第一章:芽吹き(1ー2)
まだ日は高い傷は表面は癒えているが、中の筋は未だ傷んだままであり、今日が戦いの日より幾日経ったのかも月が出てみない事には判断出来ない。
ひとつ伸びをし、寄ってきた艶雲と子狐を愛撫すると、周りの地形の情報を集めに掛かった。
(山中にこれ程の開けた平地があるとは)
まずは、平地の東方に位置する己が地獄の釜と勘違いした湯の泉は、半径三歩と二尺(6m)ばかりだろうか、上流から、清い小川が流れ込み湯水と混ざり下流へと向かっている。
南方には小川が流れ込む澄んだ横に長い泉、横の長さは一町と四十歩(180m)といったところ。
西方には山の下へと続くであろう道、幅二歩と四尺余り(約5m)
そして、北方には人間に侵されていない、豊かな木々に覆われた丘陵。
その四方に護られた空間は、自然の力で整えられたとは思えない程手入れが行き届いており、奥中央にはどれ程の時を生きて来たのか分からない程の巨木が枝葉を茂らせ、その前には、幾重にも蔦を絡ませ造られた高さ五歩と三丈と三尺(約10m)横幅十三歩と二尺(24m)奥行六歩と四尺(12m)程の萌葱色の邸があった。
(四神相応)
古来より中華文明・その影響を受けた日本などでは東に青龍(川)南に朱雀(泉・湖・海)西に白虎(道)北に玄武(丘・山)が揃った土地に都を造ると長く栄える、と信じられて居た。
(ここは、京の都より余程それに沿っている)
暫く感心して見回していると、西方の木の枝とその根元に己の持ち物一式が揃えてあるのが目に留まったので、近づき確認すると、大鎧・弓・蝦・馬装・小物類まで一見無造作に見えるが、傷などが付かないよう丁寧に扱われて居たのが分かる。
命の恩人が消えていった方角へ一礼すると、鞍を文机代わりに檀紙と書に必要なものを一通り取り出し、文をしたため始めた。
一通は主頼朝へ一通は武田信義、(元を糺せば、頼朝と同じ河内源氏の血を引き、甲斐に移りて甲斐源氏と称した一族の家督であり、後の武田信玄の祖である)宛てだ。
艶雲と黄支子の幼子は広い草地でのんびりと、戯れていた。
先の戦で負傷し、未だ傷が癒えぬ男が頼朝の軍と合流すれば、足手まといとなってしまうが、頼朝からはこの戦敗走の折には、信義の親族を嫁に迎えている、木賀の家督である己に救援の要請に走る様、命じられて居たのだ、最善を尽くす義がある。
(私自身が向かえない事は礼に反する事だが、懐の深い叔父貴の事だ必ず応えてくれる)
信義は正しくは男の叔父にはあたらない。だが、幼き頃には甲斐(現在の山梨県)より伊豆に来ては、彼を息子の様に可愛がってくれたのだ。
文を二通書き上げ書き損じなどが無い事を確認すると、最後に男の名と花押を加え立ち上がったのだった。
その様子に、うたたねを始めていた一頭と一匹がこちらに目を向けた。
「お前達はそこで少し待って居てくれ」
一声掛け西方の道を下りつつ日の傾きからして、未の刻半あたりだろうと見当をつける。
暫く道なりに下り一声「頼む、信濃の偵察も」応じ山野に馴染む海松色の小袖を着流した男が音も無く現れ文を受け取ると、森の中へと駆けて行った。
(後、海松色の男により手渡された文に目を通した信義は、即座に、弟安田義定を筆頭とする救援軍を派遣。箱根山中にて頼朝軍を助く事となる)
それを見届け元来た道すがら薪替わりに使えそうな枯れ枝と、子狐の腹を満たせそうなフサスグリやノウゴウイチゴナツハゼを摘み蕗の葉で包んだ。