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.キュウ / 養花天。

 淡く色付いたあの碧落を、いつか切り裂けはしないかと時折夢想した。

 いつだって、その背を、追い掛けた。

 手を伸ばして手繰り寄せても、取り零しそうで、嫌で、慌てて引っ込めて握り締めた。

 どんなに隙間を無くしても、落ちてしまう。

 立ち竦んで、握り締めた手を濡れる顔に押し付け歯軋りして見送るしか、出来なかった。




   【 キ ュ ウ / 養花天。 】




 三月。今日は朝から曇りだった。季節柄桜が咲いていて、薄らと覆う雲に僕はこう言うのを花曇りと言うのか、と思った。少し温度が低く、花冷えかもしれない本日は卒業式だった。そこかしこで、別れを惜しむ遣り取りが行われている。このあとは任官式だ。派遣隊も含めて。僕はそれらを何の感慨も抱かず屋上から傍観していた。

「よう、鳴海」

「久保田先生……」

 眺める僕へ声を掛けたのは久保田教官だった。振り向き様の、僕の呆けた顔を見て、久保田教官は眉を寄せつつも笑った。

「……行かれるんですね」

「まぁな」

 式典用の制服ではなく作業着を着ている久保田教官を、さらっと爪先から上まで見遣って僕は問うた。肯定された。僕は肩を竦めた。

「よく、許可下りましたね。派遣隊に付いて行くなんて、異例でしょう」

 教官である久保田教官が僕と違い式典にも拘らず作業着だったのは、こう言う理由だった。教官は派遣隊の補助部隊へ志願し、今年正式に辞令が下りた。

「佐東二佐の御蔭だな」

 佐東二佐が口添えしたようだ。でなければ、月日を要したと言えこんなに容易く認められるはずが無い。派遣隊は、卒業と同時に通常の入隊者と共に教育隊へ属し、すでに学校とは何の関係も無くなったのだ。一教官が付いて行きたいと志願して本来叶うことは無い。これは特例と言って良かった。だのに、久保田教官は気に懸けているのだ─────ちょっとの後悔を交えて。

「お人好しですよね、先生は」

 教官になる前の、パイロットだったころから、この人は多分変わらない。五歳児の、迷子の相手をまともにして困っていたあのころと。

「んなことぁ無いさ。俺の我が儘だよ。……阿佐前たちのときは間に合わなかったけどな」

「教官……」

「まぁ、でも、お前の晴れ姿が見れただけでも良かった。

 卒業、おめでとう、鳴海」


 学校を騒がせた特別派遣の発表から、二年が経っていた。

 結果として、都香は特別派遣に行った。予定より数箇月、猶予を経て。

 発表後すぐ飛び立てなかったのは、思ったより国民の反発が在ったせいだ。当然と言うか、子供が戦地へ行くと言うのは幾ら生まれたときには戦中だった世代が大半で、招集が掛かれば誰もが出征することが常識で在ろうとも、到底許容出来るものでは無かった。完全に国の失策だ。校内でも決起集会なるものが在ったくらいに。

 けれど、激しい反対は一部だけ。たとえ疑問を持っても、現実に異を唱える者は意外と少ないからだろう。ネットの規制ならとうに行われていて、ちらほら散見しようと安全の問題と称して消される。そこを差し引いても、己に関係の無い者は特に動きが鈍る。無関係だから。特別派遣だって、賛成者がまったくいなかった訳でも無い。国内情勢より国外情勢を取った国の決定は、終ぞ覆ることは無かった。

 ただ、いろいろ釈明やら処理には追われたのだろう。そうして出発期間は延び、気が付けば二月も半ばになっていた。三年生は卒業間近となり、丁度良いと言わんばかりに派遣隊は卒業の三年生と共に任官式、出発となった。加えて定員数が割れようと追加要請はせず、志願者のみの派遣が決まった。

 この人員補填のためか年々志願者を募り特別派遣へ行く者も毎年いたが、一、二年からの志願者は初年のときのみだった。

 反抗を受けた国の、苦肉の折衷案だったのかもしれない。




 都香の出立の日。その日も、今日みたいに少々曇天で、桜が咲いていた。花霞みの下で、激励や挨拶を交わす群衆を僕はやはり、ぼうっと一人、校庭の隅で眺めていた。卒業式が終わり任官式まで時間が在ったからだ。生徒会は卒業式や、任官式の準備を手伝っている。他の学校は知らないけれどここの生徒会は活動目的らしく、運営に借り出されていた。僕の主な担当は卒業式だったので、余裕が在った。

 手を取り合ったり抱き合ったり、涙ぐんだり。例年より数が多いのは当然、派遣隊の影響だろう。行かなくて良い者が、戦地へ向かうのだ。


“いやっ何でっ……!”

 発表直後、読み上げられた倉中の名に、取り乱した女生徒がいた。春川だ。パニックを起こし半狂乱に暴れる春川を、教官たちが取り囲んだりして、一時騒然としたそうだ。

“寧絵、落ち着けっ”

“いや、どうしてっ? だってこの子はあなたの子じゃ……!”

“寧絵!”

 医務室に運ばれた春川の混乱は収まらず、倉中が懸命に落ち着かせようとしていた。風紀として場の収拾と医務室の人払いに当たっていた斎藤さんから、顔見知りとして呼ばれた僕は入室こそしなかったものの、ドアを背にして話を聞いてしまった。

 春川を呼ぶときの倉中の声音は、今まで聞いたことも無い強い声だった。けれど。

“……寧絵、この子は、俺の子だよ……俺の子なんだ”

 次には、今までに聞いたことも無い弱々しい声だった。

 しばらくして、鎮静剤を打たれ眠った春川を置いて出て来た倉中と目が合った。倉中は何も喋らなかった。息を洩らして、苦く笑うだけだった。

 あのあと、倉中が出向する前に春川は学校を辞め、学校では不穏な噂が流れた。

 春川の近所に戦場へ行って、怪我を負って戻って来た男がいたらしい。男は戦地帰りのせいか気をおかしくしていて、数度警察沙汰も起こしていたとか。

 夏ごろ、男が婦女暴行の容疑を掛けられたけれども自殺したとか。

 男と春川の家族が、男が戦地へ出征する前から付き合いが在ったとか。

 何回か、自殺する前の男に連れられる春川を見たとか。

 これ以上に、眉を顰めたくなる醜聞が囁かれたが全部、一週間経たず消えた。

 倉中が何かしたのかもしれない。情報戦に措いて、倉中の右に出るものはいないから。……果たして情報だけかと聞かれると、怪しくは在るけれど。

 何せ女生徒を孕ませるなんて言う、この戦時下に置いても大事やらかして、何の懲罰も無いのだから。いよいよ、校長辺りの弱みを握っているとしても大して驚きも無い……怖いだけで。


 その倉中も、戦地へ行くのだ。ざっと見回したところに倉中の顔は無かった。何処かにはいるだろうけど。倉中を捜していたら、羽柴先輩を見付けた。

 羽柴先輩は、斎藤さんの“志願した”と言う証言を裏付けるように、気障ったらしかった長髪をばっさり切っていた。学生時と違い、軍に所属する上で規定なのかもしれないけれど、刈り上げた髪型に羽柴先輩の決意を映した気がした。

 特別派遣に徴集される当日だのに朗らかに笑む羽柴先輩を見て、ふと邑久が頭を掠めたけども、敢えて触れなかった。羽柴先輩とは、二言三言話して別れた。

 羽柴先輩も去り僕が一人になったところで、「こーちゃーんっ」遠く背後から呼ばれる。僕は振り返った。数メートル先よりこちらへ、息を切らし駆けて来る人影。

「────……こーちゃん! やぁーっと見付けた!」

 都香だった。僕の前に直接現れたのは、実に数箇月振りだ。

「都香……」

「……っはぁ、……。えへへ、久し振り、こうちゃん」

 肩で呼吸をしていた都香は、整えると僕に笑顔を向けて来る。僕はどう答えて良いか悩み、結局、一旦口を噤んで「久し振り」笑う。頬の筋肉が引き攣ってしまい、不恰好なものになっただろう。僕の複雑な心中を、都香が気取らなければ良いけど。

「捜したよーっ。今日こそはこうちゃんに会えると思ってたんだ!」

 対して喜色満面と表現して良い都香は、一切の変化も無かった。僕がこっ酷くあしらった、あの謹慎以前と何ら変わらない。呼び方だけが、幼少期に逆行したかの如く『こうちゃん』呼びだけれど、良くも悪くも無邪気で明るい、常に僕の知る都香だった。都香の余りの変わらなさに「ごめん……」僕はバツが悪くなる。

「別に良いんだけどー。忙しかったんでしょ?」

 都香の問いに、僕は更に閉口した。間誤付いていると都香が「知ってるよー。生徒会が頑張ってくれたから、私たちの準備期間が充分なものになったんだって。やっぱりこうちゃんは凄いね」お門違いな称賛を寄越して来る。僕は「違うよ。僕じゃない」首を横に振る。でも。

「そんなこと無いよー。こうちゃんだけが生徒会じゃないけどさ、こうちゃんだって生徒会の一員なんだもん。だったら、こうちゃんも凄いんだよっ」

 都香が言う。他意の窺えない顔で。僕の中に、黒い澱がどんどん沈んで落ちて重なって、底で淀んでいる錯覚を覚えた。『言い訳』と言う、薄っぺらで真っ黒な澱が。

 僕は何もしていない。僕に出来たことなんか大したことは無い。精々、滞り無く物事が進行するようにしていただけだ。如何な抵抗もしていなかった。鈴木先輩みたいに動いてた訳でも、佐東くんのように手伝った訳でも、教官たちのように抗議した訳でも無い。僕は何もしなかった。

 一人だけ、ただ増量した生徒会の仕事に没頭して逃げた。あきらめていたから。

 都香は、どうせ決めたのなら聞いてくれない、って。あなたの言うことなら、と古城さんが責っ付いて来たけど、こうと決めた都香は僕の言うことなんか聞いてくれた(ためし)が無い。

“みやちゃん、もう帰ろうよ。そっち行っちゃ駄目だって”

“何言ってるの、こーちゃん! この先にはきっとおもしろいものが在るのよ!”

 あのときも。

“絶対、話し合いするからね、香助”

 あのときも。都香は、僕の話なんか聞かないんだ。だから、いつだって先回りして来たのに。そばにいたのに。

“もう僕に構うなよ。僕は選んだんだから”

 偉そうに宣っておいて、この様で。

 僕には、都香を止めることも特別派遣を撤回させることも出来ない。

 都香の、曇り一点も無い笑みに僕の視線は地を這った。奥底の淀みがざわっと、揺らいだ。何のために士官候補になったんだろう。何のために、僕は都香との約束を破ったんだろう。

“俺、春川の代わりに志願したんだ”

 不意に倉中が僕の脳裏を過る。

「……都香」

 僕が話し掛けると、都香は何の疑問も持たない様子で「何?」訊き返して来た。

「都香、もしさ、僕が普通科で────誰かの代わりに行ったら、僕は都香の隣にいることは出来たかな」

 思い付いたことが口を突いた。最初僕が普通科でいたなら、倉中みたいに都香の代わりに行けただろうかと想像し、打ち消した。都香は僕の言うことを聞かないのだ。もし仮にそうしたら、納得の行かない都香が烈火の如く追い掛け回すに違いない。僕が士官候補になって、都香を避けた日々のように。

 都香は「うーん……」一つ唸って「無いね」きっぱり、切って捨てた。清々しいまでに一刀両断だった。

「随分あっさり言ってくれるねぇ。そりゃあ、僕は戦績がぱっとしなかったし倉中のような突出したものも無いけど、」

「私が、ゆるさなかったよ」

 停止したのは、言動だけじゃなかった。思考も、すべて。動いていたのは、都香を見詰める目だけ。都香の発言の意図を測り兼ねて。瞠目して静止する僕を見て、都香はくすりと破顔した。

「こうちゃんが、戦場に行くなんて、私が、ゆるさなかったよ」

 僕の知る都香より、大人びていた。

「私ね、こうちゃん。後悔してたの」

 あんな約束をしていたこと。都香が静かに語り出す。

「ずっと、後悔していたの。戦争に関する約束なんかするべきじゃなかったって」

 それは、僕も考えていたことだ。僕は動けない。都香は、微笑みを崩さず、静かだった。

「ずっとね。本当は感付いていた。五歳のときはわからなかったけど、もう十五だもん。理解していたのに」

 僕の知る都香は元気で、天真爛漫と言った、じっとしてられない女の子だった。だけども僕の眼前の都香は、母さんみたいに、父さんみたいに、じいちゃんみたいに。

「父さんが造る飛行機は、人を殺す戦闘機だって」

 僕の知らない、けれどもきっと他人は知っている都香だった。僕は「都香」呼ぶ。「けどね、」都香は応じない。

「私から破棄することは出来なかった。邑久さんの言う通りね。私が手放さない限り、こうちゃんからは私を棄てて、置いて行かないって、熟知していたから」

「……アレは八つ当たりだったって、邑久が、謝りたいって。僕に伝えてくれって言ってたよ」

 いつかの邑久の伝言を告げれば都香は「うん。もう謝ってもらったよ。さっき会ったから」僕より先に会っていたらしい。僕は会えなかったけど「だって、こうちゃんの居場所だって邑久さんが教えてくれたもん」邑久は僕を見付けていたようだ。……羽柴先輩を捜していたのかな。

「だけど、八つ当たりでも何でも、外れてないもの。邑久さんは正しかった」

「都香、それは、違うよ」

 僕は否定した。都香の心を軽くしたいからだとかではない。本意で違うからだ。

「違わないよ」

「都香、」

「私が約束を破棄しないなら、こうちゃんが反故にすることは無いって……こうちゃんは絶対守るって……

 こうちゃん自身でさえ犠牲にしても」

「都香……」

「わかっていたのに、気が付かない振りで無視して、香津おじさんが、亡くなって、思い知ったなんて……」

「都香」

 都香が「ごめんね……こうちゃん」僅かに俯く。

「都香」

 謹慎前より切ったのか短くなった、纏められた髪がさらりと「……ごめん……」肩を滑った。

「─────都香、もう良いから」

 声調が「こうちゃ、」滲んで、震えて。

「だから、泣くな」

 都香の両の二の腕を弱い力で掴む。弾みで上を向いた都香の顔面は、涙に濡れていた。

「こうちゃん……」

「都香が悪いんじゃないよ……僕が悪いんだ」

 そうだ。僕が全部悪い。都香はいやいやするみたいに首を振る。僕は言い聞かせるように「僕が悪いんだ」繰り返した。

「僕が都香を甘やかしたんだよ。僕が悪いんだ。もっと早く都香と離れれば良かったんだ」

 都香を放してやらなかった。僕は、僕を必要とする都香を繋ぎ止めたんだ。僕が、他人がいないと自身では何も出来ない人間だから。

 鈴木先輩が言っていた。誰だって、無条件に自分を肯定してくれる存在は放したくない。僕にもかっちり、当て嵌まっていた。

「……こうちゃん」

「ごめん、都香」

「こうちゃん……。私ね、ほっとしたんだよ、始めは」

「え?」

「こうちゃんが、士官候補になったとき」

「───」

 絶句した。いやいやいや、お前僕を追い回したじゃないか。じゃあアレは何だったんだと言う話になる。口元がひくりと動きそうになるのを、どうにかやり過ごす。こんな僕の心情など、都香はお構い無しだ。平常運転だけど。

「こうちゃんが、やりたいことを始めたんだって」

「……」

 また、だ。都香が口にする“やりたいこと”。都香との約束以外で、どれだけ記憶を浚っても目ぼしい出来事は無かった。僕にとっての指針は善悪の関係無しに都香だったから。本気で僕が把握していないことを察した都香は、眉を顰め口元を歪めた。自嘲したみたいに。

「こうちゃんはさ、香津おじさんのようになりたかったんだよね」

「……父さん?」

 都香の解は、僕を一層混沌に突き落とすものだった。父さんのように? これはどう言う意味合いだろうか。医師になりたい、と言うことだろうか。僕が? ますます覚えが無い。焦点が泳ぐ僕へ都香が更なるヒントをくれる。

「こうちゃん、覚えてる? 書斎でさー、遊んでるとき。こうちゃん、おじさんの本棚からいっぱい本出して、広げてるの。私が呼んでも、見向きもしなかった。おじさんの真似して」

 こーんな厚い本、と都香が人差し指と親指を挟むみたいな形にして厚さを強調した。都香の説明に、僕の脳内でぶわっと映像が蘇る。一人で遊ぶのに飽きた都香が袖を引くのを押し返して、膝に乗せた本を読み耽る僕。開いたページに印刷されているのは病名、症例、薬物の名前、人体解剖図……要するに、本は医学書の類いだった。無論すべてが読める訳じゃない。内容だって読解していると言えない。読めない単語はメモして、父さんの手が空いたときに尋ねていた。

“香助、どうしたんだい?”

 尋ねれば、父さんは丁寧に意味まで教えてくれた。

 都香の言うように、僕は父さんに近付こうとしていた。

 幼児期の刷り込みに等しい程無意識に、父さんを尊敬していたから。

「こうちゃんは、香津おじさんみたいになりたいんだって、思ってた」

 医学書は、今でも読んでいる。けど。

“香助”

「すでに、父さんは……────っ」

 自然と下を向いた視界で、地面に水滴が染みを作った。僕は都香だと思った。違った。

「……なんで……」

 僕だった。都香から手を放し自己の顎を拭う。僕の手の甲を伝って雫が落ちた。何で。どうして。今更僕は泣いているんだろう。父さんの、葬儀でさえ泣けなかったのに。

「────ぁ、」

 もう父さんは、僕の質問へ返答をくれない。僕の疑問を教えて晴らしてはくれない。

 父さんの背を追うことは叶わないのだ。

 僕は声が詰まる。音にすらならない息を吐いていた。ここに来て、僕は父さんが死んだのだと、ようやく実感したのだ。母さんが泣いても、事実しか飲み込めなかった、僕は。

「こうちゃん……」

 次から次へと流れる涙に、微動だにせず立ち尽くしている僕を、都香が頭を抱えるように抱き寄せた。子供をあやす母親染みた行動に、僕はされるがままでいた。

「……こうちゃんが士官候補になったあとね、少し経ったころかな。屋上でね、こうちゃんを見掛けたよ。邑久さんと眼鏡の人といた。制服姿で周囲に馴染んでいたこうちゃんに、寂しかったけど、制服似合ってたし、うれしかった」

 少しのころ、と言うことは、僕が都香と春川を見付けたときだろうか。ならば、眼鏡の人とは佐東くんで無く椎名だろうか。訊けば「何だ、こうちゃんも気付いていたんだ。声掛けてくれたら良かったのに」などと言う。お前、だから僕を追い掛け回していただろうに。ほっとしたと言うのなら、アレは何だったんだと。

「香津おじさんが亡くなって、こうちゃんが士官候補生になって私、ほっとしたんだ。やっと、こうちゃんは自分のやりたいことに向かったんだって……なのに」

 じゃあなぜ。訊こうとした僕が体を離そうとしたら、都香が言葉を切った。声色が変わったのを、僕は都香の体越しに悟り動きを止めた。

「こうちゃんが成績上位者のなの、当たり前だと思った。でもね、ずっと首位だなんておかしいって」

 何で都香が僕の成績を知っていたのかと言うと、僕の中途編入は僕が感知していないだけで春川の言うように割と話題になっていたらしく、情報は入って来ていたせいだと。

「成績がトップってことは、シミュレート戦だって上位ってことじゃない。……こうちゃんは、自分から争うことはしないから……」

 確かに、僕は争うことは避けるタイプだ。殊、僕がやさしいとか争うのが嫌いだとかの平和主義者だからじゃない。余分に労力を使ったり時間を割かれることを嫌うからだった。人を傷付けるのも、痛いのが嫌いだからしたくない。

 そんな僕が、平素トップを走っている。僕が考えるより僕を観察している都香は違和を感じた。

「それで、僕を追い回していたって訳?」

「詳しく聞きたかったの。こうちゃんは目的も無く自分がしたくないこと、やらないでしょ?」

 問うのにやや体を離した僕を、都香が直視する。……よくご存知で。都香がどう言う見方でこう指しているか置いて、所見は間違っていない。さて、どうしよう。

 都香に言うべきかどうか。逡巡は一瞬だった。

「守りたかったんだ」

「え?」

「誰も、父さんみたいに、ならないように」

 父さんが死んだ。母さんが泣いた。じいちゃんが言っていた。辰之助と香織。

 戦時下にいながら、僕は辰之助と香織の悲劇を、遠い御伽噺の如く捉えていたんだ。

 あれだけ夢に見ていたのに。

 だけれども、父さんが死んで、母さんが泣いて、僕は、悲劇が昔のことでは無いと痛感した。

「僕に世界を動かす力は無いけど、身近な人間程度は守りたかった」

 所詮、叶わなかった訳だけど。

「ごめん……」

 謝罪する僕を都香は無表情で見返して来た。目線を下げて、僕はもう一度「ごめん」呟いた。

「こうちゃん、あのね、」

 黙視していた都香が喋り始めた。僕は落ちた視線を上げた。

「私ね、こうちゃんと空を飛びたかったんだ」

「空?」

「そう。空」

 空。都香が僕ではなく頭上を仰ぎ見つつ、妙なことを言い出した。僕は都香と代わるように唇を閉ざした。

「ずっとね、あの空を、切り裂いて、向こうまで行けたらって思っていたの」

 物心が付いた時分から、都香は思い描いていたのだそうだ。幼い都香は、薄く青い空が何と無く『蓋』みたいに感じていたらしい。『境界』と言うより『蓋』、なのだそうだ。

 自らの住む場所を蓋している気がして、息苦しくは無いのだけれど、閉じ込められている感覚が在ったのだと。

“繁都はね、空が『蓋』に見えるらしいよ。薄青い、陶器の蓋に見えるんだって”

 中学のころ、縁側で麦茶を飲みつつ父さんが僕に話したことだ。なので、飛行機を造る技術者になったのだと。親子なのだろうか。都香も同じことを感じていたと言うのは。

「自由自在に飛び回る、父さんの飛行機を見たとき、あんな風に空を突き破って行ける気がしたんだ。こうちゃんとなら……実際に乗れる訳じゃないのに」

 現在の飛行機の大半が遠隔操作での操縦だ。乗機が認められているのは人の輸送が目的のものだけだ。別途資格が在り、普通科で飛行訓練しただけでは取得不可能だ。

「稚拙な妄想に、付き合わせて、ごめんなさい……こうちゃん」

 流れる涙は僕も都香も、とうに止まっていた。拭かず乾いた頬は糊で固めたみたいに強張っていた。その頬で、都香は再度笑った。無理矢理作った微笑ではない。心の底から出たと言いたげな、笑い顔だった。作り笑いすら出来ない僕は堪らない気持ちで「都香────」呼ぼうとした。けれども、そこに放送が被さる。任官式の準備が整ったのだ。

「……もう行くね」

 都香が僕から離れる。

「じゃあね、最後にありがとう


 香助」


 都香は、僕をもう、『こうちゃん』と呼ばなかった。

 別離の宣言に代えたのか。

 僕は両手で顔を覆った。顔に爪を立てて、立ち去ろうとする都香が、どうかこちらを向きませんようにと祈りながら。




 久保田教官の祝辞に僕は「ありがとうございます」礼で応じた。気の無い返事だっただろう。久保田教官が噴き出した。

「時化た顔だな、鳴海」

「そうですか?」

「心ここに在らず、って感じだな。せっかくの卒業式だって言うのに」

「心残りが……多いせいでしょうか」

 正直に僕が吐露すれば、教官が苦笑した。

「おいおい。お前はよくやったじゃないか、生徒会長。答辞も完璧だったぞ?」

「とっくに元、ですけどね。文章を考えるくらい小学生でも出来ますよ。歴代最低の生徒会長でした、僕は」

「鳴海、」

「鈴木先輩みたいには、なれませんでしたね」

 お世辞でも何でも無い。彼は、凄い人だった。

 派遣隊の中止を求める陳情書を早急に用意した彼は、それが叶わないと見るや、今度は派遣隊の位置情報を一般に開示するよう署名を集め嘆願書を提出した。特別派遣によって平時と異なり、生徒会の仕事は増えたと言うのに。彼は激務をこなしながら並行してやり、確かに成し遂げた。今、派遣隊の位置情報は制限付きながら国民なら誰でも見ることが出来る。ニュースでも流れることが在った。

「鈴木だけの功績じゃないだろう?」

「勿論です。佐東くんとか」

 再三、佐東二佐と連絡を取ったり上層部へ接触を図っていた鈴木先輩。そこに寄り添っていたのは佐東くんだ。斎藤さんに鈴木先輩を頼むと言われたけれど、僕の支えなんて要らなかった。

「僕に出来たことなんか、無かったんです」

「鳴海、それは────」

 違うぞ、と続けようとしたんだろう久保田教官の科白を、僕は「いいんです」遮った。

「勘違いしないでください。心残りは在ります。猛省しています。だけど、」

 僕は、力を抜くように笑った。

「あきらめた、訳じゃないんです」


 都香が行って、一年過ぎて、鈴木先輩や斎藤さんも卒業して行った。

 斎藤さんは警察官になるつもりだそうで、警察大学校へ進学した。笑って「国外の支援は羽柴に任す。派遣隊の帰る場所を守りたいんだ」と洩らしていた。節度を守り仲間を慮る斎藤さんらしい、と感じた。

 鈴木先輩は普通の大学へ進学した。政治を専攻するそうだ。真剣な表情で「この国も戦争も、変わり目だ。僕はそのときこそ政治が試されると思うんだ」変な方向へ向かわせないと、戦渦に巻き込まれ命を落とした人やその家族や、そうでなくても何らかの悲しみを負った人が、癒され蔑ろにされない国を作りたいのだと語っていた。

 違う道に進んだ二人だけど、根本は同じことを考えているなぁと思った。

 古城さんは知らない。斎藤さんも触れなかったので僕も訊かなかった。風聞では、実家に帰ったやら、何やら。


 そうこうする内に四季は再び一巡し、とうとう僕たちの番になった。

 佐東くんは、鈴木先輩とは別に防衛大へ進学した。違った方面から鈴木先輩をサポートするためだろう。

 邑久と椎名は、進学せず軍隊へストレートに行ってしまった。家庭に事情の在る椎名はともかく、邑久までとは予想外だった。けれど「だって、お母さん楽させたいし」との言に邑久も複雑な身の上だったと気が付いた。邑久のお母さんは、羽柴元中将の支援を受けず苦労していると聞いている。優秀な二人は、進学より生活を選んだ。

 二人も教育隊へ配属される。とは言っても、普通科とも派遣隊とも異なる、士官候補の部隊だけれど。戦地へ出向させられるかも不明なところだ。

 そして、僕はと言えば。


「そのために鳴海は、医師になるのか?」

「勉強はして置くものですね」

 僕は、微かに笑んで見せた。そう。

 僕は医学部へ進学を決めていた。




 特別派遣の一件が落ち着き二年生になった夏、僕は帰郷した。繁都おじさんは元より、都香の件で気まずくは在ったけれど、父さんを亡くして独りとなった母さんに、まったく顔を見せないなどと言うのは、親不孝以外何物でも無い訳で。

 自身の境地で胃を痛めつつも決意の末帰った故郷に、繁都おじさんはいなかった。海外の活動拠点へ戻っていたからだが。

「え、都香から連絡無いの?」

「そうだ! この母を置いてあの娘と来たら、一方的なメールだけ寄越してネット通話もして来ない」

 答えたのは朋香おばさんだった。僕の斜向かいで、テーブルに肘を突き足をぷらぷらさせ膨れっ面で、不機嫌丸出しだった。子供染みた所作だけど、これがとても似合うので恐ろしい限りである。

「都香ちゃんも忙しいのよ。ね、香助」

 母が都香のフォローをしながら、用意した麦茶を朋香叔母さんの前へ置いた。後半は僕へも渡しつつ水を向ける。僕は受け取ったコップをもてあそび。

「あー……多分ね」

 文字通りお茶を濁した。きょとんとした二人から視線を外して面を伏せる。

 僕は都香とは連絡をしていなかった。二年生で、生徒会役員で、次期生徒会長内定。多忙と言えば言えなくも無いのだけども。

“じゃあね、最後にありがとう”

“香助”

 単純に、取りづらかった。都香のアレは決別だったに違いないのだ。だと言うのに、僕からおいそれと連絡出来る訳が無い。もっと言えば。

 僕は悩んでいた。僕のしたかったこと、僕の出来ること、その狭間で。

 守るとか助けるどころか、動くことすら出来なかった己の評価は地下を潜っていた。こんな僕に出来ることなんか在るだろうか。ましてや、したいことなど。

 僕はこの期に及んで迷っていた。揺れる僕は、都香に簡単に看破されるだろう。余計な心配をさせたくない。

 僕と言うヤツは、全然成長が見られなかった。

「何だ、香助。お前もあの莫迦娘と音信不通なのか」

「ああ、まぁ……」

「まったく。あの娘はー」

 唇を尖らせる朋香おばさんに僕は『年甲斐』と言うものについて考えた。母さんは「派遣隊なんだもの、忙しいのよ」と朋香おばさんを宥める。

 都香の居場所は鈴木先輩の御蔭で容易に知れた。反政府を謳う報道がライブ映像で流す派遣隊の状況も、国民が危惧するよりは悪くなかった。倉中から聞く限りも。

 都香と連絡し難い僕は、倉中とは結構マメに連絡を取り合っていた。と言うか、アイツがメール寄越したり通話して来たりするので自然頻度が高くなる。僕と似た変わり者だけれど対人能力が高い倉中に、友人がいないはずも無いけれども、やはり子供や春川のこととなると気安く話題に出来るのが、僕だけなのかもしれない。

 十八の誕生日に春川と籍を入れて一児の父親になった倉中。子供は女の子だった。倉中は生まれた当初見事な親莫迦を発揮し、春川から送られて来たらしい端末の画像をカメラ越しに見せて「可愛いだろー?」宣って憚らなかった。締まりの無い顔で「もう目に入れても痛くないって言うか同化したいくらい可愛いわー」とか、え、何それ怖い。

「……」

“そっちも頑張れよ、香助”

 ……倉中にも看破はされてるんだろうなぁ……。

「ま、別に元気なら良いんだけどなっ」

「緊急速報も入っていないし、大丈夫なんじゃないかしらね」

 身を乗り出してテーブルの上の菓子を取ろうとする朋香おばさんに、菓子の入れ物を寄せる母さん。おばさんは菓子を取ると僕にもくれた。

 この時点で、報道でも公式発表でも倉中の様子でも、派遣隊から死者は出ていなかった。隠蔽が巧みなのか、補助部隊と派遣隊の総隊長をしている佐東二佐ががんばってくれているのか。後者だったら良いと言うのは希望的観測だろうか。

 メールが途切れていないところを鑑みれば都香も無事なのだろう。羽柴先輩はどうだろうか。学年毎に派遣先を分けられたそうでわからない。派遣隊の位置情報は開示されようと個人情報は死ぬまで公表されない。

 邑久を見る分には無事だと思うけど。僕も訊いていないから。どうだろうか。僕は麦茶を啜った。

「香助」

 母さんが僕を呼んだ。母さんは僕を「ちょっと……」手招きする。めずらしく、朋香おばさんが食い付かない。素知らぬ顔でお菓子を銜え手を使わず食べて、足をぷらぷらさせていた。父さんが見たら飛んで来ただろうなぁ。行儀悪いよ、おばさん。

 母さんに誘導されるまま、僕は台所から移動する。座布団を渡され、座るよう促された。縁側の在る部屋。

 父さんの棺が安置されていた部屋だ。

「コレね、香助に────香津さんから」

 一通の手紙だった。

 “香助へ

 この手紙が届いたと言うことは、父さんはこの世にいません”

「……っ、」

 遺書、だった。僕は若干震える指先を叱咤して目を通し始めた。


“香助へ

 この手紙が届いたと言うことは、父さんはこの世にいません。残念です。受け取ったとき、驚きましたか。戦地へ現地派遣する人間は皆、こう言うものを書きます。遺書です”


 父さんの字だった。戦場に出向する人間が遺書を必ず認めて軍に預けていると言うのは話で聞いていたけれど。よもや実物をお目に掛かるとは思ってもみなかった。


“これが香助の手に渡らず出向を終え、香助の成長が見られたら良いのだけれど。

 正直、この手紙がきみに読まれること無く任期が終わればと願いながら筆を動かしています。

 香助は今、幾つくらいでしょうか。もう成人しているのかな? 僕はその姿を見られていたら良いけれど、どうかな。出来たら、香助の高校生姿も成人式も見られたら良いんだけど”


 父さん。僕はまだ十六です。父さんが死んだときは十五でした。

 父さんが死んだのはあなたを見送った、その二年後でした。


“お父さんが現地派遣されるとき、香助は中学校の二年生。まだまだ子供でした。こう言うと、きみは怒るかな。でも、僕が知る香助は、大人びているのに、相変わらず都香ちゃんに振り回されて困ったような顔をしていました。懐かしいでしょうか? もしかして、今も似たようなものかな。

 僕と朋香みたいに”


「……」


“そう言えば、憶えていますか? 五歳のとき、軍の式典が在って、都香ちゃんと二人、迷子になったこと。いきなりいなくなったから、凄く心配していました。何せ軍の敷地広いのと同時に危ないのです。特に都香ちゃんは繁都に似て好奇心旺盛で、朋香に似て行動力が凄まじく、それに香助はあきらめず絶対付いて行くでしょう? 軍の施設じゃ、放送もしてもらえないし業務連絡で捜索をお願いするのは申し訳無いし。お父さんは繁都おじさんと頭を抱えていました”


 ……久保田教官と言い父さんと言い。嫌なことを憶えているものだ。て言うか、父さん、僕のせいじゃないよ。僕は都香を止めたよ。がんばってたよ、僕は。


“見付けたとき、二人は喧嘩していましたね。いつもだったら平然としている都香ちゃんと、呆れているだけの香助が泣きそうにしていたのが強く印象に残っています。

 都香ちゃんも香助も頑固で、絶対曲げないから、二人の無事な姿を見て安心すると共にこれは長引くかなって心配していたけれど、ちゃんと仲直りしてくれてほっとしました”


 手紙を読んで、父さんがあの喧嘩をこんなに心を砕いてくれたとは考えていなかった。たかが子供の喧嘩だ。繁都おじさんなんか「だーいじょうぶ、大丈夫! 次の日にはけろっとしてるよ!」って言い兼ねないし、朋香おばさんに至っては「ぁあ? 喧嘩? ご飯かおやつでも食べれば自動的に忘れて元通りなんじゃないか?」とか言い出し兼ねない。


“仲直りして普段通りの二人に安堵して、だけど唯一の気懸かりが在りました。

 二人がしていた約束です。

 二人が縛られてしまう気がして。

 笑い話になっていれば良いけれど”


 父さんは、本当によく見ている。医者と言う職業柄か、生来の気質か。僕だけでなく『二人』と言う語句が殊更物語っている。父さんの憂いは当たっていた。

 僕も都香も雁字搦めだった。


“繁都に言うと過保護とか笑われてしまうのですが、僕にとっては二人とも大事な子なので仕方が無いことです。

 ねぇ、香助。

 無茶をしていませんか?

 香助はがんばり屋さんで、頭が良くて、一生懸命で、何ごとも決めたらあきらめない、僕の自慢の息子です。

 だからこそ、僕は心配しています。

 香助は反面、自分をすぐ殺してしまうから。

 ここは僕とお母さんに似てしまったかな、と心苦しい限りです。

 香助。もしも、もしもだけど、約束を守れないときは、素直にたった一言都香ちゃんに言うと良いよ。

「ごめんなさい」って”


「───」


“香助はあきらめることが嫌いだから、嫌かもしれない。あきらめることは苦しいことだしね。だとしてもねね、約束が守れないときは、香助だけが苦しいんじゃないんだよ。

 都香ちゃんも、きっと苦しいから。

 香助が無茶をすることは、お父さんやお母さん、繁都おじさんに朋香おばさん、都香ちゃんも、つらくなることなんです。そこのところは、わかってください”


「父さん……」


“都香ちゃんのためにも、自分に正直になりなさい。

 約束を守れないとしても、香助がしたいことをすることが、周りの人のよろこびに繋がることも在ります。

 大丈夫。都香ちゃんは繁都と朋香に似て、聡明な子だから。きっとわかっているよ”


 つらつら綴られている父さんの胸懐。

“ごめんなさい”。もっと早く言えていたら、僕は後悔をこんなにもしなくて済んだだろうか。もっと言いたいことを、伝えられただろうか。やりたいことが叶わなくても、すべきことを逃げ出さず、出来ただろうか。

 都香たちを、せめて気持ち良く、送り出せただろうか。

 未だ燻る暗い感情にとっぷり浸かりながら僕は手紙を読む。


“とまぁ、散々なことを言っていますが、僕は香助なら大丈夫だと思っています。

 叶える手段には『回り道』と言う手も在るしね”


 僕は数秒止まった。“回り道”? 続く文章へ目を走らせる。


“『先回り』だけが『回り道』じゃない。時には『遠回り』も大事なんだ。急がば回れ、と言うだろう?

 たとえ『原案』をあきらめることになっても、『折衷案』と言うものも在ると思います。

 約束を叶えるのは何も一つでは無いんだよ。

 香助。約束の主旨は何だろう?”


 父さんの手紙での問い掛けに僕は考えを巡らせた。主旨……主旨は。


“私ね、こうちゃんと空を飛びたかったんだ”

 そうだった、都香は。

“ずっとね、あの空を、切り裂いて、向こうまで行けたらって思っていたの”

“あんな風に空を突き破って行ける気がしたんだ。こうちゃんとなら”

 都香は、僕と空を飛びたかったんだ。父さんの手紙へ目を離さず、僕はそのことにようやっと感付いた。


“香助、ちゃんと都香ちゃんと話し合ってごらん。

 どんなに道を誤っても取り返しの付かない失敗は無いんです。

 命に関わること以外は。

 ただ、取り戻すまでの道程が長いだけで。

 だからどうぞ、自信を持って。

 ……わかっているでしょうけどね。

 きみは、僕たちの自慢の息子ですから”


 父さんは真意に、人を視ていた。

“香助”

「……父さん」

 死んで尚、僕は父さんから糸口を貰っていた。ぐずぐずの僕に、手を差し伸べてくれたのは結局父さんだった。……違うな。

 僕が、認識出来た手が、父さんだっただけだ。きっと、僕にはいろんな目や手が在ったはずなのに。

 僕は。

「母さん」

「うん」

「僕さ、医師になろうと思う」




「航空救急、ねぇ……」

「はい」

 航空救急とは医療に特化したヘリや航空機を使った救急活動のことだ。救急車の航空版、とでも思えば良いか。

 戦時中の現代では航空救急は、海外遠征に置いて救命救急の要だった。何せ戦場での活動である。緊急事態に陥ることも、まま在る。現地では設備不足で治療が出来ない傷病者も、隣国では出来ることも。

 無申請無許可の航空機は基本撃墜対象になるが、航空救急の航空機だけは世界協定でも緊急性から不可侵が決定されるくらい特別だった。

 理由に、医療機器を積む救急航空機の積載量的に武器の輸送には使えないこと、また、救急航空機自体も武装は不可な造りをしていることが挙げられた。外装は堅牢に出来ているらしいが。

 ゆえに、万が一撃墜した場合無抵抗の救急機を攻撃したとして世界から集中砲火を受ける。誤認は認められない。一目でわかるよう、羽や胴体に世界共通の航空救急機のマークが装飾されているからだ。

「お前はともかく阿佐前は……」

「出来ますよ。都香なら」


 僕は、医師としてどう飛行機に関われるかを探った。そこで航空救急を知る。

 知って、すぐ様調べた。職務内容、必須の資格。

 何を専攻すれば良いのか。

 調べ終えて、僕は都香にコンタクトを取った。都香が派遣されて、初めてだった。

 メールで“話がしたい。通信待ってる”と日付指定して送った。派遣隊の一日に通話出来る時間帯は決まっており、使用希望者は申請しなくてはならなかったので。里帰り中の僕は、PCを父さんの書斎に持ち込み入り浸っては、本を読んで指定した時刻を待っていた。取り寄せた分厚いパンフレット一冊、読む内に時間が迫ってPCを起動した。やがてネット通話の着信を知らせる音がした。僕は急いで開いた。

「────香助?」

 液晶には、都香が映っていた。取り敢えず、「久し振り」と笑う。都香も少しだけ間を空けて「あ、うん、久し振り」と返して来た。衛星を通していると言え、遠い僻地だ。ラグが多少在るみたいだった。

「どうしたの? 急に、」

「ごめん、時間が無いだろうからさくさく行くね」

 戸惑う都香の話を遮断すると、僕は説明を始めた。僕の唐突な挙動にぽかんとした都香だったけど、航空救急のこと資格の話を聞く内に我に返って行った。

「香助……」

「だから、え?」

「香助、医師になるの?」

「……そうだよ。救急医になる」

 救急医学を専攻して、救急医になる。だから、お前は救急救命士と特別救助隊員、パイロットの資格を取れ、と宣した。実技は学校で基礎をやっている。今だって都香は特別派遣中だ。残るは資格の申請だけだろう。あとは。

「佐東二佐に何とかしてもらえ」

 搭乗パイロットの実技と資格だけだった。僕の発言に「む、無謀だよ!」と喚くが僕は「何とかなるよ」一蹴した。

「ならないよ! 無謀だよ! 航空科出たって難しいのにっ」

「そっちは取りたい資格取らせてくれるって倉中が言ってたぞ。何となるよ」

「ちょっと、香助────」

「都香」

 騒ぐ都香を僕は静かに呼んだ。途端喚き散らしていたのが止んだ。訓練された犬のようなのは、僕だけじゃなかったか。少々苦笑いが洩れた。

「僕と、空を飛ぶんだろう?」

 僕の発問に都香は俯いた。僕は畳み掛ける。

「僕と、空を飛びたいんだろう?」

「……」

 沈黙。と、丁度時間三分前のブザーが鳴った。僕は「まぁ、考えて」と告げ通話を切ることにした。通話を切る寸前、「香助」都香の声が差し込まれた。液晶へ僕が目をやると、映っていた都香は半ば僕を睨み付けるみたいな面容だった。

「期待、しないでよ」

 僕は「……都香こそ」不敵に笑って通話を切った。


「負けず嫌いですから、都香は」

「……佐東二佐が、一人航空訓練生増えたから絶好のタイミングだって言ってたんだが、まさか、お前……」

「向こうへ行ったら、よろしくお願いしますね、久保田先生」

 僕はにっ、と口角を吊り上げた。久保田教官が額を押さえる。

「持ち腐れだった搭乗パイロットの資格、教え子のために大いに役立ててください」

「お前ねぇ、」

「僕たちも、生半可な覚悟じゃ在りませんので」

 航空救急は人の命を預かる仕事だ。刻一刻と変化する傷病に的確な手を打たなければならない。僕も都香も、難易度の高い道へ進むことを理解している。

“命に関わること以外は”

 父さんだって言っている。軽んじる気はさらさら、微塵も無い。人を喪うことの重さは嫌でも知っているのだから。

 そうでも僕にとって、都香にとっても、これが最良の『折衷案』だった。

「では、また、教官」

「おー……気張れよ、鳴海」

 僕は笑顔で頷いた。


「行くか」

 そろそろ任官式が始まるので、僕は寄り掛かっていた柵から体を離した。任官式の送辞は代々卒業生と同期の前生徒会長、つまり今回は僕が読むのだ。

 久保田教官はすでに降りて式へ向かっているだろう。僕も行くため歩き出す、が、止まる。

 不意に、空を仰いだ。

「───」

 今日も、空は青かった。嘘臭くて、淡くて、染物みたいで。

 僕の周りが変わろうと、僕が変わろうと、僕の上に、変わらず。


 空は、そこに在った。







   【了】







ここまでお読みいただいた皆様すべてに感謝を。

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