第二章 春の坂道
中学二年の春、私たちは引っ越した。
段ボールの山が積み上がり、外されたカーテンの跡が壁に残る。
前の家で染みついた生活の匂いが少しずつ消えていく中、私の胸には不安と期待が同時にあった。
あの「よってたかって」いじめられる構図が、この引っ越しで終わるのか、それとも新しい場所でも繰り返されるのか——その答えは、まだ分からなかった。
新しい家は広かった。
廊下は長く、扉を閉めれば音が遠くなる。
前の家では壁一枚の向こうに兄弟の声や足音があったが、この家ではそれらが薄れていく。
距離があるだけで、こんなにも心が軽くなるのだと初めて知った。
新しい学校の初日、私は前の学校とは違う制服で教室に立っていた。
「その制服、可愛いね」
同じクラスの女の子がそう声をかけてくれた瞬間、胸の中に凍っていた何かが少し溶けた。
通学路には桜並木の坂道があった。
春の風に花びらが舞い、足元に淡い影を落とす。
竹林を抜ければ、雨に濡れた土の匂いと青空が混ざり合った空気が頬を撫でた。
その香りを胸いっぱいに吸い込み、ただ歩くだけで少し元気になれた。
少しずつ友達ができた。
帰り道にコンビニで唐揚げを買い、紙袋越しの熱で指先を温めながら坂道を下る。
「明日も寄ろうか」
そんな他愛もない会話が、私には新鮮で、眩しかった。
家の中の空気も変わった。
高校入試が近づく頃には、私のこだわりの強さから自然と一人部屋が与えられていた。
前の家では逃げ場がなく、距離が近すぎたせいで衝突やいじめが絶えなかった。
今は扉を閉めれば自分の世界になり、兄弟との間に静かな境界線が引かれた。
妹達とは、バレンタインにクッキーを一緒に作った。
粉だらけの台所、焼き上がったクッキーの甘い香り。
「これ形ちょっと変だよね」と笑い合い、オーブンの前で出来上がりを待つ時間がやけに心地よかった。
もちろん、仲良くなるだけではなかった。
兄弟との喧嘩は相変わらず起きたが、以前のような一方的ないじめではない。
言い返せるようになったし、ときには笑い話にもできた。
春の景色と唐揚げの匂い、友達の声。
それらは私の中で、長く続いた暗闇の中に差し込む光のようだった。
「これが普通なんだ」と思える時間が、少しずつ増えていった。