番外編 とある変装師の小話
ノエルには、ポリシーがあった。
変装はする。潜入もする。情報収集も、尾行も、なんでもやる。だが——可愛い女の子の変装だけは、やりたくなかった。
「ノエル、侍女に化けてルリアーナ・フォンターナに近づいて」
シャロンが言った瞬間、ノエルは盛大にため息をついた。
「……また、そういう役ですか」
「あなたが一番上手いもの」
「分かってます。分かってますけど」
ノエルは鏡を見た。
中性的な顔立ち。華奢な体つき。長い睫毛。
「僕、こういう顔に生まれたのが呪わしいです」
「褒めてるのよ」
「褒めてる顔じゃないです」
シャロンは既に次の書類に目を落としていた。
(この人、本当に人の話を聞かない)
ノエルは再びため息をついて、化粧道具に手を伸ばした。
ノエルがシャロンに出会ったのは、三年前のことだ。
あの夜のことは、今でもよく覚えている。
南方の港町。薄暗い路地。ノエルは壁に背をつけて、息をひそめていた。
仕事が、失敗した。
貴族の屋敷に忍び込んで書類を盗み出す——簡単な依頼のはずだった。だが、屋敷の警備は事前の情報より遥かに厳重で、逃げる途中で顔を見られた。今頃、追手が路地を探し回っているはずだ。
(まずい)
全身に、冷や汗が流れていた。
変装の得意なノエルでも、追手の目の前で別人になるのには時間がかかる。路地の暗がりで化粧道具を広げている余裕はない。
足音が近づいてきた。
(終わった)
そう思った瞬間——
「あら、見つけたわ」
明るい声がした。
路地の角から、一人の女が歩いてきた。ブロンドの髪。碧眼。ノエルより少し年上に見える。手に提灯を持って、まるで散歩でもしているかのような気軽な足取りだった。
「ちょっと待って、逃げないで」
ノエルは逃げようとした。だが、女は素早くノエルの腕を掴んだ。
「追手が来てるでしょう。私のそばにいなさい」
「は?」
「いいから」
女は提灯を持ち直し、路地の入口に向かって歩き出した。ノエルの腕を掴んだまま。
直後、追手の男たちが路地に踏み込んできた。
「そこの二人、止まれ!」
女は振り返った。
まるで怯えていなかった。それどころか、困ったように眉を下げて、上品な微笑みを浮かべた。
「まあ、どうかなさいましたか? 私はバルク商会のシルヴィア・マーカスと申します。急ぎの使いで、こちらの従者と参っておりましたが」
「従者?」
追手がノエルを見た。
ノエルは一瞬で状況を理解した。
(この人、僕に乗っかれと言っている)
「は、はい。旦那様のお使いで、急いでおりまして」
ノエルは、できる限り従者らしく頭を下げた。
追手の男たちは、二人を交互に見た。
「……失礼しました。不審な者を追っておりまして」
「まあ、大変。お気をつけて」
女は優雅に会釈をした。
追手が立ち去るのを見送ってから——女はようやく、ノエルの腕を離した。
「あなた、変装が得意でしょう」
開口一番、そう言った。
「……なんで分かるんですか」
「追手に見られた顔と、今の顔が違う。逃げながら、少し変えたのね」
ノエルは黙った。
確かに、路地を走りながら前髪を下ろして、持っていた布を首に巻いて、印象を変えていた。ほんの少しだけ。だが、確かに変えていた。
「助けてもらった理由を、聞いてもいいですか」
「あなたが使えそうだったから」
女は、あっさりと言った。
「それだけ?」
「それだけよ」
「……正直な人ですね」
「嘘をつく理由がないもの」
女は提灯を持ち直した。
「私はシャロン。詐欺師よ。あなたは?」
「……ノエル。変装師、何でも屋です」
「そう」
シャロンは微笑んだ。
「良い仕事をしているのに、随分と状況が悪かったわね。逃げ方が雑だった」
「それは……そうなんですけど」
「一緒に来る?」
ノエルは少し考えた。
この女が何者か、まだ分からない。目的も、何を企んでいるかも。
だが——助けてくれた。理由が「使えそうだったから」だとしても、助けてくれたことは事実だ。
「……条件を聞かせてください」
「仕事を手伝ってもらう。危険な目に遭わせるつもりはないけれど、不憫な役をやってもらうことはあるかもしれない」
「不憫な役」
「変装して、誰かに近づいたり。地味な仕事が多いわ」
ノエルは苦笑した。
「正直ですね、本当に」
「嘘をついて引き込んでも、後で文句を言われるだけだもの」
(この人、変わってる)
だが——嫌いではなかった。
「分かりました」
ノエルは頷いた。
「ただし、一つだけ条件があります」
「何?」
「可愛い女の子の変装だけは、回数制限を設けてください」
シャロンは少し考えた。
「……善処するわ」
「善処、ですか」
「ええ」
「善処って、つまり——」
「あなたが一番上手いから、頼むことになると思うけれど」
「やっぱりそうじゃないですか!」
シャロンは既に歩き出していた。
ノエルは盛大にため息をついて、その後を追った。
それが——始まりだった。
それから三年。
ノエルは数え切れないほどの変装をした。
老婆。商人。騎士。書記官。清掃係。旅人。
そして——侍女。
「侍女、多くないですか」
ある夜、ノエルはシャロンに言った。
「そう?」
「僕が記録をつけてるんですけど、変装した役のうち三割が侍女です」
「効果的なのよ。どこにでもいて、誰も気にしない」
「それは分かります。分かりますけど」
ノエルは鏡を見た。
侍女服を着た自分の姿が映っている。
「なんで僕、こんなに似合ってるんですかね」
「天職じゃないの」
「違います」
シャロンはくすりと笑った。
ノエルは、その笑い声を聞いて——少しだけ、まあいいかと思った。
この人が笑うのは、珍しい。本当に可笑しい時だけ、笑う。ため息をついて、ノエルは化粧道具に手を取った。
ルリアーナ・フォンターナへの潜入は、今までの仕事の中でも準備に時間がかかった。
「まず、あの令嬢の好みを調べてくれ」
シャロンに言われて、ノエルは一週間かけてルリアーナの情報を集めた。
騎士団長の娘。次女。王宮にはほとんど姿を見せない。社交経験は少なく、侍女は二人だけ。
好み——花が好き。甘いものが好き。話を聞いてくれる相手が好き。
(話を聞いてくれる相手)
ノエルは、そこに線を引いた。
「シャロンさん、ルリアーナ様の侍女になるなら——聞き上手な侍女が良さそうです」
「そうね。あなたに向いているわ」
「……僕、聞き上手ですか」
「ええ。相手が話したいと思うような顔をするのが、上手い」
ノエルは少し考えた。
確かに、変装をする上で——相手に「この人になら話せる」と思わせることは、重要なスキルだ。無意識にやっていたが、シャロンにはそれが見えていたらしい。
(この人、本当によく見てる)
「分かりました。やります」
「ありがとう」
「……お礼を言うんですね、珍しい」
「あなたに無理をさせるから」
シャロンは静かに言った。
「無理をさせる自覚はあるのよ。ただ——あなたが一番適任だから、頼んでいる」
ノエルは、少し黙った。
この人は、こういうことをたまに言う。普段は淡々としていて、感情を表に出さないくせに——たまに、こういうことをさらりと言う。
だから、ノエルはこの人についていく。
「……分かりました。完璧にやります」
「ええ、信頼しているわ」
ルリアーナの侍女として潜入するにあたって、ノエルはまず外見を作り込んだ。
鏡の前に座り、化粧道具を並べる。
目の形を少し変える。頬に軽く影をつけて、輪郭を柔らかく見せる。髪は明るい茶色に染めて、緩くまとめた。
仕上がりを確認する。
鏡の中には、どこにでもいそうな、可愛らしい侍女の姿があった。
(また、こういう顔か)
ノエルは小さくため息をついた。
変装の完成度は、高い。自分でも分かる。だが——鏡の中の自分を見るたびに、微妙な気持ちになる。
(僕の本当の顔、どれだっけ)
長年変装を続けていると、たまにそんな気持ちになる。
(……まあ、どうでもいいか)
ノエルは立ち上がった。
今日から、しばらくはこの顔で生きる。それだけのことだ。
ルリアーナの侍女として初めて顔を合わせた日、ノエルはルリアーナの第一印象を確認した。
可愛らしい令嬢。大きな瞳。人懐っこい笑顔。
だが——目の奥が、笑っていない。
(なるほど)
ノエルは内心で頷いた。
シャロンが「欲しいものを見ている目」と言っていた意味が、分かった。
「よろしくね」
ルリアーナが言った。
「はい、ルリアーナ様。よろしくお願いいたします」
ノエルは、柔らかく微笑んだ。
相手が「話せる」と思うような顔で。
ルリアーナのお気に入りになるのに、一週間かからなかった。
コツは、単純だった。
話を聞く。否定しない。さりげなく褒める。そして——相手が言いたそうなことを、先に言わせる。
「カイル様って、本当に素敵な方よね」
「ええ、本当に。ルリアーナ様によく似合いだと思います」
「そう思う?」
「はい。ルリアーナ様みたいに可愛らしい方が隣にいてこそ、殿下も引き立つというものです」
ルリアーナは嬉しそうに笑った。
(単純だな)
ノエルは内心で思いながら、笑顔を保った。
人の承認欲求に乗っかるのは——変装師の基本技術だ。
それからの一週間、ノエルはルリアーナの話し相手になった。カイルへの想い。妃になりたいという夢。家格への不満。
ルリアーナはよく喋った。ノエルはよく聞いた。
「ねえ、あなたって本当に話しやすいわ」
ある日、ルリアーナが言った。
「ありがとうございます」
「他の侍女とは、なんか違うのよね。押しつけがましくないというか」
「ルリアーナ様のお話が、面白いのです」
「本当に?」
「はい」
嘘だった。
だが——そう言われて喜ぶルリアーナの顔を見ながら、ノエルは微かな罪悪感を感じた。
(……まあ、仕事だ)
ノエルは笑顔を保った。
お気に入りになってから、ルリアーナは本音を話すようになった。
最初は少しずつ。
「本当は、カイル様の妃になりたいのよね。でも無理なのかな」
「そんなことはないと思いますが」
「だって、家格が低すぎるもの」
「何か、決め手があれば変わるかもしれませんね」
ルリアーナの目が、少し光った。
(ここだ)
ノエルは内心で思った。
この瞬間を、シャロンは読んでいた。
(流石だな、シャロンさん)
そしてノエルは——シャロンに言われた通りの言葉を、そっと差し出した。
──「実は、私の遠い祖先に、聖女がいたのです」




