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予期せぬルナの登場に、会場はがやがやと慌ただしくなる。試合の進行が中断され……、当然ながら、観衆の興味は東側中央最上段の放送ブース一点に釘付けになった。
俺も困惑を募らせ放送ブースを見つめたが……、ここからではブース内がどうなっているのか、いまいち状況がわからない。スピーカーから聞こえてくる音声のみで様子を探るしかなさそうだ。
「どぉ、どうやって入ってきたんですかぁ……?」
「警備隊はどうしたんだっ。何をやっているっ。早くこいつを摘み出せっ」
「外にいる彼らなら少しの間眠ってもらっているわ」
「なんだと……!?」
「あとさっきも言ったけれど、このブース全域に結界を張ったから誰もここには入って来れないわ。因みにテレポートの類いも一切弾くことのできる優れものよ」
「き……貴様……ッ。ふざけるな……ッ」
ガダガダ、と荒々しい騒音と共に、ブース内で二つの人影が取っ組み合う様子が辛うじて見えたが――言わずもがな、軍配はルナに上がり、取り押さえられたフレイヤは呻き声を上げるしかなかったようだ。
「ぐ……ッ。正気なのか!? 審判である僕に対してこんな暴挙は許されないぞッ」
「先に手を出したのはあなたの方ではなくって?」
「何を言う……っ。そっちが先だろ!!」
「別に争うために来たんじゃないわ。私は単にあなたに折り入ってお願いがあって来たのよ」
「僕に、お願いだと……?」
「そう。審判であるあなたに、お願いがあるの」
「え、えぇ~とぉ……。そぉ、そういうことならぁ、お二人のお邪魔にならないようにぃ、あ、あたしはぁ……外で待ってた方がいいんじゃないかなぁ~……なんてぇ……」
「あなたにもいてもらうわよ」
「いやぁぁ~っ。ここから出してぇぇぇ~っ。あたしは野蛮なフレイヤちゃんと違ってぇ、か弱い普通の女の子――うひぃっ。ばっちぃ~っ。姉に唾飛ばすなんて最低で~すぅっ」
……あの二人は相変わらず、何をやってんだか。
その光景に見兼ねたのか……、ルナが口を挟んだ。
「安心して。これ以上手荒な真似をするつもりはないわ。ただ試合が始める前に話をつけるにはこうする以外に思い浮かばなかったの。話を聞いてくれればちゃんとあなたたちを解放するから……少しだけ私に時間をくれないかしら?」
その言葉に。フレイヤが一触即発しそうな緊迫感を漂わせながら食い下がる。
「……なら、まずその手を離せ。ヴァナの民はそういう態度で人にものを頼むのか?」
「どうかしらね? 手を離したら聞いてくれる、と言うのなら別だけども」
挑発的なルナの態度に、暫しの間フレイヤは逡巡したようだったが……。やがて渋々と、押し殺した声で承諾した。
「…………わかった。聞くだけならいいだろう」
「ありがとう。そう言ってくれると信じていたわ」
「ふん……白々しい。……正し念のため、何かあったら外にもわかるようにマイクは切らずにおくぞ」
「そうね。私としてもその方がありがたいわね」
……どうなってるんだ? 何やら殺伐とした雰囲気だが……。いや、そもそもあいつと絡んでも殺伐とせずにいられるのはリリーみたいな人格者だけだろうが…………。
ただ、ルナと一度闘った俺から言えるのは、あいつもバルバットと同等か、それ以上に予測不可能な謎めいた剣呑さを孕んでいるのは確かなことだ。
何やら一波乱起きそうな予感に雲行きを案じ始めた俺は、引き続きルナの動向に注意を傾ける。
「まずは話をする前に……押し掛けておいてなんですが、この場を借りて私からこの場にいる皆様へ謝罪の言葉を言わせて下さい。この度の試合では多大なご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます」
無事に発言権を得た彼女の言葉は、謝罪から始まった。
「お願い……というのは、そのときの試合で私はそこにいる彼――カドフジ・ハルミに、命からがら助けてもらった大きな借りがあります。――だから、その借りを返したいんです」
まさか……。あいつ、恩返しのつもりでこんなことを……? だが……。この切羽詰まった状況をどう覆そうと言うのだ? ……何か妙案でもあるのか?
いやしかし……。だからって放送ブースに単身で乗り込んで占拠しようだなんて……大胆不敵にもほどがあり過ぎる。恩を売るつもりでルナを助けたわけじゃないが……それがよもや、こんな事態に発展するとは誰も思うまい。
「私の暴走を彼が止めていなかったら、今頃もっと多くの被害が出ていたかもしれません。あの惨事の中、奇跡的に大した怪我人も出ずに済んだのは、偏に彼の尽力があってこそだと思います。カドフジ・ハルミには……。心からの感謝と……、私が言うべきことではありませんが――最上級の称賛を贈ります」
………………。
その言葉が……。俺の心のどこかに根付いていた、結局自分は独り善がりで己のエゴを満たしたかっただけではないのか、という柵みを……根刮ぎ払拭していく。結果的に、その想いが誰かを救ったのだとしたら……きっと、悪いことではなかったんだろう。
斯くして。
不本意なスピーチを静観することになった会場には……なんとも言い知れぬ微妙な沈黙が流れていた。
だがやがて。どこからか、ぱちぱち……、と拍手の音が一つ上がると、それが引き金となり、また一つ、また一つ……、と伝播していき、やがて会場全体が喝采に満ち足りた。
「ピューッ」と指笛を鳴らす音に混じって、「ありがとう」と頻りに叫ぶ声や、「ミズガルド人のこと見直したぞー!」「勇気に感動したわ!」等の称賛の声も端々に聞こえてきた。
この上ない瞬間に……呆然と立ち尽くす。背水の陣の真っ只中にいることが一瞬頭から飛び抜けるほどの強い充足感に……、ようやく嘗ての自分が思い描いた理想像に一歩近づけた喜びが湧き上がってくるのを、この身に感じていた。
喝采が鳴り止まぬ中。意図のわからぬ言動にフレイヤは業を煮やしたのか、
「……君の目的は何だ? 一体我々に何をさせるつもりなんだ……?」
痺れを切らし苛立ちを募らせた声で割り込んだが、ルナは持ち前の陰りの孕んだ口調で、
「目的……。そうね。強いて言えば……もっと端的なものかしら」
これから何かしようという意気込みを、まったく感じさせぬ熱のない返事で受け流した。
「……一体、何だと言うのだ?」
フレイヤの問いに僅かな沈黙が流れる。目に届く距離で行われている緊迫感が、会場にも浸透し……、緩みかけていた会場全体の空気が、途端にまた張り詰める。
場内に風が吹き――。やがて、凜と響いたルナの一声が、声を失った観衆を――凍りつかせた。
「私に――リリーの代役をやらせて頂戴」
………………。唖然としたのは言うまでもない。
いやはや……。流石にそれは無理がある。ルナと俺の試合はもう終わったとはいえ、俺たちが争い合う立場であることに変わりはない。今後の試合結果に左様し得る干渉を審判員であるフレイヤが許すわけがない。
先ほどとは打って変わって周りからは、ざわざわ、と頻りにどよめく声が上がる。大半は困惑する声だったが、次第に「何言ってんだ」「ふざけんな」等の野次も飛び交い始め――終いには大声で嘲笑する者も現れた。その一人は、北ゲート脇の階段前で様子を窺っていたヴァイスであったが……。
藪から棒な話に、フレイヤも辟易として口を開く。
「こいつは驚いた……というより、呆れた話だな。渡してあったルールガイドを読んでないのか? ――最終審判規定第十七条、試合外に於ける禁止事項『選手同士の接触又は選手に干渉し得る行為、勝敗に左右する不正及び悪質な行為、その他それらに準ずる行為を禁ずる』――と明確に定められている。……こんなこと、わざわざ説明しなくてもわかるはずだが?」
嫌気混じりに適切な指摘をする……が、
「そう。じゃあ代表者じゃなければ問題ないのね。――なら、今この場で……正式にヴァナ界代表者の辞退を申し出るわ」
ルナは尚も事もなげに、あるまじきことを……淡々と口にした。
直後に。ヴァナ界支部方面の席から息を呑むような小さな悲鳴を耳にした。
「な……? なぁ……ッ!?」
予想外の返答に。フレイヤは開いた口が塞がらなかったのか、硬直し言葉が続かなくなった。斯く言う俺も、その常識破りの突飛な発言に、一声も発せず、発せられずに……、あまりの動揺で視界が揺らぐ中、ただ延々と、放送ブースを見つめ呆けた。
誰一人として予想していなかった展開に、終始ざわついていた会場も時を忘れ……皆が皆、固唾を呑んで見守っていた。
「……どぉ、どぉするの……? フレイヤちゃん?」
「う……。いきなり何を言い出すかと思えば……。パートナー変更の実行権は各支部のゲートキーパーに委ねられていることを、君は知らないのか……?」
動揺を隠せない姉妹に、ルナは歯に衣着せぬ言葉を被せる。
「別に正式なパートナーになろうってわけじゃないわ。ただこの一試合だけ代役を果たせればそれでいいの」
余りの潔さに……ますます、ルナという人物の本性がわからなくなる。……本当に俺を助けるためだけにそこまでやる価値があるかと言ったら、当然、答えは「ノー」だ。俺を助けようとしてくれている奴にこんなことは言いたくはないが、はっきり言って常軌を逸している……。それこそ本末転倒もいいところだ。
翻弄され続けたフレイヤも、ルナの尋常さが自分の想定できないレベルに達していることを察し、声を震わせる。
「……ほ、本気なのか……? たった一回限りの代役で出場するために、自分の世界を見捨てるなんて……イカれてるぞ……ッ」
「もちろん、正気よ。それだけの覚悟がなければこんなことしないもの」
さらりと間髪入れずに答えるルナに、いよいよ以て、フレイヤは停止を余儀なくされた。
十秒以上に及ぶ重苦しい沈黙が続き、ここぞとばかしに観衆が騒ぎ立てる。波乱に満ちた場内に木霊する約一万人の入り乱れる声が、喧騒に呑まれた俺の脳髄を揺さぶっては棒立ちで突っ立ったままの両脚を頻繁に突き動かそうとする。
思ってもみなかったことにすっかり放心してしまったが……、突如として牙を剥いて襲い掛かって来る恐怖に追われるがままに、慌てて踵を返し、サポートスタンドへと続く入場ゲート脇の階段へと走り込む。
あいつは一体全体何考えてんだ……っ。自分の世界を守るために最終審判に参加したんじゃなかったのかよ……。なんとしても、辞退だけはやめさせなければ…………っ。
グラウンドを囲む壁はとてもよじ登れるような高さではないが、周りより一階分くらい高い位置にあるサポートスタンドから客席へ飛び降りれば放送ブースへ辿り着ける。結界とやらで傍に近づくだけで精一杯かもしれないが……何もしないでじっとしているよりかはまだマシだ。
そう思い――、階段を駆け上がって放送ブースを一直線に目指し、行く手を遮る腰ほどの高さの塀に手を掛けた――瞬間。
即座に現れた透明の防壁が、それを阻止する。
「……くそ……っ。なんだってこんなときに……ッ!!」
無慈悲にも……プロテクトの壁が立ちはだかり、その不可視の壁に両手の拳を何度も叩きつける。
「なあ……! 待ってくれ……っ。俺の話を聞いてくれ……!」
こんなところでうな垂れている暇はないっていうのに……。だが他にどうすれば……。プロテクトの遙か向こう、ガラス張りの放送ブースに微かに見える人影を、ただここから無力に眺めることしか、俺にはできないのか……?
「……仮に君が代表者から外れたとしても……やはりリリーから直接推薦がなければ、我々も君をパートナーとして出場させることの判断は……しかねる…………」
ようやく。尻窄みになりながらも再起動したフレイヤが答えを見出すと、ルナは依然と超然とした態度で次の手を畳み掛ける。
「つまり、あなたの独断では決められないってわけね。だったら……そうね。あなたの上官が認めて下されば問題ないかしら?」
「何……ッ」
不躾な言い草に。怒りの余りフレイヤの声が裏返るが、ルナは飄々《ひょうひょう》と続ける。
「となれば――心当たりがあるのは……この世界で唯一の絶対的な権力を誇る人物――オーディン王、彼だけね」
横暴な発言についに我慢の限界を達したフレイヤが、荒々しく噛みついた。
「貴様……ッ。オーディン様と直談判しようだなんておこがましいにもほどがあるぞッ」
「滅相もないわ。でも私が代表者を辞退するとなったら、どちらにせよ、この場でオーディン王から認可を受ける必要があるのではなくて?」
追及を受けたフレイヤも妥当と判断したのか、口籠もり……、後に硬い声で聞き返した。
「……正気で本気なのか……?」
「当然よ。何遍も言わせないで」
「……先に言っておくが、仮にも辞退が承諾されたら、君はもう最終審判とはなんら携わりのない部外者だ。そうなれば、即刻退場どころか最終審判に関わる一切の記憶を抹消され、ヴァナ界へ強制送還される可能性だってなくはないんだぞ――それでもいいんだな?」
「ええ。彼を助けるチャンスがあるのなら全てを捨ててもいいわ」
気づけば――、俺はプロテクトの防壁に両手をつけながら、無意識に首を横に振っていた。
やめろ……。俺はそんなこと……望んでない……っ。ヴァナ界の人々の命を俺一人のために犠牲するわけにはいかない…………っ
ルナの頑なな意志に、フレイヤは観念したように口を開いた。
「ルナ選手……。君はもっと利口な人だと思っていた。――わかった。辞退の件、了承しよう。早速だが……これからオーディン様にご報告する――いいか? くれぐれも無礼のないようにな」
「ありがとうフレイヤ。こんな私でも一応王族だから礼儀は弁えてるつもりよ」
返す言葉もなく、フレイヤはうんざりとした様子で溜め息を一つ吐き、「緊急通信――オーディン様に繋げ」「チャンネルはスクリーンに」と、ボイスコマンドを実行した。
会場を見回すと――この闘技場には巨大な仮想スクリーンが最上段の観客席の外周を一周するように設置されているのだが――放送ブースと対面する西側のスクリーン一面に、なんとも厳しい男の顔が浮かび上がるのが見えた。
頬肉を削ぎ落とした顔に、左眼には眼帯をつけた如何にも厳つい面構えなのだが……、その上更にロマンスグレイの総髪と、額に刻まれた皺の数、そして赤銅のような赤褐色の肌がその貫禄をより濃く、強固なものにしている。王者の風格を漂わす襟の立った赤いマントを纏っているが、男の肩から下は見切れていて全貌まではわからない。
先ほどまでは騒々しかった観衆も、一転して皆一同に仮想スクリーンの方へ向き直り右手で敬礼する。一瞬にして静粛な雰囲気に呑まれ、俺は一人取り残されたアウェイ感に戸惑いの色を隠せず、唖然として立ち竦んだ。
「――オーディン様、早急の用件で緊急回線にて失礼致します」
フレイヤの問いかけに、その初老の男性が口を開く。
「うむ。しかと見ていたぞ。事情はわかっておる」
それなりに年老いた響きの低く嗄れた声が、仮想スクリーン越しに響いてくる。
オーディン……。俺の記憶に間違いがなければ……その名が意味するのは、グラズヘイム機関の最高責任者である、ということだ。
この男が……、最終審判を…………。
本音を言えば。俺の中でのオーディンに対する心象はあまり良いとは言えない。ユグドラシルを守るためとは言え、世界層の三分の二を切り捨てることに決めた人物だ。元々管理される側の立場上、俺たちに文句を言える筋合いなどないのかもしれないが、それでも釈然としない感情が、依然として胸の内に引っかかったまま晴れないでいる。
だが……。やけに気分が重苦しく感じるのは……きっと、その所為だけではない。
俺は上空に位置する仮想スクリーンを見上げた途端、急激に自分の体が十字架に磔られているような……、緊縛されているかのような、奇妙な感覚に陥っていた。
オーディンの血の気を微塵も感じさせぬ鉛染みた金属質の光沢を放つ瞳から、全てを凌駕した圧倒的支配力で、見る者の全てを掌握するような神通力が迸っているようだった。
それはまるで……、ルナや俺、控え室でこの放送を見ているであろう代表者たちの、全身を……、心を……、拘束しようとしてくるようであった。
「挨拶が遅れたな、代表者たちよ。我が名はオーディン。全世界層とこのユグドラ界を管轄しているグラズヘイム機関の総裁である」
視線を合わせるだけで自ずから屈服しそうになるオーラを滲ませながら、オーディンは右腕を上げ、貫禄を見せ示すかの態度で放送ブースを指差した。
「そこの娘――ルナ、と申したな? ミズガルド界とは無関係であるそなたが、何故それほどまでにミズガルド界側に肩入れをするのだ?」
今度はオーディンに対面する東側のスクリーンに名指しされたルナの姿が映し出される。
前試合と同じく、白いトップスのビスチェドレスに、黒のベストを羽織った装いで、投影された姿は上半身までであったが――こないだ振りに見るその体には、魔霧に蝕まれたことによる後遺症や、常時 燻るように発していた〈魔発光〉の紅い煌めき……は見受けられず、至って健康そうであった。
画面からは見えないが、ルナはスカートの裾を摘まむようにし、オーディンに対し丁重なお辞儀をした。
「お初にお目にかかります、オーディン王」
そして。額を上げると、これから葬儀でも始まるのかという物静かな会場を、一声でなぎ払った。
「私の信じる未来がその先にあるからです」
「…………」
どういう意味かさっぱり理解できなかったのは俺だけではなかったらしく……。客席のあちこちで――特にヴァナ界支部方面の席で反響が大きかったが――波紋を呼ぶ結果となり、周囲の人々と囁き合う様子が眼に届いた。
かのオーディンですら眉間に皺を寄せ、訝しさに片眉を釣り上げる始末だ。
「信じる未来、とな……。それは一体、どのようなものなのだ?」
オーディンの貫通力を伴った冷厳な視線を、ルナは一心不乱に見据えながら、
「全ての世界が欠けることなく、これまで通りの平和に暮らせる未来です」
真摯な面持ちで、そう言った。
……言っていることの意味はわかる。わかるが……、わからないのはあいつの真意だ。
俺を助けることと、ルナの信じる世界平和がどうやったら結びつくのか……。今更滅びゆく世界同士、争い合うのはやめて仲良く博愛主義を貫こう、とでも……?
だとしたら、この世に待っているのは平和じゃなく滅亡だ。この場に不適切なルナの発言に、思わずインタプリターが翻訳を間違えたのかと疑ったぐらいだ。
……最終審判に縋る以外世界を救う術なんてない。終焉の刻を定められた未来でも、後世に一縷の望みを託すためには、限られた命の糧を求めて争い合うしかないんだ――それが俺たち、代表者に残された唯一の選択だ。
なのに……。この期に及んで、あいつはまだ……運命に抗おうとしているのか…………?
「誰一人、何一つ失わずに済む世界で、最終審判とは対極にある未来です」
ルナが淡々と続けると、大衆のどよめく波が大きくなり――、これには流石のオーディンも眉間の皺をより深く刻むしかなかったようだ。
「ふむ……。仮にも最終審判に出場している代表者の口から、そのような絵空事が飛び出すとは思わなんだ。そなたは最終審判に参加した上で、最終審判の在り方を否定するわけか?」
その清閑な物言いとは裏腹に、肺を握り締められているかのような、厳かなぴりぴりとした威圧感を感じずにはいられなかった。これがグラズヘイム機関の最高責任者として君臨する者が為せる威光か。
だが……、その息苦しくなるほどの威圧に屈することなく、ルナは「はい」と気丈な声で受け答え、
「私は私のやり方で世界を救います。ここで彼を助けることで、その道が標されるはずです」
非情にも……毅然たる態度を一貫した。
僅かな間。オーディンは顎を擦り一考する素振りを見せ――何故だか俺には、その厳格な
表情の裏で心を躍らせているような……まるで『この瞬間こそ』オーディンが待ち望んでいた顛末のように思えたが――やがて微かに口角を吊り上げ不敵な笑みを零すと、
「ならば――、そなたの信じる未来とやらの可能性を、我が眼にもしかと刻まさせてもらおうか」
その鈍く光る右眼に、ルナを試すような、はたまた器を量るような、好奇の色を灯らせながら、審議の末を宣告する。
「我がオーディンの名の下に命ず――今この時をもって、ルナ・ソウルズ・グランバルジュをヴァナ界代表者から解任する。これにより、既に行われたヴァナ界とミズガルド界の代表戦については、勝敗を取り消し無効試合とする」
神の鉄槌にも勝る、覆ることなき決定事項が公布された。
「――ルナよ。これでそなたを縛るものは何もない」
オーディンはそう告げると、
「あとはそこのミズガルド代表者と話し合い、結託するなり好きにするが良い」
今し方の出来事を現実として呑み込むことができず、愕然とした表情で仮想スクリーンを見上げていた俺を一瞥した。
「オーディン王、あなたの寛大な御心に感謝致します」
ルナが丁重にお辞儀で答えるのを見届けると、オーディンは『フレイ、フレイヤよ。あとの進行は任せたぞ』とそれだけ言い残し、スクリーンはデフォルトの黄緑色に点滅する画面へと切り替わった。
中継が終了し、双子姉妹の手元に沈黙を続ける会場の指揮権が返却されたが、予想を裏切られひどく困惑しているのは彼女らも同じで……。
「えぇぇぇ~っとぉ……。わ、我々もぉ、おおぉおオーディン様から仰せつかったことに関しましてぇ~……こ、このあとのぉ、試合変更等のぉ……」
「――ええい! トロい!」
「あうぅ……っ」
「我々も試合のプログラムを変更するために協議する時間を頂きたい! しばし作戦タイム――各自自由時間!」
フレイから無理矢理バトンタッチしたフレイヤが急き込んで締め括ると、ブチッと音声は途切れてしまった。
もう場内の騒ぎを止める者は誰もいない。一万もの様々な驚愕、狼狽、罵声、悲嘆、憶測が飛び交い渦巻いて嵐になる。はっきり言って試合を行うどころの騒ぎではない。
もう……何もかも手遅れだ。本人があの様子じゃおそらく俺が何を言っても発言を撤回する気なんて毛頭ないだろうし……。撤回して謝罪させたところで、果たしてルナを代表者に戻せるかどうかも疑わしい…………。
途方に暮れた俺が頭を掻きむしる最中――。
すぐ数歩先の目の前に。空中に固定されているかの如く浮遊した、人が一人潜り抜けられそうなくらいの穴が、忽然と空間に穿たれて姿を現す。穴の先は、紫色に煌めく渦潮のように螺旋を描いて瞬き……、まるでそれは、異次元へと繋がっている入り口にも見えた。
そして――、その穴の中から。一人の少女が、颯爽と現れる。
「随分と暗い顔をしているのね。お邪魔だったかしら?」
ルナの体が完全に穴から通り抜けると、その穴は消失して見えなくなった。
慌ただしくどよめきが鳴り止まぬ中。俺は息づく間もなく急き立って、その白い両肩を鷲掴んだ。
「……痛いわ。離して」
顔色一つ変えずにルナが抑揚なく抗議するのを無視して……声を荒げる。
「何考えてんだお前ッ! 自分の世界が滅んじまってもいいのかッ! お前だって……世界を救いたいんじゃなかったのかよッ!」
こいつはそんな簡単に自分の世界の人たちのことを割り切れる奴なのか……? 失望にも似た憤りでいつにもなく熱くなる俺に、ルナは努めて冷静な表情で言う。
「私がなぜこんなことをしたのか……きっと、あなたには理解できないんでしょうね」
「当たり前だろ……ッ。どういうつもりなんだよ……ッ。こんなの……間違ってるだろッ」
本心の見えぬルナの澄ました顔に、顔を迫らせまじまじと睨みつけるが……、躊躇いなく見返してくるその紅玉の瞳は、一切の感情の色を灯しておらず……、ただ無情に時間が浪費されただけだった。
「その理由の全ては――これが示してくれるわ」
やがて。ルナは落ち着き払った声でそう言って……、未だその白い肩を掴んで離さない俺の右手の指を、左の手で優しく包み込んだ。
瞬間。不意に過ぎったある予感が、ドクン、と鋭く心臓に突き立った。
「……何を……、言ってる……?」
得も知れぬ胸がざわつく感覚に……。意表を突かれた俺は、ルナの両肩から剥がれた手をゆっくりと引っ込める。それを……咄嗟に彼女の両手が、俺の右手を掴み引き止める。
彼女は黙したまま、自身の左手を、俺の右手に合わせ……、二人の間で互いの指と指が絡まるように繋ぎ合わせる。
「……こ、これは……」
即座に。俺の右手の甲に――、あれ以来影を潜めていた太陽印の紋章が、再び浮かび上がり淡い光を発し始める。
だが……。それよりも…………、
「……お前……、それって…………」
繋ぎ合わさったルナの左手の甲もまた……、俺の右手と共鳴するように……同様の淡い光を発していた。
「その刻印は、フレースヴェルグから力を受け継いだことを証明する継承者としての証よ」
鋭く真剣味の増したルナの声が俺の鼓動を急速に急かす。体中を戦慄させる言葉に動揺を隠しきれず、瞳孔が激しく揺さ振られる。
「……どういうことだ…………。なんで、お前が……そんなことを知っている…………?」
かろうじて。掠れた声が口から漏れ出ると、
「知ってるも何も……、私も選ばれたのよ――フレースヴェルグにね」
そう言って――、ようやく繋ぎ合わした手を解き、ルナは自分の左手の甲を見せ示すように手を上げた。そこには……三日月の形に刻まれた紋章が、ぼやけた光を放っていた。




