私の人としての確定要素
『私を殺してくれ』
疲弊した清潔感の一切ない彼がベットで寝ていた。
実際には言葉を発してすらいない。
でも。
俺は確かにそう話された。
感染症が蔓延して久しい今日。
彼は、そんな自粛期間にもかかわらず、20歳から所属している会社から激務を命じられていた。
一ヶ月八十時間の残業などは無論の彼の奉公先。
論無く休憩時間など存在せず、タイムカードはしっかりと切ってから残業をこなすことになる。
食事はコンビニの安飯。手取りは十万。
それに加えて、退職しようものならそれ相応の対応があると脅されていた。
これぞ闇社会の闇企業だ、と言っているようだった。
俺は国に相談しろと彼に言うほかできなかった。
しかしたちの悪いことに、その企業は決してただの中小企業ではなかった。
当時の俺は知らなかったのだが、やっていることが真っ黒。しかも国が加担していた。
つまりそういうことだ。
脅しは言葉のあやでは済まなかったのだ。
加えて……彼は責任感が強かった。
虚弱な割に気丈だった。
哀しいことに人間にはそれに耐えるほどの精神的な強さや、肉体的な強さは持ち合わせていない。
果には彼はこうなってしまった。
今や無機質な病院の中で、無機質な運動のもとに生きている。
生きているとも生きていないとも言えてしまうただの置物。
それに反して生物上、要求される行為に関しては無意識下で強制的に行われるという苦しみ。
俺は苦しかった。
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一月中頃。豪雨。
俺は彼の家の前に来ていた。
いても立ってもいられなかったのだ。
しかし彼の家の前で俺の体は硬直していた。
しばらくそうしていると、後ろから声がかけられた。
「久しぶり」
振り返ると無機質な不躾な視線をこちらに向けている彼が立っていた。
びしょびしょに濡れたグシャグシャにシワの寄ったシャツを着て、コンビニのビニール袋を持っていた。傘は持っていない。
薄くすけている袋の中身はエナジードリンクとおにぎり。
走ることすらしなかったらしい。
「入ってくれ」
どう考えても疲れているだろう彼は、やうやうしく俺のことを世話してくれた。
こたつをつけ、おにぎりを一つよこし、お茶を入れた。
俺は終始無言だった。
負い目があっのだ。
「……どうすればいい?」
「どうって?」
ようやくひねりだた言葉に、彼は端的に質問をかえしてきた。
そうしてまた黙り込んだ俺に彼は疲れてしまったのか、ライターを取り出して煙草を吸った。
これくらいしか短時間で、という制限のある生活では楽しめる娯楽がないのだろう。
彼の吸う煙草が半分くらいにまですり減ったとき、俺はようやくまた声を出した。
「ぁ……辛いか?」
「アタリマエのことを君はよく聞く」
愚問だった。
「……いつまでも時間をかけるわけにもいかない。君が私を哀れんでいるのも、そして心配しているのも知っている。定期報告だろう?君の求めているものは」
違うと言いかけたが、彼の手に防がれ、当の彼はそのまま口を噛み殺すように話し始めた。
私が君に話したいのかもしれない。やはり変わらないよ。数ヶ月たったからと言って今の会社の体制が変わるわけでもないしね。しんどいし哀しいよ。かつては楽しかったのだがね……。いや、まあ、いつまでも過去の話をつらつらと言うのかと言われると、どうも言えない。話題を変えよう。つまりだ、私が言いたいのはこうだ。緊急のこともなく正常だ。想像通りかい?
また空白の時間が流れた。
彼はこちらを見、俺が話さないとわかると影を落としてエナジードリンクで喉を潤した。
………もし、君が許してくれるのならば、私は…話そう。現実的には何も変わっていないが、精神的なところではかなりきつい。きついという言葉はもはや軽いかもしれない。幾度かのオーバーフローをした上でのもうしないであろう上限の苦しさだ。地上にいながらにして地獄を味わうというのはなかなか乙だとは思わんかい?
今度はこちらを見ることはなく、豪雨の降っている外に目を向けていた。
来たときよりも明らかに激しくなっており、窓はバンバンと鳴いていた。
自嘲気味に笑いながら彼は話すペースを早めた。
実際のところ。私は生きるている意味がわからない。生きるという価値がわからないのだ。なんのために働いているのか、なんのために家を出るのか、なんのために金を得るのか。なんのために呼吸をしているのか………そんなことさえ一切わからない。人は賢くなり過ぎたように私は思ってしまうよ。
「そんなこと俺もわからない!!」
俺は声を荒らげていた。何が俺をそうさせたのかは今となれば覚えていないが、彼の驚いた目と、その後の苦笑いは強烈な印象を今の俺に与えている。
次に彼は静かに独りよがりの演説ではなく諭すように言った。
そうだね……謝るよ。だがやはり私は…わたしという存在が納得できないのだよ。名が私を私たらしめているのか、納得できない。なけなしの睡眠時間を削り、読み漁ってみた哲学書のよちよち歩きの説明などは果てしなくつまらなかった。もはやただの人間である理由さえ明瞭でなくなってしまった。
そこまで話して彼はようやく落ち着いた。
俺にとってそれらの話はとても重く感じてしまっていた。彼の求めているものはそんなものではないとわかっているがゆえに、余計に俺はそれを納得できなかった。
「人が人である理由など神にすらわからない!人が人として人生を謳歌するなどそんなものは見たことがない……!貴方次第ではないのか?!それがどうして人であるのか、なんのために生きているのか!!そんなものも見つからないと君は化け物にでもなってしまうというのか?!」
「成る!!成ってしまうよりほかないだろう。」
彼は食い気味に皮肉を肯定した。
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きっと彼は化け物になれなかったのだろう。
病室では波のなくなったディスプレイが、静かに電源を落とされる寸前だった。
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