第1話 不満だらけの婚約者 【裏】
王宮の謁見の間は、想像以上に豪華絢爛だった。
天井には精巧な彫刻が施され、壁には代々の王族の肖像画が飾られている。赤い絨毯の先には玉座。そして、その脇に立つ一人の青年。金髪に碧眼の見るからに王子様といった風貌のこの青年は、王太子カイル・エドワルド。
シャロンの婚約者——ということになっている人物。
「お初にお目にかかります、カイル殿下。シャロン・ハウロイドと申します」
シャロンは完璧な所作で膝を折り、頭を下げた。侯爵家の令嬢として、一分の隙もない挨拶。
顔を上げると、カイルと目が合った。
彼は、露骨に不快そうな表情を浮かべていた。
(ああ、やっぱりね)
内心で溜息をつく。
事前に調べた通りだ。この男は、可愛らしい女性が好み。自分より少し劣る、守ってあげたくなるような女性。
だが、シャロンはそのどちらでもない。カイルのタイプとは、正反対だ。
「……ああ、よろしく」
カイルの返事は、そっけなかった。
シャロンは表情を変えず、淡々と次の言葉を続ける。
「今後とも、よろしくお願いいたします」
「俺は今まで通り自由にやらせてもらうからな」
カイルは視線を逸らした。まるで、シャロンと目を合わせるのも嫌だとでも言いたげに。それに、今まで通りとは、これからも女遊びを辞めるつもりはないと暗に言っているようだ。
(それでいいわ)
予想通りの態度に口角が上がりそうになるのを我慢し、心の中で微笑んだ。
謁見の後、シャロンに与えられたのは王宮の東棟にある客室だった。
「こちらがシャロン様のお部屋になります」
案内してくれた侍女が、恭しく扉を開ける。
部屋は十分に広く、調度品も豪華だった。だが、王族が使う部屋に比べれば、明らかに格下。
(まあ、まだ正式な妃ではないしね)
シャロンは特に不満もなく、部屋に入った。
「何かご入用のことがございましたら、いつでもお呼びください」
「ええ、ありがとう」
侍女が去り、私は一人になった。
ベッドに腰を下ろすと、扉がノックされた。
「お嬢様、私です」
聞き慣れた声。
「入って」
扉が開き、一人の青年が入ってくる。
茶色の髪に、軽薄そうな笑顔。ハウロイド家から同行してきた従者——ということになっている。
「お疲れ様です」
青年——ルイが、扉を閉めると同時に表情を変えた。先程までの恭しさは消え、軽い調子になる。
「カイル王太子、どうでした?」
「印象は最悪よ」
シャロンは肩の力を抜く。ようやく解放されたようだった。
「初対面で『詐欺にあった気分』ですって」
「うわー、それはひどい」
ルイはそう言いながらもケラケラと笑っている。
「しかも、『他に女がいる』って暗に言うのよ」
「マジでクズじゃないですか」
「本当にね」
シャロンは窓の外を見る。夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。
「でも、予想通りね。むしろ好都合だわ」
「好都合?」
「ええ。あんな男、相手にする価値もないもの。それに、無関心の方が何かとやりやすいわ」
ルイが、にやりと笑う。
「さっすが、王宮に来てもいつも通りだ」
「当然でしょう。こんなところで感傷に浸っている暇はないわ」
私は、ルイを見る。
「例の秘宝の件、進展は?」
「まだよ。まずは王宮の構造を把握しないと」
シャロンは懐から、一枚の紙を取り出した。師匠が残してくれた、王宮の古い地図。
「師匠の記録によれば、最後の秘宝は王宮のどこかにあるはず。でも、具体的な場所までは分からない」
「となると、地道に探すしかないですね」
「ええ。幸い、私は婚約者という立場。王宮内を比較的自由に動ける」
シャロンは地図を仕舞った。
「それに、カイル殿下が私に無関心なのは好都合。監視される心配も少ないわ」
「でも、油断は禁物ですよ」
ルイが忠告する。
「この王宮、思った以上に目が多い。俺も色々と調べてますけど、どこに誰がいるか把握するのは難しいです」
「分かってるわ。慎重にやりましょう」
(あと少し、もう少しで秘宝が手に入る。そして師匠の遺言の通り、師匠の故郷へ行くのよ)
懐の革袋に手を当てた。師匠から受け継いだ地図が、折り畳まれて入っている。
三つの秘宝を集めれば、門が開く。師匠が生涯をかけて探し求めたもの。その最後の一つがこの王宮のどこかにあるのだ。
翌朝、シャロンは早朝から王宮を散策していた。
表向きは、新しい環境に慣れるための散歩。だが、本当の目的は——
(王宮の構造を把握すること)
廊下を歩きながら、壁の装飾や扉の位置を記憶していく。
「おはようございます、シャロン様」
すれ違った侍女が、恭しく頭を下げる。
「おはよう」
軽く会釈を返した。
王宮の人々は、表面上はシャロンに礼儀正しく接してくれる。だが、その目の奥には好奇心と警戒心が混ざっていた。
(当然ね)
シャロンはハウロイド侯爵家の令嬢だが、王宮にとっては部外者。それに、カイルがシャロンに冷たいことは、既に噂になっているだろう。
だが、それでいい。
一般人の警戒なんてたかが知れている。そう思っていた。
散策の帰り、北棟の廊下を曲がったところで——人と鉢合わせた。
「これは、シャロン様」
穏やかな声だった。
見上げると、一人の青年が立っていた。
カイルより数歳上。黒髪で落ち着いた印象を与える彼は、王宮では「地味な第一王子」と呼ばれていると事前の調査で把握していた人物。
第一王子、アレクシス。
社交の場には滅多に顔を出さず、執務棟にこもって地味に仕事をしているという。
だが——
(この男)
私は、一瞬で警戒を引き上げた。理由は、上手く言葉にできない。ただ、目が、違った。穏やかで、人当たりの良さそうな顔をしている。
だが、その瞳の奥には、何か静かで鋭いものが潜んでいた。ぼんやりとした目ではない。全てを、静かに、正確に見ている目だった。
「アレクシス殿下」
私は完璧な礼で頭を下げた。
「王宮には慣れましたか」
「おかげさまで。皆様、親切にしてくださっています」
「それは良かった」
アレクシスは微笑んだ。穏やかで、人当たりが良く、そして。
(目が、笑っていない)
「カイルが、何かと……不行届きなこともあるかと思いますが」
「いいえ、とんでもございません」
「そうですか」
アレクシスは少し間を置いた。
「王宮は、広いですから」
「ええ」
「迷われた時は、お気軽にお声がけください」
「ありがとうございます」
短い、当たり障りのない会話。弟の婚約者への、礼儀的な挨拶。
——表向きは。
(この男、何かを確認しようとしている)
何を?まだ、分からない。
「では、私はこれで」
アレクシスは軽く会釈をして、廊下を歩いていった。
私も歩き出した。
(読めない)
この王宮に来て、初めてそう思った相手だった。
次の日、庭園を歩いていると、遠くにカイルの姿が見えた。
彼は、一人の女性と親しげに話している。
ピンク色のドレスを着た、華やかな女性。おそらく、カイルの愛人の一人だろう。
カイルは、シャロンの姿に気づいた。
一瞬、気まずそうな表情を浮かべたが、すぐに不敵な笑みに変わった。
まるで、「見ろ、これが現実だ」とでも言いたげに、女性の肩を抱く。
(子供ね)
内心で呆れた。
わざわざシャロンに見せつけるなんて、幼稚すぎる。
だが、シャロンは表情一つ変えず、軽く会釈をしてその場を去った。
数日後、私は国王から呼び出された。
「シャロン、少しカイルの執務を手伝ってくれないか」
国王は、困ったような表情で言った。
「カイルは…その、少し執務が苦手でな」
(苦手、というか全くやってないんでしょうね)
内心でそう思ったが、表には出さない。
「かしこまりました、陛下」
こうして、シャロンはカイルの執務を手伝うことになった。
カイルの執務室に行くと、机の上には山のように書類が積まれていた。
「……」
カイルは、書類を見るなり露骨に嫌そうな顔をした。
「陛下から言われたので、お手伝いに参りました」
私は淡々と言った。
「……好きにしろ」
カイルはそっぽを向いた。
(やる気ゼロね)
溜息をつき、書類を手に取った。
東方との貿易協定、南方の税制改革、北方の防衛計画……どれも重要な案件ばかりだ。
「殿下、この貿易協定ですが、期限が明日までです。署名が必要です」
「……ああ」
カイルは面倒くさそうに署名した。
「こちらの税制改革案は、財務省と調整が必要です。私が交渉してきましょうか?」
「勝手にしろ」
(本当に、この男……)
内心で呆れながらも、淡々と仕事を進めた。
数時間後、書類の山はかなり減っていた。
「今日の分は終わりました」
シャロンは報告した。
カイルは、驚いたような顔で私を見た。
「もう終わったのか?」
「ええ。重要なものは優先的に処理しました。残りは明日以降でも問題ありません」
「……そうか」
カイルは、何か言いたげな表情を浮かべたが、結局何も言わなかった。
シャロンは一礼して、執務室を後にした。
廊下を歩いていると、ルイが待っていた。
「お疲れ様です。執務、どうでした?」
「予想通りよ。カイル殿下、全く仕事をしていなかったわ」
「うわあ」
「でも、おかげで王宮内の情報が色々と手に入ったわ」
シャロンは満足そうに微笑んだ。
執務を手伝うことで、王宮の財政、外交、防衛について詳しく知ることができた。そして、その情報は秘宝を探す上で役に立つはずだ。
「それに」
小声で続けた。
「王宮の古い記録を見る許可も得たわ。執務に必要だからって名目でね」
「さっすがお嬢様。抜け目ないですね〜」
「当然でしょう」
シャロンたちは、誰にも聞かれないように小声で話しながら、部屋に戻った。
その週末、王宮で夜会が開かれた。
シャロンは深紅のドレスに身を包み、会場に現れた。会場には、多くの貴族たちが集まっていた。
「あれがハウロイド家の……」
「カイル殿下の婚約者……」
ひそひそと囁く声が聞こえる。
シャロンは気にせず、優雅に会場を歩いた。
「シャロン様、お久しぶりです」
一人の貴婦人が声をかけてきた。母の知り合いだ。
「ご無沙汰しております」
社交的な笑みを浮かべ、会話を始めた。
「カイル殿下とは、お仲睦まじいようで」
貴婦人が探るように言った。
「ええ、まあ」
曖昧に答えた。
実際には全く仲睦まじくないが、それを直接言うわけにはいかない。
「殿下は素敵な方ですわ」
シャロンは表向きの笑顔でそう答えた。
舞踏会では、カイルは別の女性と踊っていた。
金髪の巻き毛を持つ、可愛らしい少女。東方伯爵家の娘だろうか。カイルは、楽しそうに笑っている。私を見ている時とは、全く違う表情だ。
(あれがこの国の未来を背負うなんて、この国も落ちたものね)
シャロンはそう思いながらも視線を逸らし、他の貴族たちとの会話による情報収集に集中した。
夜会が終わり、部屋に戻ると、ルイが待っていた。
「お疲れ様です。今日も色々と大変でしたね」
「まあね。でも、収穫はあったわ」
「収穫?」
「ええ。北方公爵が、王宮の歴史について詳しいらしいの。今度、図書館を案内してもらう約束を取り付けたわ」
「図書館…もしかして、秘宝の手がかりが?」
「おそらくね」
満足そうに微笑んだ。
「師匠の記録によれば、秘宝に関する情報は王宮の古文書に記載されているはず。図書館なら、その古文書があるかもしれない」
「なるほど。さすがお嬢様、抜け目ないですね」
「当然でしょう」
窓の外を見た。
(もう少し……もう少しで、師匠の願いを叶えられる)
窓の外には大きな月が煌々と輝いていた。
翌週、カイルの遊びはさらにエスカレートした。
昼間から酒場に繰り出し、夜は愛人たちと過ごす。王宮中がその噂で持ちきりだったが、私は一切気にしなかった。
「シャロン様、カイル殿下のこと……本当によろしいのですか?」
ある日、侍女の一人が心配そうに尋ねてきた。
「何が?」
「殿下が、他の女性と……」
「構いませんわ」
冷たく答えた。
「殿下がどのようにお過ごしになろうと、それは殿下の自由です」
侍女が驚いたような顔をする。
「でも……」
「私は、殿下の行動を制限する権利はありません。婚約者とはいえ、まだ正式な妃ではありませんから」
理論的に答えた。
侍女の目には、冷たい女だと映ったかもしれない。
(まあ、いいわ)
どう思われようと、シャロンの目的は変わらない。
その夜、ルイが部屋を訪れた。
「お嬢様、カイル殿下、また別の令嬢のところに入り浸ってるみたいですよ」
「ふーん」
書類から目を離さなかった。
「全然気にしないんですね」
「それより、こっちの書類見て。図書館で見つけてきた古文書よ」
「おお、これが」
ルイは興味深そうに書類を覗き込んだ。
「師匠が言ってた、秘宝の記録……」
「ええ。どうやら、王宮の古い塔に何かあるらしいわ」
地図を広げた。
「この塔、今は使われていない。警備も手薄なはず」
「いつ調べます?」
「今週末。ちょうど大きな晩餐会があるから、警備がそちらに集中するはず」
「了解です」
ルイは真剣な表情で頷いた。
こうして、シャロンは表向きは婚約者を演じながら、裏では着々と秘宝を探していた。
カイルが遊び歩くのは、シャロンにとって好都合だった。
彼が私に無関心でいてくれるおかげで、シャロンは自由に動けるのだから。
(ありがとう、カイル殿下)
内心で感謝した。
(あなたの無関心が、私の計画を助けてくれているわ)




