12月の夏
十二月の寒さの中、夏のような温度を持ったこの体は今日も、オルゴールを鳴らす。
小鳥のさえずりが聞こえてくる。
陽の光が当たった目はすぐに閉じてしまった。何度か瞬きをして慣らす。
目覚まし時計の呼びかけに応えて、布団から起き上がる。
八月三十一日六時三十二分。今日で夏休みが終わる。
布団と机だけでぎゅうぎゅうの狭いオレの部屋。ドアを開けると焼けたパンの匂いがした。
だけどオレはすぐリビングにはいかず隣の部屋へ向かう。
「おはよ、フユ」
「ん…ん〜……。おはよう」
いつも通り双子の弟を起こす。
よかった、今日はそこまで顔色が悪くない。
「ナツー。ごはんよー」
母さんがオレを呼ぶ。フユは呼ばれない。いつものこと。
「じゃ、後で呼ぶから」
「ん」
リビングに繋がる階段を降りる。小学一年生だった頃は少し高く感じていた階段も五年たった今ではちっとも苦にならない。
階段を降りたそこには朝食を用意し終えた母さんが、仕事に出かけるところだった。
「ナツ、母さん今日も仕事だから。お昼なにか適当に食べてね」
「うん、いってらっしゃい」
オレはきれいに微笑む。
「いってきます」
母さんも似たような笑顔をしていた。
「フユー、母さん出かけたよー」
すぐにフユが階段を降りてきた。
冷凍しておいたパンにインスタントのスープ、昨日の余ったキュウリを漬物にしたもの。と、ささやかな朝食を冷めないうちに平らげる。
一年前から始まったこの生活にはもう慣れた。あの日の朝は何が起きたのかさっぱりわからなかったが、多分、俺は双子の兄の過去の記憶を辿っているのだと思う。
なぜなら、俺はナツではなくフユだからだ。
しかし、俺は片割れの存在を知らなかった。つまり、俺が完全に忘れるような出来事があり、ナツがどこかへ消えた。
なぜ片割れの記憶を辿っているかはわからないが、これが事実だ。
「フユ。昨日はどうだった?」
「…いつもどおり」
「そっか」
フユ……昔の俺は母さんに虐待を受けていたらしい。が、全く記憶にない。というのも、中学一年生の頃の記憶が曖昧なのだ。
虐待と言っても暴力などはない。ただ、存在を消されているだけ。
母さんにはオレの片割れが見えない。声も聞こえないし、触ろうともしない。
でもそれは、子供のあらゆるものを縛り、奪ってしまう。これは紛れもなく虐待と言えるだろう。
今日もいつもどおりの日常を過ごす。
明日は、学校だ。
いつもどおりの朝が来た。
フユを起こして、母さんがでかけて、フユにご飯を食べさせる。今日は休み明けだから、オレも家を出なければならない。
「行ってきます」
母さんに向ける笑顔より随分マシな顔を作れた。
「行ってらっしゃい」
オレと同じ顔をしたフユが見送ってくれた。
フユは学校へ行かない。母さんにフユの存在を認知されないため。確率は低いが、万が一に備えて。
一番大きな理由は、フユが認知されなくてフユだけ行事に参加できないなどがあれば面倒だから。
父親が消えてから母さんの中からフユも消えた。なぜナツが消えていないのか疑問だが。
校門をくぐり、そこで会ったクラスメイトと教室へ入る。
意味のない会話をしながらリュックを片付ける。
宿題は教卓の上へ提出するように黒板に書かれてあった。
オレは二人分の宿題を提出した。
フユへのお便りや宿題はオレが持って帰り、オレが提出する。
あの頃はいつか母さんがフユの存在を受け入れると思っていたのだろうか。フユが学校へ登校するようになってもみんなについていけるように勉強は最低限一緒にするのが習慣だ。
実際それはなかったわけだ。母さんも兄もいなくなった俺は別の家の養子になり、遠い学校へ通うことになったのだから。
「うわー、まだ来てないの? 四季の弟の方」
「ねー。もうどうせ来るわけないのに、宿題はやるの。ずるっ」
「他の不登校とは違って成績少しは維持できるからいいよなー。双子の便利な使い方!」
ヒソヒソ声でも隠す気はない、はっきりと聞こえる嫌な声だった。
無性に腹が立った。当たり前か。
今日は午前授業だ。さっきの聞こえてきた会話が原因というわけではないが、なんか色々と面倒くさくなってきたから今日はドタキャンして一人で早く帰ろう。
「ただいまー」
帰ってきてもフユしかいない。いつもお帰りを言ってくれる人は母ではなく弟だ。
しかし声が聞こえない。どうしたのだろう。
フユの部屋に行くと、いつものようにフユがいた。なんだ、ちゃんといるじゃないか。
安心して声をかけようとしたときだった。
「なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんで!」
フユが唐突に「なんで」と繰り返した。
オレは驚いて、固まることしかできなかった。
今朝まで普通だったフユが急におかしくなった?
「なんで父さんはいなくなったの?
なんで母さんはおれを消したの?
なんでナツは存在しているの?」
この言葉でオレの片割れ……過去の俺が急に狂った理由がわかった。
家族の中で自分だけ不自由だったことに、苛立っているんだ。
これを苛立ちと表現して良いのかわからない。だが、この言葉しか思いつかない。
過去の俺はもがき苦しんでいる。
自身の肉親を恨んでいる。
消えた父に、
消した母に、
在する兄に。
今まで溜め込んできたのだ。
この黒く、普通の家族なら持たぬ名もつけられないような感情を。
するとフユは机の上にあったカッターを手に取り、振りかぶってきた。
急な出来事に、オレの脳は理解を求めた。
とっさに腕で自分の頭をかばう。
どちらにしたって腕に刃が刺さるので自分をかばう、ということは不可能だ。
だが傷を作るなら目立たない所が良い。
目をつむってしまったので、どうなったのかはわからないが、覚悟した痛みはこなかった。
そっと目を開けると、フユは瞳に涙をためていた。
ついに兄を壊しかけてしまった。
ある晴れた九月の訪れの日。おれは限界を超えた。
父さんがいない日々も、
母さんに認められない日々も、
一人せまい部屋でナツを待つ日々も、慣れたと思ったのに。
溢れてしまった。隠していたモノが。
止まらなかった。ナツを目にしたことで余計に。
でも、ナツが自分かばい腕を突き出したところで気がついた。
いま、ナツもいなくなったら?
母さんがおれを見てくれる保証もない中、唯一おれを許してくれたナツが消えたら。
おれはどこにいた?
たぶん、もっと暗くて寂しい闇の中だった。
そんなナツを消そうとしたのか、おれは。
なんてわがままで、醜いんだろう。
おれにとってナツは邪魔だった。
太陽のような片割れはいつか沈んでなくなればいいと思っていた。
けど、大切だった。
太陽が沈んだら、おれを照らすものがいなくなる。
太陽がなくなったら月はどうなるのかな。
やっぱり、見えなくなるんだろうな。
今おれが一緒にいられるのはナツだけ。
歪んだナツの瞳が見える。大きく見開かれているみたいだ。
なぜ歪んでいるのだろう。
頬に何かがつたる。
そうか。おれが泣いているのか。
分かった途端、別の感情が涙とともに溢れ出した。
戸惑いながらも抱き寄せてくれる、やはり優しい片割れに、
情けなかった。
悔しかった。
申し訳なかった。
あたたかい、と思った。
いつまでそうしただろう。
急に刃物を振りかざし、涙を溢れさせ、抱きついてきたフユに、抱きしめ返していた。
言葉はなかった。けど、フユの気持ちは伝わったような気がする。
これが双子の力なのか、この場の空気がそうしているのか、わからなかったけど、それでいい。
いつものように、フユらしくしていればそれでいいと思う。
けどこれからは、あまり溜め込まないでほしいな。
オレも気づいてあげられなくてごめん。今度から、気をつけるからさ。
また一緒に、照らし合って生きよう。
時が流れるのは早い。
もう十一月になった。
オレらの誕生日が近くなる。
あと五日後。しかし、平日なので母さんは仕事がある。
だから今日、誕生日を祝うことになった。今日は土曜日だ。
「はい、ナツ。十二歳おめでとう!」
「ありがとう。母さん」
もらった袋の緑色の包装紙解く。中から出てきたのは、一冊の本だった。
読まないの、知ってるくせに。
「ちゃんと本も読まないと。父さんみたいに賢くなれないぞー!」
「うっ…はーい、ありがとう」
「ふふっ」
理想の家族を演じる。母さんがそうしているように。
そこにフユがいなくても。
「フユ、誕生日おめでとう」
ラッピングもされていないプレゼントにフユは少し戸惑っていた。
本当に自分がもらっても良いのか、と。
それは、昔おばあちゃんからもらったオルゴールだった。
特に飾りもなく、ただ音を奏でるだけのその機械はオレのお気に入りだった。
「いいんだ、オレは母さんからもうもらったから」
「……ありがとう」
フユはプレゼントのネジを回した。
何度も聞いてきたメロディーが奏で始める。
二周目に入ったところで、フユが口を開いた。
「オルゴールってさ、音はきれいだけど別の音楽って絶対流せないよね。ずっと同じ」
「……たしかに。オレらの日常もそうだ」
しばらくどちらも口を開かなかった。今だけはフユの気持ちもオレの気持ちもあまりわからない。
「……いつまで続くんだろう」
「……ああ。」
たぶん、もう少しで終わってしまう。
オレが、お前の前からいなくなるから。
……なんて。
ある十二月の寒い日、事件が起こった。
オレは、母さんを殺した。
突然だった。母さんがとうとうフユを見てしまった。そして、殺そうとした。
これ以上自分にとって邪魔なものを認知できないように。
それをオレが返り討ちにした。
だって、しょうがない。
兄弟が死にかけた。しょうがない、しょうがない、
しょうがないしょうがなイしょウがなイしょウガなイシょウガなイシょウガナイショウガナイショウガナ…
「ナツ!!」
ああ、そうだ。問題の元凶を排除できた。
これでフユも楽になれ…。
「!!」
その目は、温度を失っていた。
喜びも、怒りも、驚きすらないそれは、どこに向けられているのか、一瞬わからなかった。
さっきまでの熱はどこへ行ったのやら。血の引く音が全身からした。
視線を母だった肉の塊へ向ける。あかい。
その色は、己にも付いていた。
「……ナツ。それ、置いて。すぐ」
手の力を反射的に緩めると、耳障りな、悲鳴にも似た音が響き渡った。
「……フユ、もう終わりだ。二人で、どこか施設へ行こう。そうすれば、お前はもういじめられない。苦しくない。存在を否定されな…」
「ナツ!!!!」
もう一度、フユが叫んだ。
「ほんとに、もうおわりだ...!おれの片割れが殺人を犯した。
おれのためなのはわかってる。
一応、感謝もしている。こんなクズ人間がいなくなったんだ。
でも、お前が手を汚すのは違う。どうするの?
こんな現場、一目でナツが殺ったってわかるよ」
「考えよう。コイツが自殺したと見せかけるために…」
「無理だ。いくら田舎とはいえ、警察は動く。学校にも問い合わせる。
おれらが嘘を吐いたってすぐにバレるぞ。
被害者はおれを虐待していて、おれは不登校で、ナツが被害者に恨みを持っていた。
指紋もある。拭いても怪しまれる」
「コイツを被害者って言うな。」
「分かってんの?ハハオヤが死んだ」
「ああ、オレが殺した」
少しの沈黙。フユは考えているようだった。
「一つだけ、方法がある」
「…!」
問う間もなく、フユはオレが落とした金属を手に取った。
その先端をオレに向ける。
ここで理解した。
俺はなぜ、片割れの記憶がなく、片割れがいないのか。
俺が、オレを殺したから。
「……」
「……おれは幸せだったよ。ハハオヤに見てもらえなくても、ナツは毎日来てくれた。プレゼントもくれた。思い出もくれた。けど、今日からは、もう何もいらない」
そうフユが言った途端、目の前があかくなった。
フユが、崩れ落ちる。
十二月で、真冬で、寒かったはずなのに、
夏の中へ迷い込んだような暑さも感じた。
震え、汗、悪寒、熱。
すべてが同時に襲いかかった。
どこからか、悲鳴が聞こえる。
途絶えた瞬間、喉が痛くなった。
自分が発したものだった。
どうする。どうしたらいい。
考えた結果、おれが死ぬしかないみたいだった。
ナツには申し訳ないけど、おれの代わりに生きてもらおう。
「ナツ」
「フ……ユ…」
「ごめん……。勝手に」
ナツの顔は絶望に染まっていた。
「おれの分も……ちゃんと生きてよ」
「い……や。嫌だ。なあ、一緒に、一緒に死んで…」
おれも一緒にいたかったよ。
でも、お前も死んだら、おれが死んだ意味がなくなるだろ。
「それは、駄目だ。ちゃんと、おれの代わり……に、いき……て…」
意識が遠のいてゆく。
ああ、おれ死ぬんだな。
ナツの腕の中で、ゆっくりと。
心臓の痛みも、感じなくなってきた。
頬につたる涙はもう、どちらのものかわからなかった。
その日は、すぐに眠った。
隣にはフユがいる。大丈夫。二人なら。
どこへでも行ける。なんにでもなれる。
二人で笑い合いながら、とても幸せな夜をあかい夢の中で過ごした。
フユの体温は雪のように冷たいけど、俺が温めて。
永遠の眠りについた。
小鳥のさえずりが聞こえてくる。
日の光が当たった目はすぐに閉じてしまった。何度か瞬きをして慣らす。
目覚まし時計の呼びかけに応えて、ベッドから起き上がる。
今日も、いつもと同じ。
身支度をして、朝ごはんを食べて、養父に「いってきます」と言う。
クラスメイトと教室に入って、授業を受けて、校門を出る。
養父に「フユ、おかえり」と言われ、宿題をして、夕飯を食べる。
風呂に入って、歯を磨いて、寝る。
十二月の寒さの中、夏のような温度を持ったこの体は今日も、オルゴールを鳴らす。