第四章 扉の向こうへ
家を出ようと決めたのは、高校を卒業して間もない頃だった。
父との関係は、もう限界だった。
言葉で圧し、態度で縛り、時には境界を越えることもあった。
それは拒んでもやめない種類の行為で、胸の奥に石を詰められるような感覚を残した。
長く積もった恐怖と嫌悪は、ある日、決定的な言葉で硬く固まった。
「まだお前は外に出てはいけない」
父はそう言った。
その声には、未来を丸ごと掌に握るような確信があった。
「出て行けるようになるまで、俺が全部面倒を見る。三十でも四十でも、心配するな」
一見、庇護のように聞こえるその言葉は、出口を塞ぐ宣告だった。
私の人生が、私のものでないと告げられた気がして、背中に冷たい汗が流れた。
私は黙って頷くしかなかったが、内側では別の声が叫んでいた。
「このままじゃ、壊れる」
働いて生活を立てなければ家を出られない。
だが父は、私が就職することを頑なに拒んだ。
「外で働けば、ろくでもないやつに騙される」「お前には社会は無理だ」
そんな言葉を繰り返し、出口を塞ぎ続けた。
空気を変えたのは、父の彼女の何気ない一言だった。
「なんであの子は働かないの?」
その短く乾いた言葉が、重く閉ざされた扉をほんの少し開けた。
父は渋々ながらも就職活動を許した。
あの一言がなければ、今の私はいなかったかもしれない。
初めての面接の日、手のひらは汗で湿っていた。
自己PRでは「即戦力ではないかもしれませんが、根性だけはあります」と答えた。
質問は転勤の可否や勤務態度など、ごく普通のものだったが、私には大きな一歩だった。
採用通知を受け取ったとき、胸の奥で小さな鐘が鳴った。
「これで家を出られる」
職場では同期とすぐに仲良くなり、ゲームセンターやファミレスに通った。
夜遅くまで笑い合い、休日の予定を立てる。
家族以外と過ごす時間が、こんなにも軽やかで安心できるものだと知った。
家を出てから一年。
父からの電話は無視するようになった。
メールには「大事な話がある」とだけ書かれていたが、返事はしなかった。
会えばまた、あの境界を越える視線や言葉が始まると分かっていたからだ。
そんなある日、祖父から連絡があった。
「一度、私のところに来なさい。話をしよう」
祖父は私と父を呼び、間に座った。
父は最初から不機嫌そうで、私を見もしなかった。
祖父が口を開く前に、父は低い声で言った。
「お前は家族だ。だから俺の言うことを聞くのが普通だ」
その響きは、過去に受けた圧迫の記憶と重なり、心臓を掴まれるようだった。
祖父はその言葉を遮り、ゆっくりと告げた。
「これ以上、関わるな。お前たちは距離を置いた方がいい」
父は不満げに黙り込み、私はただ頷いた。
祖父の言葉は判決のようだった。
それは、私の中でずっと欲しかった「もう終わりだ」という宣言でもあった。
会議の帰り道、祖父が駅まで送ってくれた。
「これからは自分の生活を守りなさい」
その声が、私にとって本当の意味での絶縁の始まりだった。