春のテーマ決定とセクシーブラウス姉さん①
半分しか電灯が設置されていない廊下。そんな薄暗く、寒い、一世紀前のような廊下で、自分は緊張しながら待っていた。
背をもたれている廊下の壁には、研究室メンバの居場所表ポスターが貼られている。
縦軸に黒川教授や院生の名前、横軸(ポスター上部)に「在室」「学内」「帰宅」「培養ルーム」といったステータスが書かれていて、その上に各人のマグネットが現在のステータスに合わせて置かれている。
一番上の「黒ちゃん」と書かれた行には色鮮やかな熱帯魚のマグネット。その下の行には「田村」と書かれていて、伝統的な日本のボードゲームである将棋の「飛車」の駒のマグネットが、「在室」の列に置かれていた。
居場所表を眺めて暇をつぶしていたら、教授室の中から声が聞こえてきた。
「ラーメンはだめだからね」
黒川教授の低い、少ししゃがれた声が聞こえた。
古い建物のせいか、中でしゃべっている人たちのせいか、さっきからダダ漏れである。
「一度きりの卒業研究だし好きにやりたいの!ラーメン文化を組織間相互作用の観点で調べたいの!」
廊下に蘭子の甲高い声が響いた。
だいたい想像がつく。蘭子のことだ、あの実習でやった「人種依存的麺文化」の続きをやらせろとか言っているのだろう。
一度きりのって、卒業旅行かっ。
蘭子の「だから黒ちゃんさ〜」から始まるマシンガントークと、黒川教授の「君は実習で説いた話を覚えているか」という問答が、コントのように繰り返されるのが聞こえる。
次は自分の面接なのになぁ…。
西日がさらに歩みを早め、隣の棟の影が自分の足元に到達し始めた頃、教授室のドアが開き、蘭子が出てきた。
「よぉ、お疲れ」
「あぁ、次だったっけ。とりあえず言いたいことは全部言ったわ。全敗だけど…」息を切らしながら蘭子は言った。
「隣の学生部屋で先輩達と話しながら待ってるから、正史も終わったら来なね」
「全惑星ラーメン補完計画への道が…」蘭子はぼそぼそとつぶやきながら西日の差す廊下を歩いていった。
ガチャリと音を立て、教授室のドアが開いた。中からがっしりとした体型でヒゲ面の、クマみたいな研究者が顔を覗かせた。クマかと思った。黒川教授だった。
「正史君いるかね。おぉ、いた。入りなさい」
「はっ、はい。失礼します」
すぐに部屋に引っ込んだ黒川教授を追うように、自分も中へ入っていった。
教授室の中には二つの机があった。一つは部屋奥窓側の、木製のずっしりとした大きな机。おそらく黒川教授の個人スペースだろう。
もう一つは手前側、入り口と奥の机との間に、折りたたみ式の机と相対した2つのパイプ椅子があった。
「そこにかけて」
黒川教授はパイプ椅子に座ると、対面の席に着くよう自分を促した。
言われるまま座り、正面の黒川教授のほうを見た。
「ん〜まぁ、配属の最終面接なんだけど、どうするか決める前に、雑談でもしようか」
黒川教授は椅子にちょっと腰を深くかけ、顔を緩めて言った。
「はぁ」
正史がキョトンした顔でいると、黒川教授のほうから話を始めた。
「このラボは、惑星発生学研究室である、というのはだいじょうぶだよね。英語だと〜、『Planet Dev. Biology』とか言ったりするんだけど。略してプラデブ」
「はい」
「隣がさ、『Planet Tech. Biology』のプラテクだからさ、たまに間違えて来ちゃう学生もいるんだわ」
「プラテクとプラデブ。デブってついてて、こっちのほうがなんかかっこ悪いよね」
黒川教授は軽く口角を上げ、笑いながら言った。
なんか、実習のときと全然イメージが違うなぁ。思ってたより喋るし、気さくだ。なんとなく黒ちゃんという愛称もしっくりしてきた。
「えーっと、正史君だっけ?蘭子と正史…ははっ、ニコイチな名前だ。正史君はもともと情報工学科?に所属してたんだよね。2年生まで」
「はい。2年の終わりまで情報工学科にいて、3年次に惑星生物学科に転科しました」正史は黒川教授から目をそらさずに答えた。これはなるべく本当の事を言わなくてはいけないやつだ。
「自分で言うのもアレですが、昔から情報技術には長けていて、気づいたらそのまま情報工学科にいました」正史は話した。
「特に不満はなく、強いて言うなら、わかりきってることしかでてこないような感じがして、そんな所に嫌気が差していました。今思うと、自分のただの勉強不足だったのですが」
日が落ちかけ、自分と教授の影が入り口のドアのところまで伸びている。
「もうちょっと具体的に教えてくれるかな」黒川教授は言った。
「はい。えっと、つまりは、入ってくる知識や技術に対して、あまり新しさを感じられなくなったんです。最初はコマンド一つ打てただけで、嬉しかったのですが、なんていうか、名前や言語は違うけど、全部同じ事の繰り返しな感じがして」
1年前の自分を紡ぐように思い出し、黒川教授に失礼のないように答えた。
「そんな感じで悩んでいたときに、この学科のオープンラボに来ました。そのときはホントどん底で、テレワークスタイルで授業を受けられるのをいいことに、ほとんど大学にも来ていまえんでした」正史は少しうつむいた。
「僕らの時代の言葉で言う、ニートってやつかな」黒川教授は空気を和らげるためににやりと笑った。
「そ、そうなんですかね」よくわからないまま相槌を打った。
「そのときに、大学のサッカー友達の、蘭子と果流子にオープンラボの話を聞いたんです」
「ほう。君達は前から知り合いだったのかね」黒川教授は少し驚いた顔をした。
「はい。学科は違うのですが、サークルつながりで」
「それでその時、大学祭に合わせて開催していた惑星生物学科のオープンラボを見に行ったんです」
「惑星工学研究室、惑星材料研究室、そして、惑星発生学のオープンラボを見学しました」
「そしたら、どれも意味わからなくて、理解できなくて魑魅魍魎で。いや、えっと展示自体はとてもわかりやすくて、高校生でも理解できるものばかりでした」
「でも、仕組みを考え出したら止まらなくて、答えを導きだす方針も定まらなくて」
「そりゃあそうだろ。初めて見る分野なんだから」
「あっ、はい。そうですね。そうなんですけど、「初めて」って言葉だけじゃ、自分では整理つかなくって」
「どこらへんかね」
「えーっと、それがこのラボの展示です」
「教室の一面にPlanetに入った地球胚が並べられていて、全部地球胚なのに、大陸の形態、森林の繁茂、活躍した生物、どれも微妙に違うんです。人類がない地球もありました。その展示の担当をしていた学生?の方に聞いたら」
『変えたパラメータは一つだけだよ。全球凍結の時期』
「って、おっしゃってました」
勢いでいっぱい喋ってしまった。ちょっと落ち着こう。バックに入れていた、お茶のペットボトルを取り出し一口飲んだ。
「Ms.ブラウンの担当回のやつだね。あの展示は評判良かった。まぁ別の意味でもね」黒川教授はニヤリと笑いながら言った。
確かにあの展示は盛況だった。主なターゲットである受験生だけでなく、在校生も多く来ていた気がする。主に男子。観るだけの展示とはいえ、あれを学生一人で回してすごいなぁ。と感心していたのも思い出した。
「じゃぁ、正史君はその一連の惑星生物学科のオープンラボを見てこの分野に転科してきたってことかな」黒川教授は自分に視線を合わせて言った。
「はい」正史は堂々と言った。
半分ホントだが、半分ウソだ。
実際は、「面白そうだし勉強してみたいな」と酒の席で漏らしたのが最後、翌日にはハンコを押すだけで転科できる書類がメイド・イン・蘭子で用意されていて、で、ハンコを押したものの学生課のポストに出そうか迷っていたところを果流子に「え〜い」と背中を押され(物理)、その勢い(物理)で投函してしまい、半月後には転科申請が通って、あれよあれよと言う間に、惑星生物学科の学生としての4月が始まったのが事の顛末である。
「なるほどね。私が知りたかったことはだいたいわかったよ。結構時間を取ってしまった。これくらいで終わりにしようか」黒川教授は言った。
「えっ。まだ、自分の転科の話しかしていないですよ。研究テーマとか…」
「テーマは先月の研究室紹介でも話しただろう。学生が受け持つテーマもその、地球型惑星をモデルとした研究の一つをやることになる。それとも何かい?君もラーメン…」
「それはないです。はい、大丈夫です」
二人とも黙り、教授室は静かになった。外の幹線道路を走る車の音だけが、聞こえる。黒川教授は斜め上に視線を向け、思案顔をしている。
「じゃぁ、最後に一つだけ質問いいかな」静寂をスパッと切るように黒川教授は言った。
「はい。なんでしょう」正史は言った。
ひと呼吸置いて、黒川教授は自分に目を合わせた。
「君はここで何がしたいのかな」黒川教授は言った。
考える。消極的で受け身な返答が頭をよぎったが、すぐに消しゴムで消した。考えろ。今の自分の根っこに近いものを。
「私は…」
「私はおもしろい研究がしたいです」
正史は黒川教授の目を見て言った。
「いち惑星の作り方、わかりやすい言い方に変えるなら、惑星のレシピに興味があります。なんか、漠然としていて申し訳ないのですが…」
正史はしぼんでいく風船のように、視線を下に向けていった。
沈黙がまたおとずれた。黒川教授は自分の方を見ているだろう。たぶん。
何十秒たったか、それとも何分か。タイムスパンが掴みづらい変な雰囲気になった。弱設定の暖房が少し寒い。足元にぬるい風が流れる感じがする。
「わかった。なるべく希望に沿うようにしよう。ただ、ラボの受け入れ人数は限りがある」黒川教授は言った。
「面接の結果は、他の希望者のも終えてから、追って連絡する」
「お疲れ様」黒川教授は軽く頭を下げた。
「あっ、ありがとうございました」自分もあわてて礼をした。
黒川教授が立ち上がるのを見て、自分も足元のカバンを手に取り、立ち上がった。そそくさと、足元だけを見てドアに向かった。
「失礼しました」ドアの近くに立つ、黒川教授に再度礼をして、教授室を出た。
バタン。
「ふぅー」
息をつき、すぐに歩き出した。廊下は暗くなっていた。
隣の学生部屋の明かりが廊下に差す。その明かりのあるドアを開けた。
「失礼しまーす」
実験デスク前の椅子に座る蘭子と、2人の院生が振り向いた。
「正史おつかれ!」エネルギー再充填済みの蘭子がそこに居た。
蘭子の後ろの男の院生が会釈した。実習のときのチューターだ。
「おつかれデス!」蘭子とチューターの隙間から顔を出し、後ろにいる女の院生が右手をちょこんと出してあいさつをした。
綺麗な茶色の髪と真っ白な肌。そして、近づかなくてもわかる、弾けそうな白地ブラウスの胸部。外国人?ハーフ?
「おつかれ〜。何?ずっとここで話してたの?」正史は言った。
「うん、そう!まぁさっきまでは先輩方は実験しながらだったけど。いまひと段落したたみたいだから、色々聞いてたの」蘭子は言った。
先輩たちがこちらを見てニコっとした。
「あっ、すみません。改めまして、自分は3年の正史といいます」院生たちに近づき、正史は慌てて言った。
「ははっ、いまさら自己紹介いらないよ。僕もブラウンさんも君のこと知っているし」チューターは言った。
「むしろ自己紹介が必要なのは僕らのほうだよね。僕は田村っていいます」
「あっ、田村先輩よろしくです」正史は田村に挨拶した。
「こちらは…」田村先輩が隣の方を見ながら言った。
「ブラウンです。ブラウン先輩でもいいし、ブラウンお姉ちゃんでもいいヨ。ちなみに、こっちはタムタムね」ブラウン先輩は田村先輩に肩を回し、その腕で田村先輩の顔を指差しながら言った。
「まぁ、見てのとおり、Ms.ブラウンはこういう感じだ。もともと変わったところのある人だが、最近拍車をかけてはっちゃけている」ブラウン先輩に体を密着され、顔をひきつらせながら田村先輩は言った。
「変わったのはタムタムが貸すオタクアニメのせいだヨ〜。シスターほにゃららとかー?」
「あっ、あれは、きみが『タムタムのマイフェイバリットanimationを貸して♡』っていうからっ」
田村先輩は典型的な日本のオタクの反応を示した。
「あと、Ms.ブラウン。タムタムって呼んでるのは君だけだからね。広まってない呼称を吹聴しないように」
咳を払い、落ち着いた調子で田村先輩は言った。
「えー。クロちゃんも言ってるよ〜」
「クロちゃんはいいの。俺も黒ちゃんって呼んでるから」
「だったら私もアダナ?だっけ?それで呼んでいいよ〜」
「ブラウンお姉たま?とかっ」ブラウン先輩は悪い笑みを浮かべながら言った。
「ブラウンさん!新入生が引いちゃうから、そのへんで勘弁してください…」田村先輩は懇願しながら、ブラウン先輩を引き離した。
「んでっ、面接はどうだった?」蘭子は立ったままの自分を見上げて言った。
座っている蘭子は実験デスク前の回転椅子で、小さく順回転と逆回転を繰り返している。
「うーん。わからない。だめかも」正史は言った。
「えっ、まさか、あんたもラーメン文化補完計画について熱弁したのっ!?」
蘭子は血相を変えて言った。
いや、してないし。そして蘭子、したらダメになるかもって思っているなら、なぜ熱弁した。
「するわけないから」
「ん〜じゃあ、なんでだめかもナノ〜?」ブラウン先輩は、人差指の先をくちびるに当て、首をかしげた。
「いやっ、なんか、研究の話ってよりかは自分の転科の話とか中心だったんですよ。研究についても、漠然と『おもしろい研究がしたい』とかしか言えなかったし」
「へ〜」田村先輩とブラウンさんが軽くハモった。なぜか自分を優しい目で見ている。
「あと最後に、『ラボの受け入れ人数は限りがある』なんて話もしてましたし…」正史は言った。
「それは私のときも言われたわ。私たちの他にも面接する人がいるのかしら…。予備調査では、ほとんどみんなプラテクのラボだったし」蘭子は言った。
「あそこは先生も多いし、規模もデカイからね〜」田村先輩はしみじみと言った。
「で、残りのほとんどは、プラエレ(惑星材料)で、プラデブはわたし達くらいだったはずなんだけど…」蘭子は言った。
ブラウン先輩は立ち上がり、自分と蘭子の肩に腕を回して、スクラムを組んだ。自分と蘭子はびくっとして、眉を上げた。自分は1秒後に来たお手製胸部クッションに、テンションも上げた。
「そこは心配いらないよ。オフタリサン♡」
そう言って、ブラウン先輩は、壁に貼られたラボ共用カレンダーを指差した。ダケイ理科という会社名が入ったカレンダーだ。
今日の日付のところに、「2/2らぼめん」と書かれていた。
「あれはね、2(面接者)/2(受け入れ卒研生)って意味だヨ」
「つまりっ、さっきの心配はいらないってこと。アンダスタン?」ブラウン先輩はにっこり笑いながら、自分と蘭子を交互に見た。
「黒ちゃんも見栄を張ったってことカナ〜」ブラウン先輩は言った。
「まぁ、よっぽどひどい人間性の持ち主か、面接で暴れたりしない限り、通るってことだね」田村先輩は言った。
それを聞いてすぐさま蘭子を見た。
「ふ〜」なぜか納得と安堵で満たされた顔の蘭子がいた。
「同期なしで苦労するかもしれませんが、先輩方宜しくお願いします」自分はわざと仰々しく挨拶をした。
「よろし、くく…」田村先輩は笑った。
「よろしク〜、ククッ」ブラウン先輩も笑った。
「?」蘭子はよく理解できていない様子の表情を見せた。
クスクスと笑う先輩方と自分を不思議そうに見回す蘭子は、豆鉄砲をくらった鳩のようだった。