第7話 それぞれの終幕 【表】
表はここで終わりになります。
カイルが王太子の地位を剥奪されてから、数日が経った。
カイルは、自室に閉じこもっていた。食事もろくに取らず、側近が書類を持ってきても追い返し、ただ部屋の中をうろうろと歩き回るだけの日々。
窓の外では、王宮が何事もなかったように動いている。
アレクシスが新たな王太子として執務を取り仕切り、貴族たちはあっさりと新しい主に従い始めていた。
(信じられない)
カイルは窓の外を見ながら、拳を握りしめた。
(たった数日で、誰も俺のことなど気にしていない)
(全員、裏切り者だ)
そんなある日、側近が血相を変えて飛び込んできた。
「カイル様……!」
「何だ」
カイルは不機嫌そうに振り返った。
「お、王宮で緊急の集会が……!」
「俺には関係ない」
「い、いえ……! ルリアーナ様の件で……!」
カイルの動きが、止まった。
「……ルリアーナが、どうした」
「詐欺が……発覚したと……!」
大広間は、重い沈黙に包まれていた。
シャンデリアの光が、集まった貴族たちの顔を照らしている。誰も口を開かない。ただ、中央に立つアレクシスだけが、静かに言葉を続けていた。
「以上が、聖杯細工の全容です」
アレクシスは、一枚の書類を掲げた。
「侍女による証言、細工に使われた鉱石粉の残留、そして当事者たちの会話の記録——全て、ここに揃っています」
カイルは、大広間の端に立っていた。
王太子の証である金の腕輪は、もうない。だが、それよりも——
(ルリアーナが)
視線の先に、ルリアーナがいた。
白いドレス。ピンクブロンドの髪。大きな瞳。
その瞳が今は、怯えで揺れている。
「ルリアーナ様」
アレクシスが、静かに名を呼んだ。
「これらの証拠について、いかがお答えになりますか」
ルリアーナは、唇を震わせた。
「そんな……嘘です……私は……」
「嘘ではありません」
アレクシスの声は、穏やかだった。責めるような色はない。ただ、揺るぎなかった。
「全て、記録に残っています」
大広間が、ざわめき始めた。
「まさか……聖女様が……」
「では、あの奇跡は……」
「シャロン様を陥れたというのは……本当に……?」
貴族たちの声が、波のように広がっていく。
カイルは、その声を遠くで聞いていた。
(シャロンは冷静に否定していた)
(だが——ルリアーナが泣いていた。複数の証言があった)
(俺が間違っているはずがない)
(これはアレクシスの罠だ。全部、アレクシスが仕組んだんだ)
「嘘よ!」
ルリアーナが、突然叫んだ。
可憐な声が、引き裂かれたように歪む。それを聞いた瞬間、カイルの胸に安堵が広がった。
(そうだ。嘘に決まっている)
「全部嘘よ! 証拠なんて捏造でしょう! アレクシス殿下が、私を陥れようとしているだけよ!」
「ルリアーナ様」
「だってそうでしょう! 私を排除して、自分が有利になりたいだけじゃないの! 聖女である私を——!」
「あなたは、聖女ではありません」
アレクシスの声が、静かに、しかし明確に響いた。
大広間が、水を打ったように静まり返った。
「聖杯は、細工によって光りました。神の選択ではありません」
「違う……! 違う違う違う——!」
ルリアーナは首を振り続けた。
だが——次の瞬間、その顔が変わった。
震えていた唇が、きつく引き結ばれる。潤んでいた瞳が、乾いていく。涙の痕が残る頬に、冷たい笑みが浮かんだ。
「……そう」
ルリアーナは、ゆっくりと息を吐いた。
声が、変わった。甘さが消えた。低く、平坦な——別人のような声に。
「証拠が揃っているなら、仕方ないわね」
大広間が、また静まり返った。
一秒前まで泣き叫んでいた少女が、今は涼しい顔で大広間を見渡している。
「ねえ、皆さん」
ルリアーナは、くすりと笑った。
「今まで、ご苦労様でした。楽しかったわ」
「っ……!」
「な、何を……!」
貴族たちがざわめく。
ルリアーナは気にしなかった。まるで、仮面を脱いだように——堂々と、冷たく、笑っていた。
「カイル様」
その目が、カイルを捉えた。
「あなたは本当に、扱いやすかった。褒めたら有頂天になって。縋ったら信じてくれて。可愛らしく泣いてみせたら、何でもしてくれた」
「……ルリアーナ」
「婚約者がいる男に近づいて、聖女になって、妃の座を手に入れる。それだけの話よ。あなたが私を愛していたかどうかなんて、最初から興味がなかったわ」
カイルは、声が出なかった。
(騙されていた)
(最初から、全部——)
「ルリアーナ・フォンターナ」
国王が、玉座から立ち上がった。
「聖女詐欺の罪により、拘束する」
「ええ、どうぞ」
ルリアーナは、あっさりと頷いた。騎士たちが両腕を掴んでも、その表情は変わらなかった。引きずられながらも、まだ笑っていた。
「カイル様」
連行されながら、最後にもう一度、振り返った。
「シャロン様のこと、可哀想でしたわね。あなたが少しでも疑っていれば——あの方は追放されずに済んだのに」
笑い声が、廊下に響いた。
やがて、遠ざかり、消えた。
大広間に、静けさが戻ってくる。カイルは、立ち尽くしていた。騙されていた。全部、演技だった。自分は道具として使われていた。
「シャロン・ハウロイドの追放は、虚偽の証言に基づくものでした」
アレクシスの声が、大広間に響いた。
「彼女への名誉回復を、正式に行います」
貴族たちがざわめく。
カイルは、その声を聞きながら——唇を噛んだ。
(名誉回復? 笑わせるな)
(あの女が王宮にいなければ、こんなことにはならなかった)
(あの冷たい目で俺を見なければ)
(あの完璧な仕事で俺を惨めにさせなければ)
「全部、シャロンのせいだ」
誰にも聞こえない声で、カイルは呟いた。
シャンデリアの光が、静かに大広間を照らし続けていた。
謁見の間を後にしたカイルは、人気のない庭園へと足を向けた。
夜の空気が、冷たかった。薔薇園の前で、立ち止まる。白い薔薇が、月明かりの中で静かに咲いている。
「綺麗な薔薇ですね」
背後から、声がした。
振り返ると、アレクシスが立っていた。
「何の用だ」
「用はありません」
アレクシスは静かに言った。
「ただ——少し、話したかった」
「今更、何を」
「シャロン様は、有能な方でした」
カイルは黙った。
「あなたの執務を支え、王宮の情報を整理し、この国のために動いていた。あなたがそれに気づかなかっただけで、彼女は最後まで誠実に仕事をしていました」
「……お前はあの女の肩を持つのか」
カイルは、低く答えた。
アレクシスは答えない。
「カイル」
アレクシスが、初めて名を呼んだ。
兄として。殿下でも王子でもなく——ただ、兄として。
「お前は、間違えた。それは事実だ。だが——」
「だが、何だ」
「間違えた人間が、やり直せないほど——人生は短くない」
カイルは、アレクシスを見た。
その表情に、勝利の色はなかった。嘲りも、なかった。
ただ——静かな、兄の顔があった。
「……うるさい」
カイルは背を向けた。
「お前に、そんなことを言われたくない」
「……そうですか」
アレクシスは、それ以上何も言わなかった。
それから数日後。
カイルは、側近を呼びつけた。
「シャロンのことを調べろ」
側近が、怪訝な顔をした。
「シャロン様、ですか? 今更…」
「うるさい。いいから調べろ」
カイルは吐き捨てた。
王太子の座もルリアーナも、何もかも失った今、カイルにできることはシャロンへの復讐だけだった。自分をここまで落とした元凶。全ての責任はシャロンにあると、そう思い込むことでしかカイルは自我を保てなかった。
「シャロンの弱みを探せ。あの完璧な女にも何か弱みがあるはずだ」
なんでもいい、シャロンのあのすました顔を一度でも歪ませてやりたかった。
「……はい」
側近は、複雑な表情で一礼した。
数日後、側近が報告に来た。
「カイル様、驚くべきことが分かりました」
「何だ。弱みは見つかったか」
「それが……弱みを探す過程で、ハウロイド家の記録を洗ったのですが」
側近が言葉を選びながら続ける。
「ハウロイド家では、代々の記録に幼少期の肖像画を残す慣習がございます。それを取り寄せたところ——」
側近が、一枚の絵を広げた。
「こちらが、シャロン・ハウロイド様の五歳の時の肖像画です」
カイルは、その絵を覗き込んだ。
そして、息が止まった。
絵の中の少女は、確かにブロンドの髪と碧眼を持っていた。
だが、顔立ちが、違う。
カイルが知るシャロンとは、明らかに別人だった。
「これは……」
「はい」
側近が、緊張した声で言った。
「この肖像画の少女と、我々が『シャロン様』と呼んでいた方は——別人です」
カイルの世界が、音を立てて崩れていく気がした。
(別人……?)
(では、俺の婚約者は、最初から——)
「追え」
カイルは、低い声で言った。
「今すぐ、あの女を追え」
「は、はい……!ですが、既に国外へ……」
「追えと言っている!」
カイルは怒鳴りつけた。
「馬を出せ! 俺自身が行く!」
「カイル様……!」
「うるさい! 行くぞ!」
側近たちが慌てて後を追う中、カイルは馬を駆った。怒りで、頭の中が燃えるようだった。
(詐欺師め)
(最初から、俺を騙していたのか)
(絶対に、許さない)
国境近くの小さな村に、カイルが着いたのは翌日の午後だった。
馬を降り、村人に場所を聞く。村人はすぐに答えた。
(見知らぬ男に女の居場所をすぐに教えるのか)
当然だった。後から気づくことになるが、村人たちは既に、見知らぬ青年から「もし金髪の若い男が来たら、迷わず教えてやってくれ」と頼まれていた。金も渡されていた。
カイルが村に入った瞬間から、シャロンには伝わっていた。だがその時のカイルは、そんなことを考えもしなかった。
路地を歩き、目的の家の扉の前に立つ。
蹴破ろうとした手が——空を切った。
扉は、最初から開いていた。
部屋の中に、シャロンがいた。
窓辺に立ち、外を見ていた。
カイルが入ってきても、振り返らない。
「シャロン」
呼んだ。
怒鳴るつもりだった。声が、出なかった。
シャロンはゆっくりと振り返った。
「いらっしゃい、カイル様」
微笑んでいた。
驚いていなかった。慌てていなかった。まるで、約束していた客を迎えるように、当然の顔をしていた。
「待っていましたわ」
「……なぜ、分かった」
「王宮には優秀な子ネズミがおりますから」
シャロンは静かに言った。
カイルは黙った。
「肖像画を調べる、と決めた時点で、こうなることは見えていました。ハウロイド家の記録を洗えば、必ず辿り着く。そしてあなたは必ず、自分で来る」
「なぜ逃げなかった」
「逃げる必要がないからです」
シャロンは部屋の中央へ歩いてきた。
急がず、乱れず。
「それに、一度くらいちゃんとお話しした方が良いと思いまして」
カイルは、手の中の肖像画を突きつけた。
「これを見ろ。この子と、お前は別人だ」
シャロンは絵を受け取り、一瞥した。
返した。
「よく調べましたね」
それだけだった。
「答えろ。お前は何者だ」
「名乗るほどのものではありませんわ。強いて言うなら……詐欺師かしら」
間も置かずに、答えた。
「……全部、嘘だったのか」
「嘘、という言葉は正確ではありません」
シャロンは少し考えるように言った。
「私はシャロン・ハウロイドとして、完璧に職務を果たしました。執務の補佐も、社交の場での振る舞いも、外交文書の処理も——全て、本物でした」
「目的が違っただけです。私の目的は秘宝を手に入れること。それだけです」
カイルは、言葉に詰まった。
「あなたの執務を手伝ったのは、王宮内の情報を体系的に把握するためです。どの省が何を管轄し、どの書庫に何の記録があり、どの時間帯にどの廊下の警備が手薄になるか——執務室に座っているだけで、全て分かりました」
「……」
「社交の場に立ったのは、必要な人脈を作るためです。北方公爵から古文書を借りる許可を得たのも、図書館への定期的なアクセスを自然な形で確保するためです」
「婚約者という立場は」
「最も効率的な隠れ蓑でした」
カイルは、じわりと気づき始めていた。
シャロンが王宮にいた一年間の、全ての行動の意味が——今、逆算されていく。
「秘宝庫には……どうやって入った」
「取引をしました」
カイルは、眉をひそめた。
「取引……誰と」
「それは、申し上げられません」
シャロンは静かに言った。
「相手の方に、ご迷惑をおかけするわけにはいきませんので」
「王宮の人間か」
「……さあ」
答えでも否定でもなかった。
その曖昧さが——肯定よりも雄弁だった。
「私が持っていた証拠と、秘宝庫への入室許可を交換しました。それだけです」
「証拠……ルリアーナの件か」
「そうです」
「あの暴露は……お前が仕組んだのか」
「仕組んだわけではありません」
シャロンは少し考えるように言った。
「ルリアーナ様の野心は、私が作り出したものではない。ただ、せっかくですから、記録しておきました。そしてその記録が、必要としている方の手に渡った。それだけのことです」
カイルは、頭の中で繋がっていく。
あれほど完璧に整った形で暴露が行われた理由。証拠が揃いすぎていた理由。
「俺の周りで起きた全てのことが……」
「えぇ、あなたは動かされていた」
シャロンは、穏やかに言った。
責めていなかった。怒っていなかった。
ただ、事実だけを述べていた。
それが——どんな罵倒よりも、重かった。
「では……最初から、全部」
シャロンは部屋の奥に目を向けた。
石の台座の上に、三つの宝石が並んでいた。
青。赤。白。
それぞれが内側から光を放ち、周囲の空気が静かに歪んでいた。
「半年かかりました」
シャロンは言った。
「当初の計画では、四ヶ月の予定でした。少し手間取りました」
「手間取った……?」
「ルリアーナ様の件が、予想外でしたので」
カイルは、声を失った。
「ルリアーナ様が王宮に来たのは、私の計画とは無関係でした。ただ——せっかくですから、利用させていただきました」
「利用……」
「あなたがルリアーナ様に夢中になってくださると、私への監視が一切なくなります。大変、助かりました」
カイルは、頭の中で一年間の記憶が書き換えられていく感覚があった。
自分がルリアーナに会いに行くたびに。
シャロンに冷たくするたびに。
シャロンを無視するたびに。
「あなたが私から遠ざかるほど、私は自由に動けました」
シャロンは、穏やかに続けた。
「ありがとうございます、カイル様。あなたの無関心が——この計画の最大の味方でした」
「お前……!」
カイルは剣に手をかけた。
「お前を捕らえる。そして秘宝は王宮に持ち帰る」
シャロンは剣を見た。そして、カイルを見た。
何かを言うような表情だった。だが、言わなかった。ただ、静かに首を振った。
その仕草が、言葉よりも雄弁だった。
(お前には、俺を止められない)
そう言われているようだった。
シャロンは宝石の前に立った。
「一つだけ」
振り返らずに、言った。
「王宮に戻られたら、ご自分の周りの人間を、もう少しよく見ることをお勧めします」
「何のためだ」
「次に同じことが起きた時のために」
カイルは、剣を抜けなかった。
光が、室内に広がり始めた。
「待て……!」
一歩を踏み出した。
シャロンの輪郭が、白に溶けていく。
「シャロン……!!」
手を伸ばした。
届かなかった。
最初から——届く距離ではなかった。
光が、引いた。
部屋には、カイルだけが残されていた。
夕暮れが、空を染めていた。
読んでいただき、ありがとうございました!
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