第3話 聖女の覚醒 【表】
聖杯の儀式の朝、カイルは重い頭を抱えながらベッドから這い出した。
「殿下、お目覚めですか」
侍従が恭しく声をかける。
「ああ……今日は例の儀式だったな」
「はい。一時間後に聖堂へお越しください」
「分かった」
カイルは面倒くさそうに答えた。毎年行われる形式的な行事。どうせ今年も、誰も聖女にはならないだろう。
だが、今年は少し違った。ルリアーナが参加するのだ。カイルは、彼女が聖杯に触れる姿を思い浮かべた。そんなことはほぼありえないが、聖杯に選ばれるルリアーナの姿を想像すると、少しだけ楽しみだった。
王宮中央に位置する聖堂は、白い大理石で作られ、朝日を浴びて輝いていた。カイルが到着すると、既に多くの貴族が集まっていた。挨拶を適当に返しながら指定された席に座ると、中央の黄金の台座に聖杯が置かれているのが見えた。
古代から伝わるという銀色の杯。表面には精巧な彫刻が施され、神秘的な雰囲気を放っている。
昨夜、聖堂係が念入りに清掃を行ったのだろう。聖堂はチリひとつ落ちていない。それだけ準備の整った儀式だ。
(本当に、あれが聖女を選ぶのか?)
伝説では、真の聖女が触れると聖杯が輝くという。だが、そんなことは百年以上起きていない。おそらく、ただの言い伝えに過ぎないのだろう。
やがて鐘の音が鳴り響いた。
「これより、聖杯の儀式を執り行います」
白い法衣をまとった大司教が厳かに宣言し、参列者たちは一斉に頭を下げた。
「聖杯よ、我らに真の聖女を示したまえ」
祈りの言葉の間、聖堂は静寂に包まれた。蝋燭の炎が揺れる音だけがかすかに聞こえる。
「それでは、本日集まっていただいたご令嬢の皆様には、順番に聖杯に触れていただきます」
高位貴族の子女達は、ソワソワとしながら列をなしている。金髪の令嬢、また別の令嬢。一人、また一人と触れていくが、聖杯は頑なに沈黙を保っていた。カイルは退屈そうに欠伸を噛み殺していた。
「次、ハウロイド侯爵家、シャロン様」
カイルは顔を上げた。深紅のドレスに身を包んだシャロンが、冷たい表情のまま聖杯の前に跪いた。ブロンドの髪が蝋燭の光に照らされて輝くが、碧眼はどこか人間離れした冷たさを湛えていた。
シャロンが両手を聖杯に添える。数秒が過ぎる。だが、やはり何も起こらなかった。(まあ、当然だな)カイルは内心で思った。あの女が聖女なわけがない。
シャロンは淡々と立ち上がり、元の位置に戻った。その顔には感情の起伏が一切見られなかった。まるで結果を予想していたかのように。
「次、フォンターナ家、ルリアーナ様」
カイルの背筋がピンと伸びた。ルリアーナがゆっくりと前に出てくる。ピンクブロンドの髪がふわりと揺れ、大きなはちみつ色の瞳には緊張と期待が混ざっていた。
彼女は聖杯の前で一度深呼吸をした。そして、祈るように目を閉じ、両手を聖杯に添えた。
その瞬間——
空気が震えた。
そして、光が聖堂を満たした。
「なっ……!」
「これは……!」
参列者たちが一斉に驚きの声を上げた。聖杯が輝いていた。眩しいほどの純白の光。それは聖杯から溢れ出し、聖堂全体を包み込んでいく。ステンドグラスに光が反射し、虹色の光の帯が空間を踊った。
「嘘だろ……」
カイルは呆然とその光景を見つめた。聖杯はルリアーナの手の中で輝き続けている。まるでルリアーナに従うように。まるで彼女を祝福するように。
「聖女だ……!」
「聖女が現れた!」
「百年ぶりの奇跡だ!」
聖堂は歓喜の声に包まれた。人々は立ち上がり、拍手を送った。ある者は涙を流し、ある者は神に感謝の祈りを捧げた。
光は徐々に弱まり、やがて聖杯は静かにルリアーナの手に戻った。ルリアーナは戸惑ったような表情で周囲を見回した。その大きな瞳には涙が浮かんでいた。
「私が……聖女……?」
彼女の震える声が、静まり返った聖堂に響いた。その戸惑い、その謙虚さ、その純粋さ——全てが完璧だった。
謙虚で、純粋で、神に選ばれた少女。完璧な聖女の姿が、そこにあった。
カイルはまるで夢を見ているような心地だった。
(ルリアーナが……聖女……?)混乱と同時に、別の感情が湧き上がってきた。高揚感。いや、それ以上の何か。運命を感じる、圧倒的な確信。
(これは……神の思し召しなのか)
カイルの胸は激しく高鳴った。自分が愛する女性が聖女だった。これは偶然ではない。これは運命なのだ。自分がルリアーナと結ばれるべきだという、神の啓示なのだ。
シャロンとの婚約など、もうどうでもよかった。父上も、もう反対できないだろう。聖女を妃に迎えることに、誰が反対できるだろうか。爵位が低い? 妃教育を受けていない? そんなことは些細な問題だ。聖女であるという事実の前には、全てが霞む。
カイルは興奮を抑えきれなかった。早くルリアーナに会いたい。彼女を抱きしめ、祝福の言葉を伝えたい。
大司教が震える声で宣言した。
「奇跡です……神が我々に、聖女を授けてくださいました」
「ルリアーナ様、どうか前へ」
ルリアーナはおぼつかない足取りで大司教の元へ歩いた。大司教は彼女の額に手を置いた。
「汝、神に選ばれし聖女。この国を祝福し、民を導きたまえ」
「は、はい……」
ルリアーナの声はか細かったが、その謙虚さがますます人々の心を打った。
「皆様」
大司教が参列者たちに向き直った。
「新たな聖女の誕生を、心から祝福いたしましょう」
聖堂は再び歓喜の声に包まれた。人々はルリアーナに向かって深々と頭を下げた。
カイルもまた立ち上がり、ルリアーナを見つめた。彼女は涙を拭いながら周囲に会釈をしていた。光に包まれたルリアーナの姿は、まるで天使のようだった。
その時、カイルはふとシャロンの姿を探した。
彼女は参列者の列の中で、いつもの冷たい表情でルリアーナを見つめていた。だがその目には何の感情も読み取れなかった。嫉妬? 羨望? 悲しみ?
何もない。まるで他人事を見ているかのような、冷めた視線。
(やはり、あの女は…)
カイルは改めてシャロンに対する嫌悪感を抱いた。こんな重要な場面でも何の感情も示さない。本当に人間らしさのない女だ。
それに比べて、ルリアーナは——
カイルは再びルリアーナに視線を戻した。彼女は感動で涙を流している。その感情豊かな姿が、カイルの心を温かくした。カイルの決意はますます固まった。
聖女の儀の後、ルリアーナは聖女の間に案内された。王宮最上階にある聖女の間には、豪華な調度品が揃えられていた。大きなベッド、精巧な彫刻が施された家具、美しいステンドグラス。
「こ、こんな素敵なお部屋……」
ルリアーナは目を輝かせた。
「聖女様にふさわしい部屋です」
侍従が恭しく言った。
「これから、専属の侍女たちがお世話をさせていただきます」
数人の侍女が列を作って頭を下げた。
「よろしくお願いします……」
ルリアーナは丁寧に挨拶をした。その謙虚な態度に、侍女たちは感動した様子だった。
侍従と侍女たちが部屋を出ると、カイルとルリアーナは二人きりになった。
「ルリアーナ」
カイルが声をかけると、ルリアーナは振り返った。
「本当に、おめでとう」
カイルは彼女の手を取った。
「君が聖女だなんて……俺は、夢を見ているようだ」
「私も……まだ信じられません」
ルリアーナは不安そうに呟いた。
「私なんかが、聖女だなんて……」
「何を言ってるんだ」
カイルは彼女の肩を抱いた。
「君こそが聖女にふさわしい。優しくて、純粋で、美しい」
「カイル様……」
ルリアーナは頬を赤らめた。
「俺は、君を愛している」
カイルは彼女の目を見つめた。
「でも……カイル様には、婚約者が……」
「気にするな」
カイルは苦々しい表情を浮かべた。
「必ず、婚約を破棄する。そして、君を俺の妃に迎える」
「カイル様……」
ルリアーナは感動したように目を潤ませた。
「本当に……私でいいんですか?」
「ああ」
カイルは彼女を強く抱きしめた。
「君以外に、俺の妃はいない」
二人は静かに抱き合った。窓の外からは、鐘の音が聞こえてくる。聖女の誕生を祝う鐘の音。カイルは心の底から幸せを感じていた。
その日の夕方、宮廷は聖女の話題で持ちきりだった。
カイルが廊下を歩いていると、貴族たちの噂話が耳に入ってきた。
「信じられないわ! 本当に聖杯が光ったのよ!」
「ルリアーナ様、あんなに可愛らしくて謙虚で…完璧な聖女様だわ!」
「それにしても、カイル殿下は幸運ですわね。聖女様と親しいなんて」
「もしかして、シャロン様との婚約を破棄して、聖女様を妃に?」
「それは……ありえるかもしれませんわね」
カイルは満足そうに微笑んだ。噂は瞬く間に広がっている。それでいい。皆が、ルリアーナこそが自分の妃にふさわしいと認めるだろう。
その頃、シャロンは自分の部屋で一人静かに窓の外を見ていた。
「お嬢様」
ルイが部屋に入ってきた。
「今日の儀式、すごかったですね。まさかあそこまで……」
「ええ」
「それに、あの人、あんなこと考えてたんですね」
「まぁ、それには流石に私も驚いたわ」
シャロンは窓の外を見つめたまま答えた。
その顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「さあ、これから面白くなるわね」
呟いた言葉は誰に聞かれることもなく、窓から吹き込む風に流されていった。
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