章末 出会いから育まれた心の成長
――あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう?
抱かれたままの私はレスに体を預け、ぼんやりとした意識の中でそんなことを考えていた。
空に延々と広がる黒雲のおかげで今が昼か夜かも分からず、そこから降る雨は枯れることのない私の涙とよく似ていた。
雨粒が身体を濡らす度に冷えた手足の感覚が鈍くなる。
それでも僅かな感触を頼りに、私は掴んでいる服をさらに握りこんだ。
頭を預けている彼の肩口は雨とは違う、生暖かい何かで湿っている。……多分、私のせい。
濡れた服は肌に張り付いて気持ち悪く、徐々に私の体温を蝕んでいっているのが分かった。
けれども、これとは比べものにならない心の冷えを今も感じている。
答えの出ない思考。
今、自分の頬を流れているものが雨なのか涙なのかが分からない。
灰色の世界。冷え切った身と心は私を衰弱させ、永遠にこのままだという気にさせる。
けれど、明けない夜はないように、いつの間にか私を濡らしていた水滴の存在が消えた。
それらが奏でるリズムはどこか遠く、視界の端には岩肌が映る。
どうやら、雨宿りのできる丁度良い洞窟を見つけたみたいだ。
「ルゥ、大丈夫か……?」
顔が近いせいで耳元からそんな心配する声が聞こえてくる。
返事をするのも億劫だった私は無言を返した。
「……泣き疲れて寝たのか?」
小さく呟かれた一言だったが、今の私はそれさえも聞き取れる。
確かに疲れた。運動した時のような疲労とは違い、体が動かないのではなく、動かす気力が湧かない。
全身が重く、見えない何かで押しつぶされそうだ。
「まぁ、ちょうどいいか」
…………? 何のことか分からず、思考が止まる。
私を抱えたまま器用に背負ったリュックを下ろしたレスは、何かを取り出しているようだ。
それを床に敷くと、私の体は傾き始める。
寝かせられている――そう悟った私は、首に回していた腕に力を込めた。
「……起きてる、から…………このままが良い」
地面との僅かな距離を残して、私の体は静止する。
そのまま時間を巻き戻したかのように元の位置に戻ると、レスは何も言わずに他の物をリュックから取り出した。
――カチャカチャ。――バサリ。――カンカンカン。
私が邪魔な様子を少しも見せずに、作業をこなしている。
その過程でチラと視界に映ったのだけど、どうやらテントを立てているようだった。
程なくして立て終えたレスは、私に声をかける。
「取り敢えず体を拭いて、着替えとけ」
「…………いや」
抵抗の意思を込めて、回した腕にもっと力を込めた。
「ちょ、首締まってる。濡れたままだと気持ちが悪いだろ?」
「…………平気」
実は嘘だ。
「風邪ひくぞ?」
「…………大丈夫」
わりと――いや、結構寒い。
「せっかく貰った服が駄目になるぞ」
「……………………それは嫌」
本当に嫌だったので、渋々と降りる。タオルと着替えを手渡されテントへ促された私は、そこで一人になった。
雨を吸った服を脱いでも体にかかる重みは変わらず、膝が折れそうだ。
布が肌に張り付く気持ち悪さが消えても、開放的な気分は一切訪れない。
何かに寄りかかりたくて周囲を見渡してみるけど、何もない。仮にあったとしても、無機質な冷たさが返ってくることは想像でき、支えにしようとは思わないけど……。
兎にも角にもやることを終え、テントから這い出る。
濡れそぼった服やらを纏めて渡すと、交換に毛布を受け取った。聞けば、もう日も落ちているらしい。
「疲れたろ? 今日はもう寝とけ」
それだけを言って、洞窟の入り口を眺めるレス。
私に気を使っての行動であり、今日ばかりは見張りのためでもあるのだと思う。
そのことを理解していながら、私は彼に手を伸ばした。
♦ ♦ ♦
テントの中で二人並んで横になる。
レスは何かを待つように黙ったままで、一方の私も考えがあって呼んだわけではなかった。
会話もないまま時間だけが過ぎ、そのせいで思考は昨晩の出来事で満ちていく。
「…………私のせいでお爺さんが死んじゃった」
その過程で、ポツリと私の口から想いが零れた。
「……お爺さんだけじゃない。私が自由になることを望んだせいで、レスも騎士の人に追われるようになった。もしかしたら、エルフの里にいた宿の人達も酷い目にあってるかもしれない。全部、私がわがままを求めたから……」
一度漏れてしまえば、それは堰を切ったようにとめどなく溢れてしまう。
そうして抱えていた後悔を吐き出した私は、もう何も言うことはないとばかりに無言を貫いた。
「おい、ルゥ。お前、ちょっと烏滸がまし過ぎやしないか?」
けれど急にそんなことを言われ、私は唖然とする。
「何でもかんでも自分に原因があるような言い方をしているが、それは違う。皆――少なくとも俺は自分で選択し、自らの意思で行動している」
普段とは違う声音に私は声を出すことが出来なかった。
「俺が追われる羽目になった、と言ったな。あの時、俺はルゥを引き渡すことでこれまでのような旅に戻ることも出来た。だが、しなかった。俺自身が戦うという選択をしたからだ。カオス老人もそうだ。死にたくないのなら俺たちと一緒に戦うことも、逃げることも出来た。けれど、彼は命を賭して俺たちを逃がすという選択をした」
珍しくもレスの言葉には力があり、何かに憤慨しているようにも聞こえる。
「皆、自分で選んでいるんだ。なるべく後悔しないように、それが正しいと信じて。その行動を、自分のせいだと勝手に責任を背負って、悔やむな。それは侮辱だ。必死こいて選びとった選択を馬鹿にするなよ」
違う。彼は確かに憤慨していた。
自らの存在を悔やむことは、それまでに関わってきた人が自身のためにと選んでくれた行動を悔やむことと同義。
そんなことにも気が付かない私に、静かな怒りを燃やしていたのだ。
微かにも慰めのような言葉がかけられることを期待していた私にとって、この言葉は驚きの一言だった。
けれども、それが却ってレスの心からの言葉だと理解できる。
「……それにな、ルゥは自分のせいでカオス老人が死んだと言ったが、見方を変えればカオス老人はルゥを生かしたということになる。彼を死なせた後悔よりも、なぜ命を懸けてくれたのか――少しはその意味について考えてみてもいいんじゃないか?」
レスはそう続けると、口の端を吊り上げた。
つられて私にも笑みが浮かぶ。
まだ割り切れたわけではなく、負の感情は心の中に渦巻いている。
けれど、それだけに縛られてもいけないことを、私はさっき学んだ。
それに、私にはお爺さんから受け取った大事な言葉がある。それを元に、私なりの考えを導くことが出来たら、お爺さんは喜んでくれるだろうか?
ふと、そのことについて考えると一つの閃きが降りてきた。
「ねぇ、レス」
「なんだ?」
間髪入れずに返事を返してくれるレスに、ニコニコとした笑みで答える。
まるでイタズラでもするかのような気持ちだ。
「今日から、一緒に寝よ?」
「……………………は?」
長い沈黙の後に、腑抜けた音が漏れる。
「き、急にどうした? だってお前、俺のことが信用出来ないって……。襲われたくないんだろ?」
「うん。けどね、そのせいでレスのことを信用出来なくなる方がもっと嫌だ、って分かったの。だから、もういいかなって」
私の理屈についていけないのか、さらに慌てたような声を上げた。
こんなレスは珍しい。見てて面白い。
「全く意味が分からん。それで仮に襲われたらどうするんだよ? ……いや、襲う気は無いけどさ」
なるべく正しく伝わるように、私は自分の思考を整理する。
「うーんと、それならその時に考えれば良いかなって。信じたいけど信じられない――その迷いが嫌だったからもういっそのことやっちゃえ、みたいな」
……上手く伝えられただろうか?
レスの顔を窺うと、呆れたような笑みを浮かべていた。
「……アホか。『襲われるかもしれないから、信じられない。けど、信じたい。だから、身をもって証明します』って、本末転倒にも程があるだろ」
その表情と言葉に、私は少し自信をなくす。
「……やっぱり、変かな?」
ほんのり滲み出る悲しみを隠すため、冗談めいた聞き方をしてみた。
しかし、すぐに自分の勘違いだと知る。
「あぁ、そうだな。俺と同じで馬鹿だよ……全く」
私の頭を撫でる手はとても大きく、擽ったい感触が支配する。
失ったものは大きく、けれど、そのおかげで得たものがある。
この胸の痛みを忘れてはならず、それでも、前に進んでいかなければならない。
――同じ後悔を、しないために。
さて、これにて第二章は完結いたしました。読んでいただき、ありがとうございます。
私の活動報告において、これまでの振り返りなどを綴りますので良ければお越しください。
続く第三章は 9/28(金) となります。諸事情により 26(水) の分を繰り下げさせて頂きました。
申し訳ありません、今後ともよろしくお願いいたします。





