古典的恋愛事情
今来むといひしばかりに長月の
有明の月を待ち出でつるかな
《素性法師》
「すぐに行くよ」とあなたが言ったから、秋の長い夜を、有明の月が出るまで待ってしまいましたよ
「今日の約束、行けなくなった。今度必ず埋め合わせする。本当にごめん…」
電話口から聞こえてくる彼の声
「仕方ないよ、仕事でしょ?私の事は気にしないで。お仕事、頑張ってね。」
なんて気の利いた言葉、私が言えるはずもなく
「この前も同じ事言ってたよね?ねぇ今度っていつ?この際だから私なんかやめて仕事を恋人にしたらいいんじゃない?」
そう言って電話を切った私を襲うのは後悔と涙だった
私はあんな子供みたいなことを言って彼を困らせたかったんじゃない
でも不安になったんだ
このまま付き合っていけるのか
私は彼に相応しい女なんだろうか
色んなことを考えた
考えたところで答えは出ない
電話を切ったときには夜空に浮かぶ月が見えたのに、いつの間にか夜が明けていたようだ
見上げた有明の月が滲んで見えた
***
そろそろ街が動きだそうとする頃
徹夜で資料を作り終え、会社を後にする
いつもなら家に帰ってシャワーを浴びて一眠りするところなのだが
今日は家とは違う方向を目指す
預かっていた合鍵で中に入ると
薄ぼんやりと部屋の様子が見えてきた
ベランダに続く扉の前に求めていた姿があった
彼女は体を小さく縮めて椅子に座っていた
こちらに背を向けているためその姿は見えないが、肩が規則正しく上下しているからたぶん寝ているのだろう
音を立てないように注意して近づくと、案の定彼女は寝ていた。
いつも見るのと変わりない寝顔だ
だがその目尻には泣いたあとがあった
泣かせてしまったのか
そう思うと申し訳ない気持ちと、大きな不安が湧いてきた
とうとう愛想をつかされたんじゃないか。
別れを告げられても仕方ないことをしている自覚はある
でも心のどこかで彼女が待ってくれていることに甘えていたんだと思う
彼女がいつまでも俺を待ってくれる保証なんてどこにも無いのに
もしかしたら彼女が目を覚ました時が、別れの時なのかもしれない
それならもう少しこの寝顔を目に焼き付けておきたい。柔らかい髪の感触を味わっていたい。
***
誰かが頭を撫でている感触で眠りから覚めた
目を開けなくても分かる
こんな風に優しく触れてくれるのは、たった1人しかいない
「玄親…」
そう恋人の名前を呼ぶと、今まで触れていた手が退けられ、心なしか寂しい思いがした
「すまない、起こしたか?」
目を覚ました恋人が俺の名前を呼んだ
いつもならその澄んだ声が俺の名前を呼ぶたびに柄にもなく嬉しくなるのに、起きてほしくないと思っていた今は、魔法が解けたみたいに少しがっかりしている自分がいる
***
しばらくの沈黙が二人を包んだ
口を開いたのは男のほうだった
「その…本当にすまなかった。」
「今日は謝ってばっかり。」
「情けないことに、その通りだ。俺はお前に愛想つかされても仕方ない。
そばにいるのが他の男だったら、お前はもっと幸せになれるのかもしれないな。」
嘲笑とともにそう言う玄親
「…見くびらないでよ。」
「ん?」
「だから、私が玄親を想う気持ちを見くびらないでって言ってるの。
私は徹夜で疲れてるのに私のところに来てくれる、あなたが好き。なんでも一生懸命で夢中で働いてるあなたが好き。
言葉じゃ表現できないくらいまだまだ好きなところはあるけど、とにかく私はあなたが好きなの。あなたじゃなきゃダメなの。
私、あなたに似合う女になるから、だから他の男ならとか言わないで…」
そう言って涙を流す恋人を抱きしめる
「今まで決心がつかなくて、いや自信が無くて言えなかったんだが、俺の話を聞いてくれるか?」
「なに?」
鼻声になりながら聞く恋人を愛しそうに見ながら言う
「正直今回ばかりはお前が目覚めたら別れようって言われるんじゃないかとビビってた。でもやっぱりダメだ。お前が俺以外の男のところに行くなんて考えられない。
俺の帰るところはお前のところしかないんだ。そんなの俺のエゴだ、分かってる。でもずっとそばにいてほしい。
だから、梢…結婚してくれないか。」
「…ずっと待ってた。」
「これからも待たせるかもしれないが、それでもいいか?」
「今更言うまでもないでしょ」
こうして二つの影は有明の月に照らされ重なった。
「すまない、今日はまだ帰れそうにない…」
そう電話口から聞こえてくる声
「今日は、じゃなくて、今日も、でしょ。もう遅くならないって言ったのに…」
「本当にすまない…結婚記念日なのに…」
「どうせまた断れなかったんでしょ。そんなあなたを好きになったのは私だもの。ただこの代償は大きいわよ。」
そうおどけて言うと電話の向こうで苦笑しているのが分かった
「先に寝ていて構わない」
「今日は月が綺麗だから、起きて待っているわ」
今夜は中秋の名月だ。月見でもしながら待とう。
「寝不足は体に悪いだろ。その…お前1人の体じゃないんだから…」
「心配してくれるの?なら早く帰ってくることね。」
「…分かった。出来るだけ早く帰る。だから体を冷やすんじゃないぞ」
そう急いで言って電話を切った彼がどんな顔をしていたかを思うと、自然と笑みがこぼれた
綺麗な月を見上げながら、彼を思う。
最近心配性になった彼は、何かと世話を焼く。
重い物は持つな、体を冷やすな
それはもう煩いくらいに
でもそんな彼が愛しくて仕方ない
さて一体
どんな顔をして帰ってくるのかな
月見酒でも用意して気長に待つとしよう
かつてあなたを待ち続けて長い夜を過ごしていた頃を懐かしく思う
同じ長月の夜でもあなたとこれからやって来るもう1人の家族に思いを馳せれば、綺麗な月を味わう暇もなく、あっという間に過ぎていくのだろう。
今回は月にちなんだものを。
といっても月を題材にした短歌は多いです
それほど古典の時代の月は綺麗だったのでしょうね。