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第一章 診断の冬

小学校の頃から、私の周りには見えない輪があった。

その輪の中には私以外のクラスメイトや兄弟がいて、輪の外側に、いつも私がいた。

登校中にランドセルを小突かれたり、教室で机を少しだけ離されたり。

夜、布団に入る前の時間には、兄弟から小さな暴力やからかいが降ってくる。

それは殴る蹴るのような激しさではないけれど、毎日少しずつ、胸の奥に砂を積もらせた。


何が悪いのかは分からなかった。

成績は、百点を取るときもあれば、白紙の答案を出すときもある。

「やればできる子なんですけどね」

保護者面談の最後に言われるその言葉の意味が、当時の私には全く理解できなかった。

何を頑張ればいいのかも、どこを直せばいいのかも分からないまま、日々は過ぎていった。


そんなある冬の朝だった。

誕生日が少し過ぎた頃、学校へ行く支度をしていると、父が突然言った。

「出かけるぞ。制服じゃなくていい。準備しろ」


理由も行き先も分からないまま、私はクローゼットの中を探った。

選んだのは、さくらんぼの絵柄が胸に並ぶ黒いトレーナー。

袖口が少しほつれていても、それは私の心を守る鎧のようだった。

胸の奥に、いつものように小さな不安が渦を巻いていたが、それを隠すように服をかぶった。


外に出ると、冬の空気は澄んでいて冷たく、息は白く煙のようにほどけて消えた。

車に乗り込むと、ひんやりしたシートの匂いとエンジンの低い音が広がる。

フロントガラスはすぐに曇り、父が手のひらでざっと拭った。

車は国道に出て、看板や街路樹が後ろへと流れていく。

「どこ行くの?」

やっと口を開いた私に、父は短く答えた。

「病院だ。検査をする」


着いた病院は、これまで見たこともないほど大きく、白かった。

自動ドアが開くと、足元から温風が流れ込み、蛍光灯の光が床に淡く映っていた。

壁際の観葉植物だけが、その空間にわずかな色を差していた。

空気は静かで、少し緊張感があったが、悪くない匂いだった。


待合室には本も雑誌もなく、時計の針が乾いた音を刻んでいた。

最初は物珍しさで周りを眺めていたが、やがて時間の重さだけが増していく。

父は新聞を読み、私は椅子に座ったまま天井を見上げ、タイルの継ぎ目を指でなぞった。


やがて名前を呼ばれ、案内されたのは診察室ではなく検査室だった。

インクの染みを見せられて「何に見えるか」と問われ、図形のパターンを見つける。

言葉を聞いて連想したものを答え、次の問題へ進む。

パズルや謎解きのようで、私は夢中になった。

気がつけば二時間ほどが過ぎていた。


再び名前を呼ばれ、今度は診察室へ。

初老の医師が穏やかな声で告げた。

「お子さんはADHDです。こだわりがもう少し強ければ自閉症も疑いましたが……おそらくアスペルガーも併発しています」


父は黙ってうなずき、私は「給食で薬を飲めるか」と聞かれた。

「飲めます! 飲みます!」と即答すると、医師は口元を緩めた。

回転椅子をくるくる回しても怒られず、それが妙に嬉しかった。


帰りの車で、父が経緯を話してくれた。

担任の先生が私を見て、発達障害ではないかと感じ、病院を勧めたらしい。

「原因がわかって安心した」と父は言った。

私も「安心した」と答えた。

それは半分は本当で、半分は嘘だった。

「これでいい子になれるかもしれない」という、淡い希望があったからだ。


家に着くと、辞典や参考書を片っ端から開いてADHDを探したが、どこにも載っていなかった。

分からないまま、その言葉を忘れないように心の中で何度も繰り返した。

兄弟の中で、その診断を受けたのは私だけだった。

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