第五章 冬の輪郭
祖父が間に立った日から、私の暮らしは静かに形を変えていった。
部屋の鍵を確かめ、朝のゴミ出しの時間を覚え、生活の音を少しずつ整える。
炊飯器の湯気、マグカップを洗う音、ベランダのプランターに落ちる水の点。
それらが、私の輪郭を毎日少しずつ描き直してくれた。
働き始めて数年、私は条件のいい会社へ転職した。
初めての出社の朝、通勤電車の窓に冬の光が貼りついていた。
新しいオフィスはガラスが多く、床に長い帯のような光が伸びている。
受付のカードをかざすと緊張が喉に引っかかったが、深呼吸で肺が開く感覚があった。
窓際から三つ目の席のスクリーンには、小さく空の色が映る。
隣の同僚は昼に弁当のミニトマトを分けてくれる人で、私は礼を言い、午後のメールを順番に片付けた。
仕事は、覚えるほどに少しずつ馴染んでいった。
けれど、波はやがて姿を見せる。
眠れない夜が続いたかと思えば、翌週には言葉が速く溢れ、体が軽くなりすぎる。
集中の糸が急に切れ、切れたあとには底のない井戸が待っていた。
ある日の帰り道、駅の階段で足が止まり、冷たい手すりに指を当てた。
指先の感覚だけがやけに正確で、自分の中で起きていることに名前が欲しくなった。
病院で医師は静かに言った。
「双極性障害です」
声の高さは変わらず、説明は過不足がない。
私は驚かなかった。
長く続いた揺れに、ただ名前が与えられたと感じた。
処方された薬は夜の天井の角を少し丸くした。
帰り道、交差点で信号待ちをしながら、足もとで影が細く伸び縮みするのを見た。
影は私から離れない。
ならば、付き合い方を覚えればいい。
希死念慮は、幼い頃から今も続いている。
消すのではなく、見張る。
波の底で息を止める練習をするみたいに、深く吸い、浅く吐く。
危ないときの合図を紙に書き、財布に入れた。
食べられるもののリスト、連絡できる人の名前、夜中でも開いている店の住所。
小さな道具は、思っているより遠くまで連れていってくれる。
机の引き出しにしまい、必要な日は迷わず取り出す。
渋谷のカフェで食べた苺パフェを、ときどき思い出す。
ガラスの器の中で赤と白が層になり、スプーンの先に小さな山ができる。
甘さは舌に溶け、冷たさは胸の奥で静かに沈殿した。
初めて飲んだアイスワインは琥珀色で、喉をゆっくり滑っていった。
その香りは冬の空気にうすく混ざり、帰り道の信号の青と重なった。
祖父には折に触れて近況を送った。
返事は短く、「無理をするな」「うまく休め」とだけ書かれていた。
その言葉は、壁に掛けた額の水平線みたいに、視界をまっすぐにしてくれた。
会社では期末の資料を何度も修正した。
数字は冷たいが、並べ方には温度が出る。
退勤後、コンビニの明かりの下で手帳に一行だけ記す。
「今日は眠れる気がする」
「今日は眠れない気がする」
どちらも翌朝には同じ強さで紙の上に残っている。
波を責めても、海は止まらない。
ならば、潮の引く時間を覚え、打ち返す水音を数える。
薬を飲み、休むときは休み、走れるときにだけ走る。
均一に生きられない自分を、均一さで裁かない。
それは逃げではなく、手入れだ。
靴を拭き、カーテンを洗い、爪を切るような手入れ。
帰り道、ビルの谷間に冬の星が一つだけ見えた。
見失わないように、わざと目を細める。
あの日の真っ白な病院、春の坂道、夏の教室、秋の踏切。
それらは一本の道に繋がって、いま目の前の横断歩道に続いている。
信号が青になるのを待ち、歩き出す。
静かな体温を持ったまま、現実の冷たさの上を渡る。
冬は、いつか薄くほどける。
その手前で、私は生きている。