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その光に視線と意識を持って行かれ……、何か言おうとして口を開きかけたまま言葉を見失ってしまう。そんな俺に対し――もう一人の継承者は普段の仏頂面などかなぐり捨てたような深刻な顔つきで、じっとこっちを見据えてくる。
「……そうね。あなたの疑問に答える手っ取り早い方法があるわ。見せたいものがあるからついて来て」
俺の表情から「継承者は俺だけじゃなかったのか……?」と読み取ったルナは、さっと踵を返し、速い足取りで階段に向かい降りていく。
「お……おいっ。どこ行くんだよ」
慌てて追いかけると、ルナは階段脇の南ゲート入場口へ曲がり通路の暗がりの向こうへと消えていく。……あいつ、どんだけ歩くの速いんだよ……。
「あぁーくそ……ッ。今日はとんだ厄日だな……」
リリーが行方不明の次は新たな継承者のお出ましってか……。どうなってんだ一体……。
不安を募らせつつも俺は意を決し暗がりの先へ足を踏み入れる。
「……こんな人目につかない場所で何を見せるっていうんだ?」
仄暗い最奥に行き着いたところで後ろから呼びかけると、ルナは振り返って言う。
「私の力を証明するのよ」
薄い陰に隠れた表情からはこの女が何を考えているのか察することは無理そうだ。……いや、元よりこいつの考えることなんて何一つわかったもんじゃないが。
「証明するって……何する気だよ」
「集中するから話し掛けないで」
ムッとする俺を無視して、ルナは瞼を閉じ――黙想を始める。
すぐに彼女の周りの空気が僅かに振動し、辺りに神妙な雰囲気が満ちていく。まるでその
身に神が降臨したかの神気を溢れさせながら――左腕を伸ばし、三日月型の紋章に向かって
唱える。
「――我が身に宿りし神力よ。汝の天啓を示せ。我を――導けッ」
「う……ッ!?」紋章から周囲に閃光が迸る。眩しさのあまり眼がくらむ。
一瞬にして光は消え去り――恐る恐る瞼を開けると……。
それは――あたかも最初からそこに存在していたかのように忽然と宙に浮遊した状態で顕現していた。ルナが手を差し伸べると、柔い光りに包まれたその物体はゆっくりと降下していき、彼女の掌の上に着地した。
その姿形は、黒鳶色のアンティークな革張りで装丁された大辞典ほどの厚みのある洋書のようであった。精巧な金の装飾で縁取られた表紙は所々に色褪せがあるものの重厚感のある作りで、中央には表題と思しき記号のような金文字が箔押しされている。
魔術……にも見えなくもないが、〈魔発光〉の輝きとは明らかに異なる別次元の存在が、ルナの掌の上に横たわり異彩を放っている。
「……これは……、ん……?」
右手に感じる感覚にふと眼を向けると――俺の紋章が正体不明の物体に『ただいま』とでも言いたげに二度、三度暖かな光を放って点滅していた。……同じ継承者としての力が共鳴しているのか……?
より一層困惑する俺を余所に、ルナはその不可思議な古書に……何やら熱っぽい視線を送り、小鳥を愛でるかのような手付きで表紙を優しく撫でる。
「〈月導の黙示録〉――これが私がフレースヴェルグから授かった力よ。ここに全ての世界層を救済する術が書き記されているわ」
「んな……ッ!? ほ、本当なのか……それ…………」
飛びつく勢いで迫る俺を、ルナは真剣な眼差しで見つめる。
「私が嘘を吐いてまでここまですると思う?」
「うーん……」
しばし、顎に手を置き一考する。
「…………思う!」
「そう……。あなたが私のことどう思ってるのかよぉーーーく理解したわ」
普段でさえ剣呑なルナの眼つきが三割増しで鋭くなる。やばい……リアルに視線で人を殺せる凶器のレベル……。
「……まあいいわ。簡単に信じ切る人よりかはまだいくらかマシだもの」
ルナはそっぽを向き、空いた方の手をひらひらさせながら言うと、
「そんなことより――これを見て。新たなプロセスが記されるはずよ」
その古ぼけた洋書の向きを俺に合わせて両手に持ち替える。
「え……? お、おぉ……」
触れてもいないのに独りでに黙示録が開き、ページがパラパラと捲れていく。やがて、半ばまで進んだところで止まると、見開きの白紙のページの左上から……何やら羽ペンで書かれたような奇っ怪な記号が左から右へと順に羅列されていき――何故だかわからないが……初めて見るそれを文字だと認識できた俺は自然とその文章を読み上げていた。
「『――二人の継承者が結束することで新たな道は開かれん。来たるべき時に備えて互いの想いを一枚刃にし、迫り来る終焉に打ち勝つ絆を得よ』……?」
何で……文字かどうかもわからないものを俺は読めたんだろうか……。これもフレースヴェルグの力なのか……? この古びた洋書もフレースヴェルグの力で構築されているのなら通じる何かがあるのかもしれないが……。
不可解な現象に思わず片眉を捻り、黙示録から顔を上げルナを見上げる。
一方、彼女は彼女で無表情ながらどこか憮然としたような……、はたまた静かに怒りを燻らせているような……、複雑に絡まった表情を浮かべ、今し方書き記されたプロセスを茫然と眺めていた。
その苦悩する表情さえも、まるで翼をもがれ地に落とされた天使を見ているかのような、どこか哀愁に塗れた麗しさを感じさせなくもないが……。
「……どうかしたのか?」
心ここにあらず……といった様子に心配し声をかけると、彼女の両肩がぴくっと反応する。
「……なんでもないわ。それよりプロセスの続きがまだあるみたいね」
気分を紛らわすかのように白銀の髪を耳に掛ける仕草をしたあとで、ルナは黙示録に記された新たな文字を指差した。
「お、おう……。えーっと……。『来る二十一日後に全世界層の命運は二つに分かれる。闇は玉座の間にて解き放たれ、忽ちに世界樹を枯らす……だろう……。世界を救う希望は、真実の絆のもとに生まれ出づる……。我は最終審判での闘いの果てに、その微かな光を見出す……。約束の日に訪れる災厄を乗り越えれば、世界は欠けることなく安息の一時を迎えるだろう……。もし乗り越えられなければ、全ての世界は…………』」
次の言葉を眼にしたとき――。俺は呼吸の仕方がわからなくなり、咄嗟にエラ呼吸を試みるかの如く頬骨を震わせ……呆けきった口から震える声を零した。
「……光を失い……、め……滅亡、する……? ……な……、何なんだよ……。これ……」
すぐそこで口を広げて待ち構えている最悪の事態に脚が怯え、勝手に二歩、三歩と後退りする。そんな俺を背けるようにルナは眼を伏せ、冷徹に、冷然と言い放つ。
「読んで字の如くよ。黙示録の示す未来では最終審判の最終日――来る二十一日後にユグドラ界を含めた全ての世界層は存続できるかどうかの最終局面を迎えるの。その試練を乗り越えられなければ、これまで保たれてきた世界の歴史もそこで幕を閉ざすことになるわ」
突然告げられた真実に錯乱した俺は茫然自失となり……ただ縋るように目の前に映る少女に訴える。
「嘘だろ……? ……んだよ……っ。それ……っ。まだマナが尽きるまで猶予はいくらかあるはずだろっ」
全世界の滅亡が目前にまで迫ってるっていうのに相変わらず表情一つすら変えない彼女の態度が、俺の焦りをより加速させる。
「飽くまで滅ぶかもしれないってだけの話よ。黙示録のプロセスに従ってあなたと私が協力し合えば、まだ世界を救えるチャンスは残されているわ」
尚も豪語する彼女に、いい加減我慢しきれなくなった俺は苦い顔をして歯向かう。
「……どういうことだよ。訳を知ってるなら教えてくれよ」
ルナは物怖じすることなく冷めた一瞥をくれると、肩を竦め口を開いた。
「さあね……。私は黙示録が語る以上のことは何も知らないわ。ただ一つ言えるのは、全世界層がそんなに簡単に滅ぶ可能性があるとしたら、考えられる原因はユグドラシルを蝕む瘴気に何らかの異変が起きた結果、マナが枯れ果てるってことくらいかしら」
すぐにある憶測が脳裏を過ぎり――ハッとして眼を見開く。
「瘴気が爆発的に増えて……最終審判の勝敗に関係なく世界は滅ぶってことか……」
近年になって瘴気の変動に異常が見られるようになった、ってリリーも確かに言ってたけれど……。
答えを求める俺の視線にルナは頷いた。
「現状の可能性としてはそれが一番濃厚ね。それを阻止するためにも、黙示録の指示通りに私があなたのパートナーになって最終審判を勝ち抜け、訪れる試練とやらに打ち勝つ必要があるのよ」
こいつ……。初めからそのつもりで、俺を…………。
「………………」口元に手を当て冷静に考える。
世界を救いたきゃ最終審判で勝ち残った上で、訪れる終焉を回避する以外に手段はないってことか……。……なんてこった。飛び越えなきゃならないでかいハードルが二つに増えちまった……。
だが……。逆に試練を乗り越えれば、ミズガルドだけじゃなく全世界層を救える。これは……ある意味チャンスかもしれない。
「本当に可能なのか……? 全世界層を救うなんてことを……」
最終審判に参戦した時点で今更後戻りなんかできないことは百も承知だが……ただでさえ世界の生き残りを懸けた茨の道のりを行く俺の頭上から、突如として隕石でも降ってくるかのような漠然とした不安が新たに降り積もる。
まだ自分の力についてすらも把握しきってないのに、ルナの天授した力……この古ぼけた洋書に、全世界層の生きとし生けるものの全ての命運を委ねてしまってもいいのか、と危惧するのは必然な流れのわけで……。
それを察した様子のルナは、閉ざした口の紐を解く。
「この〈月導の黙示録〉は、運命を変える分岐点を予知して私が望む未来へと導いてくれるものよ。言ってしまえば、目的を達するのに最適なルートを予測してくれるものなの。こうやって分岐点ごとに指示される工程をクリアしていけば、最終的にこの世は無事に滅亡から解放され明るい未来が約束された救済ルートに辿り着けるってわけ」
「なるほど……。最短距離を示してくれるGPS機能みたいなもんか……」
「GPS……?」
意味が通じなかったのか、ルナは小さく首を傾げ、ぱちぱちと瞬きをする。
「いや、なんでもない。つまり……ここに書かれてある通りに従って行動すれば、ユグドラシルを蝕む瘴気についても解明できるかもしれないってことだよな」
「あるいは――ね」
依然としてポーカーフェイスを気取る彼女の超然的な態度を目の当たりにし――、先ほどのオーディンとルナがしていた会話がフラッシュバックされる。
――信じる未来、とな……。それは一体、どのようなものなのだ?――
――全ての世界が欠けることなく、これまで通りの平和に暮らせる未来です――
「そっか……。そういうことか……。要は俺を助けたのも黙示録の指示ってわけか」
一瞬。間を置いてから、ルナは憂鬱そうに答える。
「そうね……。それもあるけれど……。私の行動は、全てこの〈月導の黙示録〉に則って決められているの。指示以外の行動を起こすと運命の歯車が狂って、今はまだ助かる余地が僅かに残されている未来も助けられなくなってしまうかもしれないから……」
「このことを公にしてないのも……それが理由か……?」
「ええ、その通りよ。だから、私がこの最終審判に参戦したことも、もう一人の継承者であるあなたと闘い合ったことも――全ては黙示録が導く選択に依るものなの」
『もっとも、肝心なあなたの情報については何一つわからなかったから行き当たりばったりな部分もあったけれどね』とルナが不機嫌そうに愚痴をこぼすのを聞きながら、俺は役目を終えた黙示録が彼女の両手の上で無数の光の雫に変化し霧散していくのを見送った。
何分内容が内容だけに俄には信じられない話だが……俺もフレースヴェルグの力を授かった当事者である。異世界人特有の能力と比べてもその力がいかに異能で特質的であるかはこの身が一番実感している。
だがその反面、やるせない気持ちが胸に重く込み上げてきて……。俺は途端に徒労感に見舞われ、通路の壁を背にしてだらりともたれ掛かった。両腕を組み片方の人差し指で忙しなく二の腕を叩きながら、横目にルナを見遣る。
「……じゃあ何か? 俺と闘った結果自分が暴走する運命だってことも、俺が命懸けでお前を助け出すってことも……、オーディンがお前の辞退を承認するのだって……予め全部わかりきってたって言うのかよ」
もう一人の継承者は浮かない表情で首を左右に振り、否定した。
「黙示録は飽くまで進むべきルートへと誘導してくれるものであって、成功を百パーセント保証してくれるものではないわ。成功するか失敗するかは私たち次第よ。現に、あなたに私を助け出せる実力がなかったら今の私は存在していないし、私が上手く立ち回れていなかったら辞退を拒否されることも、もしくは承認されても強制送還される可能性だって十分にあり得たわ」
それくらい生きるか死ぬかの綱渡りを何度も渡り抜けなきゃ全世界層は救えないってことよ、とルナは表情を曇らせ感慨深く呟いた。
壁に寄りかかったまま、俺もルナを助け出したときのことを思い返す。
「一歩間違えれば死んでたところだったのに……あんな想いを何度もしなきゃいけないなんて……世界救済っていうより地獄に直結してそうなルートだな」
心底辟易した俺が額を押さえてうな垂れると、ルナも気落ちした様子で肩を竦める。
「そうね……。私も『最終審判参戦者の中に魔霧を打ち破れるもう一人の継承者が現れる』なんて黙示録のお告げがなければ、こんな報われない争いに参戦する義理も道理もなかったはずなのに……。初めから目的は争うことじゃなくてもう一人の継承者を探すことだったから、早々にあなたを見つけ出すことができて清々したわ」
「おかしいとは思ってたが……。俺との試合で最初まったく攻撃してこなかったのもそういう事情があったからか」
俺が継承者かどうか見極めるための様子見だったわけだ。あのときは運良くフレースヴェルグの力を覚醒できたから良かったものの……一歩間違えてたらと思うと今頃どうなっていたことやら……。
「いや、でも待てよ……」
ふと、うっかり忘れていたことを思い出し、俺は壁から離れてルナの方へ向き直る。
「ルナも継承者だって言うんなら破邪の加護を授かったはずだろ? だったら魔霧だって破邪の力で浄化できたんじゃないのか?」
ルナは……糸の切れた人形のように俯き……自分の胸元に手を宛てがう。
「それができるならここまで生きることに煩わしさを感じることもなかったでしょうね……」
喉が詰まりそうな重たい言葉をぽつりと零す――その声や仕草から……彼女の核心に近づきつつあるのを俺は予見した。
「この体に流れる魔力は有毒なマイナスエネルギーを帯びていて、本来ならとっくのとうに私の精神は自分の魔力によって崩壊し喰い殺されていたはずだった。……でも破邪の力により穢れた魔力を体外へ放出することでなんとかこうして生かされている状態なの」
「……もしかして……それが、魔霧の正体なのか……」
聞くまでもなく……その虚ろな瞳が『答え』を物語っていた。
「ええ……、そうよ。破邪の力が穢れた魔力から私の精神を庇った結果、存在するだけで他者を傷つけてしまう私という憐れな生き物を作り上げてしまったのよ」
「………………」
絶望を全身で体現する、痛々しい少女の姿に……俺は暫し口を噤む他なかった。
「じゃあ……〈魔素子漏出症候群〉を発症したのも、それが原因で……?」
必死に記憶を手繰り寄せてようやく言葉にすると、ルナは決まりが悪そうな表情で「ああ、あれね……」と呟いた。
「そのことだけれど……。そう言った方があなたを困惑させずに済むと思ったからつい……。私が〈魔素子漏出症候群〉を発症した事実は一度もないの」
「……嘘、なのか……?」
「一応原理的に違いはないからあながち嘘ってわけでもないのだけれど……ごめんなさい」
顔を背け伏し目がちに謝るルナ。
まあ……気持ちはわからなくもない。あの時点じゃルナも俺が継承者だっていう確信はなかったみたいだし、そもそも破邪の加護という他層世界から見ても一般的な能力カテゴリーから外れた異質な力を、どうこう説明したところで一体何人の人間が信じると言うのだろうか。
それに……。きっと彼女は、人と距離を置くことで不用意に相手や自分が傷つくことを避ける生き方をしてきたはずだ。他者との間に壁を設けて自ら孤立する選択をし続けて来たのだろう。思えば……俺と闘ったときも、魔霧の危険性を語った上で降参するように求めてきたのはルナなりの配慮だったのかもしれない。
「そっか……。本当のことを言うのは辛いだろうに……話してくれてありがとう」
「いえ……。こうなった以上は、あなたにも話しておく義務があるから」
やむを得なし、と言った具合に……。ルナはどこか感情を押し込めた調子で距離を置く言い方をする。
魔霧を浄化した今、自由を手にした彼女を隔てるものはもう何もない。なのに……。未だ晴れない暗雲に囚われ続ける姫様がどうしても気に掛かり……俺の心が催促する。
「でももう魔霧は浄化できたわけだし……体の方は大丈夫なんだろ?」
俺のひたむきな視線に、ルナは申し訳なさそうに言葉を詰まらせる。
「えっと……。本当のところを言うと……。あなたの力を持ってしても魔霧をこの体から完全に払拭するには至らなかったみたい」
――わかるの。まだ自分の中で何かが蠢く感覚が…………。
そこにあるかのように胸元に当てた手をぎゅっと握り締めると――ルナは苦しいような、切ないような、俺には到底計り知れない深い闇を抱えた表情で続ける。
「体調はこれまで感じたことないくらいに安定しているし、魔霧に邪魔されずに人と触れ合えるなんて……思ってもみなくて……、正直戸惑いもあるけれど……。これが、いつまで保つかは…………」
「まだ安心しきれない状態にあるわけか……」
魔霧の底知れぬ恐怖に苦しみ続ける少女は無言で頷く。
『すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である』と公民の授業で習った記憶があるが、果たして本当にそうなのだろうか……、とルナを見ていると漠然と思ってしまう。
そんな取り留めのない考えが脳裏を過ぎ去った頃合いで……。ルナはいつもより冷たさの欠けたぎこちない顔つきを引っ提げては――俺を見つめる。
「でもね……あなたがいる限りその心配はないと思う。あなたの傍にいると、これまでずっと止むことのなかった体の中のざわめく感覚が徐々に薄れていくの。――なんだか不思議よね。あなたの破邪の力がそうさせるのかしら」
俺は……、間違いなくこの瞬間に手を伸ばせば、確実に触れられるであろう薄幸の少女の肢体を――今一度隈無く眺める。
清々《すがすが》しいほどまでに真紅に染まった猫目の瞳、絹のような光沢を放つ真っさらな雪化粧をしたストレートヘアー、長い監禁生活で日差しを知らぬ汚れのない白肌。
幻想的なルックスもさることながら、その今にも罅割れてしまいそうな儚げな存在感さえも、尊く美しいもののように俺の眼には映ったが……それが如何に浅はかで残酷なことかを改めて思い知ることになろうとは……。
俺たちとは違う次元で闘っていた彼女に取って、これまで散々苦汁を飲まされてきた魔霧を本当に浄化できるのかどうかが最終審判に参戦する上での焦点だったのだろう。
だがしかし。魔霧を浄化するだけならわざわざ闘わなくたってできそうなもんだが……。黙示録はどうして俺たちを一度闘わせたあとで協力させようとしたのだろうか。なんだか二転三転しているようにも思えるが……。
その疑問に。ルナは殊更何でもないことかのようにさらりと返す。
「フレースヴェルグとの約束で――ある賭けをしたのよ」
「え……」まさかの発言に唖然とする。驚きよりも困惑が先走る。
「ちょっ、ちょっと待て……。フレースヴェルグと会ったことがあるのか?」
ルナは説明するのに少し戸惑いを浮かべた様子で眉尻を下げる。
「会ったというより……直接心に話し掛けてくる感じかしら。今ではその声も途絶えてしまったけれど……、彼は私の教えの親で、私の唯一の理解者でもあったわ」
「やっぱり……あのときの声はフレースヴェルグだったのか…………」
神妙な面持ちで唸る俺に、当人は不思議そうに小首を傾げる。
「どういうこと?」
「いや、俺もお前と闘っているときに心の声が聞こえたんだ。そのおかげで魔霧を打ち破ることができたんだよ」
それを聞いたルナは――何やら思いを馳せるような遠い眼をして――伏し目がちに呟く。
「そう……。あなたにも、声が…………」
何か思うところがありそうな含みだったが、重苦しい反応に下手に話題に触れていいのか悩んだ末……、俺は話しを戻すことにした。
「賭けって……フレースヴェルグと一体何を賭けたんだ?」
いつもなくさずに身につけていた冷然さを、このときばかりはどこかに落としてしまったかのように、ルナは悄然とした面持ちで言う。
「……この体は一定量以上の魔力を使えないように破邪の力で常に抑止されているの。そのリミッターを
……フレースヴェルグが出した条件を満たしたら一時的に解除してもらう取決めをしたのよ」
「……それに何のメリットがあるんだ? そんなのデメリットしか残らないじゃないか」
ルナの体は時限爆弾付きだ。力を使い続ければいずれ暴走した魔力に呑み込まれてしまう。
だから……。単純に、率直に思ったことを口にしたのだが…………。その疑問が……。少女の底なしの闇が封じられていたパンドラの箱を……開けてしまうことになる。
「私が望んだのは、魔力に呑まれることで得られる精神の解放――つまりはユータナジーよ」
「………………」
その言葉の意味がじわりじわりと脳を侵食していく。全身の血の気が見る見る引いていくような感覚に……俺は、声も表情も失った…………。
なぜインタプリターがわざわざフランス語に翻訳したのかは謎だったが……。たぶん、俺の知識の中から一番ニュアンス的に最適な解答だったのが、たまたま知っていたそのワードであったのだろう。
ユータナジー……。和訳すれば、それはつまり…………安楽死。
ただただ『安楽死』という響きが脳内でひたすらに繰り返されてこびり付き……、肯定も、否定もすべからず……、ただただ、彼女の心がどうしようもなく腐敗している、という生々しさが……脳裏に延々と絡まり続ける。
「破邪の加護は継承者を守るための力。だから極限まで追い詰められたときにその真価を発揮する。あなたの右手に宿った破邪の炎――黙示録には『破炎』と記されてあったけれど、それも神の力の一部に過ぎないの。その神髄を引き出すために、私とあなたを戦わせることがフレースヴェルグの目的だったのよ」
重苦しい表情で語るルナの声が遠く……離れていく。ショックを拭えないまま茫然とする俺に、彼女は止めることなく言葉を被せる。
「彼はこうも言っていたわ……。『もしそれでも、君が死ぬことが出来なかったら――そのときは〈月導の黙示録〉に従い第二の継承者に協力すること』。――それがフレースヴェルグの出した条件だった。その約束を果たすために……あなたを助けることにしたの」
賭けに敗れ意図せず生き残ってしまった彼女が、物憂げな顔で事務的に語るのを見て……。
俺は……悟ってしまった。彼女を助け出した際に、記憶の間際に彼女が発した「どうして……?」に続く、その後の言葉を…………。
――どうして……? どうして……っ、死なせてくれないの…………?――
……そうだ。バルバットも……そう、言っていたじゃないか…………。
――あァ? 何か勘違いしてねェか? あいつはそれを知った上で俺と手を組んでんだぜェ? あいつはこうなる覚悟をとうの昔に済ませてきてんだ。そのことでてめェに説教される筋合いはねェんだよ――
なぜ気付けなかったんだろう…………。
俺は……死のうとしていた女の子を……、良かれと思って……そうするべきだと思い……、現世という監獄の檻に、また閉じ込めてしまったのか…………?
自分も味わったあのどうしようもない苦しみを……。『生きていることが絶望だ』と物語る少女の瞳を、この眼にしかと焼き付けてきたはずなのに……。ただ命を救えば、それで全てが解決できるとでも思っていたのか……? それだけで本当に、彼女を心の闇から解放できる、とでも俺は思っていたのか…………?
あの頃の俺と違い……ルナは誰の助けも必要としていなかったのに……。勝手に助けて、勝手に満足して…………。誰かの救世主になりたかっただけなのに……、そのエゴが……彼女の首を絞めていることにすら気付かないで…………。
「何で…………泣いてるの?」
困惑したルナの声と眉を顰めた表情に――。我に返り……自分でも驚きつつも、頬を伝うそれを拭う。
「泣いてなんか……ない…………。ただ……後悔したくなかったからお前を助けたのに……。結局、俺は今……お前を助けたことを……後悔している…………」
顔も見られず……。俯きながらに伝えるが……、とても脆弱で、朧気な声しかでなかった。
そんな俺が哀れに映ったのか……。ルナは、しおらしく……言葉を紡ぐ。
「そうね……。いずれまた……その選択があなたに辛い役目を背負わせてしまうかもしれない…………。でも――」
そこで区切ると、彼女の口から……らしくなく、慈悲に満ちた想いが零れ落ちる。
「あなたが罪の意識を感じる必要は何一つない。自分を信じて正しくあろうしたのは……私にもわかる…………。それにこれは……、私とフレースヴェルグの問題だから……何も知らなくて、当然だもの……。あなたはただ…………勇敢であっただけよ」
それとこれとは別だ、と。そのことで俺が悔い悩む必要はない、と――そう告げる。
「むしろ世界を救おうと真剣に闘っているあなたを私情に巻き込んでしまって申し訳なかったわ……。……ごめんなさい」
悪いのは私の方よ……。自分を悪く思わないで…………。
そう言い足して。優しく俺を……蚊帳の外に追い遣る。
己に対しての後悔や無力感や失望、ルナに対しての憐憫や遺憾や絶望……、などのあらゆるものがぐちゃぐちゃに雑ざって膨れ上がったものが、俺を押し潰さんとのし掛かってくる。
その重みを。彼女は自分の背に移し替えようと試みる。
だが……。
「……違うんだ……。そうじゃ、ないんだ…………」
「………………」
責任転嫁にも等しいその自己犠牲を……俺の心が拒絶する。
これは……。俺の身から出た錆だ。
俺が背負うべき『人の業』なんだ、とそれを頑なに否定する。
…………やっと、俺にもわかったよ、フレースヴェルグ。お前が俺を選んだのは……この瞬間のために、この言葉を言うために、意味があったんだな…………。
意を決し……顔を上げた俺は、どこか切なく……苦しそうに眼を細めた少女の……、未だ温もりを知らぬその紅玉の瞳に――真っ向から立ち向かう。
「……関係なくなんか、ないんだ……。お前が生き残っちまったのは……フレースヴェルグが俺の願望を形にしようとしたからなんだ……。俺も……お前と同じ継承者だから……。俺は昔っから……誰かを助けて……そいつのヒーローになりたかったんだ…………。お前は、不幸にも選ばれちまったんだよ……。俺がヒーローになるための……人柱として…………。お前を巻き込んでしまった責任は……、生かしてしまった責任は…………俺にある」
驚きに眼を見張る彼女の――その冷え切った両手を握る。
そして。これまで果たされることなく胸の内で燻り続けた想いを……、今度こそ、魂の求めるがままに――声にする。
「お前の抱えている重みを、俺も一緒に背負う。……だから……お前はもう、独りじゃない」
「………………」
ルナはその場に凍りついて止まってしまった。表情は相変わらず無機質の塊だが……今までとは打って変わり、その瞳があるべき人としての灯火を取り戻していくかのように……色めいて見えた。
――やがて。彼女は静かに崩れ落ち……ぺたん、と地べたにへたり込んだ。
力なく震える手で俺の手を握り締め、俯いて顔も見せぬまま……凍えた声で、消え入りそうにささめく。
「ありが……と…………」
その微熱を帯びた言葉に。ルナの心に吹き荒んでいた吹雪が止み、永遠かと思われた長い冬が終わりを告げて……ようやく、固まった雪がゆっくりと解け始めていく気がした。




