第6話 崩壊の幕開け 【表】
シャロンが王宮を去って、一週間が経った。
執務室の机の上には、書類が山積みになっていた。カイルは、その前に座ったまま、腕を組んで、棒立ちの側近を睨みつけた。
「だから、どうしろというんだ」
「殿下、外交文書の返答期限が……」
「それはシャロンの仕事だっただろう!」
カイルは書類を叩きつけた。
「あいつが勝手にいなくなったんだ。俺のせいじゃない」
「し、しかし殿下、シャロン様は追放されたわけで……」
「うるさい! とにかく誰かがやればいいだろう! お前がやれ!」
「私には、その権限が……」
「じゃあ誰かに権限をやれ! なんのための側近だ!」
側近は青ざめた顔で一礼し、足早に退室した。一人残されたカイルは、乱雑に積まれた書類を眺め、舌打ちをした。(全部、シャロンのせいだ)カイルは心の中で吐き捨てた。(あいつが、ちゃんと引き継ぎもせずに出て行ったから、こうなったんだ)その顔には反省の色は1ミリたりともなかった。
翌日も、状況は変わらなかった。
「殿下、北方連合からの問い合わせが三度目となっております」
「知らん」
「財政局から、決裁待ちの書類が三十件を超えていると……」
「後でやる」
「各省からも苦情が……」
「うるさい!」
カイルは立ち上がり、執務室を飛び出した。廊下を歩きながら、カイルは苛立ちを募らせた。
(なぜ俺がこんな目に遭わなければならないんだ)
(ルリアーナを聖女として守っただけなのに)
(シャロンがあんな態度を取らなければ、こんなことにはならなかった)
全ての原因は、シャロンにある。カイルの中では、そういう結論になっていた。
その時、廊下の向こうから笑い声が聞こえた。
アレクシスだった。第一王子アレクシスが、数人の貴族に囲まれ、朗らかに話をしている。
「北の領主とは、この条件で合意した。南方との通商協定も来週には締結できる見込みだ」
「さすがでございます、アレクシス殿下!」
「いやあ、殿下がいてくださって本当に心強い」
貴族たちが、口々に称賛する。
カイルは、その光景を廊下の陰から見つめた。
(なぜアレクシスが……)
(あいつは、ずっと目立たない存在だったはずだ)
カイルの中で、苛立ちが憎しみに変わっていく。
(俺の代わりに、いい顔をしやがって)
(これも全部、シャロンのせいだ)
(あいつが俺の足を引っ張ったから、アレクシスが台頭する隙を与えた)
カイルは、アレクシスに背を向け、足早にその場を立ち去った。
そんな状況が続いたある日。
「聖女様が、最近カイル殿下を避けているようで…」
侍女たちのひそひそ話が、廊下に漏れ聞こえてきた。
「第一王子アレクシス殿下に、接近されているとか」
「まあ! 本当ですの?」
「ええ。カイル殿下とは、ほとんどお会いになっていないとか……」
カイルは、その場で立ち止まった。全身が、じわりと冷えていく。
(ルリアーナが……アレクシスに……?)カイルはルリアーナの部屋へ向かった。だが、扉の前で侍女に止められた。
「申し訳ございません、殿下。聖女様は今、お休みになっておいでで……」
「起こせ」
「し、しかし……」
「俺が来たと言えば、すぐに出てくる。起こせと言っている」
侍女は困り果てた表情で、それでも首を振った。
「聖女様から、面会はご遠慮いただくようにと……」
「……何?」
カイルは、耳を疑った。
(ルリアーナが、俺の面会を断った?)
信じられなかった。あれほど「カイル様」と慕っていたルリアーナが。カイルはその場を立ち去った。
廊下を歩きながら、怒りで手が震えていた。カイルは歯を食いしばった。
(全部シャロンのせいだ。あいつが余計なことをしたから、王宮全体がおかしくなった)
(ルリアーナまで、変になってしまった)
論理など、もうどこにもなかった。
ただ、誰かのせいにしなければ——カイルは自分を保てなかった。
王からの呼び出し
数日後、国王からの呼び出しがあった。謁見の間に入ると、国王は玉座に深く腰を下ろし、カイルを冷たい目で見つめていた。
「カイル」
「父上」
「外交文書の返答が一ヶ月以上滞っている。財政決裁も止まったままだ。各省から苦情が殺到している」
「それは……引き継ぎが不十分で……」
「誰の引き継ぎだ」
「シャロンです。あいつが何も残さずに……」
「カイル」
国王の声が、低くなった。
「シャロン・ハウロイドを追放したのは、誰だ」
「それは……」
「お前だ」
国王は、静かに、しかし容赦なく言い放った。
「追放を命じたのはお前だ。引き継ぎを確認しなかったのもお前だ。この一ヶ月、執務を放置したのもお前だ」
「しかし父上、ルリアーナを守るためには……」
「その聖女は今、アレクシスの元に入り浸っているそうだな」
カイルは、言葉を失った。
「お前に、一ヶ月の猶予を与える」
国王は続けた。
「その間に執務を立て直せなければ、王太子の地位を廃嫡とする。そして——国外追放も辞さない」
「父上……!そんな……!俺は何も……!」
「下がれ」
国王は、それだけ言った。
謁見の間に、沈黙が落ちた。
謁見の間を出たカイルは、廊下に出るなり壁を殴った。
「くそ……!」
拳が痛んだ。だが、それよりも……
(なぜ俺が、こんな目に遭わなければならない)
(聖女を守っただけなのに)
(シャロンを追放しただけなのに)
(全部、あいつのせいだ)
(あいつが俺を陥れたんだ)
カイルの中で、シャロンへの憎しみが、ふつふつと煮え立っていた。あの冷たい碧眼。一切動じなかった表情。感謝もせず、縋りもせず、涙の一つも見せずに去っていった背中。
(あいつは最初から、俺を破滅させるつもりだったんだ)そう思い込むことが——カイルには、一番楽だった。
一ヶ月後
結局、何も変わらなかった。
書類の山は減らなかった。外交問題は悪化した。財政の混乱は続いた。カイルは毎日、側近たちに怒鳴り散らし、書類を投げつけ、それでも何一つ自分では解決できなかった。
「なぜ誰も助けない!」
「俺一人に押しつけるな!」
「聖女がいれば国は安泰なのではなかったのか!」
側近たちは、疲弊した表情で沈黙するだけだった。
そして、一ヶ月が経った日——
カイルは再び、謁見の間に呼ばれた。
「カイル・エドワルド」
国王は、今度は立ったまま、息子を見下ろした。
「本日をもって、お前の王太子の地位を剥奪する」
「父上……!」
「アレクシスを、新たな王太子とする」
「待ってください! 俺は……!シャロンが……!あいつが全部……!」
「カイル」
国王の声が、鋭く響いた。
「もう一度だけ聞く」
国王は、静かに、しかし冷厳に言った。
「シャロン・ハウロイドを追放したのは、誰だ」
謁見の間に、沈黙が落ちた。カイルは、唇を震わせた。
「……俺、です」
「そうだ」
国王は、深く息をついた。
「それだけは、覚えておけ」
謁見の間を出たカイルは、廊下に一人立ち尽くした。王太子の証である金の腕輪が、従者によって静かに外されていく。カイルはそれを、ただ見つめていた。(シャロンのせいだ)カイルは、それでも、そう思っていた。(あいつが俺を壊したんだ)
(全部、あいつのせいだ)
廊下の向こうから、アレクシスが歩いてくる。弟の姿を認めると、アレクシスは足を止めた。その表情には、勝利の色も、嘲りの色もなかった。ただ、静かな——哀れみがあった。それが、カイルには一番耐えられなかった。
「見るな」
カイルは吐き捨てた。
「俺を、そんな目で見るな」
アレクシスは何も言わなかった。
ただ、静かに道を空けた。
カイルは、誰もいない廊下を一人で歩いた。月が、窓の外に浮かんでいる。
(シャロン)
カイルは、心の中で呟いた。
(お前のせいだ)
(全部、お前のせいだ)
(いつか、必ず——)
その先の言葉は、カイル自身にも分からなかった。
ただ、怒りだけが、行き場を失ったまま、胸の中で燻り続けていた。
月明かりの下、カイルの影が、廊下に長く伸びていた。
まるで、全てを呪うように。
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