番外編 とある王子の小話
アレクシスが本物のシャロン・ハウロイドと言葉を交わしたのは、一度だけだった。
彼女が十二歳の時。北方公爵家で開かれた晩餐会の夜のことだ。
父王に「社交を学べ」と連れていかれた晩餐会は、予想通り退屈だった。大人たちが酒を片手に延々と話し込んでいる。アレクシスは適当に相槌を打ちながら、こっそり庭に出た。
庭に、先客がいた。
ブロンドの髪の少女が、薔薇の前に立っていた。アレクシスが近づいても、振り返りもしない。薔薇を眺めたまま、ぼんやりと立っている。
「こんな時間に、一人か」
声をかけると、少女は振り返った。
「アレクシス殿下」
完璧な礼をした。
「ハウロイド侯爵家のシャロンと申します」
それだけ言って、また薔薇に視線を戻した。
会話を続ける気がないのか、あるいは続け方が分からないのか。どちらにせよ、媚びる素振りも、愛想笑いをする様子もなかった。
アレクシスも特に話しかけなかった。
しばらく、二人で薔薇を眺めた。気まずくもなく、かといって打ち解けてもいない。ただ、同じ場所に立っていた。
「そろそろ戻ります」
少女が言った。
「殿下も、お風邪を召されませんよう」
それだけ言って、屋敷の中に戻っていった。
アレクシスは特に引き止めなかった。
以上が、全てだった。
それきり、二人が顔を合わせることはなかった。
晩餐会が終わり、それぞれの日常に戻っただけの話だ。アレクシスの記憶の中で、シャロン・ハウロイドという名前は「北方公爵家の晩餐会で少し言葉を交わした、ハウロイド家の令嬢」という程度の位置づけでしかなかった。
印象に残っていたとすれば——媚びなかったこと、それだけだ。
数年後、カイルの婚約者としてシャロン・ハウロイドが王宮に来た。
アレクシスは廊下で彼女を見かけた。
最初に感じたのは、小さな違和感だった。
歩き方が、記憶と違う。
晩餐会で見た少女の歩き方と、重心の置き方がわずかに異なる。似ているが、同じではない。
(記憶違いか)
数年も経てば、人は変わる。それだけのことかもしれない。
だが翌日、廊下で再び顔を合わせた時——違和感が確信に変わった。
目が、違う。
碧眼の色は同じだ。だが質が違う。晩餐会の夜の少女の目は、どこか内側に向いていた。この女の目は——外側を、常に、正確に見ている。
(別人だ)
感傷でも直感でもない。観察の積み重ねによる、冷静な結論だった。
その日の夕方、アレクシスは側近のエドガーを呼んだ。
「ハウロイド家の令嬢について調べてくれ。ここ数ヶ月の動きを」
「何かございましたか」
「確認したいことがある」
エドガーは翌日、報告を持ってきた。
「シャロン・ハウロイド様ですが、王宮に来る三ヶ月ほど前から、社交の場への出席が突然なくなっております。屋敷にはいるようですが、誰とも会っていないと」
「そうか」
「それが、王宮への出発直前まで続いたようで」
「分かった」
アレクシスは静かに頷いた。
三ヶ月間、人と会わなかった。そして王宮に現れたのは、別人だった。
本物のシャロンは——どこかへ消えた。
そして目の前の女が、シャロンを名乗って王宮に入り込んだ。
(目的は何だ)
金か。情報か。それとも別の何かか。
(まずは様子を見よう)
敵か味方か分からない段階で動くのは得策ではない。それに、この女の動きを見ている限り、王宮に害をなす素振りはない。カイルの放置した執務を片付け、社交の場で適切に振る舞っている。むしろ王宮の機能を助けている。
ならばもう少し、見ていよう。そして必要な時が来たら——使えるかもしれない。
アレクシスは、そう判断した。
翌朝、廊下で「シャロン」に声をかけた。
「これは、シャロン様」
「アレクシス殿下」
完璧な礼。完璧な所作。
(よく仕上げてきた)
内心で思いながら、当たり障りのない会話を続けた。女の目がアレクシスを測っているのは分かった。こちらも測っているのだから、お互い様だった。
「王宮は、広いですから。迷われた時は、お気軽にお声がけください」
「ありがとうございます」
読めない笑顔だった。
アレクシスはその場を離れた。
それ以上でも、それ以下でもなかった。




