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番外編 とある詐欺師と令嬢の小話・その後

馬車が止まったのは、夜明けの光が海を染め始めた頃だった。


潮の匂いがした。


シャロン・ハウロイドは——いや、もうその名前は使えない——窓の外を見た。石畳の細い路地。色褪せた看板。漁師たちが網を手に歩いている。


小さな港町だった。


馬車の御者が、振り返らずに言った。


「こちらで」


路地の奥に、小さな家があった。木造の、古びた家。だが手入れはされている。扉の前に、鍵が一つ、置いてあった。


「準備は整っております。中に説明書きがあります」


御者はそれだけ言って、馬車を走らせた。あの人が手配した御者だろう。口が堅い。それだけで十分だった。


シャロンは鍵を拾い、扉を開けた。


家の中は、質素だった。

小さなテーブル。椅子が二つ。窓から、海が見える。


テーブルの上に、封筒があった。開けると、簡潔な文字で書かれた手紙が入っていた。


『食料は一週間分、用意してあります。近くの市場は、毎朝早い時間に開きます。身分証明書は引き出しの中に。名前はエレナ・マルク。仕立て屋の娘という設定です。詳細は別紙を』


そこまで読んで、シャロンは手紙を置いた。


窓の外を見た。


朝の光が、海面を照らしている。漁船が、沖へ向かっていく。波の音が、静かに聞こえた。


(自由だ)


その言葉が、胸の中で静かに響いた。

涙が出るかと思った。出なかった。ただ——胸の奥に、長い間押し込めていた何かが、ゆっくりと解けていく感覚があった。

シャロンは椅子に座り、しばらく何もしなかった。

ただ、波の音を聞いていた。


最初の一週間は、ほとんど眠った。

起きると食べ、また眠った。疲れていたのだと思う。体だけでなく、もっと深いところが。


八日目の朝、シャロンは初めて市場に出た。

エレナ・マルクとして。


「いらっしゃい、お嬢さん。新顔かい?」


野菜売りの老婆が、人懐こく声をかけてきた。


「ええ。先週越してきました」


「そうかい。どこから?」


「少し遠くから」


「ふうん。まあ、ゆっくりしていきな。この町は、居心地がいいよ」


老婆は、それ以上聞かなかった。

シャロンは野菜を買い、パンを買い、家に戻った。自分で料理を作るのは初めてだった。ハウロイド家では、全て使用人がやってくれた。

野菜を切る。火を起こす。鍋に入れる。

不格好なスープが、できあがった。

一口食べた。


(美味しい)


涙が出たのは、その時だった。


一ヶ月が過ぎた頃、シャロンは港の小さな書店で働き始めた。

店主は六十代の温厚な男で、余計なことを聞かない人だった。


「本が好きかい?」


「ええ、好きです」


「字が読めるなら、十分だ。うちの仕事は難しくない」


そういう採用だった。

書店の仕事は、シャロンに合っていた。静かで、人と深く関わらなくていい。古い本の匂いがして、窓から海が見える。


ただ、棚を整理して、客の問いに答えて、帳簿をつける。それだけのことが——ハウロイド家での生活とは、全く違った。


誰も、シャロンに期待しなかった。誰も、シャロンを値踏みしなかった。ただ、エレナとして、そこにいることを許されていた。


(こんなに、楽なのか)


気づいた時、少し泣いた。誰もいない書庫の中で、声を殺して。


半年が経った。

シャロンは町になじんでいた。

市場の老婆とは顔馴染みになった。書店の店主から、帳簿の管理を任されるようになった。港の漁師たちとも、挨拶を交わすようになった。


「エレナさん、今日も早いね」


「ええ、少し」


「元気そうで何より」


それだけの会話。だが、それが——心地よかった。

ある夜、シャロンは日記を書き始めた。

別に誰かに見せるためではない。ただ——書いておきたかった。


『今日、店主に褒められた。帳簿の整理が上手くなったと。ハウロイド家では、何をしても当然だと思われていた。褒められたことなど、なかった気がする』


ペンを止めた。

窓の外、月が出ていた。


(あの人は、今頃どうしているだろう)


あの夜、屋敷に忍び込んできた女のことを、時々思い出す。名前も知らない。顔は覚えている。冷静で、鋭くて、でもどこか——温かかった。


(うまくいっているといいけれど)


それだけを思った。

自分の名前を使って、王宮で生きているあの女が、目的を果たせますように。


一年が経った頃、書店に一人の旅人が立ち寄った。

二十代の女性で、旅装束を着ていた。茶色の髪、利発そうな目。


「古い文字の書かれた本を探しているのですが」


「古い文字というと、どの地方の?」


「それが、よく分からなくて。師匠から受け継いだ日記に似た字体の本があれば、と思って」


「少し見せてもらえますか、その日記を」


女性は少し迷ってから、日記を取り出した。シャロンは字体を確認した。


「これなら……奥の棚に、似た資料があるかもしれません。少し待ってください」


書庫に入り、古い資料を引っ張り出す。


「これはどうでしょう」


「……!」


女性の目が、輝いた。


「この字、同じです。ありがとうございます」


嬉しそうに、しかし静かに——礼を言った。その落ち着いた雰囲気が、どこか懐かしかった。


(誰かに似ている)


上手く思い出せなかった。ただ——不思議と、親しみを感じた。


「旅をされているのですか」


「ええ。少し、探し物があって」


「そうですか」


「あなたは、ここに長いのですか」


「一年になります」


「居心地は良さそうですね」


女性は、書店の中を見回した。古い本棚、窓から差し込む光、海の音。


「ええ」


シャロンは、素直に答えた。


「とても」


女性は微笑んだ。それだけで、もう何も言わなかった。資料の代金を払い、礼を言い、書店を出た。

シャロンはその後ろ姿を、窓越しに見送った。


(探し物が、見つかるといいわね)


ある朝、書店に手紙が届いた。

差出人の名前はなかった。宛名だけが、エレナ・マルクと書かれていた。

封を開けると、短い文章があった。


『目的を、果たしました』


それだけだった。

シャロンは手紙を、しばらく見つめた。

それから——静かに、微笑んだ。


(良かった)


心の底から、そう思った。名前も知らない女が、遠い場所で、目的を果たした。それが——なぜか、自分のことのように嬉しかった。

手紙を丁寧に折り、引き出しの奥にしまった。

窓の外では、今日も海が光っていた。

波の音が、変わらず聞こえていた。


(私は、ここで生きていく)


エレナ・マルクとして。名もなき令嬢として。

でも——それでいい。

これが、シャロン・ハウロイドが選んだ、自分の人生だった。


その夜、シャロンは日記に書いた。


『あの人から、手紙が来た。目的を果たしたという。良かったと思う。彼女のことを、私はほとんど知らない。でも——あの夜、私に差し伸べてくれた手のことは、一生忘れないだろう。名前も知らないままでいい。ただ、どこかで元気でいてくれれば、それで十分だ』


ペンを置いた。

蝋燭の炎が、静かに揺れていた。

窓の外に、月が出ていた。

どこかで、あの女も同じ月を見ているだろうか。


(きっと見ていない。あの人は、もうここではない場所にいるから)


シャロンは目を閉じた。

波の音が、遠くから聞こえていた。

穏やかな夜だった。

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