【7-10】神の思いやり
次の日。キサラギは思ったよりも早く目を覚ました。
障子の外は薄暗く、昨晩の酒の余韻で若干頭が痛かったが、背伸びをして起き上がる。
「飲み過ぎた……。俺もマコトの事言える立場じゃないな」
頭を抱えるも、とりあえず顔を洗いに行こうと布団を捲り、その場を離れようとした時、何かが着物を引っ張り視線を移す。
そこにいたのはすやすやと眠るマコトだった。ため息を吐き布団に戻っていくが、そこでキサラギは正気に戻った。
「(……いや、待て。何で一緒に寝ているんだ)」
もしかして酔った勢いで、間違えてここに入ったのだろうか。思わず深く息を吐いて、「やらかした」と声を漏らすと、マコトの瞼が開かれる。
「んん……何だ……って」
「………すまん。今すぐここから出る」
「えっ……あ」
空色の目が大きく開かれ、気まずい空気が流れる。
そっとキサラギが離れるが、運命の悪戯か布団についていたキサラギの手が滑り、マコトに覆い被さるように倒れてしまう。
辛うじてマコトを下敷きにする事態にはならなかったが、至近距離の互いの顔に二人はよりパニックになり、キサラギは顔を真っ赤にしながらすごい勢いで後退りする。
「わ、わざとじゃない! すまん! 本当に……!」
「あ、ああ。事故だよな⁉︎ 大丈夫だ! そういう時ってあるよな!」
壁に背中をつけて必死に弁明するキサラギに、マコトは茫然としながらも笑ってごまかした。
そんな大騒ぎの二人を他所に、障子の外から太陽の光が差し込むと、少し落ち着いたマコトが座り直すと改めてキサラギを見る。
「その、よく覚えてはいないんだが……もしかして、私昨日酔い潰れたのか?」
「あ、ああ」
「やっぱり……いや、何というか。申し訳なかった」
頭を下げて謝るマコトに、キサラギは間を空けて正座をすると「俺も悪かった」と謝った。
どちらも酒の失敗であるのは確かだし、人の上に立つ立場の者としても、よろしくない事であるのは分かっている。
「身体は大丈夫か。何もされてないな?」
「あ、ああ。大丈夫だぞ。というか、上層でも二人で寝たりしたから今更じゃないか?」
「それはそうだが。そうだとしても、布団は別だっただろ」
しかも今回は酒を飲んで正常ではない時だ。もし酔った勢いで手を出していたらと思うと、キサラギは冷静でいられなかった。
後悔と罪悪感でキサラギは深く息を吐きながら、顔を上げられずにいると、布団が捲れ足音が近づいてくる。
「キサラギは、そんな事しないって分かっている。分かってはいるけど、まあ……そうだな」
「?」
顔を上げると、互いの唇が重なる。
キサラギは目を丸くし、放心状態のまま目の前のマコトを見つめていると、離れてマコトは笑みを浮かべる。
「これぐらいなら、もうしても良いんじゃないか?」
「……っ」
口元を手で隠し耳まで赤くすると、低い声で「なんで先にやるんだよ」とキサラギが呟く。
まさかの不意打ちからのキスに、今まで堪えていた何かがぷつりと切れた気がすると、マコトの腕を引き強く抱きしめた。
「っ、き、キサラギ?」
「もう戻れないからな」
「えっ、何が」
言いかけたマコトをキサラギは口付けをして封じる。あまりにも長い口付けの後、ようやっと離れるとマコトは涙目になって呼吸を整える。
そこで初めてマコトは、自分がした事がとんでもない事だと気付くが時すでに遅く、また唇が重なる。今度はさっきよりも短かった。
「き、キサラギ……も、もう。無理。許して」
「誰が許すか。戻れないっつったろ」
恥ずかしくなって両手で顔を覆うマコトを、キサラギは逃さないように背中に腕を回す。
昨晩の酔いなんてどこにもなく、静かでとても熱いこの早朝の事は、二人にとって忘れられないものとなった。
それから約一か月後。色付いた木の葉が散り始め、冬の足音が近づいてくる頃。キサラギは雪知やセンリュウに教えられながら、本格的に朝霧家当主として公務に出るようになっていた。
あれ以来マコトも小刀祢家の姫としての公務がある為、キサラギと共に過ごす事は少なくなっていたが、先日その小刀祢家の当主からある書簡が届いた。
「……つまり小刀祢家当主から、正式にマコト様を朝霧家に嫁がせたいと」
「ああ」
雪知はホッとした様子で「良かったな」とキサラギに言う。キサラギは筆を止め、「センリュウのおかげだな」と微かに笑みを浮かべる。
キサラギ達が上層に行っている間、センリュウが今までしてきた事を謝罪し、関係を修復しようと頑張ってくれていた。そのおかげもあってか、キサラギが一度小刀祢家に挨拶に行った際、特にいざこざもなくゆっくりと話が出来た。
「昔から怖い印象しかなかったんだが……まさか泣かれるとはな」
「それほど嬉しかったんだ。長い付き合いだしな」
キサラギ……チハルの父・センテンと小刀祢家当主の年齢差は一回り違っていて、小刀祢家当主の方が上だったが、チハルとマコト、双子の弟の年齢が近い事もあり、幼い頃は家族ぐるみで付き合いがあったらしい。
ここまで色々あったとはいえ、こうして再び協力できる事は朝霧家としても、そして小刀祢家にしても嬉しいものである。
「婚儀はいつにするんだ」
「それなんだが……」
「?」
渋るキサラギに、雪知は首を傾げる。
今の小刀祢家は現状、次期当主の代わりをマコトが担っていた。
朝霧家との関係が改善された一方で、樹月とは未だに敵対関係になっている。できれば戦にはしたくないが、万が一というのもある。
更に上層の問題も解決したわけではない。今はまだ何も言われていないが、近いうちに上層へ向かわなければならない。
「小刀祢家に関しては、来年マコトの弟が戻ってくるか次第だが、上層の件を考えると……出来たら来年の春くらいか?」
「春か。まあ、出来たら早い方が良いが仕方ないな」
「だからそういう事で、小刀祢家の方には返しておくがいいか?」
「良いぞ。お前がそう決めたなら」
二人の事だし、この件については雪知も特に口を出す気もなかった。
キサラギは肯き、筆を持つ手を動かす。
背後に置かれた火鉢から、炭がパチリと爆ぜる音が部屋に響くと、肩に掛けていた赤い羽織をキサラギは羽織り直し、障子の方を見た。
「今日は、一段と冷えるな」
「そうだな」
今頃マシロはどうしているだろうか。ライオネルは無理していないだろうか。フェンリルは違う領域で元気にしているだろうか。
離れて随分と経ち、上層の事がちょっぴり恋しくなるものの、キサラギは意識を目の前の書類に戻し、仕事に戻る。
すると、外からバタバタと足音が響き、二人は顔を見合わせた。
「何かあったのか?」
「少し見てくる」
雪知が立ち上がり障子を開くと、ハレが嬉々として誰かを手招いていた。
「ライオネル! こっちだよ!」
「……ライオネル?」
キサラギは聞き慣れた言葉に反応し、筆を置くと廊下に出る。そこにいたのはライオネルだった。
突然の事に雪知も驚き立ち尽くしていると、ライオネルがこちらに気付き手を振って笑った。
「き、来ちゃった。いきなりでごめんね」
「い、いや大丈夫だ。よく来たな」
一か月会わないだけでも懐かしく感じ、キサラギも表情を和らげ歩み寄る。
すると何となくライオネルの顔色が良くない事に気づき、キサラギは途中で立ち止まった。
「お前、顔色悪いが大丈夫か?」
「……」
「おい、なんか言え」
「……実はさっき、とある件で帰ってきたんだけど」
「?」
ライオネルの顔から胴体へと目を移す。先程からずっと左脇腹を押さえており、微かに手が赤く濡れていた。
ああ。こういう所も変わっていない。ライオネルの話を最後まで聞かず、キサラギは後ろにいた雪知に叫んだ。
「雪知! 急いで医者呼んでこい!」
「い、医者⁉︎ わ、分かった!」
「えっ、ライオネル怪我してるの⁉︎」
ハレの表情も曇り、心配そうにライオネルの手を握ると、ライオネルは苦笑いして「擦り傷だよ」と嘘をつく。キサラギはハレの為にも、あえてその嘘をこの場では咎めなかったが、ドスの利いた声で囁いた。
「話は後でじっくり聞くからな。全部吐けよ」
「……ハイ」
凄むキサラギにライオネルは何も言い返せず、ただ小さく返事する事しかできなかった。
この後、雪知が呼んだ医者に診てもらったのだが、予想以上の重傷で、ライオネルはしばらく朝霧家の屋敷に休ませる事になったのだった。
※※※
そんな、ちょっとした騒ぎになっている朝霧家の屋敷から少し離れた神社では、一人のんびりと過ごすキュウの姿があった。
「無事にキサラギの元に着けばいいですが……」
硬い煎餅を口にしながら、先程報告をして離れていったライオネルの事を思い出す。
ライオネルの丈夫さは知っているものの、今回の傷はただの傷ではないだけに、ちょっぴり心配であった。
「ま、でも。あの感じだと、何とかなったみたいですね」
若干貧血気味の顔で、「ありがとう」と礼を言って去っていった事を思い出し、複雑な気持ちになりつつも笑む。
ライオネルの身体からも、完全にリアンの呪いが消え去っており、一先ずは一件落着といった所だった。
「(さて次はどういたしましょうか)」
バリバリと煎餅を歯で砕きながら、リアンに対しての反撃を考える。上層ではスターチスなどの神々が各自動いているが、キュウもキュウで策を練っていた。
「(ヴェルダの件で、キサラギがあちらの方に名を知られている事はほぼ確実。だから、きっとキサラギを狙いにやってくる)」
対神器を作る家を村ごと潰している以上、恐らくは朝霧家や小刀祢家も狙われる可能性がある。だが、上層と違ってこちらではあまりにも戦力が足りない。
そもそもこの問題を知る者すら、下層の方には少ないだろう。
「さてどうするか……ん?」
腕を組み考えていたキュウは、ふとある事を思い出し部屋に置かれていた棚を探る。少しして求めていた資料を手にすると、その場に座り開いた。
「ウィーク、学園か」
以前ここの学園に行くと言っていた小刀祢の次期当主の少年を思い出し、キュウは難しい顔をして資料を眺めた。