第1話 不満だらけの婚約者 【表】
各話の【裏】は明日の土曜夜20:00頃に投稿予定です!
婚約破棄の日から遡った、半年前のとある日。
王太子のカイル・エドワルドは、執務室の窓から夕暮れの空を眺めながら、深いため息をついた。机の上には処理すべき書類が山積みになっているが、今日もまた手をつける気力が湧かない。
彼の頭の中を占めているのは、婚約者への不満だった。
「ハウロイド家の娘は代々、可憐で可愛げがあると聞いていたのに……」
カイルは苛立たしげに髪をかき上げた。
シャロン・ハウロイド。確かにブロンドの髪と宝石のような碧眼は美しい。だが、その瞳には鋭い光があり、まるで人の心を見透かすかのようだ。美しさはあれど、カイルが求める可愛らしさは欠片もない。
「まるで詐欺にでもあった気分だ」
カイルは吐き捨てるように呟いた。
昔からカイルは、可愛らしい女の子がタイプだった。自分を慕い、少し困ったような顔で頼ってくる、そんな女性に心惹かれる。
それなのに政略結婚の相手は、美人だが気が強そうなご令嬢。しかも文武両道で、なんでも華麗にこなす。剣術の腕前は王宮騎士団の副団長にも引けを取らず、社交界では的確な会話で諸外国の貴族たちを手玉に取り、執務においても彼女が目を通した書類に不備が出たことはない。
完璧すぎる。カイルが求める「守ってあげたい存在」とは、正反対だった。
初めて正式に対面した時のことを、カイルは今でも鮮明に覚えている。
「お初にお目にかかります、カイル殿下。シャロン・ハウロイドと申します」
彼女は完璧な礼儀作法で挨拶をした。その所作に一切の隙がない。カイルが何か気の利いたことを言おうとすると、彼女は先回りして的確な返答を返してくる。会話の主導権を握ろうとしても、いつの間にか彼女のペースに飲まれている。それが、たまらなく気に食わなかった。
婚約が正式に決定した後も、カイルの態度は冷たいままだった。いや、むしろ悪化していったと言えるだろう。
婚約発表から三ヶ月後のある夜、カイルは貴族の私邸で開かれた夜会に姿を見せていた。
「殿下、お飲み物をどうぞ」
ピンク色のドレスに身を包んだ令嬢が、艶やかな笑みを浮かべながらグラスを差し出す。カイルはそれを受け取り、一気に煽った。
「もっと注いでくれないか、イザベラ」
「あら、殿下。そんなに急いでお飲みになったら、お体に障りますわ」
イザベラと呼ばれた令嬢は、心配そうな表情を浮かべる。その仕草が心地よかった。シャロンとは違う——そう思うだけで、気が楽になる。
「大丈夫だ。それより、もっとこっちに来い」
カイルは令嬢の腰を引き寄せた。イザベラは小さく悲鳴をあげて、カイルの胸に倒れ込む。
「殿下、お戯れが過ぎますわ」
「これくらいは戯れのうちに入らないさ」
カイルは上機嫌で笑った。
「そういえば殿下、ご婚約者のシャロン様は、とても才能に恵まれた方だと噂ですわ」
「……その話はやめてくれ」
カイルの表情が一瞬で曇る。イザベラは慌てて謝罪した。
「申し訳ございません。不快なお話を……」
「いや、君が謝ることじゃない」
カイルは溜息をついた。
「あの女は完璧すぎるんだ。何をやっても完璧。そばにいると、まるで自分の無能さを見せつけられているような気分になる」
「そんなことございませんわ。殿下は素晴らしいお方です」
イザベラは優しくカイルの頬に手を添えた。その温もりに、カイルは目を細める。
「君はそう言ってくれるから好きだよ、イザベラ」
その夜、カイルはイザベラと朝まで私邸で過ごした。
それから、カイルの夜遊びは頻繁になっていった。ある時は王都の酒場で貴族令嬢たちと朝まで騒ぎ、またある時は別の令嬢との密会を楽しんだ。
カイルの周りには、いつも違う令嬢がいた。ブロンドの令嬢、赤毛の令嬢、黒髪の令嬢。容姿は様々だったが、全員が可愛らしく、従順だった。侍従たちが眉をひそめているのは分かっていたが、カイルは気にしなかった。俺は王太子だ。誰にも文句は言わせない。
一方、シャロンはカイルの行動について、一度も苦言を呈することはなかった。
「殿下がどのようにお過ごしになろうと、それは殿下の自由です」
社交の場でカイルの態度について問われた時、シャロンは涼しい顔でそう答えたという。
その話を聞いた時、カイルは奇妙な苛立ちを覚えた。
(嫉妬の一つもしないのか)
どこまで行っても可愛げがない婚約者の発言にうんざりしながら、カイルは自分の行いを棚に上げて婚約者への不満を高まらせていった。
そんなある日の夕暮れ時、カイルは執務を終えて王宮の廊下を歩いていた。窓の外に目をやると、中庭の薔薇園に人影が見えた。金色の髪が夕日に照らされて輝いている。
シャロンだった。
彼女は一人、薔薇の花々の間をゆっくりと歩いていた。その横顔は、いつもの凛とした表情とは違い、どこか物憂げで寂しげに見える。足を止めて白い薔薇を見つめる姿は、まるで誰かを待っているかのようでもあり、何かを探しているかのようでもあった。カイルは思わず足を止めた。だが、すぐに視線を逸らし、そのまま自室へと向かった。
「殿下、先ほど中庭でシャロン様がお一人で散策なさっているのをお見かけしましたわ」
数日後、ある侍女が同僚にそう話しているのを、カイルは偶然耳にした。
「あら、またですの? この間も早朝の東の回廊で、お一人で窓の外を眺めていらっしゃったとか」
「でも、最近はアレクシス殿下とお話しされているところをお見かけすることもあるとか……」
「まあ。第一王子殿下と? あの方、めったに人と話されないのに」
「一体なんの話をされているのか……」
「お可哀想に。ご婚約者でいらっしゃるのに、殿下はいつも別の方とばかり……」
侍女たちは声をひそめた。カイルは聞こえないふりをして、その場を立ち去った。
一瞬、兄のアレクシスとシャロンという珍しい組み合わせの単語が聞こえた気がしたが、特に興味もわかなかったため聞き流した。地味な兄と嫌いな婚約者が何を話そうと知ったことではない。
しかし確かに、最近シャロンが一人で王宮内を歩いている姿をよく見かける気がする。
——寂しい思いをしているなら、それでいい。
カイルはそう思った。なんなら今までの態度を謝罪して縋ってくればいい。
だが、いつまで経ってもシャロンの態度は変わらなかった。
ある社交界の夜。
王宮で開かれた夜会の席。カイルは、また新しい令嬢を見つけていた。
「殿下、こちらは東方伯爵家のご息女、マリアンヌ様です」
侍従の紹介で、カイルの前に現れたのは、金色の巻き毛と大きな緑の瞳を持つ少女だった。
「お初にお目にかかります、殿下」
マリアンヌは頬を赤らめながら、ぎこちなくお辞儀をする。その初々しさに、カイルは思わず笑みを浮かべた。
「顔を上げてくれ。君のような美しい女性が頭を下げるなんて、もったいない」
「あ、ありがとうございます……」
マリアンヌはさらに顔を赤くする。カイルは彼女の手を取り、軽く口づけた。
「一曲、踊っていただけるかな?」
「は、はい!」
二人がダンスフロアに向かうのを、会場の人々が注目する。その中に、シャロンの姿もあった。
シャロンは、遠くからその光景を眺めていた。表情は相変わらず冷静そのもの。碧眼の瞳には、何の感情も浮かんでいないように見える。
「シャロン様、よろしいのですか?」
隣にいた従者のルイが心配そうに声をかける。
「何かしら?」
「殿下が、また別の女性と……」
「構わないわ」
シャロンは淡々と答えた。
「むしろ好都合よ。あの方が私に構わないでいてくれる方が、やりやすいわ」
シャロンの口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。シャンデリアに照らされた美貌はまるで彫像のようだ。
「やりやすい……ですか」
ルイは小声で確認する。シャロンは小さく頷いた。
「ええ。例の調査、あと少しで終わりそうなの」
その言葉に、ルイは驚きの顔を見せた。あれはとてもすぐに終わる案件ではないとでも言いたげな表情だったが、それ以降の言葉は舞踏会の雑踏の中に流されていった。
その頃、カイルとマリアンヌのダンスは、会場中の注目を集めていた。
「殿下、とてもお上手なのですね」
「君が良いパートナーだからさ」
カイルは甘い言葉を囁く。マリアンヌは幸せそうに微笑んだ。
ダンスが終わり、二人がテラスに出ると、カイルはマリアンヌの腰を抱き寄せた。
「殿下……!」
「誰もいない。少しくらい、いいだろう?」
カイルがマリアンヌの唇に顔を近づけようとした、その時だった。
「カイル殿下、失礼いたします」
冷たい声が響いた。二人が振り返ると、そこにはシャロンが立っていた。
「シャロン……! お前、何の用だ」
カイルは苛立ちを隠そうともせず、問いかける。
「国王陛下がお呼びです。至急、謁見の間へお越しください」
「今は忙しい。後にしろ」
「陛下は『至急』とおっしゃいました」
シャロンの口調には、感情の起伏が一切ない。まるで事務的な報告をしているかのようだった。
カイルは舌打ちをした。
「……分かった。すぐに行く」
マリアンヌに謝罪の言葉を告げ、カイルは会場を後にした。その背中を、シャロンは静かに見送る。こうして、シャロンとカイルは一度も踊ることなく夜は更けていった。
それからも、カイルは婚約者であるシャロンを完全に無視し、様々な令嬢と浮名を流し続けた。王宮中がその噂で持ちきりだったが、当のシャロンは一切気にする様子もなく、淡々と自分の務めをこなしていた。
そんなある日、カイルの行く先を大きく変える運命の出会いが訪れる。
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