代は…」


ハッとアメリは我に返った。アメリは普段侍女にお金を出して貰うため、自分で持ち歩いていない。一気に青ざめた彼女に、オリヴィアは大丈夫です、と言う。


「本日はお試しのため、料金は不要です。次回以降、お願いします」

「あ、あの、ありがとう。でも、どうして…」

「お嬢様、気を付けてお帰りくださいね」


どうして私を連れてきたの、と問おうとしたアメリに、オリヴィアは帰宅を促した。渡された紙袋に先ほどの『化粧水』『乳液』『香油』が入っているようだ。

お店の外に出て、また細い路地を歩くと、大通りが見える。そこまで送ってくれたオリヴィアは、丁寧に頭を下げた。


「またの御来店、お待ちしております」


夢見心地のまま、アメリは大通りに出た。幸せな体験だった。ショウウインドウに映る自分は可愛い髪型をして、綺麗な化粧をしていて、いつもの自分ではないみたいだった。気持ちよくて幸せで、ふわふわした気持ちで、アメリはいつの間にか微笑んでいた。


「アメリ!!!!」


大きな声がして、アメリはゆっくり振り返った。視線の先には、真っ赤な髪に同じく赤い目をした、背の高い男の子がいた。アメリと同じ貴族学園の制服を着た男の子は、酷く焦ったような顔をして、アメリに駆け寄ってくる。


「良かった!無事だった!」


汗だくでハァハァと荒い息を繰り返した男の子に、アメリは驚いて目を見開いた。彼は、アメリと同じクラスの侯爵家の令息で、アメリの隣の席の男の子、ケヴィン・マルティネスだった。隣の席だというだけで、身分が違い、また明るく陽気で美形な彼とは親しくもなく、朝と帰りの挨拶をするくらいの仲だ。そんな人がどうして、とアメリは心から驚いた。


「ど、どうしたのでしょうか、マルティネス侯爵令息様」

「どうしたもこうしたもない!アメリが婚約破棄されたと知って、それで」


顔をくしゃくしゃにしてこちらを見る美男子を見て、アメリは自分が婚約破棄されたことを思い出した。『癒しの庭』に行く前は、あんなにもこの世の終わりのように落ち込んだというのに、綺麗さっぱり忘れていた自分にびっくりした。


「あ、え、っと、その…」

「いいんだ、何も言わなくて。アメリがあいつのこと、どんなに好きだったのか知ってる。婚約者同士だし、思い合ってるなら口を挟むことでもないと思ってた。でも、こんな酷い目に合わせられるような筋合いはないだろう?ごめんな、俺がいれば庇ったのに。こういう時に限って、殿下に呼び出されていて。でも大丈夫だ、俺が一緒にいるから、だから、その、」


早口で言い募られて、アメリは目を白黒させた。なんだろう、この言い分は。ただのクラスメイト、ただの隣の席ではなかったのか。まるで。


「えっと、なんで、私のことをそんなに、」

「え?あ、ああ・・・。俺、アメリのことを守りたいんだ。あんなトンチンカンな無責任な奴じゃなくて、俺を選んでほしい。俺だったら悲しい思いなんかさせないから、だから」

「え、ですから、マルティネス侯爵令息様、それって…」


驚いたアメリの手を取って、目の前の男の子は顔を真っ赤にした。真っ赤な髪に負けない程、茹でだこのように赤くしていた。


「なんでって、俺、アメリのこと好きなんだ!だからあんなやつじゃなくて、俺と付き合って欲しい、アメリ嬢!」


道の往来で、大声で告白されて、アメリも顔が真っ赤になる。心臓がバクバクと大きな音を立てているのが自分でもわかる。全然ロマンチックな告白でもなかったけれど、だからこそアメリの胸を打つには充分だった。


ピューっと、冷やかすように指笛が吹かれる。慌てて辺りを見渡すと、人だかりができていた。ぐい、と手を引かれる。目の前のケヴィンもようやく、辺りの様子が分かったらしく、耳まで真っ赤になっている。


「走るよ、アメリ!」

「は、はい!」


慌てて走り始めた二人の背に、ヒューヒューやら、お似合いです、やら、不躾な言葉が投げつけられる。そのどれも、アメリたちを馬鹿にしたものではなく温かくて、アメリは目に涙を浮かべた。


アメリの手を取って走るケヴィンの背は大きくて、髪の隙間から見える耳が真っ赤で、アメリはなんだかおかしくなって笑った。もう心は晴れやかだった。

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