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エピローグ 全ての始まり

~とある転生者の日記より~


目が覚めた時、空が見えた。

見たことのない色の空だった。青すぎる。雲が白すぎる。光が、眩しすぎる。


(ここは……)


身を起こそうとして——できなかった。体が、石のように重かった。

草の匂いがした。土の匂いがした。どこかで、鳥が鳴いていた。聞いたことのない鳴き声だった。


(死んだ、はずだ)


記憶を辿る。交差点。赤信号。スマートフォンの画面を見ながら歩いていた。車のクラクション。急ブレーキの音。そして——


(転生、か)


呆然と、青すぎる空を見上げながら、田中誠司——後に「師匠」と呼ばれることになる男は、そう理解した。


三十二歳。独身。詐欺師として現代社会の裏の世界で様々な相手を手玉にとってきた男。その男が、見知らぬ世界の草原に、一人倒れていた。


転生者特典、というものがあった。

この世界の知識が、頭の中に流れ込んでくる感覚。地図、言語、風俗、歴史。まるで分厚い百科事典を丸ごと飲み込んだような——奇妙な充足感。

そして、その中に一つ、際立った情報があった。


『三つの秘宝』


この世界に散らばる、三つの宝石。それを一箇所に集め、特定の言葉を唱えると、一つだけ、願いが叶う。


(なんだ、そのご都合主義な設定は)


誠司は苦笑した。でも——情報は確かに、頭の中にあった。


(使えるな)


詐欺師の本能が、すぐに動いた。願いが叶うなら——金がいい。地位がいい。名誉がいい。この世界で、楽に生きられるだけのものを手に入れたい。

三十二歳で異世界に放り込まれた男の、正直な欲望だった。


誠司は、この世界で生きることにした。選択の余地は、なかったが、まず言語を習得した。転生特典のおかげで、読み書きは既にできた。次に身分を偽り、適当な街に潜り込んだ。


詐欺師の技術は、世界が変わっても使えた。むしろ、この世界の人々は、日本に比べて情報に疎い。騙しやすい、とは思わなかった。ただ、騙す手口を変える必要がなかった。


貴族の使者を装い、商人から金を巻き上げる。偽の薬を売る。架空の投資話を持ちかける。誠司の詐欺は、洗練されていた。証拠を残さない。足がつく前に街を出る。同じ手口は繰り返さない。


そうして、誠司は各地を転々としながら、三つの秘宝を探した。


秘宝の在処は、転生特典の知識の中に断片的に記されていた。一つは北方の山岳地帯に。一つは南の王国の秘宝庫に。そして一つは——詳細が、分からなかった。


(まあ、いい。焦ることはない)


誠司は楽観的だった。時間はある。若い体がある。知識もある。この世界で、のんびりやっていけばいい——そう思っていた。



三十代は、あっという間に過ぎた。

北方の秘宝を手に入れたのは、三十六歳の時だった。山岳地帯の廃墟に隠されていた、白の宝石。手に取った瞬間、かすかに振動した。本物だと、分かった。


(一つ目)

南の王国の秘宝庫に忍び込んだのは、四十歳の時だった。これは苦労した。三年かけて計画を立て、身分を偽り、内部の人間に取り入り——ようやく赤い宝石を手に入れた。


(二つ目)

残るは一つ。だが、三つ目の秘宝の在処が、どうしても分からなかった。転生特典の知識には、断片的な情報しかない。『王都の古い塔』『地下三層』——それだけだ。どの王都なのか。いつ頃のことなのか。


(まあ、いい。いつかは見つかる)

まだ、誠司は楽観的だった。


四十三歳の秋、誠司はある街道で、一人の子供を見つけた。

道の端に、倒れていた。小さかった。六歳か、七歳か。ブロンドの髪が、泥で汚れている。呼吸はあるが——ひどく弱かった。

誠司は立ち止まった。


(関係ない)


そう思った。詐欺師は情に流されてはいけない。弱者を助ける義務はない。むしろ、荷物が増えるだけだ。


誠司は足を踏み出した。子供の傍を、通り過ぎようとした。


その時——子供が、目を開けた。


焦点の合わない目だった。熱があるのか、瞳が霞んでいる。だが——その目が、誠司を捉えた。何かを言おうとして、言えなかった。唇が、かすかに動く。

誠司は、足を止めた。


(……くそ)


舌打ちをして——子供を抱き上げた。軽かった。こんなに軽い子供を、抱いたことがなかった。


「死ぬなよ」


誰に言うでもなく、呟いた。


「せっかく拾ったんだから」



子供は、三日間高熱を出し続けた。

誠司は宿屋の一室で、ひたすら子供の額を冷やし、水を飲ませ、薬草を煎じた。医者を呼ぼうとしたが——子供に身分を証明するものが何もない。捨て子か、家出か、はぐれたのか。分からなかった。


(まあ、俺が診るか)


転生特典には、この世界の薬草知識も含まれていた。詐欺に使えるかもしれないと思って、一通り頭に入れてあった。結果として、役に立った。


四日目の朝、子供の熱が下がった。

目が覚めた子供は、誠司を見て、泣かなかった。ただ、じっと見つめた。警戒している目だった。怖がっていない。ただ、相手を測るような、妙に落ち着いた目。


(変わった子だ)


誠司は思った。


「名前は?」


子供は答えなかった。


「親は?」


また、答えなかった。


「……まあ、いいか」


誠司は溜息をついた。


「とりあえず、飯食えるか?」


子供は——こくり、と頷いた。


名前がないなら、つければいい。


誠司はしばらく考えて「アメリア」と呼ぶことにした。この世界で、自分が気に入った響きの名前だった。


「アメリア」


呼ぶと、子供はぴくりと反応した。


「今日からそれがお前の名前だ。文句あるか?」


子供は首を振った。


「よし」


こうして、詐欺師と名無しの子供の奇妙な旅が始まった。



最初は、置いていくつもりだった。


次の街に着いたら、孤児院か、人の良さそうな家に預ける。それで終わり。そのつもりだった。


だがアメリアは、賢かった。恐ろしいほど、賢かった。一度言ったことを忘れない。物事の本質を、直感的に掴む。人の嘘を見抜くのが、異様に上手かった。


ある日、誠司が商人に偽の薬を売りつけようとしていると、アメリアが袖を引っ張った。


「あの人、気づいてる」


小声で言った。見ると、確かに、商人の目に疑惑の色があった。誠司はすぐに話を切り上げ、その場を離れた。


後で聞くと、商人の指が僅かに震えていたのをアメリアが見ていた、という。


(この子……)


誠司は、子供を見直した。次の街には、預けなかった。


五十代に入る頃には、アメリアは立派な詐欺師の助手になっていた。


貴族の令嬢を装い、商人を欺く。偽の情報を流し、競合相手を蹴落とす。書類を偽造し、身分を作り上げる。


「師匠、この書類、筆跡が一箇所だけ違います」


「どこだ」


「ここの『の』の字。少し右に傾いてます」


「……よく気づいたな」


「師匠の癖ですから」


アメリアはあっさりと言った。誠司は苦笑した。


(俺の癖を把握してるのか)


この子は——怖い。でも。


(悪くない)


旅の道連れとして。弟子として。いつの間にか家族のような何かとして。誠司は認めたくなかったが、アメリアがいない生活を、もう想像できなかった。



五十代の半ばを過ぎた頃から、誠司の体が変わり始めた。

疲れやすくなった。膝が痛む日が増えた。長距離の移動が、億劫になってきた。


(老いる、か)


当然だった。この体は、この世界で生まれた体ではない。だが——時間は等しく流れる。


それと同時に、奇妙な感情が芽生え始めた。夢を、見るようになった。見慣れた街並みの夢。コンクリートの道。電線。コンビニの看板。混雑した電車の中。

目が覚めると——草原と石畳と、薪の匂いがする。


(ああ)


胸の中に、じわりと何かが広がる。懐かしさ、とは違う。もっと、しつこい感情。


(帰りたい)


最初は、小さな気持ちだった。だが、年を重ねるごとに、その気持ちは大きくなっていった。

秘宝を集めたら、金を願おうと思っていた。地位でもいい。名誉でもいい。でも——


(もう一度だけ、あの景色が見たい)


故郷の空。故郷の匂い。故郷の音。三十二年間生きた、あの世界。それを、もう一度——

誠司は三つ目の秘宝を探す理由が、いつの間にか変わっていることに気づいた。



「師匠」


ある夜、アメリアが言った。


「何だ」


「最近、顔色が悪いです」


「そうか」


「無理をしてませんか」


「してない」


「してます」


アメリアは断言した。誠司は苦笑した。


「……お前に言っても仕方がないが」


「言ってください」


「故郷が、恋しくなった」


アメリアは、少し間を置いた。


「師匠の故郷……日本、でしたっけ」


「ああ」


誠司は窓の外を見た。月が出ていた。


「若い頃は、戻りたいとは思わなかった。あそこには、特に未練もなかったし」


「でも今は?」


「……老いると、変わるんだ」


誠司は静かに言った。


「大したものは何もない。家族もいない。友人も、大して多くなかった。でも——」


言葉が、喉の奥に詰まった。


「故郷の景色が、見たい。ただ、それだけだ」


アメリアは何も言わなかった。ただ——机の上の地図を、静かに見た。三つ目の秘宝の在処を探し続けている地図を。


「見つけましょう」


アメリアは言った。


「三つ目の秘宝。必ず見つけます」


「お前に頼むのは、悪いな」


「師匠が私を拾ってくれなかったら、私はあの街道で死んでいました」


アメリアは、静かに言った。感情的ではなかった。ただ、事実として。


「だから、これは恩返しじゃない。私がしたいから、するんです」


誠司は、アメリアを見た。いつの間にか、こんなに大きくなった。あの街道で拾った、泥だらけの小さな子供が。


「……ありがとうな」


誠司は、珍しく素直に言った。

アメリアは——少しだけ、目を細めた。


だが、三つ目の秘宝を見つける前に——流行り病が来た。


その年の冬、王都から遠く離れた小さな街に、熱病が広まった。誠司は、あっという間に倒れた。老いた体には、抵抗力がなかった。


「師匠!」


アメリアが駆け寄るのが、遠くに見えた。


「大げさにするな」


「大げさじゃない!」


「……声が大きい」


アメリアは、誠司の額に手を当てた。高熱だった。


「すぐに薬を——」


「アメリア」


誠司は、アメリアの手を握った。アメリアが、動きを止めた。


「聞いてくれ」


「……はい」


「三つ目の秘宝は、王宮の古い塔の地下三層にある」


「それは、もう聞きました」


「どの王宮かは、分かっていない。だが——」


誠司は、薄れていく意識の中で言葉を選んだ。


「この国の王宮だと思う。古い塔、今は使われていない。記録の中に、同じ字体の文字が刻まれているはずだ。それが目印になる」


「師匠、そんな話は後で——」


「後がないかもしれないから、今話す」


アメリアが、唇を噛んだ。


「秘宝を三つ揃えたら、帰るべき場所の名を呼べ。それで——門が開く」


「……はい」


「ルイに手伝ってもらえ。あいつは信用できる」


アメリアは頷いた。その目が、赤くなっていた。


「師匠」


「何だ」


「……必ず、見つけます」


誠司は目を閉じた。熱が、全身を焼いている。でも不思議と、穏やかだった。


それから三日、誠司は眠り続けた。意識が戻る時間は、少しずつ短くなっていった。

アメリアは、傍を離れなかった。薬を煎じ、額を冷やし、水を飲ませ——かつて誠司がアメリアにしてやったことを、そのまま返すように。


四日目の朝、誠司は目を覚ました。窓から、朝の光が差し込んでいた。


「師匠」


アメリアが、傍に座っていた。目の下に隈がある。眠れていないのだろう。


「……お前、寝ろ」


「師匠が起きてから寝ます」


「起きてるぞ」


「もう少し」


誠司は苦笑した。部屋の中は、静かだった。遠くで、鳥が鳴いている。窓の外の空が——青かった。


(青すぎる空だ)


転生した日のことを、思い出した。草原の上で、目が覚めた朝。見たことのない色の空。


(あの空は——日本の空とは、違う色だった)


故郷の空は、もう少し淡い青だった。秋になると、少し灰色が混じって。冬には、鉛色になって。


(見たかったな)


誠司は、静かに思った。


「師匠」


アメリアが、声をかけた。


「何だ」


「……怖いですか」


誠司は少し考えた。


「怖くはない」


「本当に?」


「ああ」


誠司は窓の外を見た。


「ただ——もう一度だけ」


「……」


「故郷の地を、踏みたかった」


アメリアは、何も言わなかった。ただ——誠司の手を、両手で握った。小さな手だった。拾った時と、同じくらい——小さく感じた。


「アメリア」


「はい」


「お前を拾って、良かった」


アメリアの手が、かすかに震えた。


「……師匠」


「詐欺師として育てて、悪かったとは思っていない。お前には、向いていたから」


「はい」


「だが——」


誠司は少し間を置いた。


「詐欺師としてだけ生きるな」


「……どういう意味ですか」


「お前には、それ以上のものがある」


アメリアは答えなかった。


「秘宝を見つけたら——その後は、お前の好きに生きろ」


「……はい」


「誰かのためでなく、お前自身のために」


「……師匠は」


アメリアの声が、少し掠れた。


「師匠は、自分のために生きてくれましたか」


誠司は——笑った。


「さあな」


「教えてください」


「……たぶん、な」


たぶん、違う。あの街道でアメリアを見つけた時から、誠司の旅の目的は少しずつ変わっていた。秘宝を見つけること。故郷に帰ること。それと同じくらい——アメリアが、ちゃんと生きられるようにすること。


「師匠」


「何だ」


「……行かないでください」


子供のような声だった。詐欺師の弟子でも、冷静な観察者でも、有能な助手でもない。ただの——子供の声だった。

誠司は、アメリアの頭に手を置いた。


「行かないといけないんだ」


「……」


「でも——お前は、大丈夫だ」


「大丈夫じゃないです」


「大丈夫だ」


誠司は繰り返した。


「お前は——俺より、ずっと賢い。ずっと強い」


「そんなことない」


「ある」


誠司は目を閉じた。意識が、また遠くなっていく。

(ああ)

故郷の景色が、瞼の裏に浮かんだ。コンクリートの道。電線。夕暮れ時の空。懐かしい匂い。


(見たかったな)


でも——アメリアの手の温もりが、まだ感じられた。


(まあ、いいか)


田中誠司は、静かに息をついた。それが——最後の息だった。


アメリアは、長い間、師匠の手を握っていた。冷たくなっても、離さなかった。

部屋の中に、朝の光が差し込み続けた。鳥の声が、遠くから聞こえていた。

やがて——アメリアは、静かに立ち上がった。目を拭った。窓の外を見た。

青い空が、広がっていた。


(師匠)


アメリアは心の中で呼んだ。


(必ず、届けます)


(あなたが見たかった景色へ)


風が、窓から吹き込んだ。師匠の日記が、机の上で静かに揺れた。その表紙を、アメリアはそっと手で押さえた。


(待っていてください)


それが——全ての始まりだった。


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