第2話 運命の出会い 【裏】
春の庭園は、仕事をするには少し眩しすぎた。
シャロンは執務棟の窓から庭園を見下ろしながら、手元の書類に目を戻した。北方との貿易協定、第三条の文言に曖昧さが残っている。財務省に確認を取る必要がある。
今日の午後は、カイルの訓練視察がある。その間に財務省の古い記録を調べに行くつもりだった。カイルがいない時間帯は、動きやすい。
「お嬢様、そろそろお時間です」
ルイが声をかける。
「ええ」
シャロンは書類を仕舞い、立ち上がった。
財務省との打ち合わせを終えて執務室に戻る途中、シャロンは庭園沿いの廊下を歩いていた。
窓の外に、人影が見えた。
カイルだった。
訓練視察を終えたのか、庭園を散策している。特に目的もなさそうな、のんびりとした足取りだった。
(執務室に戻る気がないのね、相変わらず)
視線を前に戻しかけた、その時。
「きゃっ!」
小さな悲鳴が聞こえた。
シャロンは思わず窓の外を見た。
薔薇の茂みの前に、一人の少女が転んでいた。ピンクブロンドの髪が陽光に揺れ、大きな瞳に涙が浮かんでいる。
カイルが駆け寄った。
(誰かしら)
見覚えのない顔だった。王宮の侍女でも、よく顔を見る貴族令嬢でもない。
シャロンは足を止め、窓越しにその様子を観察した。
少女はカイルに手を差し伸べられると、頬をぽっと赤く染めた。それから恥ずかしそうに視線を逸らし、小さな声で何かを言う。
カイルの表情が、みるみる変わった。
普段の不機嫌さが消えて、柔らかく、嬉しそうな顔になっていく。シャロンに向けたことは一度もない顔だった。
(なるほど)
シャロンは静かに息をついた。
少女の動きを、改めて観察する。転び方。涙の浮かべ方。視線の逸らし方。頬の赤め方。
全てが、絶妙だった。
わざとらしくない。かといって、偶然にも見えない。計算されているのに、計算を感じさせない。
(相当演技が上手いわね)
感心した。本心だった。
あれだけ自然に男の庇護欲を引き出せるなら、相当な場数を踏んでいるか、あるいは生まれつきの才能があるかのどちらかだ。
カイルは少女をベンチまで抱えるようにして運んでいる。少女は申し訳なさそうにカイルの胸元を見つめていた。その仕草さえ、計算通りに見えた。
その日の夕方、ルイが部屋を訪れた。
「お嬢様、今日の庭園の件、ご存知ですか」
「ええ、見ていたわ」
「では、あの令嬢が誰か、もうお調べに?」
「まだよ。あなたが調べてきたのでしょう?」
ルイがにやりと笑う。
「騎士団長アルベールの娘、ルリアーナ・フォンターナ。次女です。爵位は男爵家」
「騎士団長の娘」
「はい。王宮にはほとんど姿を見せない令嬢です。今日は父親の用事についてきたとか」
「偶然、にしては出来過ぎね」
シャロンは少し考えた。
「カイル殿下の好みを事前に調べていたのかもしれない」
「そう思います。あの転び方、自然すぎました」
「ええ」
私は窓の外を見た。庭園はもう暗くなっている。
「カイル殿下の反応は?」
「すっかり夢中になっているようで。白い薔薇を髪に挿してやって、しばらく庭園を案内したとか」
「そう」
(カイルが夢中になる。それは好都合だ)
カイルが別の誰かに入れ込めば、シャロンへの関心はさらに薄れる。今でも十分に無関心だが、もっと無関心になってくれれば——動きやすくなる。
だが、この令嬢が何を目的としているのかは、まだ分からない。
「ルイ、ルリアーナ・フォンターナについて、もう少し調べてくれる?」
「承知いたしました」
「それと」
シャロンは付け加えた。
「あの子の周辺を、しばらく見ておいて」
「警戒しているのですか?」
「警戒、というより」
私は少し考えた。
「あれだけの演技ができる子が、ただカイル殿下に恋をしているだけとは思えないわ。あの子の目的を知りたいの」
ルイが頷いた。
「分かりました。当たってみます」
それから数日後、ルイが報告を持ってきた。
「ルリアーナ様、また王宮に来ていますよ」
「父親の用事で?」
「今回はおひとりで、音楽室に。カイル殿下がいると知って来たようで」
「積極的ね」
シャロンは書類から目を離さずに答えた。
「カイル殿下、ピアノを弾いて聴かせたそうです。ルリアーナ様が大絶賛して、殿下は有頂天になっていたとか」
「そう」
(カイルがピアノを弾く。ルリアーナが褒める)
単純な構図だった。だが、単純だからこそ効く。カイルは自分を称賛してくれる相手に弱い。それは婚約当初から分かっていた。
「お嬢様、あの令嬢——何か企んでいると思いますか?」
「さあ」
シャロンは正直に答えた。
「まだ、確かなことは分からないわ。ただ」
ルイを見る。
「目が、欲しいものを見ている目をしていたわ。あの庭園で転んだ瞬間」
「欲しいもの、ですか」
「ええ。何を欲しがっているのかは——もう少し見ていれば分かるでしょう」
ルイが頷いた。
シャロンは再び書類に目を落とした。
北方貿易協定の第三条。財務省との確認事項。古い塔への調査計画。
やるべきことは、山積みだった。
ルリアーナという新しい変数が加わったことは、頭の隅に置いておく。ただ——今は、まだ様子見でいい。
(あなたが何者なのか、もう少し見せてもらうわ)
ルイと話し終えたシャロンは、カイルの執務書類を抱えて廊下を歩いていた。
角を曲がったところで、視線を感じた。
(誰?)
シャロンは歩みを止めずに、視線の方向を確認した。廊下の端。窓際に、一人の男が立っていた。
目が、合った。
第一王子アレクシス。
アレクシスは、シャロンを見ていた。じっと、ではない。さりげなく、しかし、確実に。シャロンが廊下を歩いてきてから、どれくらい見ていたのか。気づいたのは、距離が縮まってからだった。
シャロンはアレクシスの前を、普通に通り過ぎようとした。
「シャロン様」
声をかけられた。シャロンは足を止めた。振り返る。
「はい、殿下」
アレクシスは、穏やかに微笑んでいた。
「お忙しそうですね」
「ええ、少し」
「カイルの執務の書類ですか」
「そうです」
当たり前のような会話。だが——シャロンは油断しなかった。(この男は、また何を確認しようとしている?)
「ご苦労なことですね」
アレクシスは続けた。
「カイルは、書類仕事が苦手ですから」
「殿下がフォローしてくださっているのですか」
「いいえ」
アレクシスは、あっさりと答えた。
「私には、弟の仕事をする義務はありませんから」
その言葉は、冷たくはなかった。ただ——淡々としていた。弟への愛情も、憎しみも、感じられない。ただ、事実を述べているだけのような——
(本当に、そうなのかしら)シャロンには、判断できなかった。
「一つだけ、聞いてもよろしいですか」
アレクシスは言った。
「何でしょう」
「シャロン様は——この国を、どう思われますか」
シャロンは少し考えた。
(何を聞きたいの、この男は)
「美しい国だと思います」
シャロンは当たり障りなく、だが、まっすぐアレクシスの瞳を見据えて、本心を答えた。この男に嘘は通じないと思ったからだ。
「なるほど」
アレクシスは微笑んだ。
「美しい、ですか」
その笑みの意味が分からなかった。納得しているのか、試しているのか。それとも——全く別の何かを、考えているのか。
(読めない)シャロンは内心で唸った。
「それだけです」
アレクシスは、軽く会釈をした。
「お邪魔しました、シャロン様。お仕事、頑張ってください」
「……ありがとうございます」
アレクシスは、そのまま廊下を歩いていった。
続いてシャロンも歩き出した。書類を抱え直して、いつもの速度で。何事もなかったように。
だが——頭の片隅に、アレクシスの瞳が残っていた。穏やかで、静かで、全てを見ているような——あの目が。
それに、接触はこれで2回目だ。しかも今回は明確な接触だったように感じられた。このまま放置していい相手ではないと本能が告げる。
その夜、シャロンはルイに事情を話し、現状を確認した。
「ルイ、第一王子アレクシス殿下について、調べていることはある?」
「少しだけ」
ルイが答えた。
「普段は目立たない方ですが、水面下では、相当動いているようです」
「具体的には?」
「北の領主や南方諸国との独自のパイプを持っているとか。貴族たちの間にも、独自の情報網があるとか」
「情報網」
「はい。ただ表には、一切出てきません」
ルイが続けた。
「王宮では『地味な第一王子』で通っていますが私の見立てでは」
「見立ては?」
「この王宮で、最も危険な人物です」
(最も危険な人物)
(ルイが、そう言う)
こう見えて、ルイの見立ては、外れたことがない。
(やはり、ただの男ではなかったわ)
「分かったわ。引き続き、注意して」
「はい」
ルイが退室した後、私は窓の外を見た。
月明かりが、王宮を照らしている。
(アレクシス)
私は心の中で呟く。
(あなたは——何を考えているの?)
答えは、なかった。
ただ——明日も、注意が必要だということだけは、分かった。
シャロンが王宮に来て、一ヶ月半が経った頃。
ある日の午後、執務を終えたシャロンは王宮の庭園を歩いていた。
少しだけ休憩を取ろうと思ったのだ。
薔薇が咲き誇る庭園の奥——あまり人が来ない場所に、古い東屋がある。
そこで休もうと思い、シャロンは足を向けた。だが、東屋に近づいたとき、声が聞こえてきた。
「……本当に疲れるわ」
女性の声だった。シャロンは、足を止める。東屋の中に、誰かいるようだ。(誰かしら……)そっと、物陰に身を隠す。
東屋は、薔薇の生け垣に囲まれている。人目につきにくい場所だ。声の主は、誰にも聞かれないと思っているのだろう。
「姉様、大丈夫?」
もう一人、若い女性の声がする。
「大丈夫よ。ただ、演技に疲れただけ」
最初の声——それは、聞き覚えのある声だった。シャロンは、慎重に生け垣の隙間から中を覗く。
そこにはピンクブロンドの髪、大きなはちみつ色の瞳。ルリアーナだった。そして、その隣には一人の若い女性。おそらく、妹だろう。
「演技って……」
妹が、心配そうに言う。
「可憐で清楚な令嬢の演技よ」
ルリアーナが、吐き捨てるように言った。その声は、普段の甘ったるい声とは、全く違う。低く、冷たく、計算高い声。
「もう、うんざりだわ」
ルリアーナは、東屋のベンチに座る。その仕草も——普段の可憐な動きとは全く違う。乱暴に、足を組む。
「疲れないわけないでしょう。全部、あの男の好みに合わせてるんだから」
「で、でも……姉様、大丈夫なの?」
「何が?」
「その……カイル様に、気づかれたりしないかしら」
「大丈夫よ。男なんて単純だもの」
ルリアーナが、にやりと笑う。
「『カイル様〜』って、語尾を伸ばして」
わざとらしく甘ったるい声を出す。
「『私なんて…』って、上目遣いで」
可愛らしく首を傾げる仕草をして見せる。
「『お慕い申し上げております』って、頬を赤らめて」
次の瞬間——
「男ってなんて単純なのかしら!」
ルリアーナが、吐き捨てた。
その表情は、普段の可憐さの欠片もない。冷酷で、計算高く、野心に満ちていた。
(まぁ、そんなところだろうとは思ったわ……)
「姉様……そんなに嫌なら、やめたら……」
「嫌だけど、やるしかないのよ」
ルリアーナが、冷たく言う。
「目的のためには」
「目的……」
「妃の座よ」
ルリアーナの目が、ギラリと光る。
「私は、絶対に王妃になる。そのためなら、どんな演技だってするわ。妃になってやりたい放題するの!その夢を叶えるためならなんだってする」
妹は、不安そうに姉を見つめた。
「でも、姉様。シャロン様がいらっしゃるわ。あの方は侯爵家の令嬢で、妃教育も受けていて……」
「あの女?」
ルリアーナが、鼻で笑う。
「確かに家格は上だけど、カイルは嫌ってるわよ。冷たくて、完璧すぎて、可愛げがない」
「確かに……カイル様、シャロン様を避けていらっしゃるわね」
「ええ。だから、私が可愛らしく振る舞えば、カイルは簡単に落ちるわ」
ルリアーナが、勝ち誇ったように笑う。
「でも、姉様」
妹が、不安そうに言う。
「本当に、カイル様の妃になれるの? 家格のこともあるし……」
「今のままでは無理ね」
ルリアーナが、顔をしかめる。
「何か、決定的な武器が必要だわ。カイルが私を選ばざるを得ないような、何か」
「何か……って?」
「そうね……」
ルリアーナが考え込む。
「もし私が……何か特別な存在だったら……」
「特別な?」
「ええ。王妃に相応しい、誰もが認めざるを得ないような……」
ルリアーナは、そこで言葉を切った。
「……まあ、今はまだ無理な話よね」
「そうね……」
妹が、寂しそうに頷く。
「でも、姉様ならきっと何とかなるわ」
「ありがとう」
ルリアーナが、妹の頭を撫でる。
「あなたは良い子ね。いつも私の味方でいてくれて」
「当たり前よ、姉様」
「さて、そろそろ戻りましょうか」
「うん」
「ああ、そうそう」
ルリアーナが、妹に念を押す。
「今の話、絶対に誰にも言わないでね」
「分かってるわ、姉様」
「良い子ね」
ルリアーナは立ち上がった。
「さあ、行きましょう。またカイル様の前で、可愛らしい令嬢を演じなきゃ」
そう言ってルリアーナは表情を変えた。
一瞬で。冷酷で計算高かった顔が、可憐で清楚な表情に変わる。まるで別人のように。
「ふふ、良い天気ですわね」
甘ったるい声で、ルリアーナが言う。
「そうね、姉様」
妹も、演技を始めた。二人は、東屋から出ていく。その足取りも、可憐で優雅だった。
まるで、先ほどまでの会話など、なかったかのように——
シャロンは、物陰からじっとその様子を見ていた。
二人の姿が完全に見えなくなるまで、動かなかった。
やがて——
「……やっぱりね」
シャロンは、小さく呟いた。誰にも聞こえない声で。(あなたも、私と同じ「演者」なのね)シャロンの顔に、小さな笑みが浮かぶ。冷たく、計算高い笑み。
(でも、あなたは欲望に忠実すぎる。それが命取りになるわよ、ルリアーナ)
シャロンは考える。
この情報をどう使うべきか。今すぐカイルに暴露する?いや、それは得策ではない。カイルは今、ルリアーナに夢中だ。私が何を言っても、信じないだろう。
それに——
(まだ、秘宝の在処が分かっていない)
シャロンの目的は、秘宝を見つけること。カイルとルリアーナのことは、二の次だ。
(それに…もう少し様子を見た方が面白そうね)
シャロンは、東屋から離れた。静かに、足音を立てずに。誰にも気づかれないように。
(ルリアーナ……あなたがどこまでやれるか、見せてもらうわ)
シャロンの唇に、冷たい笑みが浮かんでいた。




