第6話 崩壊の幕開け 【裏】
シャロンが王宮を去って、一週間が経った。
アレクシスは執務棟の窓から、静かに王都を眺めていた。
朝の光が、石畳を照らしている。
(始まったな)
内心で呟く。
机の上には、ノエルから受け取った証拠——ルリアーナの会話記録と、聖杯細工の詳細が記された書類が置かれている。
これを、いつ使うか。
それが、今の最大の課題だった。
「殿下」
側近のエドガーが、静かに入室した。
アレクシスが信頼を置く、数少ない人物の一人だ。口が堅く、判断が速く、感情で動かない。
「カイル殿下の執務、今日も止まっているようです」
「そうか」
「外交文書の返答期限が迫っています。北方連合は既に三度問い合わせを送ってきました」
「分かった」
アレクシスは窓から離れた。
「エドガー、北方連合への返答を私が代わりに出す。文面を用意してくれ」
「……よろしいのですか」
エドガーが、わずかに眉を上げる。
「カイル殿下の仕事を肩代わりすれば、殿下は増長するかもしれません」
「構わない」
アレクシスは静かに答えた。
「今は、国が優先だ。カイルの問題は——後で解決する」
「承知しました」
エドガーが一礼した。
(まずは、信頼を積む)
アレクシスは机に向かった。
カイルが放置した案件を、一つずつ拾い上げていく。これは策略ではない。ただ、やらなければ、国が傾く。
それだけのことだった。
数日後、アレクシスは北の領主との交渉を終えた。
「条件通りで合意していただけた」
エドガーに報告すると、エドガーは珍しく驚いた顔をした。
「三年越しの懸案が……一度の面談で?」
「相手が求めていたのは、誠実な対話だけだった。それだけだ」
アレクシスは淡々と言った。
「大げさに驚かないでくれ」
「……殿下」
エドガーが、真剣な表情で言った。
「貴族たちの間で、殿下への評価が変わり始めています」
「知っているよ」
「このまま実績を積めば——」
「エドガー」
アレクシスは、静かに遮った。
「私は、評価のために動いているのではない」
「……分かっています」
「国のために動いた結果が、たまたま評価に繋がっているだけだ」
エドガーは一礼した。その表情に、わずかな敬意が滲んでいた。
廊下を歩いていると、貴族たちが声をかけてくる。
「アレクシス殿下、南方との通商協定について、ご意見をお聞かせいただけますか」
「殿下がいてくださると、本当に心強い」
「北方の件、見事でございました」
アレクシスは丁寧に、しかし簡潔に応じた。
(カイルが見ている)
廊下の陰に、弟の姿があった。
アレクシスはちらりと視線を向けたが、表情を変えなかった。
(まだ気づいていない)
カイルは自分が何を失ったのかを、まだ理解していない。
(いつか分かる日が来る——だが、今はまだ早い)
アレクシスは貴族たちとの会話を続けた。
そんなアレクシスに、ルリアーナが接触してきたのは、シャロンが去って十日目のことだった。
「アレクシス殿下、少しよろしいでしょうか」
廊下で呼び止められた。
ピンクブロンドの髪、大きな瞳。可憐な微笑み。
だが——アレクシスの目には、その奥にある計算が、はっきりと見えていた。
(来たな)
「何でしょう、ルリアーナ様」
「殿下は、この国の将来をどのようにお考えですか?」
遠回しな言い方だった。
(カイルでなく、私に乗り換えようとしている)
「聖女として、この国をより良くしたいと思っております。そのためには——頼りになる方のお力が必要で」
「なるほど」
アレクシスは穏やかに微笑んだ。
「お気持ちは、ありがたく承ります」
「では——」
「ただ」
アレクシスは静かに続けた。
「私は今、多くの案件を抱えております。聖女様のご支援はもう少し後に、改めてお話を聞かせていただけますか」
「……ええ、もちろん」
ルリアーナは微笑んだままだったが、その目の奥に、わずかな戸惑いが過ぎった。
(あなたの力は必要ない)
アレクシスは内心で結論づけた。
(証拠を使うのは——もう少し後だ)
カイルが国王に呼び出された夜、アレクシスも父から連絡を受けた。
「アレクシス、少し良いか」
国王の私室。
父は老いて見えた。以前より、確実に。
「カイルに、一ヶ月の猶予を与えた」
「聞いております」
「お前は——どう思う」
アレクシスは少し考えた。
「カイルには、まだ可能性があると思います」
「…そうか」
「ただ」
アレクシスは続けた。
「可能性と、現実は別です。一ヶ月後、カイルが何も変わっていなければ、私は王太子として動く覚悟があります」
国王は、長い沈黙の後、深く頷いた。
「分かった」
「父上」
アレクシスは言った。
「一つだけ、確認させてください」
「何だ」
「シャロン・ハウロイドの追放——父上は、本当に正しいと思っておられますか」
国王の表情が、わずかに曇った。
「……あの娘は、有能だった」
「ええ」
「だが、証言が複数あった。聖女への不敬は——」
「父上」
アレクシスは静かに言った。
「近いうちに、重要なご報告があります。その時まで、シャロン様の追放については、結論を保留していただけますか」
国王は、しばらくアレクシスを見つめた。
「……分かった」
「ありがとうございます」
アレクシスは一礼した。
(もう少しだ)
証拠を使う時が——近づいている。
一ヶ月後。
カイルの王太子剥奪が、正式に決定した。
アレクシスは謁見の間の外で、静かに待っていた。
扉が開き、カイルが出てきた。
金の腕輪が——外されていた。
アレクシスは足を止めた。
弟の顔を見た。
怒り、混乱、屈辱——様々な感情が、その顔に刻まれていた。
「見るな」
カイルが吐き捨てた。
「俺を、そんな目で見るな」
(そんな目?)
アレクシスは自分の表情を確認した。
勝利の色は、ない。嘲りも、ない。
ただ——弟が、ここまで追い詰められたことへの、静かな痛みがあった。
アレクシスは何も言わず、静かに道を空けた。
カイルは、アレクシスの横を通り過ぎた。
その背中を、アレクシスは見送った。
(カイルにもいつか、分かる日が来るだろうか)
謁見の間に入ると、国王が待っていた。
「アレクシス」
「はい」
「王太子を、引き受けてくれるか」
アレクシスは一瞬、目を閉じた。
(これが——始まりだ)
「はい、父上」
静かに、しかし確固として答えた。
「この国を、必ず守ります」
国王は、深く頷いた。
その目には安堵と、僅かな後悔が滲んでいた。
その夜、アレクシスは執務棟の窓から、再び王都を眺めた。
月が、綺麗だった。
(シャロン・ハウロイド)
アレクシスは心の中で呟いた。
(あなたは今、どこにいる)
秘宝を求めて旅に出た令嬢。王宮の計略を全て見通し、自ら追放される道を選んだ令嬢。
(あなたが残してくれた証拠が——次の一手になる)
机の上の書類に目を向けた。
ノエルから受け取った記録。ルリアーナの詐欺の全貌。
(使う時が、来た)
「エドガー」
「はい」
「明日、貴族たちを集めてくれ」
「……件の証拠を、ですか」
「ああ」
アレクシスは静かに言った。
「ルリアーナの真実を、公にする」
エドガーが、深く一礼した。
「承知しました」
アレクシスは窓の外を見た。
月明かりが、王都を照らしている。
(これで、全ての幕が開く)
(そして——新しい章が、始まる)
風が、静かに吹き抜けた。




