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番外編 とある詐欺師と令嬢の小話

それは、アメリアが王宮に向かう三ヶ月前のことだった。

夜半を過ぎた頃。

ハウロイド侯爵家の屋敷の壁を、私は音もなく越えた。

庭師の動きを事前に把握していた。警備の交代時間も。どの窓の鍵が甘いかも——全て、一週間かけて調べ上げた。


(三階、東の角部屋)

調査で得た情報を頭の中で確認しながら、蔦を伝って壁を登る。月明かりが雲に隠れるタイミングを選んだ。


窓の鍵を、細い針金でそっと外す。

かちり、と小さな音。

私は息を止めた。

廊下の気配を確認する。

——誰も来ない。

静かに窓を押し開け、部屋の中へ滑り込んだ。



暗い部屋だった。

昼間でも光が差し込まないのか、分厚いカーテンが完全に閉められている。

調度品は豪奢だが、どこか息が詰まるような空気が漂っていた。


花瓶には枯れかけた花。机の上には、手をつけていない食事の皿。

ベッドの上に、人影があった。


「誰……?」


気配に気づいたのか、少女が身を起こした。

ブロンドの髪が、暗闇の中で白く浮かびあがる。青い瞳が、警戒と恐怖を混ぜながら私を見ていた。

肖像画で見た通りの顔だった。


だが——想像していたより、ずっと細かった。頬がこけ、唇の色が悪い。何日もまともに眠れていないような、疲弊した顔。


(これが……ハウロイド家の令嬢)


シャロン・ハウロイド。


私はゆっくりと両手を上げ、敵意がないことを示した。


「声を出さないで」


小声で言った。


「あなたを傷つけに来たわけじゃない」


シャロンは口を開きかけ——止まった。

私の言葉を、慎重に測るように。


(賢い子ね)


すぐに叫ばなかったことに、内心で少し安堵した。


「誰なの」


シャロンが、震える声で尋ねた。


「名前は関係ないわ」


私はベッドから適切な距離を保ちながら、静かに言った。


「ただ——あなたを助けに来た」


「助ける……?」


その言葉を聞いた瞬間、シャロンの瞳が揺れた。

かすかに。でも確かに。


(やはり、そうね)


「あなたは、王太子との婚約が嫌なのでしょう?」


シャロンは何も言わなかった。

だが、その沈黙が——答えだった。


「調べたのよ」


私は続けた。


「一ヶ月かけて。あなたのことを」


「……何を」


「あなたが婚約を望んでいないこと。カイル王子を愛していないこと。そして——この家を、出たいと思っていること」


窓の外で、風が吹いた。

カーテンが、わずかに揺れる。

シャロンは、じっと私を見ていた。

やがて——その目から、涙が一粒、零れた。

声を出さなかった。泣き崩れなかった。ただ、静かに。まるで、ずっと我慢していたものが少しだけ溢れたように。


私は、懐から一枚の紙を取り出した。


「これを見て」


差し出すと、シャロンはためらいながらも受け取った。


蝋燭を点ける気配がして、やがて紙を見つめる目が、少しずつ見開かれていく。

それは、私が用意した書類だった。

偽造の身分証明。別の名前。別の経歴。小さな港町に用意した、人目につかない住居の場所。そして——当面の生活に困らない程度の金。


「これは……」


「あなたが新しく生きるための準備よ」


私は言った。


「今夜、この屋敷を出られる。誰も追ってこられないように、手は打ってある」


シャロンは書類から目を離し、私を見た。


「なぜ、そこまで」


「取引よ」


私は正直に答えた。

誤魔化す必要はない。この子は、誤魔化せるほど単純ではないと、調査を通じて分かっていた。


「私には、王宮に入る必要がある。理由は——秘宝よ」


「秘宝……」


「王宮の奥深くに眠っている。それを手に入れることが、私の目的。そのために、あなたの名前と経歴が必要なの」


シャロンは、しばらく黙っていた。


「……私が断ったら?」


「別の方法を考えるわ」


私は嘘をつかなかった。


「あなたを脅したり、傷つけたりするつもりはない。ただ——あなたが頷いてくれれば、お互いに得をする」


「私は自由になれる」


「あなたは、目的を果たせる」


シャロンは、書類に視線を落とした。

長い沈黙だった。

部屋の中に、時計の音だけが響いていた。



「一つだけ、聞かせて」


シャロンが口を開いた。


「何?」


「王宮に入って——カイル王子の婚約者として振る舞うことになるわよね」


「ええ」


「あなたは……大丈夫なの? あの人は、評判が良くないから」


私は少し、意外に思った。

自分が逃げ出せるかもしれない状況で——相手の心配をしている。


(やはり、優しい子ね)


「大丈夫よ」


私は答えた。


「私は、あなたほど傷つかない」


それは嘘ではなかった。私には目的がある。感情を乗せる必要がない。だから——耐えられる。

シャロンは、私をじっと見つめた。


「……あなたは、強い人なのね」


「そうでもないわ」


「私には、できない。だから——」


彼女は書類を、胸に抱いた。


「お願い、します」


小さな声だった。

懇願ではなく——決意のような声だった。


「私の代わりに、行って」


それから、私たちは一時間かけて準備を整えた。

シャロンが知っている王宮の情報、ハウロイド家の人間関係、幼い頃の記憶——話せることを、全て話してもらった。私はそれを、一言も漏らさず頭に刻んだ。


「母が好きだった花は、白い薔薇よ」


「父の書斎には、南向きの窓があって、午後になると光が差し込むの」


「幼い頃、よく東の庭で遊んだわ。今は誰も使っていないけれど」


シャロンは、懸命に言葉を選びながら話した。

私は聞きながら、シャロン・ハウロイドという人間を——自分の中に構築していった。

声の抑揚。言葉の選び方。笑い方の癖。


「一つ、お願いがあるの」


シャロンが言った。


「何?」


「……終わったら、教えてくれる?」


「何を?」


「あなたが目的を果たせたかどうかを」


私は少し考えた。


「難しいかもしれないけれど」


「構わない。いつかでいいから」


シャロンは微笑んだ。

初めて見た、彼女の笑顔だった。

生気を取り戻したような、静かな笑みだった。


夜明け前、シャロンは小さな荷物を一つだけ持って、屋敷の裏口から出た。

私が事前に手配しておいた馬車が、路地の角で待っている。


「行ける?」


「ええ」


シャロンは頷いた。

馬車の扉に手をかけ——一度だけ振り返った。


「あなたの名前、最後まで聞けなかったわね」


「聞かない方がいいわ」


私は答えた。


「そうね」


シャロンは微笑んだ。


「じゃあ——頑張って、シャロン」


その言葉が、扉の向こうに消えた。

馬車が、夜明けの闇の中へ走り去っていく。

私はその後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。


(これで、私はシャロン・ハウロイドになった)


冷たい夜風が、頬を撫でた。

三ヶ月後——私は王宮へ向かう。

師匠の願いを叶えるために。


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