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ヨーロッパ都市・恋物語シリーズ

聖誕祭の贈り物 ~ 天国から降る粉雪が届けた奇跡 ~

作者: 日置 槐

挿絵(By みてみん)

イラスト作成:さらさらしるな様


【お知らせ】

『スペイン風味の~(全43話)』と『恋愛指南役は~(全25話)』の続編になります。

上記が未読でも大丈夫ですが、是非そちらも読んでみてください!

この物語を更に楽しめること請け合いです。(ずーっと下のリンクから飛べます)

 暖炉に掛けられた鍋からは、スパイスが効いた赤ワインの甘い香りがする。それは、私の国で聖誕祭の時期だけに飲まれるもの。グリューワインと呼ばれている。


 十二月になると、どの街にも祭用のツリー飾りやプレゼント用のおもちゃを売る特別なマーケットが立つ。屋台からはチョコレートやお菓子の美味しそうな匂いがして、大人も子供も心を踊らせる。

 そこで売られる甘くて熱いグリューワインは、寒い冬に冷えた体を暖めてくれる。


「ニコライ様と再会したのも、ちょうど十年前のこの時期でした」

「そうだったわね。あのとき、息子をあなたに託して正解だったわ。立派に育ててくれた」


 北にある大帝国に、皇太子として養子に入ったこの国の第二王子。私はそのアレクセイ王子の養育係として、彼の義父となる先帝ニコライ陛下の後宮に入った。その先帝の従妹で、王子の母がこの方。太陽が沈まない国と呼ばれる西の大国の王妃。


「恐れ入ります。でも、王子様は元から優秀でしたわ。私の手柄ではありません」

「まあ。でも、あの子は寂しがり屋だから、夜は私を恋しがって泣いたでしょう?」

「あの年頃なら当然ですわ。だから、私と一緒に寝ていましたの。ニコライ様が来るまでは……」

「聞いているわ。息子のお気に入りの女性を取り上げるなんて、お兄様も堪え性がないわね」


 王妃様のからかうような声に、私は少し恥ずかしくなった。


 あの日以来、私が幼い王子に添い寝することはなくなった。それでも、私が一人で眠った夜はない。

 どんなときでも、側にはニコライ様がいた。一晩たりとも、彼は私を離さなかった。


 そして、私は帝国の人々にこう呼ばれたのだった。

 他国から来た皇帝の寵妾……と。


「ゾフィー様。今日は、お兄様のことを聞かせてくれるんでしょう?」

「はい。王妃様にお伝えしたいことがあって」

「よければ、たくさん話して。そうね、婚約破棄をしたお兄様と、無事に復縁した経緯を聞きたいわ」

「復縁だなんて。それに、元々が不釣り合いな婚約でしたし、破棄というよりは解消でした」

「円満に解消しようとしたら、お兄様がゴネたんでしょう。だから、一方的に破棄することになった」

「王妃様、それは……」

「振られた女性を後宮に囲うなんて、お兄様もヤンデレね」

「は?ヤンデレ……とは?」

「ああ、いいの。こっちの話よ。でも、よかったわ。二人にはそうなってほしかったの。息子はいい仕事をしてくれたわ」


 無邪気に笑う王妃様の目には、うっすらと涙が浮かんている。きっと、兄と慕う従兄のニコライ様を思い出しているんだろう。


「王子様が私の領地に来てから、ちょうど一ヶ月くらいでした」


 私は暖炉の火を見つめながら、あの日のことを思い出していた。もう十年も前の出来事なのに、昨日のことのように鮮明に思い出せる。

 そして、記憶の中のニコライ様は、私にとっては思い出ではなく、今も心の大事な場所を占めている。


 そう、あれは今から十年前。彼との婚約を破棄してから、ちょうど十年目のことだった。


「やあ、ゾフィー。久しぶりだね。元気そうで何よりだ」


 日に透けるような金髪と、新緑に光を当てたような緑の瞳。黄金率で計ったように整った目鼻立ち。その壮絶な美貌は、むしろ人間ではなく神様と言われたほうが納得がいく。


「ご無沙汰をしております。陛下にはご機嫌うるわしく」


 昔と変わらない笑顔を向けられて、私は顔を隠すように下を向いて、膝を深く折ってお辞儀をした。三十を迎えた自分の容姿の衰えを、できるなら彼には見せたくない。


「他人行儀だね。私たちは特別に親しい関係だろう。顔を上げて」

「お許しください。見苦しいなりをしておりますので」


 私がそう言うと、ニコライ様は黙って近づいてきて、私の右手を取った。最後に彼に手を握られたのは、もうずっと前のことなのに、伝わる体温や肌の感触はあの頃と寸分違わない。


 私をゆっくり立たせた後、ニコライ様は顎に指を添えて私の顔を上に向かせた。こんな風にして、彼の顔を間近で見たのも遠い昔のことなのに、あの頃と変わらない甘いときめきが蘇った。


「ゾフィーは変わらないね。こんなに美しいのに、とても慎ましい姿をして。贈り物は気に入らなかった?」

「いいえ。美しい品々でしたわ。ドレスも宝石も」

「それなら、どうして身につけてくれないのかな」

「いただく理由がありませんもの」

「君は私の後宮に入るんだ。不自由なく暮らしてほしい」


 瞳の色よりも、ずっと濃いグリーンの軍服。金の刺繍が鮮やかに詰め襟を飾り、そのまま肩章へと流れるようなデザインになっている。肩からたすき掛けにされたリボン状のサッシュは赤で、胸に輝く勲章や星章の意匠がキラキラと輝いている。皇帝の正装。


 そんなニコライ様の前で、私は飾りのない地味な紺色の服を来て、茶色の髪はおとなしい形に結い上げている。

 貴族の屋敷に勤める女家庭教師と称するのがふさわしいような格好だった。


「ご恩に報いるように、心を込めて皇太子様のお世話をさせていただきます」


 私はニコライ様から身を引くように後ろに下がって、スカートの端をつまんでもう一度お辞儀をした。彼がどんな顔をしているのか、見るのが怖かった。


「……そうか。よろしく頼むよ」

「はい。アレクセイ様、こちらに。お義父上(ちちうえ)様のお越しですよ」


 少しだけ離れたところに控えていた男の子が、静かに私の隣に進み出た。


 紹介されなくても、彼が皇太子となる王子だと分かったと思う。母のアリシア様とそっくり同じ髪の色、同じ瞳の色。そして、その面差しや笑顔までも、彼女の面影をそのまま写し取ったような美貌の王子。それがアレクセイ様だった。


「はじめまして。私がニコライだよ。今日から君は、私の息子になるんだ」

「お義父上(ちちうえ)様。お会いできるのを楽しみにしていました。よろしくお願いします」

「うん。仲良くしよう。お前は何も心配しなくていいんだよ。帝国にはゾフィーも来るし、しばらくはジルべルトもいるんだ」


 ニコライ様の後ろで、ジルベルトと呼ばれた背の高い男性が頷いた。黒髪に小麦色の肌の美丈夫。年齢は私やニコライ様とそう変わらない。王子様の国の出身だろうか。


「先生!来てくれたんですか?」

「はい。王子様が北の気候に慣れるまで、しばらくは一緒に帝国に滞在する予定です」

「わあ!嬉しいっ。ゾフィー、僕のお医者様だよ!お父様とお母様の友達なんだ」

「ジルベルトは、国からたくさんお土産を持ってきてくれたそうだよ。彼の部屋に置いてあるから見ておいで」

「お母上様からのお手紙もありますよ。今夜は私のところで、お国のことを話しましょう」

「はいっ!ゾフィーも来て。僕の国のこと、話してあげるよ!」


 この一ヶ月で、王子様は私にすっかり懐いてくれていた。実の母親に年齢が近いこともあったと思う。でも実際は、たくさんの兄弟姉妹に囲まれたアレクセイ様にとって、自分だけに愛情を注いでくれる存在というものが、とても嬉しかったようだ。いつでもどこでも、私と一緒にいたがる。

 たぶん、お母様が恋しいんだろう。王子とはいえ、まだ八歳の男の子。それは当然のことだった。


「王子様、ゾフィー様は皇帝陛下に譲ってあげましょうか。お二人は仲のいいお友達なんですが、もうずいぶん会ってなかったんですよ。久しぶりだから、色々とお話することもあるでしょう」

「分かりました!お義父上様、ゾフィーはね、一人だと眠れないんです。だから、ちゃんと一緒にいてあげてくださいね!ゾフィーを泣かせないで」

「ああ、任せなさい。泣かせないように……か。努力するよ」


 ジルベルト先生が王子様を連れて出ると同時に、他のお付きの者たちも下がっていった。

 二人だけで取り残されてしまった私たちには、気まずい空気が流れていた。


「一人では、眠れないの?」

「あれは王子様のことです。お母様を恋しがって泣いていたので。ああでも言わないと、遠慮してしまうから」

「ああ、そうか。アレクセイは母親似なんだな。素直で純粋だ」

「生き写しでいらっしゃいますね」

「君も、アリシアのことを覚えているんだね」


 もちろん覚えています。最後に会ったとき、彼女はまだ八歳だった。流れるような銀髪に、海よりも深い青の瞳。白磁の肌は透き通って、華奢な体が妖精のように見えた。


 ニコライ様が世界で唯一、心から愛した女性。


「懐かしいです。あれからもう、二十年も過ぎてしまったなんて。アリシア様はお変わりありませんか?」

皇妹(いもうと)は元気だよ。最近、双子を出産したそうだ。アレクセイの弟たちだね」

「まあ。にぎやかで素敵ですね。いつかお会いしたいわ」


 アリシア様は私の二つ下だった。まだ二十代なのに、すでに五人のお子様に恵まれている。西の大国の王家は安泰だ。


「君はアレクセイの母代わりだ。すぐに会う機会があるよ」


 私の役目は侍女だと聞いていた。子を産んだことがない私が、母親の代わりになれるわけがない。


「そのことなのですが、私は侍女として出仕するという話では……」

「ああ。だが、実質的には母親の役目を担ってほしいんだ。私は男だし、母性というものは与えられない」

「その役目は、皇后様にしていただくのがふさわしいと思いますわ」


 私の言葉を聞いて、ニコライ様は少しだけ眉をひそめた。


「そう思って、君に結婚を申し込んだだろう。なぜ断ったの?まだ、私のことを怒っている?」


 十年前、私は一方的に婚約を破棄をした。ニコライ様の女癖の悪さに愛想が尽きたという理由で。私という婚約者がありながら、数多の女性と浮名を流した、どうしようもない男。


 そして、それが実は、心に秘めた「真実の愛」を捧げる相手を恋敵から取り戻すためだと知って、誰が結婚などできようか。婚約破棄は当然の成り行きだ。


「まあ、お戯れを。陛下には感謝しかありませんわ。おかげで我が家は破産を免れました」

「皇后になれば、もっと援助ができるんだよ。悪い話ではないと思うんだが……」


 ニコライ様は頭を掻きならが、すねた子供ように口を尖らせた。その様子がおかしくて、思わず笑ってしまった。

 そんな私の笑顔を見て、ニコライ様はすぐに機嫌を直した。こういうところは昔とちっとも変わっていない。単純でバカな人。


「ゾフィー、今宵は共に過ごしてもらえるの?」

「私は、お金で買われた使用人です。ご命令であれば、お役目を全うします」

「君は変わらないね。言い出したら聞かないからな」


 ニコライ様は両手で私の頬を包むと、十年前に別れたときと同じように、まるで私を食べてしまいそうなキスをした。あの頃と変わらない熱が、私の体を痺れさせる。


 それでも、私は力を振り絞って彼から身を離した。こんな口づけを受けてはいけない。


「やめてください。無意味ですわ。夜伽が必要ならご命令を。拒否権のない私ですから、好きになさればいいんです」

「ずいぶんと嫌われているように聞こえるね。だが、君の体はそうでもなさそうだ」


 甘いキスで(とろ)けさせられて、私の体からは抵抗する力が抜けてしまっていた。それをいいことに、ニコライ様は昔と同じように、私の体に好き勝手に触れた。

 その指から伝わる熱に翻弄され、息もとぎれとぎれになりながら、それでも私は彼をキッと睨みつけた。


「体は買えても、心までは奪えません。私は二度とあなたのものにはならない」

「そのようだね。では、体だけで満足するとしよう。ゾフィー、お前に皇帝の伽を命ずる!粗相のないように支度を整えて、寝室で私の来訪を待て」

「……心得ました」


 そう言いながら、私は唇を噛んだ。真実の愛に敗れて舞い戻った、私の元婚約者。その男に今夜また抱かれるかと思うと、体が自然と震えた。

 私はもう、あの頃のような何も知らない小娘じゃない。ニコライ様には他に愛する人がいる。「真実の愛」以外は、誰に対しても同じ。私が特別なわけじゃない。


 それに気がづいたときから、私は彼に何も求めなくなった。望めなくなった。私のことが好きだなんて、彼は嘘をついた。それを本気にして、彼を愛してしまったのは、私の失敗。

 最初から政略結婚だと、親に決められた婚約者だと言ってくれたほうがマシだった。それならきちんと割り切れた。期待なんてしなかった。


 だから、その不実を理由に婚約を破棄した。それだけのこと。


 寝支度をする前に王子様の様子を見に行くと、客間のベッドですやすやと眠っていた。祖国からの手紙を握ったままで。頬に涙の跡があるので、きっとお母様からだろう。


「陛下から、目を離さないでいただけないでしょうか。特に夜は」


 王子様がぐっすり眠っていることを確かめた後、ジルベルト先生は声を抑えてそう言った。


「それは、どういう意味でしょうか」

「陛下は病を患っているんです。できるだけ詳しく、日々の体調を教えてほしい。お願いできますか」

「あの、病って。悪い病気なんですか?」

「今すぐにどうこう、というものではありません。ただ、治療法が見つかっていない。対処療法で進行を遅らせるしか、今の医学には方法がないんです」


 足が震えた。治療法がないって、まさか命に危険が?


「神殿は?祈祷は効かないのですか」

「それは、これから試していく予定です。私もできる限りのことをします。だから、あなたにも協力してほしい」

「分かりました。あの、もし治療法が見つからなかったら、陛下は……」

「今のままだと、余命は十年」


 思わず叫びそうになり、私は自分の口を両手で覆った。十年後でも、ニコライ様はまだ四十代。死ぬような年齢ではない。


 ガタガタと震える私の肩に、先生の手が置かれた。それは大きくて温かく、頼もしい手だった。


「大丈夫。きっと助けてみせます。希望を捨てないでください」

「よろしくお願いいたします。陛下の治療のためなら、何でもしますから」


 本音だった。ニコライ様の健康が取り戻せるなら、私は協力を惜しまない。絶対に治ってもらう。


「あなたがいてよかった。愛妾なら、陛下と夜を共にしても怪しまれない」

「怪しまれる?皇帝が病なのに、誰が何を怪しむのですか?」

「陛下は病を公表しないつもりです。今の体制になってまだ十年。国家転覆を企む輩も、革命の残党もいる。陛下の体に異変があれば、帝国の存続自体が危うくなる。アレクセイ様の立太子を急いだのも、現皇室の統治を磐石にするためです」


 おかしいとは思っていた。ニコライ様はまだ三十代半ば。十分に実子を持てる年齢なのに、皇后を置かずに、甥を皇太子にするなんて。


「では、アリシア皇妹殿下もこのことをご存知なのですか?」

「いいえ。王子の父カルロス国王とあなた以外に、誰も知る者はおりません。ニコライ陛下の希望で、他には知らせないことに」

「そんな。では、なぜ私に?」

「陛下が、信頼できるのはゾフィー様だけだと。陛下の心に添ってくれる唯一の女性だと聞いています」

「陛下が、そんなことを……」


 胸に切ない思いが広がった。十年前、一方的にニコライ様を切ったのは私。ついさっきも意地になって、ひどいことを言ってしまった。


「いずれは、王子様も気付かれるでしょう。でも、そうなる前に治療法を見つけたい。無用な心配をかけたくないんです」

「分かりましたわ。できるかぎり協力いたします。陛下の御心に適うように」


 ジルベルト先生は帝国滞在中に、私に病気や看護の知識、報告や調剤の方法を教えると約束してくれた。きっと治ると励ましてくれた。それでも、私の胸は不安で押しつぶされそうだった。


 その夜、ニコライ様は閨で、昔と全く変わらない情熱を私に注いだ。彼と最後に夜を共にしたのは、婚約者だった十年前。今もあの頃と同じように、愛されていると錯覚したくなるような抱き方をする。


 十年ぶりの情熱的な逢瀬なのに、ちっとも伽に身が入らない私の様子で、ニコライ様は私が彼の病のことを聞いたと悟ったようだった。


「君には迷惑をかける。すまないが、私を助けてくれないだろうか」

「もちろんです。私を陛下の愛妾に加えてください」

「私に愛妾はいない。それに、なぜそこで皇后じゃないんだ?どうせ私に抱かれるなら、同じことだろう」

「嫁き遅れた没落貴族の娘など。陛下の批判の格好の口実になります。皇后には力のある家から、然るべき姫を」

「君が嫁がなかったのは、私のせいだろう。今も昔も君の体は、私が教えた通りの反応しかしない。君は婚約破棄後も私に操を立てた。違う?」

「いいご縁がなかったんです。それだけですわ」

「それは、君が私に純潔を捧げたから? 貴族の初婚相手には、まだ乙女が求められる」

「今どき、そんな古い考えは流行りません。気にしすぎです」


 ニコライ様は、そのことについては、それ以上は触れなかった。


 確かに、私はかつてニコライ様のものだった。でも、それが結婚できなかった理由じゃない。

 むしろ、皇帝との縁にあやかりたい貴族たちが、こぞって結婚を申し込んできた。


 ただ、私が彼らを愛せなかっただけ。


「陛下こそ、皇后には乙女をお望みでしょう?お世継ぎを産む方に、他の男性の経験があったら、色々と具合が悪いですから」

「それこそナンセンスだよ。むしろ、生殖能力が証明された経産婦でもいいくらいだ。だが、私は子供を持つつもりはないんだ。皇位はアレクセイに継がせる。正当な皇室の継承者だ」


 血筋のことを気にしているんだろうか。ニコライ様が血がつながらない遠縁から、皇室と血縁関係にある公爵家に養子に入ったことは、今では公然の秘密となっている。


「そうですか。でも、そうだとしたら、なおさら皇后が必要ですわ。アレクセイ様の強い後ろ盾になるような家柄の令嬢がよろしいかと」

「お飾りの皇后などいらないよ。愛人との間に子などもうけられたら、その子に帝位を奪われてしまうかもしれない」


 帝国では、皇后所生の男子が帝位を継ぐ。その父親が誰であっても、後継者確保という大義名分で。

 ニコライ様自身も、皇室を存続させるためだけに担ぎ上げられたようなものだった。


「お立場が難しいこと、お察しします。でも、陛下には幸せな結婚をして、よい伴侶を得ていただきたいと願っていましたのに」

「そう思うなら、君が立后してくれればいいだろう。私との結婚は、本当に考えられない?」

「申し訳ありません」

「ゾフィーは、言い出したら聞かないからな」


 ニコライ様は、大きくため息をついた。


 婚約破棄をしたときも、ニコライ様は同じ言葉で私のわがままを受け入れてくれた。


 あのとき、私は彼から離れた。よかれと思ってしたことだったけれど、結果として一番大変な時期に、なんの手助けもできなかった。

 そんな私には、もう彼を手を取る資格はない。


 ニコライ様はベッドの上で上半身を起こして、乱れた髪をかきあげた。その耳に、珍しいデザインのピアスが光っている。この色は……。


「きれいなピアスですね。海のような深い青」

「ああ。これは異国の魔除けなんだ。ナザール・ボンジュウと言うんだよ」

「王子様も同じものをお持ちでした。カフスでしたが。お父様からの立太子のプレゼントだそうです」

「そうか。カルロスには本物があるからな。皇妹(いもうと)が目を光らせていれば、邪悪な者は近づけないだろう。浮気もできそうにないね」


 これはアリシア様の瞳の色。今もニコライ様は、異国に嫁いだ血のつながらない従妹を、妹ではなく女性として愛している。その色を一時も離さずに、身に付けているくらいに。


「みなが、陛下のように浮気者ではありませんわ。でも、そうですね。もしも、アリシア様がそばにいらしたなら、陛下も女遊びはしなかったでしょう」

「そうでもないよ。彼女と一緒に各国を巡ったときは、あちこちで味見をしたな」

「……相変わらず最低ですね。あなた様の女好きは、病気だわ」


 自分でそう言って、私は息を詰めた。思わず使った『病気』という言葉に、過剰反応してしまったのだ。

 ニコライ様はそれに気がついていたはずだけれど、やはり何も言わなかった。


 その代わりに、なぜかピアスを外して箱にしまった。そして、私の背中に手を回すと、そのまま抱き起こしてくれた。

 私は急いで毛布で上半身を隠し、ベッドの上でニコライ様と向かい合う格好になった。


「君がそばにいてくれたら、もう他の女はいらないよ。だから、考え直してくれないか?」

「信じられませんわ。陛下には前科がありますから」

「では、一生をかけてそれを証明してみせよう。君も一生、考え続けてくれればいいよ。私が信じられるという答えが出るまでね」


 ニコライ様はそう言って、優しく小さく笑った。


 でも、私はうまく笑えなかった。一生なんて言葉、今の彼から聞きたくない。先生の言った余命十年という言葉が、重く心にのしかかる。


 それでも、私が暗い顔をしてはいけない。一番不安なのは、病を患っているニコライ様本人なのだから。


「分かりました。私の答えが出るまでずっと、陛下には頑張っていただきます」

「困ったな。あまり長く待たせないでほしいんだけれど」

「甘いですね。私はそんなに簡単な女じゃないんです」

「知っているよ。しょうがないな」


 二十年でも三十年でも、私が答えを出すまでニコライ様は生きてくれる。答えを出さない限り、彼は死んだりしない。

 だから、ニコライ様が生きている限り、私は絶対に皇后にはならない。私はそのとき、そう心に決めた。


 翌日、私たちは王子様と三人で街に出た。ちょうど聖誕祭の季節。この国にはこの時期、どの街にも特設のマーケットが立つ。

 その中でも、エルツの森の豊富な木材を使った有名な木工芸品は、特に子供たちのお気に入りだ。ちょっとした小売店顔負けの大きな木造小屋に、所狭しと木のおもちゃが並べられる。


 屋台で熱いグリューワインを飲むニコライ様を置いて、私と王子様は一番大きなおもちゃ小屋に入った。


 この国に到着してから、もう何度も来ているのに、王子様は飽きることなく、おもちゃを見に来たがる。そんな様子が、まるで幼いニコライ様を見ているような錯覚を引き起こした。


 ニコライ様もこの時期にこの店を見るのが大好きで、大抵は私が案内役兼通訳になったものだった。


『従妹にお土産をあげたいんだ。君だったら何を選ぶ?』

『そうね。小さなものがいいんじゃないかしら。このパイプ人形はかわいいし、面白いと思うわ。冬の暖炉の上に置くのにも、ちょうどいい大きさですもの』


 手のひらに乗る、まるで小人のようなパイプ人形。胴体は取り外しできるようになっていて、中はコーン型の香を焚くための香炉になっている。香のてっぺんに火をつけて、胴体を上から被せると、煙は人形の口から出る仕組みだ。煙り出し人形とも呼ばれている。


 この国の伝統的な工芸品。神の誕生を祝って賢者から送られた没薬にちなんで、聖誕祭によく使われるおもちゃだ。


『うん。これはかわいいな。中にお香を入れるんだね。ゾフィーはどの香りが好きなの?』


 人形の横に、箱や袋に入ったお香が置かれている。香炉のサイズに合わせてお香の大きさも様々。香りも色も違うので、好みのものを買うことができる。


『この時期の定番は、このアップルシナモンか、こっちのもみの木の香りだけど、私はこれが好き。甘くて美味しそうな匂いでしょ?』

『うん。これはゾフィーの匂いだね』


 ニコライ様は、お香と私のコートの匂いを、交互にくんくんと嗅いだ。それはまるで、子犬みたいに可愛い仕草だった。


『私、このお香が大好きで、一年中焚いてるの。やだ、服に匂いが付いてしまっているのね。臭くてごめんなさい』

『いい匂いだと思っていたんだ。そうか、はちみつの香りか。だから、いつもゾフィーは美味しそうなんだな。食べていい?』

『食べたらダメ!でも、噛むだけならいいわ。痛くしないでね』


 十二歳と十歳の私たちは、まだ男女の交わりについてはよく知らなかった。それでも、本で読んだり、大人の話をこっそり聞いたりした知識で、恋人のまねごとをしていた。ませた言い方をするのが、かっこいいと思っていた。


『それは……、ダメかな。僕、大人になったんだ。だから、もうゾフィーに触っちゃいけないって。ゾフィーはまだ子供だから』

『じゃあ、私も大人になる!だから、触っていいの。今日も一緒に寝ましょう』

『うーん。みんなに知られたら怒られちゃうよ?』

『じゃあ、内緒にすればいいわ!ダメだって言ったら、私、泣くから!』

『ゾフィーは、言い出したら聞かないからな』

『そうよ。絶対ったら、絶対なの!』


 ニコライ様は人形を買うと、待っていた私にそっと手を差し出してくれた。雪の中は転びやすいからと、いつも手を繋いで歩く習慣になっていた。


『ゾフィー、こっちにおいで。さあ、一緒に行こう』


 幼い私たちは、大人に隠れてちょっとずつ本当の恋人に近づいていった。もちろん、大人たちは私たちの恋人ゴッコに気がついていたけれど、婚約者同士だからと黙認していたのだった。

 婚約を破棄するまで、ニコライ様はたっぷり時間をかけて、ゆっくりと私の体を開いていった。


 操を立てたわけではない。ただ、他の男に触れられたくなかった。婚約破棄をした前夜の、最後の彼の温もりを忘れたくなかった。

 これは、彼のせいではなくて、私の問題。自分から突き放したのに、別れた後も私は彼をずっと忘れられなかった。変わらずに愛していた。


 婚約破棄は、不本意な政略結婚から、彼を解放する手段。優しい彼に、本当に愛する人と結ばれてほしい。幸せになってほしい。そのためには、他に方法がなかったから。


 あのとき、ニコライ様は皇帝に即位して、ようやく愛する女性を奪い返せるだけの身分を得た。大国の第一王子の婚約者となった、血が繋がらない従妹。そのアリシア様を迎えに行ける力を持てた。

 その心に長いこと隠していた悲願。それをようやく達成できる機会が来たというのに、婚約者がいては邪魔になる。そう思った。


 まさか、ニコライ様の求婚が断られるとは思わなかったから。


 アリシア様が国を出るときに、泣きながらニコライ様と抱き合っていた光景は、どう見てもそこに愛があると思った。たとえそれが、八歳と十三歳の子どもたちの別れの抱擁だったとしても。


「お母様も、こういうお人形を持っているよ。口から煙を吐くんだ」


 王子様の声で、白昼夢のような記憶から、私は現実に引き戻された。ここにいるのはアレクセイ様で、幼いニコライ様ではない。


「ああ、そうね。女の子はいい匂いがするものが好きなの。でも、男の子には、あっちのほうがいいかもしれないわ」


 私が指さした先には、髭を生やして赤や緑の鮮やかな色の制服をまとった人形が、たくさん飾られていた。


「これは、兵隊さん?」

「見た目はそうね。でも、これは『くるみ割り人形』っていうの。口にクルミを入れて、このレバーを落として、顎で殻を割るのよ」

「本当に割れるの?飾りじゃなくて?」

「ええ。でも種類によっては無理ね。東洋にはオニグルミという殻の硬いクルミがあって、それには使っちゃダメ。でも、この大陸にあるクルミなら大丈夫よ」

「そうなんだ!お義父上(ちちうえ)様は、ナッツは好きかな?アレルギーはない?」

「ないと思うけれど、どうして?」

「これは、伯父様……じゃなくて、お義父上様へのプレゼントにしたいんだ。お母様から、ちょっとだけお小遣いをもらってきたの。それで買えるかな」


 王子様は、ポケットからくちゃくちゃになった紙幣を何枚か取り出した。


「ええ、もちろんよ。ナッツはお酒とよく合うの。陛下はお酒が好きだから、きっとナッツも大好きだと思うわ」

「そうなんだね!ゾフィーに聞いてよかった!ゾフィー、お義父上様と結婚すればいいのに。そうしたら、僕の義母上(ははうえ)だよ」

「それは難しいわね。でも、お母様の代わりだと思ってなんでも相談してね。私はいつでもアレクセイ様だけの味方ですから」

「ありがとう!ゾフィー、大好き!」


 思わず王子様を抱きしめると、柔らかくて華奢な体に確かな重みを感じた。愛くるしい王子様。王妃様はこんなに愛おしい息子を、たった一人で北の国に送ることにした。ニコライ様のために。


 その心には、本人にも気が付かないような気持ちが、愛がある。そして、ニコライ様の中にも。今もアリシア様への変わらない愛が存在する。


 他の女を愛している男となんか、絶対に結婚してあげない。ニコライ様がアリシア様を思っている限り、私は皇后にはならない。

 一生そばにいて、長い長い年月、彼を待たせ続けてやる。これは私の意地。そして、切なる願い。


 くるみ割り人形を買って、王子様と木製細工の特設木造ストールを出ると、ニコライ様がマーケットの外れで、一人で待っているのが見えた。その向こうには大きな湖があって、厚い氷で覆われている。


「お義父上様! 見てくださいっ。これ、僕からの……」

「アレクセイ様! 走ったらダメっ!危ないっ」


 ニコライ様を見つけた王子様は、満面の笑顔を浮かべながら、いきなり走り出した。


「アレクセイ! 止まりなさいっ」


 私の声に振り向いたニコライ様も、すぐにそう叫んで、王子様の方に駆け寄った。

 そして、次の瞬間には、滑ってつまづいた王子様を抱きとめたニコライ様ごと、二人は転んで雪まみれになっていた。


「お義父上様! 大丈夫ですか?」

「アレクセイ、無事か?」


 地面に転がって抱き合ったまま、二人は同時にそう言った。幸い、二人に怪我はなかったけれど、頭を打ったりしたら大変だった。


「アレクセイ様!走ったらダメだと、お教えしたでしょう!」


 私に叱られて、アレクセイ様はしおしおとなってしまった。雪や氷に慣れていないせいの不注意ではあるけれど、安全のためにもここは厳しく指導する必要があった。


「ごめんなさい、ゾフィー。ごめんなさい、お義父上様」

「とにかく、怪我がなくてよかった。雪は滑るから、むやみに走っちゃいけないよ。気をつけてくれ」


 ニコライ様は王子様を抱き起こしながら、体についた雪を払ってあげていた。


 そのとき、王子様が悲痛な声で叫んだ。


「お人形がっ!」


 二人の下敷きになって、くるみ割り人形は、腕が取れてしまっていた。それを見て、王子様は泣き出した。


「泣かなくていい。人形なんかより、アレクセイの命の方がずっと大事なんだから」


 ニコライ様にそうたしなめられて、王子様は俯いてしまった。なんとか泣き止もうと、努力している様子がいじらしかった。


「ごめんなさい。でも、お義父上様に、素敵なプレゼントをあげかったんです。お母様のために。そう約束したから」

「約束? お母様と何か約束をしたのか?」

「ううん。お父様と」

「カルロスと?」


 ニコライ様がそう尋ねると、王子様はほっぺたを真っ赤にして、得意そうに答えた。


「はい。お義父上様はお母様のとても大事な人だから、子どもたちの中で一番お母様に似ている僕に、側にいてほしいんだって」

「……そうか。お母様はアレクセイが大好きだから、離れたくなかったろうな」

「うん。でも、お義父上様のことも大好きなんだって。だから、本当はお母様が来たかったんだけど、それはできないから、僕が行くことにしたんだ。お母様の代わりに」

「そうだったのか。それは辛かったな」

「ううん。お義父上様が嬉しくて楽しくて幸せだったら、お母様も同じ気持ちになるんだって。だからね、僕には、お母様とお義父上様を幸せにするっていう、重要な使命があるんだ」

「そうか。それはすごいな。責任重大だ」

「そう。だから、お父様と約束したの。頑張るって。男と男の約束だよ」


 ニコライ様は王子様を抱き上げて、頭を撫でながら優しく言った。


「それじゃあ、アレクセイも嬉しくて楽しくて幸せじゃないといけないね。お前のことが大好きな、お母様もお父様も私もゾフィーも、みんなが同じ気持ちになるように」


 ニコライ様がそう言うと、王子様はにっこり笑って頷いた。


「はい。今日は、お義父上様と一緒に出かけられて楽しかった。これからもゾフィーが一緒にいてくれると分かって嬉しかった。僕はとっても幸せです。だから、きっとお母様もみんなも、幸せだと思います」


 ニコライ様は王子様をしっかり抱きしめたまま、上を向いた。涙をこらえるようなその仕草に、私の方が泣いてしまいそうだった。


「アレクセイ、ゾフィーと三人でずっと仲良くしていこうな。一緒に嬉しいことや楽しいことをたくさんしよう。みんなが幸せになれるように。頼んだよ」

「はいっ」


 壊れてしまった人形は、修理に数日かかるということだった。明日はもう聖誕祭なので、職人が帰ってしまっていたせいだった。


「ごめんなさい。聖誕祭に間に合わない。お義父上様にプレゼントをあげたかったのに」

「プレゼントなら、もうもらったよ。お前とゾフィーがそばいてくれることが、私にとっては何より嬉しい贈り物だ」


 ニコライ様はそういうと、王子様と手を繋いだ。まるで本当の親子みたいに。


「湖の向こう側でスケートができるようだね。やったことある?」


 凍った湖を滑る子供たちを見て、王子様は目を輝かせた。


「ないです。湖が凍るなんて知らなかった! 面白そうですね」

「そうか。じゃあ、一緒に練習しよう。私もあまり上手くないから、ゾフィーに教わることにしようか」


 ニコライ様は私の方を見て、昔と変わらない笑顔でこう言った。


「ゾフィー、こっちにおいで。さあ、一緒に行こう」


 王子様の空いている方の手を握ると、私たちは本当の親子になったみたいな気がした。小さな手から伝わる温かさが、私たちの心をゆっくりと溶かしていくようだった。


 それから十年、私たちは本当の親子のように過ごした。嬉しくて楽しくて幸せな時間を、たくさん共有していった。


 それでも、ジルベルト先生の努力も虚しく、ニコライ様の病気の治療法はいつまでも見つからないままだった。

 病魔は確実に彼を蝕み、残された時間がそう長くないことは分かっていた。だんだんと体調が優れない時間が増え、夜中にうなされることも出てきていた。


「陛下? お苦しいのですか?」

「ああ。すまないが、薬を飲ませてくれないか」


 先生から送られてくる薬はよく効いて、すぐに発作は収まる。それでも、薬の量も使用する頻度も徐々に増えていて、病状が進んでいるのは明らかだった。


「陛下、お医者様を呼びましょう。私だけでは、いざと言うときに不安です」


 医学の心得がない私では、応急処置しかできない。私が眠っているときに何かあったらと思うと、とても怖かった。もしも、ニコライ様が……。


「まだ、大丈夫だ。春にはアレクセイが成人する。戴冠式が終わったら、きちんと治療に専念するよ」

「でも……」

「頼むよ。監視付きの病床に入れられたら、君を抱けないだろう。君の体が恋しくて死んでしまう」

「死ぬなんて!言っていいことと、悪いことがあります。本気で怒りますよっ」


 私が涙目でそう言うと、ニコライ様は優しく小さく微笑んだ。その顔があまりに悲しくて、涙が溢れ出しそうになった。


「ごめんごめん。冗談だよ。だが、君がそばにいてくれないと、寂しいのは本当だ。家族以外は面会謝絶、なんてなったら困る。それとも皇后になってくれる?」

「それとこれとは、話が違います!とにかく、近いうちにジルベルト先生に診てもらいますからね! 」

「ゾフィーは、言い出したら聞かないからな」

「分かればいいんです。すぐに手配しますわ」

「ジルベルトに会うのは、君の故郷でいいかな? もうずいぶん帰っていないだろう。ちょうど聖誕祭の時期だ。マーケットで甥や姪たちのプレゼントを選ぶことにしよう」


 私の実家は既に遠縁に渡っていたので、私たちはお忍びで街の宿に泊まって、ジルベルト先生に会うことになった。

 先生にプレゼントを持ち帰ってもらうために、日中は二人でマーケットを見て回った。


「これは昔、アリシアにあげたパイプ人形だね。君が選んでくれた」

「そうでしたわね。今も使ってくださっているのかしら」

「そう思うよ。いつも聖誕祭のプレゼントには、ここのお香がほしいって言うからね」

「この、はちみつの香りの?」

「うん。毎年、店から送ってもらっているが、今年は自分で買えるな。ちょうど良かった」


 この時期しか使わない香なのに、ニコライ様はずいぶんたくさん買い込んだ。アリシア様も、このお香を一年中愛用されているのかと思うくらいに。


「そんなにいっぱい? 先生に持って帰ってもらうのに、かさばらないかしら」

「大丈夫だろう。もう、こんな機会は二度とないだろうし、なんだかんだで、あいつは優しいから。会えてよかったよ」


 その言葉に、私はなんとなく不吉な予感を覚えた。まるで、ニコライ様がこのまま消えてしまうような錯覚に囚われて、私は繋いでいた彼の手をぎゅっと握りしめた。ニコライ様はそんな私の手を強く握り返してくれた。


「私は幸せだな。こんなどうしようもない人間なのに、優しい人たちに囲まれて。本当にいい人生だった」


 その言葉に、私は涙が溢れて止まらなかった。ニコライ様は逝こうとしている。私たちを置いて。たった一人で。


「そんなこと言わないください。寂しくなってしまう」


 ニコライ様は私の頬に流れた涙を、そっと唇で吸い取った。


「泣かないで。君が悲しむと、私まで悲しくなってしまう」

「陛下のせいですわ。悲しいことばかり言うから」

「そうだね、私は君を泣かせてばかりだったな」

「そうですよ。だから、一生をかけて償ってくださらないと」

「難しいことを言うね。もうあまり時間がない」


 ニコライ様は、困ったような顔をした。


 私のこれまでの人生は、ニコライ様と共にあった。幼くして婚約したときから、私の心はずっと彼で占められていた。だから、最期のそのときまで、私と一緒にいてほしい。


「難しくないですわ。ずっとお側に置いていただければ、私はそれで幸せですから」

「私がいなくなったら、君には別の幸せを……」

「私の幸せを願うなら、ずっと一緒にいようって言ってください。じゃないと、もっと泣きますよ!」


 泣きじゃくる私の頭を撫でながら、ニコライ様は優しく小さく微笑んだ。


「困った人だな。でも、ありがとう。私も本当は、君とずっと一緒にいたいんだ。だから、ずっとそばにいて、君を見守るよ。約束する」

「ええ、約束ですよ」


 いつの間にか、雪が降り出していた。足元の雪が固まりきらないうちに、また新しい雪がその上に降り積もっていく。


「いつか機会があったら、アリシアに伝えてくれないか。彼女のおかげで、私は家族を持てた。愛する息子と共に人生を生きてくれた君。私の幸せはすべて彼女のおかげなんだ。どれだけ感謝しても足りないと」

「……はい。必ずお伝えいたします」


 涙を拭いてから、私は笑顔でそう答えた。ニコライ様はとても穏やかな笑顔のまま、空から舞い落ちる粉雪を見ていた。

 その姿は、まるで神様の加護が与えられているかのように、銀色の柔らかい光に包まれているように見えた。


 冷えた体を暖めようと、私たちは屋台のグリューワインを飲んだ。甘いワインは体に染み入るように熱く、ブーツ型のコップを包んだ手の温もりが、心を柔らかくしていく。


 ワインを飲み終えると、ニコライ様は微笑みながら、いつものようにそっと手を差し出してくれた。


「ゾフィー、こっちにおいで。さあ、一緒に行こう」


 私はその手を取って歩き出した。冷たい雪の中でも、彼と手を繋いだだけで暖かく感じられる。

 そうやって、私たちはずっと二人で、長く寒い冬を歩いてきたのだった。


 そうして、それが私たちが一緒に過ごした、最後の冬になった。翌年の夏、ニコライ様は静かにこの世を去った。安らかに眠るように、その御身を神に召されたのだった。


 それからしばらくは、若い新帝を支えながら混乱した日々を過ごした。

 そして、ようやく国が落ち着いた冬になって、私はアリシア様を訪ねることができた。ニコライ様から頼まれていた約束を果たすために。


 暖炉に掛けられた鍋からは、スパイスが効いた赤ワインの甘い香りがする。

 それは、あの日、二人で飲んだグリューワインを思い出させた。彼の温かい手の温もりも。


「お兄様がそんなことを……」

「はい。お伝えするのが遅くなってしまって、申し訳ありませんでした」


 王妃様は椅子から立ち上がると、グリューワインの鍋をそっとかき混ぜた。後ろ姿なので顔は見えないけれど、泣くのをこらえているのかもしれない。


「これは、ゾフィー様のお国のワインでしょう?よかったら飲んでいって。お兄様もお好きだったわ」

「ありがとうございます。このお香も、ケーテ・ヴォルファルト社のものですね」


 暖炉の上の大理石の飾り棚で、口からほんのりと香を漂わせているのは、私の国の伝統木工細工。

 中に火をつけた三角のお香をセットすると、本当にパイプを吸っているように、丸い口から煙を吐き出す。私が選んだ、あのパイプ人形だった。


「そうよ。お兄様のお気に入りのはちみつのお香。これが一番いい香りなんですって。毎年、この時期に送ってくださっていたの。聖誕祭のプレゼントね。今年は来なかったけれど」

「気が付きませんでしたわ。申し訳ありません、すぐに国から取り寄せて……」


 私がそういうと、王妃様は優しく小さく微笑んだ。その顔があまりに悲しくて、私は涙が出そうになった。

 血がつながっていないのに、なぜかその仕草はニコライ様を思い出させた。


 王妃様はブーツ型のコップに入れたグリュー・ワインを私に手渡し、コップを持つ私の手を両手でそのままそっと包んだ。


「ありがとう。でも大丈夫よ。お香は去年いただいた分がまだまだあるし、お兄様からのプレゼントなら、もう届いているから」

「そう……、なのですか?」

「ええ。お兄様はね、いつも私が一番ほしいものをくださるの。今年のプレゼントはゾフィー様よ。あなたを連れてきてくれた」


 そう言うと、耐えきれなくなったように、王妃様は両手で顔を覆った。そして、嗚咽を漏らしながら、小さな声でこう言った。


「お兄様は幸せだったのね。教えてくれてありがとう。今までで一番うれしい贈り物だわ。お兄様がくれた……」


 ああ、そうだったのか。そうだったんだ。ニコライ様は、最愛の人への最後のプレゼントを私に託した。

 彼が誰よりも愛した、優しい彼女の心を救う言葉。それを伝えてほしいと。


「ニコライ様は、照れ屋で不器用な方でしたわ。きっと、王妃様に面と向かって感謝の気持ちを言うのが、恥ずかしかったんでしょうね」


 震える王妃様の小さな肩をさすりながら、私はニコライ様のことを考えていた。


 そう、あの人は素直じゃなくて、いつも微妙に誤魔化した言い方をした。本音を口にはしなかった。たぶん王妃様にも、そして私にも。


 王妃様が落ち着いて泣き止んだ後、私たちはグリューワインを飲みながら、ゆっくりとした時間を過ごした。

 それは心がぽかぽかと温まる、とても幸せな時間だった。


「ゾフィー様は、これからどうなさるの?今までと変わらずに、アレクセイの後見として後宮に留まってくださる?」

「いいえ、アレクセイ陛下には皇后のナタリア様がおられますし、私は宮殿を去ろうと思っております」

「そう、残念だわ。でも、まだお若いのだし、お国に戻ればいいご縁も……」

「いえ、国に帰るつもりはありません。帝国に留まりますわ。春には皇室の墓所がある土地の修道院に入って、ニコライ様のご冥福を祈って暮らそうと思っています」

「まあ、そんな。お兄様は、あなたには幸せになってもらいたかったはずよ」

「ええ。ですから、そうしようと思うんです」

「ゾフィー様」


 王妃様の耳には、ニコライ様が形見に遺したピアスが光っていた。王妃様の目の色の魔除け。ニコライ様が肌身離さずに身に付けていた宝物。


 ニコライ様は、このピアスを共には持っていかなかった。アリシア様への気持ちは、ここに置いていった。

 彼があのピアスを外したのは、私が知る限り一度だけ。私に生涯をかけて自分を信じてほしいと言ってくれた、あのときだけだった。


『君がそばにいてくれたら、もう他の女はいらないよ。一生をかけて、それを証明してみせよう。君も一生、考え続けてくれればいいよ。私が信じられるという答えが出るまでね』


 人生の最後の最後まで、ニコライ様はそれを証明しようとしてくれた。あれは不器用な彼のプロポーズ。

 そして、これが私の出した答え。ニコライ様が生涯をかけて示してくれた真心を、今度は私が返す番。


 修道女の鈍色のベールが、私の花嫁衣装。私はようやく未来永劫、彼の皇后となる。


「ニコライ様は寂しがり屋ですから、私がそばにいないとダメなんです。誰かに嫁いだりしたら、きっと物凄くショックを受けてしまいますわ」

「そう?お兄様はゾフィー様のことだけは諦めなかったから、むしろ闘志を燃やすんじゃないかしら?」

「そうかもしれませんね。でも、私がニコライ様のおそばにいたいんです。いつか、またお会いしたときに、私を残してさっさと逝ってしまった責任を取らせようと思って」

「まあ、ふふふ。そうね、そういうことなら。でも、きっとお兄様は喜ばれるわ」

「ええ、私もそう思います。あの方はなかなか本当の気持ちを言わないから、こちらが察してあげないといけないんです。困った人ですわ」


 私たちは、お互いに目を見合わせて笑いあった。同じ人を愛した私たちは、これからもそれぞれの形でこの愛を胸に抱いて生きていく。


 夜も更けてきたので、私はそろそろ退出することにした。明日にはもう帝国へ発つ。春になる前にやっておかなくてはいけないことが山程ある。


「近いうちに、またお会いしたいわ。帝国には娘が留学しているの。遊びに行くときに、ゾフィー様にも会いに行っていいかしら」

「もちろんですわ。お待ちしております」


 私たちは抱き合って別れを惜しみ、再会を約束した。ニコライ様のたった一人の妹は、私にとっても家族のように大事な人だった。今までもこれからも。


「あの、ゾフィー様。輪廻転生って、生まれ変わりって……信じる?」

「東洋の思想ですか?あまり詳しくは……」

「私は信じているの。人は必ず、愛する人の元に回帰するって。ゾフィー様は、きっとお兄様のところにたどり着くわ」

「もしそうなら、素敵ですね。そのときは、今度こそニコライ様との婚約を全うしますわ」

「ええ、絶対に!そうしたら、ゾフィー様は私のお義姉様だわ。そうだ、これからはお義姉様と呼ばせて!私のことは義妹だと思って。アリシアと呼んでほしいわ」

「そんな。恐れ多いですわ」

「あら、修道女になるんでしょう?それなら、どっちにしろ『シスター』じゃない。おかしなことはないわ。これはプレゼントのお返しよ。私の感謝の気持ちを受け取って」


 王妃様のめちゃくちゃな理屈に、思わず笑みがこぼれた。私が育てた子の母。私の愛した人が心から愛した女性。

 そして、彼女は今、私の可愛い義妹となる。ニコライ様が繋いでくれた縁。私がずっと大事に守っていくもの。


「分かりましたわ。アリシア、体に気をつけてね」

「ええ、お義姉様もね」


 馬車に乗るために外に出ると、いつの間にか粉雪が舞っていた。真っ白な聖誕祭。


 これはニコライ様からのプレゼント。彼は私にも最後の贈り物をしてくれた。この温かい気持ち。これは優しい義妹と共に、彼が私に残してくれた最高の宝物。


 雪明かりの柔らかい光の中に彼がくれた愛が溢れて、涙で視界がぼやけた。ありがとう。たくさんの愛をありがとう。


『ゾフィー、こっちにおいで。さあ、一緒に行こう』


 粉雪の中から、ニコライ様の声が聞こえた。いつものように、微笑みながら手を差し出してくれる。


 はい。いつまでも一緒に。最愛の貴方と、いつかまた会える日まで。だから、もう寂しくない。私たちはずっと共に歩いていく。


『ずっとそばにいて、君を見守るよ。約束する』


 ええ、約束ですよ。貴方の待つ場所にたどり着くその日まで、私のそばにいてください。私も貴方のそばで、永遠に貴方を愛し続けます。


『ゾフィーは、言い出したら聞かないからな』


 ニコライ様はそう言って、小さく優しく笑った。私もそれに微笑み返し、遥かな未来への希望を胸に歩き出す。愛する人の元へと続く長い道を。


 聖誕祭には小さな奇跡が起きる。すべての人の心に、温かい気持ちが降りてくる。私がもらったように、貴方にもきっと愛が届く。


 だから、私は願わずにはいられない。大好きな人たちに、大きな幸せが訪れるように。たくさんの愛に包まれるように。愛して愛される人生が、その心を満たすように。


 大切な貴方に、そばで貴方を見守ってくれるすべての優しい人たちに。心より愛を込めて。


 メリー・クリスマス!

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます!


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― 新着の感想 ―
[良い点] しっとりした大人の恋物語、そして愛する人をめぐる女性たちの友情……。 堪能しました。聖誕祭にふさわしい、とても美しいお話でした。 雪や暖炉の情景が登場人物たちの心情を引き立てて、異国情緒に…
[良い点]  前作、前々作を読んでから読み直すと、深みが違いますね。  ちゃんと、作者の中でキャラが生き続けているからこそと思います。  ニコライにとって、ゾフィーは永遠に二番目なのかな、と思いつつも…
[一言] あああ べしゃ泣きしてしまいました。(T_T) (^^;)仕事サボって…
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