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パパ活

作者: 中里朔

 五月の空は爽やかに晴れ渡っていた。

 連休を終えたばかりの休日とあってか、横浜の山下公園は賑わいも落ち着きを取り戻したように感じる。


 みどりの隣を歩く男性は、どこかのブランド物と思われる高級そうな服を身に纏っていたが、なぜかその着こなしが似合っていない。疲れたような艶のない肌に、髭の剃り残し。少々弛んできたお腹。いかにも中年らしさが滲み出てきた体に、ショーウィンドウのマネキンの服をそっくり着せてみた、という感じなのだ。


 航平こうへいと名乗るこの男性は、娘とデートを楽しむ父親像を味わってみたかったのだそうだ。

「でも僕には家族がいなくてね」

 はにかみながら、翠の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。


 係留された氷川丸を見学し、近くの中華街で昼食を摂った。それからマリンタワーの展望フロアへ昇り、横浜の街並みを一望する。海を跨ぎ、大黒埠頭へつながるベイブリッジ。客船が停泊する大桟橋の奥にあるのはみなとみらい地区。赤レンガ倉庫や観覧車のコスモクロックが見える。

 ありふれたデートプランではあるが、翠も航平も束の間の安息を満喫していた。


 空はどこまでも続いているのに、限られた時間は無常に過ぎてしまう。二人は再び山下公園に戻ることにした。

 航平は公園脇の道端で”あいすくりん”と書かれた屋台を見つけ、アイスクリームを買ってきた。手近なベンチに二人で腰掛け、海を眺めながら味わう。

 うららかな陽射しと、潮の香りが漂う風は程よい心地よさを感じさせる。


 嬉しそうにアイスを頬張る翠。

「美味しい」

 航平は満足げな顔で翠を見ていた。

「それはよかった。アイスクリームは横浜が発祥なんだよ。このアイスは昔の風味を再現したらしい」

「へぇ、横浜生まれなんですね――」

 翠は言いながら口元についたアイスを指先で拭う。

「そういえば私、今日が誕生日なんです」

「そうか、おめでとう。なにかお祝いすべきだったかな?」

 と言って航平は頭をかく。

「あ、そういうつもりで言ったわけじゃなくて……。今日は充分に楽しめました」

「そう? だけど、僕なんかより友達や家族と過ごしたほうがよかったんじゃない?」


 言われた翠は、右上方へ目を泳がせた。

「えっと、都合が合わなくて……。それに横浜にも来てみたかったし」

 航平から視線を逸らす仕草に、翠の目の前に顔を寄せて覗き込む。

「本当に?」

 疑うように聞く航平の顔は少し笑っていた。

 翠は恥ずかしそうに俯いて「すみません」と言ってから、「家族……というか、父とはあまり話ができていないんです。休みの日に家にいるのが気まずいくらい。だから友達に勧められて……」

「パパ活で練習を?」

 頷く翠。


 年頃の娘ならではの素直になれない時期もあるのだろう。そういう航平にも胸につかえて素直になれない想いがある。

「じゃあ、僕も正直に言わないといけないかな」

 決心がついたように話しだす。

「家族はいないと言ったけど、本当は娘がいるんだ」

 翠が航平を見た。

「そうなんですか」

 真っすぐに前を向き、波間で戯れるカモメの親子に想いを馳せるように、航平は話を続けた。

「結婚生活が上手くいかなくてね、娘が小さいうちに離れ離れになってしまった。最近になって、風の噂で妻が再婚したと聞いたんだ。ここは結婚前に妻とよくデートした思い出の場所で、いつか娘とも歩いてみたいと思ってた」


 翠は航平の話に黙って耳を傾けていた。

 颯々と風が吹き、木々が若葉を鳴らす。

「だけど君が代わりに長年の願いを叶えてくれた。おかげで久しぶりに父親の気分に戻れたよ。今日はこんな僕に付き合ってくれてありがとう」

 そう言って頭を下げる航平。

 同じタイミングで、翠がデートの開始時に設定したスマホのアラームが鳴った。

「ああ、ちょうど時間だね」

 ふと隣の翠を見ると、目を赤く腫らして涙ぐんでいる。


「どうしたの?」

 航平は心配するが、翠は嗚咽してうまく話せない。何でもないと言いたいのか、首を横に振るばかり。

 ポケットから真新しいハンカチを取り出した航平は、それを翠の手に握らせる。

「僕は家庭を顧みることがないダメな父親だった。妻にも娘にも苦労ばかり掛けて、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。だけど、家族三人で過ごした日々は色褪せることなくこの胸の奥に仕舞ってある。決して忘れることのない大切な思い出なんだ。たとえ女々しいと言われてもね」


 声を絞り出すように翠が言う。

「私だって忘れてないよ。パパのこと……」

 航平は微笑んだ。

「ありがとう。会えて嬉しかったよ。新しいお父さんとも仲良くなれるといいね」


 初夏の風が新緑の香りを連れてきた。

 若葉に覆われた木の影が二人を包む。愛おしく儚い風の始まりが翠色に染まっていくように。




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