第三章 静かな侵食
高校生活は、思っていた以上に充実していた。
友達もでき、行事ごとに写真を撮り合い、放課後はカフェやファストフードで長居する。
中学の頃とは違い、笑う時間の方が圧倒的に多くなった。
その中で、恋人もできた。
相手は、入学当初から噂に聞いていた先輩だった。
テストで学年一位を取る中性的な美形で、生徒会で一緒になったことがきっかけだった。
最初は挨拶だけだったが、会議や準備で話すうちに距離が近づいていった。
ある日、焼きたてのクッキーを渡したとき、先輩は少し驚いた顔をしてから「ありがとう」と笑った。
その笑顔を、私は何日も反芻した。
放課後、駅前のカフェで新作のフラペチーノを試し、笑いながら帰る。
休日には映画館や水族館へも行った。
そんな日々の中で、「これが普通なんだ」と心から思える瞬間が増えていった。
しかし、家に帰れば別の現実があった。
父の機嫌は、以前よりも不安定になっていた。
ちょっとしたことで声を荒らげたり、急に部屋に押しかけてきたり。
ドアを閉める大きな音や、呼びつける怒鳴り声に、身体が反射的に固まるようになった。
音が怖い——そんな自分に気づくのは、いつもその後だった。
父の言葉には、精神的な圧迫だけでなく、触れられたくない距離への踏み込みが混じり始めた。
それは説明のしづらい種類の不快感で、うまく言葉にできず、ただ避けることしかできなかった。
家の中の空気は、静かに、しかし確実に重くなっていった。
ある日、学校で体調を崩した。
息が苦しく、心臓が早鐘を打つ。
保健室で休んでも回復せず、放課後に父には内緒で一人で精神科を受診した。
「心が疲れているから、お薬を飲んで、ゆっくり休みましょう」
適応障害と診断された。
けれど、このことは家族にも友達にも、恋人にも話さなかった。
話せば何かが変わってしまう気がして、そのまま胸の奥に沈めた。
学校に行くのは楽しいのに、朝になると身体が重く、遅刻が増えていった。
制服に着替える手は動くのに、玄関のドアを開けるまでが遠かった。
チャイムが鳴った後に教室へ入るたび、心のどこかで小さく謝りながら席に着いた。
それでも、学校で過ごす時間は救いだった。
友達や恋人との会話、テスト勉強の合間の冗談、下校時に寄るコンビニの灯り。
家では得られない安心感が、校舎や街の明かりにはあった。
「このままじゃ、いつか壊れる」
そう思いながらも、当時の私はまだ、家を出るための現実的な手段を持っていなかった。