プロローグ 婚約破棄
「シャロン・ハウロイド!」
カイル王太子に名を呼ばれた瞬間、シャロンは薄く笑った。
(仕事、完了ね)
「お前との婚約を、ここに破棄する」
大広間が、一瞬静まり返った。次の瞬間、貴族たちのざわめきが広がる。
「まあ!」
「婚約破棄ですって!」
「シャロン様が……?」
驚きの声、好奇の視線。全てがシャロンに注がれる。
だが、シャロン本人は——
「そうですか」
ただ、静かにそう答えただけだった。
表情一つ変えない。動揺も、悲しみも見せない。
「理由を聞いてもよろしいでしょうか」
「お前は、ルリアーナ嬢に嫌がらせをした」
カイルの隣に立つのは、ピンクブロンドの髪にはちみつ色の瞳を持つ少女——ルリアーナ・フォンターナ。先日「聖女」として認められた、カイルが今もっとも溺愛する存在だ。
「聖女に対する不敬。到底許されるものではない」
「私が、ルリアーナ様に嫌がらせを?」
シャロンが問う。
「証拠はあるのですか」
「複数の証言がある。お前がルリアーナを陥れようとした。それは明白だ」
シャロンは何も言わない。
否定も肯定もせず、ただカイルを見つめている。
(そう。その証言は、私が用意したものだけれど)
「よって、お前を国外追放とする。今日限りで、王宮を去るがいい」
大広間が再びざわめく。
「当然ですわ」
「聖女様に嫌がらせなど……」
「いつも冷たくて、感じが悪かったもの」
「カイル様にも、捨てられて当然だわ」
ルリアーナが現れるまで、どうにかしてシャロンに取り入ろうとしていた連中が、こぞって彼女を非難している。社交界とはそういう場だ——そしてそれも、最初からわかっていた。
「承知いたしました」
シャロンは感情を一切見せないまま、そう答えた。
「何か言うことはないのか?」
カイルが訝しげに尋ねる。
「特には」
「……っ」
動揺も、涙も、縋りつくそぶりもない。カイルの眉がわずかに歪む。苛立ちが顔に出ている。それに気づきながら、シャロンは静かに一礼した。
「では、失礼いたします」
背筋を伸ばし、凛とした姿勢で。
貴族たちの視線を背中に受けながら、シャロンは大広間を出ていった。
廊下に出ても、シャロンの歩みは乱れなかった。
従者のルイが慌てて追いかけてくる。
「お嬢様……!」
「部屋に戻ります。荷物をまとめてください」
自室に戻ると、シャロンは窓辺に立った。王宮の庭園が目に入る。美しく手入れされた花々、噴水。半年間、毎日見てきた景色だ。
「お嬢様……本当によかったのですか」
ルイが静かに問う。シャロンは振り向かなかった。
「ええ、これで終わりよ」
その口元は、うっすらと笑っていた。
馬車に乗り込む直前、シャロンは一度だけ王宮を振り返った。
高くそびえる石造りの塔。豪奢な門。半年間潜り込んでいた、黄金の檻。
(ありがとう、カイル殿下)
心の中で、静かに告げる。
(あなたが私に無関心でいてくれたから、この仕事は完璧に終わった)
馬車の扉が閉まる。
車輪が動き出す。
窓から見える王宮が、少しずつ遠ざかっていく。
シャロンの横顔は美しく、そして——何かをやり遂げた者だけが持つ、静かな充実感に満ちていた。
貴族たちは、彼女のことをすぐに忘れるだろう。
カイル王太子は聖女と幸せに暮らすだろう。
誰も知らなかった。
シャロン・ハウロイドが「詐欺師」であることを。
婚約者という立場が、王宮に潜入するための「仮面」に過ぎなかったことを。
そして今日この追放こそが、彼女の仕事の——完璧な完遂であったことを。
表から読めば、悪役令嬢の失墜。
裏から読めば、一人の詐欺師の、完璧な仕事の記録。
本当の物語は、ここから始まる。




