いつか消えてしまう、きみのために
これは、僕にとって正しい形であった。
四角四面に凝り固まった大人たちが呪文を唱えて、子どもたちを雁字搦めにしようとしている。早い段階で、僕はそれに気付いていた。大人たちの策略に気付いていた。
恐ろしく狡猾で、気付いたときには身動きのできないように、子どもたちの四肢をもぐつもりであることは明らかだった。幸い僕はまだ自由だったし、手足も、体も、心も、失ってはいなかった。
幸いにも、逃げる術を持っていた。幸いにも。
僕は年齢の割には他の子より頭が良い。大人たちは想像もしていないのだろう。飼育している子どもらがそれほどの脳を持っていることを認めたくないのだ。それ故に、僕は生まれ育ったふるさとを、まんまと抜け出した。
走ったことも、息が苦しかったことも覚えている。ただ、そのとき僕は果たして本当に1人だったのか、それだけがどうしても思い出せなかった。
あのとき僕はもしかしたら、里の子と一緒に逃げたのではなかったか。長年の孤独から幻想が湧いては澱んで、僕の心の底をどんどん汚していった。そんなとき、綺麗にするために過去をあえて呼び起こす。浮かび上がってきた汚れを丁寧に、時間をかけて取り除き、僕は少しずつ過去を失っていった。
繰り返しているうちにたくさんのものを失っていった。奪われたのではなく、自分で手放していった。それは必要なことだった。内なる悪を定期的に取り除かねば、僕はいずれ年を取って大人になってしまう。あの卑劣で外道な大人と同じようになってしまう。四角四面に切り取られたハリボテになってしまう。恐ろしかった。それだけを恐れていた。
だから僕は逃げる途中で見つけた手頃な穴倉に閉じこもるのだ。きちんと封をして、自己の時間を保存すべく、外の世界を拒んだ。
持ち込んだ食べ物は徐々に減っていった。確実に僕の体は生気を失っていった。
だが、それが何の問題になるのか。だって僕は、この狭い穴倉の中の王である。唯一の正常極まる存在である。他の干渉は煩わしいだけ、惑わされるだけだ。
間違ってはいけない。なにせ、僕はまだ、正しいのだ。
この細い腕を見てみろ。まるで子どものようじゃないか。子どものように華奢で大人のものとは似ても似につかない。手の甲に頬ずりをして、うっとりした。
この体は完璧だ。そしてこの閉じられた世界も完璧なのだ。
誰も干渉し得ない空間は安楽をもたらした。他者は必ずといっていいほど僕の心に鋭く刃を刺して、平然とした顔をして去っていく。それが、僕にとって他人だったし、大人や大人になりかけの子どもは特にそれが顕著だった。
僕のため、とは、どの口が言っているのだろう。僕はおもちゃでも、心がないわけではないのだ。お人形ではないのだ。それを誰も分かってくれなかった。気持ち悪いくらいに綺麗に揃えられた彼らの常識とやらが僕を非常識と罵ってくるのだ。
それだけなら、まだいい。僕を常識知らずの笑いものにするくらいなら、いくらでもその誹りを受け入れよう。だが、それまでだ。そこから先は受容できない。
限界を超えてしまった。
大人とは、こわくて、気持ち悪い。
恐怖と、他の子と同じようにうまくいかない羞恥心が苛んだ。最後まで僕の味方でいてくれた子ですら、大人になってしまった。
僕の味方はいなくなってしまった。そうなってしまったらもう僕は僕の味方をしてあげなくてはならなくなるのだ。僕だけは僕を守ってやらなければ死んでしまうのだから。殺されてしまうのだから。
僕にとって正しいことは、他人にとって正しくないこと。
僕は許容する。他人の非常識を許容する。
しかし、他人は往々にして僕の常識をせせら笑う。平等も公平も建前も、そこにはない。悲しくて堪らない。きみの常識は、僕の常識ではないことをどうして理解できないのか。
二面性も多面性も知ろうとしないのならば、そこに成長はない。希望もない。
閉じ込めて、閉じ込めて、ひたすらに自分を守って傷を癒やした。
そうしてあるとき気付くのだ。
お腹が減ったことに。人恋しさに。
人は1人では生きていけないと、孤独が訴えてくる。
空腹で知恵の回らない頭で、着々と滲んでくる染みに絶望する。
消えたわけではなく、消えるわけもなく、僕は大人になってしまった。
在りし日の少年の心を失ってしまった。思い出せなくなっていった。
それを喜ぶようになってしまった。変化を受け入れた。大人になってしまった。
僕は正しくもあり、間違っているところもあることを穴倉から出てすぐに自覚させられた。
手足をもぐことと同義であった。昔だったら許せなかった。足掻くだろう。絶叫して逃げてやるだろう。
しかしそれも、もうできないし、やりたくもない。穴倉の中には絶対に戻りたくなくなってしまった。
穴倉の王から、ただの四角四面の大人になることを望んだ。
いつか消えてしまうきみのために、僕は祈る。
きみの正しさが、大人たちの餌にならないことを。
切に。