エニシダ
人は悩み続けることは出来ない。一つのことをずぅっと考えることが出来るのは、一握りの天才のみ。その天才の中でも、悩み続けることで活路を見出せる人間はいない。悩んだところで答えの出るものではなく、それはイコール思考停止と変わらないからだ。しかし、こと二つのうちのどちらかを選ぶ、という悩みにおいては、悩むことで結論を出せることは少なくない。何故なら、ただ覚悟を決めればいいからだ。片方を拾い、片方を捨てる覚悟を。
私の場合は、どうなるのだろう。命を捨てる覚悟、そんなものいらない。何せ一度は捨てたものなのだ。それをまた拾ったからといって、そこに未だ価値を見出していないのならば捨てることに躊躇はない。出来ない、と言った方がいい。理由が無いのだ。
なら、何でまだ生きてるのだろう。彼女に死なないで欲しいと、生きて欲しいと望まれたからと言えばそれまでだが、しかし私には彼女の望みを聞く理由は無い。生まれてから一ヶ月、彼女に育てられたとはいえ、その間の私はまさに忘我という有様。ただそこにいて、息をしているだけだった。思い出は無い。しかし、彼女からすれば、拾ったとはいえ私を我が子として育てていたのだ。たった一ヶ月。されど一ヶ月だ。それだけ一緒にいて、世話をしていれば情も沸くだろう。犬猫と同じだ。
だが、つい先日。私と彼女の間には、意思疎通の手段が生まれた。いや、手段自体は元々彼女の手の中にあったのだろう。しかし、きっかけがなかったのだ。そもそも赤子に意思は無い。あるのは本能だけだ。意思があるとすれば当然記憶にも残るだろうが、少なくとも私は幼少期の記憶をほとんど持っていなかった。そんな存在に、果たして意味を持たせた会話を試みるだろうか?精々が犬猫にするような挨拶や独り言だろう。反応を期待して赤子に話しかけるとすれば、それは赤子が赤子であると知らない幼い子どもぐらいだ。この家には私以外の子どもはいないようなので、当分そんな機会はないだろう。そもそも、私はそんな機会を待っていられるのだろうか。
「そろそろミルクの時間ね……。どう?お腹は空いたかしら」
視界の外から声が届く。同時に脳内に声無き意思が届き、それが無意識かで自分のよく知る言葉――日本語に変換される。
(よくわからない……。この身体になってから、酷く感覚が曖昧なんだ)
「精神に肉体が追いついてないのだから、仕方ないわ」
それもあるのだろうが、この身体は酷く自由が利かないというのが一番だろう。本能で何が危険なのか、身体が何を欲しているのかはわかる。しかし、自分の意思を身体に伝えても、その通りに動いてくれない。こればかりは、成長しなければ解決しないのだろう。
「そういえば、ずぅっと何か考えてたみたいだけれど」
(あぁ……いや、別にどうということはないさ)
そう。特別何かあって考え事をしていたわけじゃない。ただ、漠然とした疑問だけが宙を浮いている。
(わからない。私は何がしたいんだろう。何をしなきゃいけないんだろう)
今までの、押し潰されるような自己嫌悪が、不思議と沸いてこない。背中を押されるままに踏み出した崖の下は、しかし、こんな庇護されるだけの日々。
「理由が無くなっちゃったのね」
(そうだね……死ななきゃいけない理由が、ここには無い。君に負担をかけるというのも、君の口から否定されてしまった……)
正しいと思って踏み出した過去。それがあるだけに、今こうして生きていることへの違和感が付きまとう。でも、また改めて死を選ぼうにも、今まで背中を押してくれていた誰かはいない。
「難しいこと考えて生きてるのね」
(難しい、かな……)
確かに、もっと単純に割り切ってしまった方が楽なのだろう。だけどこれは性分というもので、私自身にもどうすることが出来ない。まどろみに浸り、現実から眼を背けることは慣れている。だが、それがいつまでも持ったかといえば、長くて数日。何ヶ月も何年もまどろみに浸れるほど、私の現実は優しくはなかった。
「ここでは少なくとも、あと十年は何も考えず暮らしていけるわよ?」
確かに、ここには私を庇護してくれる、世話好きで物好きな魔女がいる。誰もがこう言うだろう。何も悩まず、心を、身を任せてしまえばいいじゃないかと。私自身もそう思う。面倒なしがらみなんて手放して、ただこの庇護を受け入れればいいじゃないかと。だが、引っかかるんだ。
「あたしが信用できない、とか?」
(違うよ。それこそ、君に利用されて命を落とすのなら、私は悩むことはなかった)
たとえどれ程悪辣なことに利用されようとも、そこに自らの命の価値を見出してもらえたのなら、救われた気にさえなるだろう。
「そんなことしないよ」
困ったように少しだけ口角が上がるも、その目はゆっくりと伏せられ、とても笑みを浮かべてるようには見えなかった。