拗ねないで、ヒーロー・キャット
雄鶏がしてやったりと雄々しく鳴いた。
マーチは目を覚まし、パーティ後のキャンドルみたいな漆喰塗の小屋を出て、箒と塵取りを手に取った。
まだ薄暗い。早朝の一番初めだ。
マーチが胸を張っている雄鶏に「君の勝ちだね」と声をかけた時、ようやく朝日が悔しそうに地平を照らし始めた。
朝日の金色の光は、掃除を始めたマーチの後を追うように辺りを照らしてゆく。
おとぎ話の城よりも立派な城が輝き始め、水鳥ボートの揺れる大きな池に優美なもう一つの城が映し出された。その影の周りを愉快な百足みたいにくねるのは、ジェットコースターの影だ。
まるでモンスターに襲われるお城の絵みたいだ、とマーチは箒を掃きながらゾクゾクした。
マーチに気づいた本物の水鳥たちが、影を乱して水面から飛び立ち、バイキング船の船首や船首像の女神の肩で歌い始めた。それに合わせてメリーゴーランドが回り出す。つられた様に、銀の鎖の巨大ブランコも。
幾つものブランコが円を描いて起こす風に、色とりどりのガーランドが楽し気にはためくのを見上げて、マーチはウキウキとガーランドを辿り、足と箒を動かす。
大きな噴水の広場に行きつくと、赤いマントを着けたトラ猫や、ビキニ姿の狼や、カウボーイハットのオコジョ、大きな嘴のダック、剣を掲げた鎧などが続々と集まってくるところだった。彼らは皆等しく二足歩行で、空いた両手を器用に使いラッパやクラッカーを鳴らしまくった。
賑やかに、たっぷり全てに日が注ぎ、最後に園で一番暗い場所にあるお化け屋敷が気の狂った叫び声を上げ(毎朝こうもお祭り騒ぎなら仕方ない)たら、いつもと変わらない、ラブミー・ランドの完ぺきな朝だ。
園長が大きなゲートハウスの窓から叫んだ。
「開門ー! ようこそ、ラブミー・ランドへ!!」
青空には風船が数えきれない程解き放たれて、まるで夢のよう。
マーチは胸いっぱいに息を吸って、箒の柄をぎゅうっと握る。
「これがラブミー・ランドの朝かぁ」
彼はそう言って目をキラキラさせた。
*
マーチがふたの壊れたボストンバックを一つ抱えてここにやって来たのは、まだ昨夜の事だ。今は箒と塵取りを持った掃除係だけど、いつか、ラブミー・ランドの園長になる事が夢だった。
「ようし、がんばるぞ」
クラッカーの塵をせっせと掃除するマーチに、赤いマントを着けたトラ猫が宙返りを交えながらピョーンと寄って来た。
「おはよう、マーチ! 初日から張り切ってるジャーン!」
マーチは微笑んで、トラ猫の側へ駆け寄った。
「おはよう、ヒーロー・キャット。夕べチラッと挨拶しただけなのに、僕の名前覚えてくれたの?」
「おうさ、俺は行進曲が好きなのさ」
赤いマントを着けたトラ猫、ヒーロー・キャットはそう言って勇ましく歩く。その姿はとても立派で格好良かった。
その毛並みときたら!
きっと雄鶏よりも早く起き、ブラッシングしたに違いなかった。
マーチは彼に見とれて小さく感嘆の声を漏らす。
「ヒーロー・キャットは本当に格好良いね」
「ハン、当たり前だろ。何十年花形キャラクターやってると思ってんだ」
満更でもなさそうに髭をそよがせ少し乱暴に言った後、ヒーロー・キャットはマーチを気に入ったのか彼の肩へ毛並みの良い腕を絡ませ、耳元で囁いた。
「嬉しいけどさ、あんまり大っぴらに褒めないでくれたまえよ。ここでは嫉妬が一番怖いからさ」
明るい朝に相応しくない、ひたりと暗い言葉に、マーチも思わず声を潜めた。
「嫉妬?」
「おう。まあ、俺は嫉妬なんかクソ喰らえだけど? 問題は嫉妬した方さ」
「どうなるの? 怒られるの?」
「いや。度が過ぎると爪や牙が生えて自分以外を傷つけてしまうんだ」
「そうなの……」
ヒーロー・キャットの話を聞いて、マーチは悲しくなった。
「それってすごく残念な事だね」
ヒーロー・キャットも、丸くて凛々しい目を少し細めて「ああ」と頷いた。
「俺たちキャラクターにはもう一つ、大事な事がある」
「なに?」
「たくさん名前を呼ばれて、忘れられない事」
「忘れられると、どうなるの?」
「忘れられると、誰にもソイツがなんだったのか、わからなくなる。自分でもわからなくなっちゃうんだよ!」
ショックを受けるマーチに、ヒーロー・キャットは更に続ける。
「そうなったらシャドウと呼ばれて、ラブミー・ランドから追放だ」
「どうして? そこまでしなくても……そんなの可哀そうだよ」
まだ見ぬ『シャドウ』に同情するマーチに、ヒーロー・キャットは重々しく首を振る。
「シャドウは手当たり次第にキャラクターを傷つける。それからランドの人や、ランドに遊びに来る人たちにも」
この夢の様なラブミー・ランドで、誰かが傷つけられるなんて許されない。
それに、そんな可哀そうなモンスターが生まれる事だって、あってはいけない、と、マーチは思った。
だから、マーチはヒーローキャットのクリームパンみたいな手を手に取って、囁き声で叫んだ。
「ああ、ヒーロー・キャット! 僕、毎日君の名を呼ぶよ!!」
ヒーロー・キャットが嬉しそうに「ニヒッ」と笑い「ありがとう」を言いかけた時、子供たちが歓声を上げて彼の方へ駆けて来た。
見れば、たくさんの子供や大人が入り口ゲートから入園して、キャラクターたちやアトラクションに押しかけて来ていた。キャラクターたちも、両腕を広げて皆を歓迎している。
ヒーロー・キャットは立派な髭を掴もうとする男の子を抱き上げて、髭の他に気を逸らさせながら、マーチに片目を閉じた。マーチも微笑んで小さく頭を下げて、邪魔にならないようにそっとその場を離れた。
それからというもの、マーチとヒーロー・キャットはとても仲良しになった。
園長を夢見ているマーチにヒーロー・キャットは、ラブミー・ランドの一番美しい景色や、美味しいお店、秘密の近道を教えてくれたりした。
彼はたくさん楽しい事を知っていて、マーチは日を追うごとに彼を大好きになった。
対するヒーロー・キャットも、マーチを大好きになった。
普段はみんなを楽しませる為に、その実気を使っているヒーロー・キャットだったけれど、素直で細かい事には頓着しないマーチといると、何となく気が休まった。気の抜けた欠伸をしちゃってもいいかな、なんて思える。
それから、マーチは彼の欲しい言葉や、思いがけない嬉しい言葉をたくさんくれる。
ヒーロー・キャットは凄いなぁ。
かっこいいよ、ヒーロー・キャット。
君はそういうところも素敵だね!
きっとこれも似合うよ!
たぶん、ヒーロー・キャットはマーチが彼を好きな以上に、マーチの事を好きになっていた。
だけど、ヒーロー・キャットはその名の通りヒーローでいなくちゃいけない。だから彼は、マーチの方が俺をより好きなんだという顔をしていた。—――ふさふさの尻尾が、偽り切れてはいなかったけれど。
閉園後、二人は自然と噴水広場で落ち合って、夕食を食べ、その日あった楽しかった事を話し合ったり、夜のランド内を探検して一緒に過ごした。
ある夜、お城で一番高い城壁塔の窓に腰かけて、ランドを眺めながらヒーロー・キャットがマーチに尋ねた。
「マーチはさ、なんでここの園長になりたいんだ?」
マーチはランプの明りが星に負けずに瞬くランドを、うっとりと見下ろしながら答えた。
「実はね、僕昔の記憶が無いんだ。お父さんとお母さんが僕を拾ってくれて、マーチっていう名前をくれた」
「へぇぇ、そうだったのか」
「うん。それでね、お父さんとお母さんがラブミー・ランドに連れてってくれた事があったんだ。家はここから凄く遠いから、何日も旅して連れてってくれたんだよ。もうすっごく嬉しくて、楽しくてさ。それからずっと憧れていた。いつか、ここに住みたいって思っていてさ。で、どうせならランドをぜーんぶ知り尽くしたいなあって。全部知り尽くしているのは、園長でしょ?」
「へー!」
凄いな! という言葉をヒーロー・キャットは飲み込んだ。ヒーロー・キャットは、マーチに好きでいてもらう為に、マーチより凄くなくちゃいけない!
でも、マーチが大好きだから、心からスルリとこう言った。
「オマエが園長になれる日が楽しみだ。期待してるぜ!」
マーチはにっこり笑った。マーチが笑うと嬉しくて、ヒーロー・キャットも笑った。
未来の話をすると、どうしてこうも胸が膨らむのだろう。二人は夜のランドを満ち足りた気持ちで見下ろした。
「あちこちでランプの明りが灯っていて、とっても綺麗だね」
「ああ、最高さ。白ワインが飴玉になって光ってるみてぇ」
「ヒーロー・キャット、君は僕の、そういう光だ……」
ヒーロー・キャットは嬉しさを我慢できずに、喉を鳴らしかけて咳ばらいをする。
うまく言葉を返せそうになくて、彼は星空を見上げた。マーチが好きなポーズだ。しかし……。
黄金色をした甘口の白ワインを、心に並々と注がれているのは、いつだって俺の方だ。
ヒーロー・キャットはそんな風に思うと、明日も頑張ろう、と、自分を励ました。
ヒーロー・キャットは、ヒーローなのだから。
*
ある日、ラブミー・ランドに嵐がやって来た。
酷い嵐だったので、仕方なくランドは入り口ゲートを閉じた。
マーチたち従業員やキャラクターたちは、それぞれの家で嵐が過ぎるのをじっと待つ事になった。
随分退屈な一日だ。
マーチは暇つぶしに、ヒーロー・キャットの好きな煮干しスープを作った。作りながら彼を思い浮かべ、「ヒーロー・キャットはすごくカッコいいな」と、心で一人、称賛をしていた。もしもその場に誰かがいたら、捕まえて熱心に語ってしまいそうだ。
「そうできたら、どんなに楽しいだろう。でも、嫉妬を招くから気を付けてって言っていたもんな」
それでも、誰かに彼の素晴らしさを喋ったり、一緒に褒めたりしてみたいなぁ、と思う。
これはラブミー・ランドで唯一、窮屈に思うところだ。
キャラクターたちは、ランド内で人からの興味関心を失うと、自分が誰かわからなくなってしまうという。それなのに、嫉妬を怖がったり、嫉妬にとりつかれて誰かを傷つけたりするなんて。
「変なの。でもいいや。ヒーロー・キャットと二人だけの時にうんと褒めるんだから」
マーチはそう呟くとレインコートを着込み、煮干しスープの鍋を抱えて小屋を出た。
外の嵐は、小屋の窓の中から見るよりも、ずっと荒れていた。すぐさま強い風がマーチを吹き飛ばそうとする。強く巻き上がる雨粒に煽られて、あっという間にずぶ濡れになってしまったけれど、マーチは踏ん張って、鍋を抱え、前かがみでヒーロー・キャットの家へと向かった。
途中でヒーロー・キャットに教えてもらった近道を選んだ。だけど、嵐で真っ暗だったので、道を間違えてしまったらしく、石を積んで作られた小さな建物の前にたどり着いてしまった。人が一人入れるくらいの小さな建物だった。入り口には、格子窓のついた分厚いドアが付いている。
こんな所があったかしら? そう思いながら、少しそこで休憩する事にした。
石造りの小さな建物に近づき、ドアに手を触れると不意に中から「ダレダ?」と、声がした。
「あ、こんにちわ。すみません、少し休憩させてもらえませんか?」
「こんな嵐の中、何をしている」
「友達に、スープを届けようとして近道をするつもりが、ここに来てしまったんです」
ドアの向こうの声が、一瞬、シンと黙った。
「あの……だめですか?」
「……オマエ、私が何者かわかるか?」
「え?」
「そこの格子から見ろ」
不思議に思いながらも、マーチは背伸びをして、格子窓からドアの中を覗いて見た。
ドアの中は嵐の外よりももっと暗くて、マーチは目を細める。ちょうど雷が光って、一瞬だけハッキリと中にいる者が見えた。
「ドウダ?」
「う~ん。赤い目、真っ黒でビーンズみたいな身体……」
中にいるのは、どうやらキャラクターのようだ。
子犬くらいの大きさの真っ黒いのは、ツルツルッとドアに寄ってきた。どうして「ツルツルッ」かというと、足が無いからだ。足の無いムニュッとした楕円形の、真っ黒なソイツを、マーチは見たことがなかった。
「そうか、やっぱりわからないか……」
残念そうな、悔しそうな声が、ドアの裏側から聞こえてきた。
うーん、どんなキャラクターだ? と、考えて、マーチはふと思い至った。
「……君、もしかして、隠れキャラクター!?」
「キュッ!?」
そう言われて、真っ黒いのは赤い目を真ん丸にした。
「そうだよ! そうでしょ!? だって、じゃなきゃ僕が知らないハズないもの!」
「ウウウウ……ンン……」
モゾモゾし出した真っ黒いのを見て、マーチは「わかってるわかってる」とばかりにうんうん頷いた。
「隠れキャラクターだもん、自分からそうとは言えないよね! わー! 嬉しいな!! 僕は君を見つけた何人目になるの!?」
「ンン……ンワンワワ……ハ、ハジメテ」
「ええー!? 本当!?」
マーチは目をキラキラさせて喜んだ。隠れキャラクターを初めて見つけた人になれるなんて!!
「うっわぁ!! すっごく嬉しいよ!! 初めまして!! 名前はなんていうの?」
「……は、初めて見つけた奴がつけていいんだ……」
「ええーーー!? う、嬉しい! どうしよう、どうしよう……!!」
「あ、あのだな」
浮足立つマーチに、真っ黒いのが言った。
「オマエ、この扉、開けられる? 内側からじゃ開けられないんだ」
「鍵でもかかっているの?」
マーチがドアノブを回すと、ドアは簡単に開いた。
「なんだ、開いてるじゃない」
そう言い終わるよりも早く、真っ黒いのは開いたドアの隙間からピュッと飛び出して来た。
真っ黒いのがマーチの方を振り返ると、雷が一際つよく光った。ピカリと真っ赤な二つの目玉が光った後、遅れて雷の音がドーンッ! と、響いた。
真っ黒いのはニュルッとビーンズ型の半分だけを起き上がらせ、
「ふはははッ! だっしゅつ成功!!」
と、大声を上げて笑った。
マーチはそれを見て、雨に濡れるのも構わず真っ黒いのの傍に寄り、手を叩いた。
「すごいよ! 今の自由を手に入れたっていう感じ、すごく良かった!! しかも、雷のタイミングも雰囲気満点だったね!? 小さい身体なのに、強そうに喋るところとかも好きだな!!」
「え、ちょ……なに……」
「ねぇ! 今から僕の小屋に来ない? こんな嵐だし……君の事もっと知りたいよ!!」
「え、え……」
「さぁ行こう! スープを温め直そうね! わ、すっかり身体が冷たくなっているね、あったかいお風呂にも入ろうね!!」
マーチはそう言うと、鍋と真っ黒いのを両脇に抱えて、急いで来た道を引き返し小屋へ帰って行った。
*
マーチが自分の小屋に戻ると、ヒーロー・キャットが小屋の前にずぶ濡れで立っていた。
彼は、マーチを見つけると、羽のついた三角帽子をクイッと上げた。
彼はいかにも「今来たぜ」という様子だったが、三角帽子についた羽が、長い事嵐の風に晒されたのか、軸だけになっていた。
「おいおい、度胸試しでもしてきたのか?」
「わ、ヒーロー・キャット! 遊びに来てくれたの? 僕も行こうと思ってたんだ」
「んにゃ? すれ違っちゃったか?」
「ううん、道を間違えて……と、ひとまず部屋に上がってよ」
「おう! って、オマエ、何持ってるの?」
ヒーロー・キャットは、マーチが小脇に抱えている真っ黒いのに気が付いた。
マーチは小屋に入って、タオルを出しながら、ニヤニヤした。
「んー、ふふ。ヒーロー・キャットだけには言っちゃおうかなぁ」
ヒーロー・キャットは疑り深そうな猫の顔をして首を傾げた。
「なんだよ?」
「ふふふ。あのね、隠れキャラクターを見つけたんだよ!」
「か、隠れキャラクター!?」
確かに、ラブミー・ランドには隠れキャラクターの噂がずっと昔からあるけれど、それは想像して楽しむ類のお話だというのが常識だ。「いるかもしれない」と思うのが楽しいのであって……。
でも、もし本当にいたら?
もし、ソイツを見つけたら?
ヒーロー・キャットは、生まれて初めて心の中がゾワリとした。
嬉しそうに自分以外のキャラクターを見ているマーチを見るのは、ヒーロー・キャットにとって悔しく、初めて焦りと悲しみが胸を襲って、ヒリヒリと痛んだ。
「そそ、ジャーン!」
マーチが真っ黒いのを抱き上げて、ヒーロー・キャットに見せると、彼は金色の目を真ん丸にした。それと同時に、真っ黒いのが彼に向って「シャーッ!」と牙を剥いた。
ヒーロー・キャットは尻尾をボンッと膨らませ、飛びのいた。
「バ、バカ! ソイツはシャドーだ!! 一体どこから!?」
ヒーロー・キャットがそう叫んで、マーチの手から真っ黒いのを取り上げようとした。
しかし、真っ黒いのは身体の大きさから想像できない程口を開けて、ヒーロー・キャットに噛みつこうとした。
「ガブーッ!」
「ぎゃっ!!」
急いで手を引っ込めたヒーロー・キャットに、真っ黒いのは唸った。
「喧嘩しちゃだめだよ!」
「マーチ! ソイツを放せ!! 危ないぞ!!」
ウーッ! と、外でランド中のスピーカーから警報が鳴った。
こんな音がスピーカーから鳴り響くのは初めてで、マーチもヒーロー・キャットもビックリし、身体をすくめて窓の外を見る。
外では嵐の中、赤い線光が何かを探すようにグルグルと回っている。
緊迫した声がスピーカーから流れてくる。嵐の風音に負けない、最大ボリュームだ。
『追放予定のシャドーが、嵐に紛れて逃げ出しました。皆さん注意してください。特にキャラクターたちは襲われる可能性があるので、用心して戸締りをしっかりと。シャドーを見つけた人は、すぐに園長までご連絡をお願いします』
「おいおいおい、どうすんだよ!?」
凄い勢いで真っ黒いのが戸口へ向かうより素早く跳躍して、ヒーロー・キャットが通せんぼをした。
「待て待て! 逃がすか!」
「ガブーッ!!」
「危ない!!」
マーチが洗濯籠で真っ黒いのを捕まえて、上に乗っかった。
「早く連絡しないと」
「僕……隠れキャラクターかと……」
「うんうん、誰も責めやしねーよ。きっとオマエは騙されたんだろ。さ、このまま園長の所まで連れて行こう」
「……違うかもしれない……」
「マーチ?」
マーチは弾む洗濯籠を押さえつけながら、パッと顔を上げてヒーロー・キャットを見た。
「あ、あのさ。まだわからないし、様子を見ない?」
「こんなに暴れて狂暴そうじゃないか!」
「連れてくるときは大人しかったよ! 出会った時も! 君がシャドーって呼んだから怒ってるんだ」
「だってシャドーじゃないか!」
「違う!! この子は……クロ……」
ぎゅっと真っ黒いのを閉じ込めた洗濯籠を抱いて、マーチが宣言した。
「クロちゃんだ!!」
「!?」
ヒーロー・キャットは猫がこれ以上無いほど驚いた顔をして、目を見開いた。
「ク、クロちゃん?」
「僕が初めて見つけたから、名前を付けていいんだって」
洗濯籠に覆いかぶさって言うマーチに、ヒーロー・キャットは前足の爪で狭い額を掻いて、うにゃーん……と唸った。
「おう……そ、そっか。でも、ソイツはシャドーだ。明日、園長に引き渡すぞ」
「可哀そう」
「そんな顔をしてもダメだ」
ウーッ! と、警報がまた鳴った。
そろいの革靴の足音が、バラバラと雨音にまざってマーチの家に近づいてくる。
「居たか!」
太い声が響いた。マーチはおっかなびっくり、そっと外をのぞきこむ。
「いえっ、いません!」
「先遣隊、二手に分かれろ。後方、お前たちはこのあたりの家を一軒ずつ訪問だ。凶暴なシャドーが飛び出してくる恐れもあるぞ。捕縛銃の網の目は確認したな? キャラクターたちにケガをさせるわけにはいかない。急げ! 心していけ!」
雨に打たれながら、赤と黒の制服を着た見慣れない人たちが厳しく言葉を交わし合っていた。雨模様の街を切るようにして懐中電灯の光があちこちを探り回っている。
ノドをキュッと締められるような心地になってマーチは急いで首を引っ込めた。
たいへんなことになってしまった。
銃という恐ろしい言葉に、頭を殴られたような心地でいたマーチは、グスッと鼻をすするような音にハッと我に返った。
洗濯籠の中であばれていた黒いものは、すっかりちいさくなっていた。
「クロちゃん」
「キュウウ……おい、お前! さっさと俺を差し出せ。じゃないとお前らまでひどい目にあうかもしれないぞ! しゃ、シャドーの、な、仲間だって。シャドー……。わ、私、うう――」
シャドーの強気な声はどんどんしぼんで、最後には女の子のようにかわいらしい泣き言になる。
マーチは洗濯籠の側にかがみこんだ。
「君はクロちゃん、僕はマーチ」
ハッとしたように、洗濯籠の中から頼りない赤い瞳が見つめ返した。
「マーチ……」
「そうだよ、クロちゃん。君は、ラブミーランドにいたいんだよね。わかるよ、すごくステキなところだもん。うーん、なにか方法は――」
シャドーの名前を大切そうに呼ぶマーチに、ヒーロー・キャットは難しそうに顔をしかめた。
「おいマーチ、やめといたがいいって。コイツは……」
「ヒーロー・キャット、どうしよう……。明日なんて言ってられない。家を訪問するって、このままじゃ見つかって――」
「ぜんぜん話を聞いてないな、マーチ……。」
「聞いているよ。僕は、クロちゃんを守りたいんだ」
ヒーロー・キャットはあっけにとられた。
嫉妬に食われて名前も忘れられてしまったおそろしい怪物がシャドーなのに。
マーチはどうしてこんなにもまっすぐ、そんなことが言えるんだ?
ヒーローの矜持がキリリと痛んだ気がして、ヒーロー・キャットはむぐむぐと口を動かし、ぎゅっと眉を寄せて悩んだ。
「ヒーロー・キャット」
祈るようなマーチの瞳に突き動かされて、ヒーロー・キャットは決意した。
ヒーロー・キャットはみんなのヒーローだ。でも、マーチのヒーローでもある。
ここで、逃げたらヒーローが台無しだ。
「命名の樹」
「え?」
「そこに行けば……、もう一度名前を掲げることが出来れば、もしかしたら」
「どういうこと?」
「話はあとだ。そいつを持って、行くぞ!」
マーチは深くうなずいて、クローゼットからパリッとしたシャツを取り出すと、洗濯籠の中のシャドーを上手にくるみ、袖をたすき掛けにしてキュッと胸のあたりでかたく結んだ。立派なおんぶひもだ。
「大丈夫かい、クロちゃん。苦しくないね?」
「な、ナナナ……、お、俺は平気だ! けど、」
「大丈夫だよ。ヒーロー・キャットが助けてくれる。知ってるだろ? 彼はすごいヒーローなんだから」
こんなときなのに、ひとかけらも疑いのないマーチの言葉がヒーロー・キャットはうれしくなってしまって、思わずしっぽを揺らした。
「チェッ、おだてるなよ。さあ!」
ヒーロー・キャットの「はぐれるな!」という力強い言葉とともに、彼らは矢のように家を飛び出した。
マーチはバチバチとぶつかる雨粒に目を閉じそうになりながら、右に左にたくみに道を変えラブミー・ランドを駆け抜ける最高のヒーローについていく。
「ねえ、ヒーロー・キャット。ランド・ツリーって一体なんなの」
石橋の下で捜索隊が通るのをやり過ごすと、マーチは小声で尋ねた。
「名前がツリーに掲げられてはじめて、俺たちはこのランドのキャラクターになるんだ。お前の名前だってキャストとしてちゃんとあるはずだぜ」
「ええっ、そうだったの?」
「ランドの古株には知られてる話さ。あんまりみなにふれまわるなよ。ウワサの域を出ない話だっていっぱいあるしな。さあ、行くぞ」
ウーッ! というサイレンがまた聞こえた。
騒ぎを聞きつけたランドのキャラクターたちの家にもつぎつぎに明かりがともり始めているようだった。
息を殺し身をひそめて、マーチたちはランドの中心部へと向かっていた。
「ねえ、ウワサってどういう? いま、どこに向かっているの?」
薄暗い地下道に潜り込んだところで、マーチは意を決して聞いた。
ヒーローキャットは、困ったように頭をかく。
「あんまり知りすぎないほうがいいと思うけどな」
「ここまできてそれはないよ」
「ウウ……、俺、俺も知りたいっ」
マーチの背中でじっとしていたシャドーもようやく口を開いた。マーチやヒーロー・キャットが自分の味方をしてくれるのかもしれないと、やっとすこし思い始めたのかもしれなかった。
「命名の樹はずっとランドを見守っている木、らしい。俺も見たことはない。その葉っぱにはみんなの名前が書いてあって……、それでその」
ヒーロー・キャットはちらりとクロを見ながら、いいにくそうに口をもごもごさせた。
「それで?」
「マーチ、お前はおしが強いところあるよな……。それで、シャドーになったキャラクターの葉っぱは枯れてしまうらしい」
「ええっ!」
「だから、そのツリーの葉っぱに、そいつの名前を新しく書いてやれれば、もしかしたらと思ったんだよ」
「それだ!! クロちゃん、そうしたらきっとランドに残れるよ」
ちょっと困っているヒーロー・キャットの言葉も、マーチには希望のラッパだ。
顔を輝かせるマーチにつられたように、シャドーの声のトゲもおずおずとまるくなった。
「私、ホント? ラブミー・ランドに居られるの?」
マーチの背中ごしの赤い目はうるんでいるようだった。
ちいさな鈴をふるような声で、シャドーがおそるおそる尋ねる。
ヒーロー・キャットはくるりと変わったシャドーの様子に目をぱちくりさせながら、気を取り直してエヘンと咳払いをした。
「話はあとだ、まずはたどり着かなきゃな。ヒーロー・キャットの勘を信じろ」
ツリーまでの道のりは簡単ではなかった。まるで迷路のような地下の通路や水路を走り続ける。息を切らしたマーチの背中から、シャドーもついには飛び降りてあちこちをかぎ回る。マーチやヒーロー・キャットと一緒に、つめたい石壁の向こうの『命名の樹』の気配をとらえようとクロは励んだ。
ずいぶん長く歩いたような気がする。
外の光がなくて、今が何時ごろかもわからなかった。終わりの見えない逃避行に、だんだんと空気がぴりぴりし始める。
「右だ!」
「左だよ!」
行き詰まり、ついには声がとげとげしくなったへとへとのふたりに代わり、シャドーはビーンズみたいな体をもごもごと動かしギュッギュと鳴いた。
「ちがう、私まっすぐだと思う。すこし、いい匂いがする、緑の」
「クロちゃん! わかった、行こう」
「マーチ」
「行こうよ、ヒーロー・キャット。クロちゃんすごく鼻が利くみたいだ!」
ヒーロー・キャットはぎゅっと奥歯を噛む。
マーチはヒーロー・キャットよりもシャドーの方を信じているのだろうか。宝石のような瞳がギラッとする。ギリ、と牙のこすれる音が聞こえたような気がした。
そのときだった。
ヒーロー・キャットはバッとマーチとシャドーを背にかばい、もこもこの耳をアンテナのようにせわしなく動かす。
「まずいぞ、あいつらの長靴の音だ。マーチ、そいつを連れてまっすぐに行け! 俺もあとで追うからな」
ふかふかの手を力強く背後に見せて、ヒーロー・キャットはきっぱりと言った。
「そんな! 僕も残るよ。ちゃんと話をしたらクロちゃんのこともわかってくれるかもしれない」
「バカ! 行けって言ってるだろう! 今はそうしたほうがいい。ラブミー・ランドのことはそのシャドーより俺の方が、ずっとわかってるんだ! あとで必ず追いかける。俺を信じろ!」
振り返ったヒーローキャットは乾きかけた三角帽子をクイッとあげて、いつものようにかっこよくニヒッと笑った。その心がさっきからずっとチクチクしているなんて、悟らせないぐらいに。
「追っ手にだって俺が丁寧に説明してやるさ。それでうまくいけばバンザイだろう?」
「わかった、ヒーロー・キャット。ムリなことはしないでね」
「まかせておけ。じゃあ、またあとでな」
マーチがうなずいてシャドーを抱え、暗がりの奥に駆けだしたのを見届けると、右の方の通路に立ち、ちいさなランプを手にしたヒーロー・キャットは赤いマントを広げ、遠くまで見えるようにひらひらと振った。
「俺はここだぞーっ!」
+++
足下を探るような暗い道が続いたのはそれからほんのすこしだった。夜目が利くクロを先頭に、早足のふたりは遠くに出口のような物を見つけ、おぼろげな光を目指して忍び足になる。
クロの言う通り、地下にいるはずなのにほんのりと爽やかなにおいもしてきた。人の気配はない。安全なところへたどり着けたのだろうか。
「すごいねクロちゃん。命名の樹は、本当にこっちにあるのかも」
マーチは真っ白な光に満ちたアーチ型の出口からそっと顔を出すと「あっ」と声をあげて口を押さえた。
「信じられない……」
たどり着いたのはまるで大聖堂のような、どこまでも天井の高い建物だった。水路には透き通った水が流れていて、白い石畳の広場がある。
吹き抜けのてっぺんはガラスをはめ込んだドーム型の天窓だ。いつの間にか嵐は去っていて、雲のない夜空から静かに月光と星あかりがそそぐ。その光の集まるところにマーチよりすこし背の高い木が大きく腕を広げるようにして立っていた。手のひらほどの葉っぱが、黄みどり色に輝きながらまばらに枝を彩っている。
「不思議な木だ。あったかくて、懐かしいような」
こんなところが、ランドのどこにあったのだろう。
マーチは首を傾げながら広場の中央、円形の水路の真ん中で枝葉を伸ばしている木の側へと向かった。
まだ夜明け前なのに、ツリーの周りは昼間のように明るい。梢の先で遊ぶように、ほんわりとあたたかいような光の粒が舞っていた。近づくと青リンゴのような香りが強くなる。
「わぁ、いい匂い。なんかこの葉っぱ食べたらおいしいのかも」
「マーチ、お前はのんきなやつだな。これが命名の樹なのか?」
「どうだろう……。ああっ、やっぱりそうだよ。葉っぱに名前がある」
警戒して軽くうなっているクロより先に、マーチは他よりひとまわり大きな葉っぱに触れてしげしげと眺めた。
「あ、これ! ヒーロー・キャットって書いてある。やっぱりそうだ、この木が!」
ふたりは顔を見合わせると、念入りに命名の樹を調べ始めた。
「シンガー・ラビット」や「クレイジー・ターキー」ラブミー・ランドの人気者たちの名前が次々に見つかった。そして、枝先に生まれたばかりのような若葉に「マーチ」の名前も見つかった。
けれど、マーチは焦った。次々に葉を調べていく。同じように探しながらも、ふと木の根本に目をやったクロは、どうしたのかそのまま寒そうに木の根の間にうずくまってしまった。
時間がたつ。マーチは奥歯をかみしめる。
どうにかクロの名前を書ける葉を見つけたかった。
なのに名前のない葉っぱなど、一枚もなかったのだ。
「マーチ、ないんでしょう。私、もういい。これを見て」
消え入りそうな声の元にマーチがしゃがみ込むと、クロはそっとお腹の下に隠した枯れ葉を一枚見せた。その葉は、いまにも消えそうな弱々しい光をはなっていた。
『×××・ディンゴ』名前の一部に穴があいて、乾いて黒っぽくなった一枚。
マーチはそれを見て、胸の中をグッと刺し貫かれたような心地になった。
こんな苦しいような色を、いつだったか僕も……。
息を詰まらせたマーチを見ることもできずに、クロはうつむいたまま苦しそうに声を絞り出した。
「これ……私だ。エンチョーが見せに来た。あのときはよく意味がわからなかったけど。そういうことだったんだ。もう、私の名前はランドにない」
「そんな――」
マーチは、ブルブルと震える黒いカタマリにそっと手を添える。
そして、自分の胸に深く沈んでいた記憶が、少しずつ浮かび上がるのを許した。
「これを見たって、本当の名前もわからない……。いいなぁ……、ヒーロー・キャットは。あんなに大きくて立派な葉で、人気者だもん。マーチは今からいっぱい育つ若葉。うらやましい。どうして私は……、ほらやっぱり、こんなだから、もうダメなんだ。追い出されるんだ。名前を呼んでほしい。私だって、あそこにいたのに――どうして」
「クロちゃん」
いたわるようなマーチの声にさえ、ガッとクロは牙を剥き出しにした。
「希望なんかもたなきゃよかった。……なんで、俺のこと助けたんだ! 怖いだろう、シャドーなんて。見ろ、俺の名前はもう枯れた。いらないからだ! 俺なんてもう、ランドの誰もいらないんだ」
クロは叩きつけるように叫んだ。
「牙もあるぞ、爪だってこんなにとがってる。触ったら痛いんだ。お前にケガをさせるのだって簡単なんだからなっ!」
赤い目がらんらんとして、開いた口にも真っ黒い牙がはっきりと見えた。
他の人がみたら悲鳴を上げて逃げ出すかもしれないのに、マーチはすこしもひるまなかった。そして言った。
「僕が絶対に忘れない。何度だって名前を呼ぶよ、クロちゃん」
ギュウ、と苦しいような声を漏らしたクロは、爪も牙もしまって、しおれるようにちいさくなって泣き出した。
マーチはクロを抱き上げると、大切なものを包むように抱きしめた。
「なんでかな、僕は君のことが最初から、ちっとも怖くはなかったんだ。でもさっきわかった。だって、僕は――」
そのとき急にパアッと木が輝きを増した。それに続いたのは、聞き覚えのある足音たちだった。
「ああっ、見つけたぞシャドー! こんなところに……!ヒーロー・キャットめ、全然道が違うじゃないか。なっ、お前マーチ!! なんで一緒に」
「園長、お願いです。話を聞いてください」
「なにも聞くことなどない。質問も許さない。マーチ、離れてすぐにこっちに来なさい、危険だ! おい、なにしてる捕縛銃を!」
「危険なんかなにもない。どうか、話を」
必死に訴えるマーチの腕から飛び出して、クロが歯をむき出してうなる。
「大丈夫、クロちゃん! 僕が」
「イカン、マーチが! 撃てえっ!」
園長の声が響く。しかし、捕縛銃が放たれるその前に、聖堂の天窓から黒いマントをなびかせて仮面を着けた何者かがバッと飛び降りていた。
「マーチっ! クロっ! つかまれっ!!」
黒光りする銃から放たれたゴム弾が、大きな手を広げるようにマーチとクロに襲いかかる。丈夫な網が大きく広がるそのほんの間際、太いロープにぶら下がったひとつの影が叫びをあげた。そして、クリームパンのようなふかふかの手でサッとマーチをクロをさらって、外につながる出口に飛び降りそのまま走り去っていく。
みんなそのあざやかな手際に圧倒されて動けなかった。
園長も驚きのあまり手を口に当てた。
黒いマント、金色の仮面をつけたキャラクターなんてランドには居ない。
マーチも驚いて口も聞けずにいた。そんなマーチに向けて、黒いヒーローはクイッと仮面を上げて見せた。
そのヒーローの正体は――、もちろんヒーローキャットだ!
「ヒーロー・キャット!」
マーチは大好きなヒーローの登場に、驚きも辛さも全部飲み込んでパッと太陽のように笑顔を輝かせた。
「シッ、黙っててくれよ。めくらましだ。大丈夫か? 怖い思いをさせたな。あいつら全然話なんか聞かないし、時間稼ぎしかできなくて、まいっちまったよ。命名の樹はどうだった」
「それが……」
「そうか……。追ってきてるな。逃げるぞ!」
茂みやくぼみに身を隠しながら、ヒーロー・キャットの導きで三人は小さな森のはし、崖の上にたどり着いた。
走り回った二人が荒い息をついていると、マーチの手の中でバタバタとクロは暴れた。もうなにもかもいやなんだと訴えるような激しさだった。
「もういい、もういい。俺をあいつらに渡せ!」
「よくない!!」
「ギュウウ、いいんだ。俺はシャドーだ、追放なんだっ」
「僕も、一緒だよ。クロちゃん」
マーチは、いつも明るい顔をくもらせた。
けれどはっきりと言った。
「気づいたんだ。こんなことを言ったら嫌われてしまうかもしれないけど、言うね。ヒーロー・キャット……、僕はシャドーだった」
「な、なんだと! マーチ、なにを言ってる!」
「ううん。そうなんだ。ねえ、クロちゃん。僕も、いまの君と同じようにぶるぶる震えて真っ黒になってしまったんだよ」
「マーチ――!」
とんでもないことだとでも言うように、ヒーロー・キャットは頭を抱えた。
マーチはおびえきっているクロを懐にしまい込むと、いつものようにほほえんだ。
「ここはとても美しくて楽しくて幸せがあふれてるところ……。でも、心にほんのちょっとのトゲが入り込むことはあるよ。どうしても抜けないトゲになってしまうことだって……僕はそうだった」
「やめてくれよ、それじゃあどうして」
ヒーロー・キャットはマーチと出会ってから時々胸に刺さっていたトゲを思い出してブルッと震えた。そう、ちいさなトゲ。嫉妬。
ランドの誇るヒーローにだって、覚えがあったのだ。
「追放されて、出会ったんだ。やさしい人たちに。真っ黒だったボクに『名前』をくれて、一歩一歩行進しよう、楽しいことをたくさん愛そう。そうしたらこれから出会う、悲しいことも苦しいことも怖くはなくなるって教えてくれた」
ヒーロー・キャットは語られるマーチの言葉に胸がキュッとなった。
「そっか、だからクロは話に聞いてたシャドーとちょっとちがうのかもしれないな。『名前』が、ある。マーチ、お前のつけたステキな名前が――」
「そっか、そうだったらいいな。名前を呼ばれるってすごくうれしいことだから。そうしてシャドーだった僕はいつのまにか今のマーチになって……、ねえ、ヒーロー・キャット、また、この世界一楽しい場所に憧れたんだ」
もしかしたら、もう一度チャンスがほしい。そう思ったのかな。
マーチは言葉を胸の中にしまったまま、崖の下に広がる大好きな世界を朝日ごと大切そうに手でなぞった。
世界一楽しい。そうだ、ここはラブミー・ランド。
たくさんの愛があふれる場所。愛を向けられ愛を返し……。
そして愛のために、時に誰かが名前をなくしてしまうところ――。
「ああ、それでも僕はやっぱりラブミー・ランドが好きだ」
崖の上から、三人は広いランドを眺めた。夜が開けていく。
雄鶏が鳴いて、水鳥が羽ばたくラブミー・ランドのうつくしい朝がはじまる。
家々からキャラクターが元気に飛び出してきて、ゆかいな足取りでお客さんを迎える準備をしている。
今日は閉園ではないらしい。まじめな園長もあるいはこの大捕物に翻弄されてしまって、閉園の連絡だってすっかり忘れてしまったのかもしれない。
マーチの懐に入っていたクロがモゾモゾと顔を出し、ランドを見下ろした。まるでずっと忘れないよう目に焼き付けようとでもするようだった。
マーチは、そっとクロを撫でて、そしていたずらっぽい顔をした。
「ねえ、ヒーロー・キャット」
「おう……」
「ランドで、遊んじゃわない?」
それを聞くと、ヒーロー・キャットは金色の仮面の向こうの瞳を見開き、次に大笑いした。
マーチってこんなやつだ。楽しくて幸せなことを愛していて、腕の中に抱いたシャドーにだって全力でやさしさをそそいでみせる、そんなやつ。
だったら、ヒーロー・キャットだってマーチのために全力だ。心の底から大好きなマーチのためだ。
「よーし! いいかぁ、ふたりとも? このヒーロー・キャットが最高のランドの楽しみ方を教えてやるよ!」
ヒーロー・キャットはちょっとぼろい黒いマントを広げ、二人を抱えて崖から飛び降りる。風をいっぱいに受けて飛ぶのだってヒーロー・キャットならお手の物だ。
クロとマーチが彼にしがみついて悲鳴のような歓声をあげ地面に降り立つと、空から降ってきた新しい黒いヒーローに、お客さんたちは大喝采だ。
「ようこそ、ラブミー・ランドへ! みんな楽しんでいってくれよな!」
そのまま三人は人垣を乗り越えて、メリーゴーランドに乗り込んだ。白馬の上下に心地よく揺られてほんの一周、見つかっては大変だから次のアトラクションへダッシュする。ランド中を駆け巡るようなジェットコースター、てっぺんからはマーチとシャドーをさがす捜索隊だって見えた。それに大きく手を振って超特急のコースターにガクガク揺さぶられながら、みんな大絶叫して大笑いした。
捜索隊をけむにまくのも、ヒーロー・キャットには簡単だ。
水鳥ボートの上から追っ手に手を振ったのも束の間、制服の人たちが湖を隅から隅まで探る頃には、すでにマーチたちは銀の鎖の大ブランコに乗っていた。
「ウウウ、お化け屋敷の方にいくのか? 怖くないぞ。怖くはないんだけど……」
気弱なクロの声を聞きながら、石柱の長い廊下を走り抜けお化け屋敷に飛び込む。
一番悲鳴をあげたのは、自分だって怪物みたいなクロで、ヒーロー・キャットはそんなクロを力強く小脇に抱えて、出たあとにはマーチと一緒にひとしきりからかった。
「こわがりだなぁ、クロは」
ヒーロー・キャットは笑い、しっかりとクロの名前を呼んだ。
マーチも、クロも、ヒーローキャットも、こんなに愉快な一日ははじめてだ。
捜索隊と追いかけっこをしつつ、時にはキャラクターと握手だってしたりして、三人は走って跳んでランド中を楽しんだ。黒いマントと金色の仮面だってどこかに落っことしてしまうぐらいに――。
そして、だんだんと追い詰められていった。
*
三人は散々追われて、お城で一番高い城壁塔へと逃げ込んだ。
日はすっかり暮れていて、ランプの明かりがラブミー・ランドのあちこちに灯り始めていた。
窓からそっと見下ろせば、ランドの皆がキョロキョロと辺りを見渡して、三人を探しているのが見えた。
「まだ探してる……」
「そりゃそうさ。皆シャドーが怖いんだ」
「本当は弱いのに」
「弱くない! 私は弱くなんかない!!」
マーチの言葉に、クロがピョンピョン跳ねて抗議した。
ガルルッと牙を剥くものの、マーチとヒーロー・キャットには通じない。
「ごめんごめん、弱くないね」
「ほら、あんまり大声上げるなよ。見つかるぞ」
「キーッ! ギュギュギュギュッ!!」
赤くなってギューギュー言うクロを呆れた様子で眺め、ヒーロー・キャットは腕を組む。
かなり追い詰められてしまった。一体どうしたらいいのだろう。
一番丸く収まるのは、クロを皆に差し出す事だ。
でも、ヒーロー・キャットはそうしたくない。もしかしたら来るかもしれない自分の終わりの姿を、クロがしているからだ。周りに蔑ろにされたら? 忘れられたら? そりゃこんなへんちくりんになっちまうよ。だって悲しいもの。
ウーッ! とランドの至る所から警報が鳴り、園長の声が響いた。
『マーチ! ヒーロー・キャット! いい加減にシャドーを連れて出て来なさい。さもなくば……』
身をすくめて耳を澄まし、三人は顔を見合わせた。
さもなくば……?
『君たちもラブミー・ランドを追放だ!』
「そんな!」
ヒーロー・キャットは全身の毛を逆立てて、口をポカンと開けるのが精いっぱいで、声なんて出せなかった。
クロは観念したように、ギュルルと唸った。
「どうやら潮時だ。逃げ続けるなんて無理なんだ……俺は期待なんてしてなかったぞ! オマエらなんて、大嫌いだ! 大嫌いだ! 大嫌いだ! さあ、俺をエンチョーのところまで突き出すがよい!!」
クロはブルブル震えながら、悲鳴のように一気に言った。
「そんな事しない!」
マーチが強く言って、クロを抱き上げた。クロは「俺は、俺が大嫌いだ」と、すすり泣いていた。マーチはクロを抱き揺すりながら、ヒーロー・キャットの腕をグッと掴んだ。
マーチは絶対にクロを見捨てないって、ヒーロー・キャットにはわかっていた。だから、「一緒にいて」と、言われるのかと思った。
しかし、マーチは真剣な顔でヒーロー・キャットにこう言った。
「ヒーロー・キャット、さよならだ」
「え?」
「クロちゃんの追放に付いていく」
ヒーロー・キャットは、金色の目玉を目いっぱい見開いた。クロも赤い目を同じように真ん丸にしている。
ランドの外へ行くだなんて。ヒーロー・キャットは今までそんな事、考えたことも無かったけれど、心が「俺も行く」と言おうとしてしまう。その恐怖から、足が震えた。ランドを出る……? でも、マーチが行ってしまうなんて。どっちが怖い事か、すぐには比べられない。
「どうして……」
「僕は優しい夫婦に拾われて、名前をもらい、愛情という視線を受けて僕になれた。クロちゃんにも、僕がしてもらった事が必要だ……そうしたら、きっと……だとしたら、ここにいたらダメなんだよ!」
「マーチ?」
戸惑うヒーロー・キャットの脇をすり抜けて、マーチは窓から身を乗り出し、叫んだ。
「僕とシャドーはここです!! ヒーロー・キャットに捕まりました!!」
「マーチ!!」
ヒーロー・キャットが慌ててマーチを押さえつけても、もう後の祭りだ。三人を探していた皆がこちらを見て、飛び上がったり指さしたりしている。そして、園長を先頭にワッと城へと駆けて来た。
「バカバカ!! どうして俺だけ置いていこうとするんだ!」
「どうして? 君はランドの花形だ。ヒーローなんだ」
ヒーロー・キャットは、呆然とマーチの言葉を聞いた。
こんな時じゃなければ、どんなに嬉しい言葉だろう。
マーチは続ける。
「君の姿を見るだけで、皆、明るい気持ちになれる。君みたいになりたくて、心に勇気が湧いてくる。いつかの夜に君と、輝く白ワインの飴玉の話をしたよね? その時も言ったけれど、僕は君をそういう光の飴玉だと思う。白ワインの入ったやつさ。その輝く飴玉はね、いろんな人に必要なんだ。だから君はランドに残らなきゃ」
「お前がいないランドなんて、いやだ……」
「僕は君がいないランドなんて、いやだ。そんなランドは、クソだ」
いつもはウットリしてしまうマーチの言葉が、全然嬉しくない。心臓が気味悪く跳ねて、胸が痛い。
お前の言葉が、俺には必要なんだよ。こんなに俺を溺れさせておいて、そりゃないぜ。
そう言いたいけれど、ヒーロー・キャットはヒーローだから、そんな事言えやしない。
園長やキャラクターたちが、とうとう三人の元へ息を切らして追いついた。
不思議なことに、追放だなんて言っていた園長の顔は怒っておらず、少し悲しげだ。
マーチは園長と顔を見合わせ、小さく頷いて見せた。園長は感極まった顔をして言った。
「思い出した……いや、気づいたんだね、マーチ」
その場の全員が首をかしげる中、マーチは再度頷いて、右目から涙を零した。
「はい、園長は、ご存じだったんですね」
「ご両親から、お手紙を頂いていたのだよ。こんな事は初めてで、しかも、君は園長になりたいなんて言うからとても驚いたんだ……」
今度はマーチの左目から、涙が零れ落ちた。
「ちょっと勘違いをしていたみたい。あらゆるチャンスを頂いていたのに、騒ぎを起こしてすみませんでした。このシャドーと一緒にランドを出ます」
「マーチ、どういう事なんだ?」
マーチは「ふふ」と緩く笑って答えなかった。彼はかわりに、ヒーロー・キャットの手を両手でしっかりと握って言った。
「また会おう。何度だって、僕らはここに挑戦する」
ヒーロー・キャットの尻尾がブワッと膨らんだ。マーチがまるで、ヒーローみたいだったから。
*
長いような、短いような時が流れ、ラブミー・ランドに隠れキャラクターが本当に現れるようになった。
そのキャラクターは、怪盗シャドー泥棒だ。
ソイツは雨の日現れて、捕えられたシャドーを蓋の壊れた鞄に突っ込んで、連れ出して行く。皆を怖がらせたいのかもしれないし、狂暴なシャドーを手下にでもしようとしているのかもしれない。
もしもソイツを見つけたら、大声を上げて皆に報せて。
そうなったら、従業員やキャラクターたちと一緒に、怪盗シャドー泥棒と鬼ごっこだ。
雨でアトラクションを楽しめないけど、皆を撒いてスルスル逃げる怪盗シャドー泥棒を追いかければ、誰も知らない秘密の抜け道や、隠し扉や、仕掛け階段を発見出来る。新しい発見の連続に、誰しも胸を躍らせる。
そんな彼を捕まえられるのは、ヒーロー・キャットだけのようだ。
でも、ヒーロー・キャットは彼に飴玉をもらうと、すぐに逃がしちゃうんだ。飴玉には、マタタビでも入ってるんじゃないかって噂だ。
それから、この隠れキャラクターは何十年かに一度、ゲリラ・パレードをする。
見たことがない新しいキャラクターを連れて、賑やかにランド中を行進するんだが……その時の衣装が園長の服とまるっきり一緒なんだ。その姿でお道化た事ばかりして、園長を挑発するんだ。
そうなったら、本物の園長も勢いよく腕まくりさ!
ラブミー・ランドで二つのパレードが競い合って、ぶつかって、勢いに紙吹雪が舞い、火花が散って花火が上がる。
皆、世にも稀で不思議なその行進を待ちわびている。
誰よりも一番に待ちわびているのは、ヒーロー・キャットだ。
こんなのってありかよ、やられたーって、彼は思っている。
たまにすごく寂しくて、心細い気持ちになるのを、彼は不思議がっては、爪を研ぐ。
ヒーローに、別のヒーローを待たせるなんて。
よりによって、なんでお前なんだよお!
だけど、ヒーロー・キャットはヒーローだから、自分から「ラブミー!」なんて絶対に叫んだり出来ないのだった。
おしまい
七ツ樹さん原案・梨鳥が一部を担当した、幻想的なミュージアムのお話は
こちら→「ツイオク・ミュージアム」https://ncode.syosetu.com/n3536gb/