隣人トラブルッ!
『未来』『旅』『眼鏡』の三題噺です。
隣の部屋に新しい住人が引っ越してきてからというもの、私の仕事は瞬く間にペースを落としていた。
「はぁ、少し前までは落ち着いて仕事できる環境だったんですけどねぇ」
マンションの屋上でこの町の景色を眺めながら私は小さくため息を吐き出した。屋上から見える景色はとても綺麗で、疲れきった私の心を癒してくれる。
隣人トラブルを抱えている私にとって最近では落ち着いて考え事が出来る場所が、この屋上だけになってしまっていた。
「お隣に引っ越してきたのは鏑木さんでしたっけ?」
つい1週間前に引っ越してきたまだ顔見ぬ隣人の事を考えて、私の気持ちはどんどんと暗い方へと進んでいく。お隣が引っ越してきてから起こったトラブルは本当にたくさんある。
まず、夜中に念仏を唱えるのは止めて欲しい。夜中の3時を過ぎた所で毎日聞こえてくる野太い男の声の念仏は気持ちのいいモノではない。というよりも、本気で怖いし悪夢の原因になる。
後、早朝5時から12時までずっとロックミュージックを大音量でかけっぱなしにするのも止めて欲しい。まるでここがコンサート会場かと疑わせるほどの大音量と臨場感が溢れた激しい音楽を、朝っぱらから7時間も聴かされたらそりゃ寝不足にもなるわ。
そして最後に、ペット禁止のこのマンションでワニの放し飼いは本気で止めて欲しい。初めて庭で悠々と我が物顔で散歩しているワニを見つけたときは本気で驚いた。そして、その後庭にいた鳩を丸呑みしたのを見たらもう恐怖以外の何者でもない。最近ではご近所で飼われていた犬の太郎君を飲み込んだという話も聴いたし、うかつに外へ出歩けなくなくなってしまった。
「私がもっとビシッとモノ言える性格だったら注意しにいけるのに」
屋上の手すりに体を預けながら私は小さい声でそう漏らした。そもそも極度の人見知りで会社勤めが出来そうにないからこんな職業を選んだ私なのだ。こんな凄まじい隣人トラブルを解決できるほどの勇気も話力も無い。
「はぁ、これからどうしようかな」
新しい場所に引っ越すか、それとも我慢するか。少なくとも注意するという選択肢は私には無かった。あー、もっと私が強い人間だったらビシッと注意できるのになぁ。
そんな事を考えて自分のネガティブさに更に憂鬱になりながら私は顔を下に向けた。その時、突然背中を誰かに押されたような衝撃が私の体を走り抜けた。
「うわわあっ!?」
いきなりの衝撃に私は驚いて慌てて手すりをつかんで崩れようとしている体勢を無理やり立て直す。し、死ぬかと思った。
もう少しで屋上から転落してあの世に旅立ちそうになった私は、体中から吹き出る冷や汗をぬぐいながら、先ほどの衝撃の正体へ文句の一つでも言おうと振り返った。
「いきなり、何してくれるんで───」「自殺なんて考えてはダメよ!」
精一杯の私の大声だったのに別の大声が被せられてしまった。
「何があったのかは私にはわからないわ! でも、死んでしまっては何も始まらないし、変わりもしないは! 悩みがあるなら尚の事生きて進んでいかなくてわっ!」
「……はぁ?」
突然、捲くし立てるように言われた希望の言葉に私は訳がわからずに首を傾げた。けれども、相手はそんな私の反応は綺麗に無視をして目を輝かせながら、手振り身振りをも駆使してどんどんと喋っていく。
「いい、生きているっていう事はすばらしい事なのよ。何故なら死んでしまっては人は何も感じる事が出来なくなるからっ!」
何を言っているんだこの人は?
いきなり現れて理解不能な事を喋り捲る相手に私はもはや何が起きているのか理解できなくなってした。それでも尚、どんどんと喋り捲る相手を無視して私は心の中で今の状況を整理する事にした。
まず、私の前でこの『生きてるって素晴らしい演説』を行っている相手はまだ幼さの残る顔立ちをした可愛らしい女の子だった。制服を着ている所から、高校生である事がわかる。
そんな彼女が行っている演説の内容、今の私のいる場所や状況。すべてを考えると結論としては───、
私を自殺志願者と勘違いしている?
「聞いてるの!? 自殺なんてして何になるかをよく考えてみなさい! そしたら、自分がどんな愚かな事をしようとしていたかがちゃんと理解できるから!」
どうやら、ビンゴらしい。彼女は私が自殺しようとしていると思って慌てて止めに来たのだろう。最初に襲った押されるような衝撃は彼女が私を押しとめようとした衝撃だったのだ。
そうと分かれば話は早い。さっさと誤解を解いてもらってこの際限なく口から湧き出る演説を止めて貰おう。私はそう思って、本当に息継ぎをしているのかと疑わしくなるほど喋り捲っている彼女に声をかけようとした。
「あ、あのー」
私は声をかけようとするが私の声が小さいのか、それともこの演説に熱が入ってしまっているのか彼女は私の話を聞こうとすらせずに喋り捲っている。
「生きていたらいい事が沢山起きるの! 生きているって事はそれだけで幸せなのよっ!」
「……本当にそうですか?」
言ってしまてってから私は急いで口を塞いだ。つい、思っていた事が口から出てしまった。そして案の定、彼女はこの私の言葉を聞き漏らさずに物凄いガンを飛ばしながら尋ねてきた。
「何? 私の言ってる事に文句あるの?」
恐っ!? 絶対に自殺しようとしている人間に向けていい類の視線じゃない!
「私はね、本当の事を言っているだけよ。生きている事が幸せ、この定義に何か問題でも?」
先程とは打って変わって静かで押し殺したような低い声に突き落とされそうになった時よりも冷や汗が吹き出る。けれども、彼女はそんな私に容赦せずに胸倉を掴むと射抜くような目線で尋ねてきた。
「な・に・か・文・句・で・も・あ・る・の? あるなら言ってみなさい」
彼女の目は人を殺した事のある人間の目だった。私は慌てて首を横に振ろうとしたが彼女は『何か言わないと殺すぞ、こら』的な目線を向けて来たので私はもう家に帰りたいと考えながらも思っている事を口に出し始めた。
「だ、だって、生きていたってつらい事の方が多いじゃないですか。そりゃ、生きていたらいい事があるなんて私も分かりますよ。でも人生って辛い方が多いんじゃないかなーなんて思うんですけど、違いますか? 違いますね、ごめんなさい」
「この、あんぽんたんっ!」
ビユゥンというビンタでは決してしない風を切る音を立てながら彼女の手が私の頬に食い込むようにして飛んできた。
「ぐえぇっ!?」
つぶれた蛙みたいな声を漏らしながら私は2メートルほどぶっ飛ばされる。痛む頬を押さえて私は彼女の方を向くと、彼女は目に涙を滲ませながら言った。
「殴った私の手だって痛いのよ!」
いや、明らかに私の方が重症な気がするんですが?
私の抗議の目線もなんのそので彼女はまるで芝居でもしているかのように大袈裟な涙を浮かべて私に言った。
「どうして未来を信じられないのっ!? どうして、物事をそんな目でしか見れないの!?」
いや、どうしてって言われても。何と答えていいか分からずに黙り込む私だったが、彼女はそんな私を再び無視して喋り始める。
「確かにあなたのように全てを色眼鏡で見ていたら、そう感じてしまうでしょうね。でも、本当の世界はそんなものじゃない! とても、素晴らしいモノなのよっ! 分かった!?」
理由もへったくれもない彼女のそんな言葉がだ、私はすごい勢いでうなずいた。もうこれ以上殴られたくなかったし。
「そう、分かってくれたのね。やっぱりコミュニケーションで人と人は分かり合えるのね!」
どこか幸せそうに彼女はそう言うと先程の死線を潜り抜けてきた兵士のような顔とは全く違う、年相応の可愛らしい笑みを浮かべて言った。
「よかったわ、これで私も安心よ。私の名前は鏑木裕子。このマンションに住んでるから、また何か悩み事があったら私に言ってね」
彼女はそう言うと私の返事を待たずに屋上から出て行った。そんな彼女を見送りながら、私は思わず呟いた。
「な、何だったんですか?」
その呟きは風に呑まれるようにして消えていった。
ちなみに頬の痛みは一週間ほど全く引かずに私の仕事はまだ順調に停滞してしまっている。
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