.ニ / 告別。
色褪せていて、本物の空は滑稽だった。
その下で交わされた、約束も。
戻れはしないのに。
一秒だって。
戻れはしないのに。
遠い記憶の、僕の後悔とは違う夢の、拳を握る青年と顔を覆う少女のように。
夢は、果たして『警鐘』だったのか。
代々受け継がれる『戒め』で在ったのか。
はたまた妄想しがちな思春期の“幻影”だったのだろうか。
【 ニ / 告別。 】
偽物の空がやたらよく出来ている、と思っていた。ともすれば、本物より色が深く「ああ、空だな」と思えた。
「────鳴海、スコアが低いんじゃないか。飛行時間に比べて」
低い声が、メットを外した僕に振る。ポッドの蓋が開いて一番に聴くのが教官のお小言なのはもう慣れたものだ。僕はしゃあしゃあと返す。「どうしようも在りませんね。自分じゃ、そこまでとも思いませんけど」教官は顰めっ面で言った。
「慎重過ぎるって言ってるんだ。お前、撃ち落とされるぞ。何回このスコアで被弾してんだ」
現在は飛行訓練の真っ最中、授業でなく補習時間だった。実技でいろいろ成績の足らない者だけがここ、実習室にいる。評価をこの時間で上げないと単位に関わるから、みんなそこそこ頑張っていた。だと言うのに、適当にしかこなさない僕を教官は呆れ、僕らの会話を耳に挟んだらしい数人がくすくす笑っていた。同じ補習生ばかりだから莫迦にされている訳ではないのか、嫌味には感じない。実に和やかな雰囲気だ。
「見てみろ。このスコアにこの被弾数。割に合わないだろうが」
教官の指がとんとんとスコアボードの液晶を叩き示す。僕はメットの接続が切れたことを確認してコードを抜いた。それからIDチップを抜く。メットは数人グループの共有で、使う場合は操縦ポッドのコードをメットに挿し、自らのIDチップを入れ認識させた。
「標的が落とせてるんでしょう? 良いじゃないですか。誤爆するより。だいたい情報が不確定要素しか無いんですが。乗っている間に二転三転しているじゃないですか。どうして吟味してないんですか指揮官は」
「戦場はこんなモンじゃねぇぞ。もっと錯綜するからな。出動してすぐ誤報とわかって引き返すなんざ、ざらだ」
僕の苦情に教官が苦虫を潰した顔で告げる。て、言うか。
「そもそも戦地じゃ救援物資を届ける以外でウチの国は飛行機を飛ばさないんじゃないですか。せいぜい偵察機だ。何で僕たちが戦闘訓練するんですか。迎撃命令だってやたら下りないんでしょう、人が直接乗り込むでもないのに」
言い分を聞く内に教官は更に眉間に皺を寄せたけれど僕としては正当な疑問だ。教官はくそ真面目に黙り込み、何かしら答えようとあーやらうーやら唸っている。授業に関して言えばこれは完全な反抗期の屁理屈だろう。はっきり「そう言うものなんだから仕方ない」と言えば済む問題なのに律儀だなぁと感心する。
「……先生。もう良いですよ?」
「いや良くない! 良くない!」
もともと軍人のせいか変にきっちりと物事に白黒付けたがる。嫌いじゃないけど、ちょっと暑苦しいところが。
「答えようも無いことに頭抱えたって仕方ないんじゃないですか?」
大人は国交の問題に右へ倣えと戦争の知識を体に叩き込んで来る。僕の両親の世代にはとっくに現今の体制が出来ていたのに、何を説くのか。教官は父さん母さんより年下のはずだから余計どうとも言えないだろうに、ね。ましてや軍人で。
でも、先生、教官は、眉の間に深く深く語句に繋がらない感情を刻んでいた。
「……お前、本当に可愛げ無くなったよな。昔会ったときはあんなに可愛かったのに……」
「知己のように口にするのやめてください。五歳のときに一度会ったくらいで」
最悪だ。何か在るとすぐコレを持ち出すのだ。
僕の学年の飛行訓練の担当教官であるこの人、久保田邦彦教官はそう、思い出したくも無い僕のトラウマ三位入賞の出来事で出くわしたあの、一般兵のおじさんだったのだ。何の因果か僕のクラスの担当教官でも在った。
「いや、だってあのときのお前、知らない大人の俺を前にテンパって可愛かったもんよ。今じゃ絶対無いね。今なんかお前悪の幹部やりそうな感じだし」
「誰が悪の幹部ですか。失礼な」
うっかり“傷抉るのやめてください”と言い掛けたがアレが僕の傷だと知らせるのは癪と言うかムカつくのでパスだ。「お前本当繊細だったのねー」だのと揶揄われるに決まってる。冗談じゃない。これ以上オモチャにされて堪るか。それよりだ。
「てか、悪のかどうか以前に、僕に幹部をやれる器量は有りません」
僕がメットを所定の位置に戻しチェック欄に丸を付けたファイルを渡すと久保田教官は受け取りながら何でも無いことを喋る友人のように訊いて来た。
「あー? けどお前、再三士官候補コースから誘い来てたろ? お前実技はともかく成績は抜群に良いからな。あと実戦訓練でも一部で評価良いんだぞ。“アイツ、自分じゃやる気が無いから評価は低いが人を動かすのは巧いな”って」
士官候補コースとは、いわゆる頭脳集団、エリートコースだ。上層部に一直線とまでは行かないが近道にはなる。こちらは軍の中枢に入るため実際戦地に赴くことは少ないらしい。行くにしても、指揮官として。つまり、実技が無理でもきちんと構造などを理解して作戦を立てられれば良い訳だ。
「要するに、“口先だけの木偶の坊に向いてる”ってことですかね」
「お前ねー。素直に評価は受け取れよ」
皮肉に笑うと心底疲れた、と訴える教官の顔。だってそうじゃないか。実践して見せないリーダーなんて価値が無いし下の人間だって付いて来ないだろう。誰が自分の身も守ることも駄目そうな人間に従うと言うんだ。僕だって願い下げだ。僕が考えていると二重チェックを終えた教官がファイルを閉じ言った。
「適材適所って言うだろ。俺も鳴海はどっちかっつーと士官候補向きだと思う。お前の実力が無い、ってんじゃなくてな。何つーか、お前変にセーブ掛けてるみたいだし。人に的確な指示が飛ばせて、尚且つ無茶させない上官なら、たとえ銃が持てなくても飛行機を飛ばせなくても認めるさ。────前から思ってたんだが、お前何で兵士コースに拘るの」
「……」
別に拘っている訳じゃない。拘っている訳じゃないが……。
“こーちゃんも、いっしょになろうね!”
縛られては、いるのかもしれない。
────あの日、見上げた嘘臭い紙みたいな空と散り散りに舞う煙の花、その間を二つ銀色の筋が円を描くように過ぎた。僕は目を丸くした。散っていた昼花火を更に蹴散らし登場したのは、戦闘機だった。
華麗な飛行を繰り返す最新式の戦闘機に周囲の大人が賞賛の声を上げた。取り囲む拍手で自身がいる場所を新型戦闘機の披露会場だと思い出す。僕にはわからなかった。確かに機械の鳥は優美であったけれど、そこまで喝采される程だろうか。
むしろ珍妙にさえ感じる。僕がおかしいのだろうか。繁都おじさんに抱っこされたままの都香も、頬を赤くして吸い寄せられたかの如く見詰めていた。僕は父さんを見た。父さんは仰いで直立不動だ。他の大人と同じように賛美している風ではない。それどころか……僕が戦闘機より父さんを見ていると父さんがぽそりと、呟いた。
周りの喧騒と戦闘機が飛んでから鳴り出した音楽と外で在ることで吹く風でそんな小さな声聞こえるはずも無いのに、なぜか、途切れ途切れでも無く結構はっきりと僕に届いた。
僕が父さんの科白の意味を咀嚼している最中、いつの間にか繁都おじさんの腕から抜けた都香がこちらに走って来た。「こーちゃーんっ!」さっきの件も忘れたように都香が僕の肩を掴んで話し出す。
「見たっ? 凄い凄い! お父さんが造ったんだよー! 凄いよね! ひゅーんって、ひゅーんひゅーんってお空をあんなに!」
昂った感情に語彙が足らないのだろうが、口を抑えることが出来ないらしい。僕は勢いに圧倒されつつ追い付かない言語の分飛び跳ねる都香に揺らされながら「う、うん」と頷いた。都香はハイテンションで捲くし立てるが僕は圧されて唖然とするだけだった。
僕を放し、しばし置いてぐっと拳を両手で作って感動を噛み締めたあと、言った。
「こーちゃん! 私、飛行機の運転手さんになる!」
操縦士、と言う名詞が出ない辺り子供と言うか。受けた感銘がすぐ将来の夢に反映されるのも子供っぽい。ここまでなら。
「ね! こーちゃんもいっしょになろうね! 絶対だよ!」
僕は一言も了承なんかしていないし、正直僕は戦闘機に心を動かされたりしなかった。空中を踊る様は美しかった。縦横無尽にくるくる回転して、時たま入る低空飛行も素晴らしかった。
「───」
だけど僕は興奮しなかった。胸躍ることも無かった。父さんの言葉が頭から離れなかった。
“こーちゃんもいっしょになろうね!”
拒否しなかったのは、都香がとても良い顔で笑っていたからだ。
縛られては、いたのかもしれない。
「……俺は、まぁ良いけどな」
教官はどこかあきらめた体で零した。僕は大した素振りも見せないように片付けを終え部屋をあとにした。
「ぃよっ、香助!」
僕を見付けた途端、倉中が教室の中から敬礼の崩れたみたいな感じで右手を挙げた。僕も室内に入りながら応えてやると小走りに寄って来る。
「毎度毎度補習お疲れ様―」言いつつ人の腰を叩いてくれやがった。
「はいはい、どーも」
毎度補習を受けるのは事実なので抗議する気も起きずおざなりに返せば「うわ、やる気ねぇ」と批評を食らった。これにもノーコメントで席に着くと不意に窓際のグループが目に入った。なぜか、隣のクラスの都香と春川が交じっている。何で都香が、考えている合間に都香が僕の視線に気付いたようだった。
「あ、香助だ!」
前回やり込められたことなどとうに忘れました、とでも言う風に満面の笑顔で僕を呼ぶ。切り換えの早さは、五歳から変わらない都香の良いところなのかもしれないけれど、おいおい勘弁してくれよ、と僕は思ってぞんざいに片手を振って目を逸らした。座る僕の傍らに立つ倉中が苦笑する。僕の心境に感付いているのだろう。
都香は満足げにしている。しかし都香といる連中はそうじゃない。何でアイツが、とでも言いたそうだ。戦績上位の都香の周りは同様の戦績上位者ばかりだ。戦績も振るわず補習も多い僕は都香に相応しくないんだろう。
「……ねぇ、阿佐前。どうして鳴海に構うのよ」
都香に伺うのが聞こえる。見なくても、問うのが春川だとわかった。都香は「え?」と訊き返しているが別の、多分都香の取り巻きにいる誰かだろう「だってアイツ弱っちいじゃん」余計なお世話である。
「えー? 香助はやる気が無いだけで本当はね、」
都香が何らかの発言をしようとしたときだ。廊下で僕を呼ぶ大声が響いた。
「“くぼっちゃん”じゃん。何やったの香助」
「……。何もしてないけど?」
『くぼっちゃん』とは久保田教官の、一部の生徒から勝手に付けられた愛称だ。本人は気にも留めてないようで黙認している。僕はこめかみを人差し指で押しながら考えた。思い当たることは無い。補習は無事終えたし、片付けもチェック表の通り不備は無かった。そこは教官も確認している。在るとすればあの、羽柴先輩を不本意ながら助けたことくらいだが、だったら都香が呼ばれないのはおかしい。……もう呼ばれたあととか?
そうこう推理している教官が来た。教室の出入り口でお待ちだ。しかも随分と険しい表情で。本当に、僕は何をやったのだろう。席を立ち教官の元へ参じればもう少し来いと手招き。従い教室から離れたら。
「……鳴海、覚悟しろよ」
「……」
や、急に覚悟しろと言われても。心の準備をしろと言うことだろうが。僕は教官が何を口籠もっているのか、躊躇しているのか察することは出来ない。───いや、察したら驚愕モンだ。
推察出来るはずが無い。
だって。
「親父さんが、鳴海三佐が戦死した」
「───」
嘘だ。
浮かんだ文字は刹那で弾け、僕の頭は真っ白になった。
久保田教官が冗談で、こんなことが言える人じゃないことくらい理解しているからだ。
“戦場はこんなモンじゃねぇぞ。もっと錯綜するからな”
父さんの事故は、正に久保田教官が僕に告げたまんまだったようだ。
五歳時の最悪の事態と別に、古い記憶が在る。
まだ同居していた祖父母が存命だったころ。よく昔話を聞かされた。じいちゃんとばあちゃんの淹れてくれた麦茶を飲みながら、日向ぼっこと言うには夏の強い陽射しの中で縁側に座り僕は、幼子らしく灼ける足をぷらぷらさせていた。そんな僕ににこにこしながらじいちゃんは、じいちゃんの子供時分の話、若いときの話、じいちゃんとばあちゃんの馴れ初め、父さんと母さんの話もしてくれた。
この中でもよくしてくれたのは、都香の家、阿佐前と、僕の家、鳴海の悲恋だった。鳴海と阿佐前が縁戚関係になった切っ掛けでも在るからだろうか、代々大人たちの酒のつまみに、子供たちの寝物語に、語り継がれていた。特にじいちゃんの定年を前後して、戦争が始まったせいか、じいちゃんは僕に事在る毎にしてくれた。
阿佐前が主人で鳴海が従者であった時代。阿佐前は元が大農家の大地主で、土地の貸し出しや切り売りをしたり企業に出資したりして生計を立てていた。鳴海はその手伝いをしていて、要は執事とか言うようなものだった。
今とは違い、この国も率先して参加していた先の大戦時、阿佐前は農家だから自前で畑をやっており、生活の苦しい時期では在ったが有り難いことに使用人すら食うに困ることは無かったらしい。ときには採れた野菜を売りに行ったり近所の人に畑作業をしてもらい出来たものをお裾分けしたりしたそうだ。
どうにか時世の苦境を生き、それなりに人望の有った阿佐前と守り立てていた鳴海には、当時娘と息子がいた。
阿佐前の娘は香織、鳴海の息子は辰之助と言った。
阿佐前の当主は戦争の時勢だ、家と家の関係はもう流行らない、当然生まれたときから知っているから身元もしっかりしているしどうだ辰之助を婿にくれないか、と優秀な辰之助をひどく気に入ってここいらで親戚になろうと鳴海の、己の従者に交渉していたのだった。鳴海にしても悪い話では勿論無い。主人の阿佐前は長く仕えるくらいには人柄はわかっている。家の内情も従者だけあって熟知している。香織は気立ての良い娘だ。若い二人はどんな心中だったかは置いて、親は意気投合で勝手に決めた。
だが、戦況はどんどん悪化し、辛うじて平静の保たれていた阿佐前と鳴海の家も余波を受け始めていたころ。
赤紙が、辰之助に届いた。
父さんは開業医だった。高等学校の医療技術コースを卒業したあと医学部に進学した。そこで工学部で航空宇宙工学の繁都おじさんと出会い友人になった。その後芋蔓式に繁都おじさんと交流の在った機械情報工学学科の母さんと、教育学部の朋香おばさんがそれぞれ交際し現在に至る訳だ。
開業医の父さんに、政府から召集令状が届いたのは僕が中学二年の時分。父さんはだいぶ渋っていた。けれども父さんは現地の人たちが医者不足に悩んでいることを知っていた。ゆえに、父さんは。
「絹香ちゃん、すまないっ」
絹香は母さんの名前だ。この名前を、“私には似合わない名前だ”と苦い顔をし、父さんはでもこの名前が好きで母さんの呼び方は僕に話すとき以外は常に「絹香さん」だった。
半日掛けて実家に帰った僕を迎えたのは、すでに封を閉められた開かない棺と横に座り俯く母さん、そして繁都おじさんの土下座だった。玄関は鍵が掛かっていたので庭に回ったらこの光景だ。僕は小さく、ただいま、と言った。繁都おじさんがばっと僕を見る。悲痛な面持ちだった。
「……っ、香助くん!」
「ただいま。来てたんだね、おじさん」
「香助くん、本当に────」
「いいよ。繁都おじさんのせいじゃないから」
靴を脱ぎ縁側に上がる。いつかじいちゃんと麦茶を飲んだ縁側だ。そのまま畳敷きの部屋に入って腰を下ろした。棺を前にどうすれば良いのか判然とせず、僕はじっと見据えることしか適わなかった。繁都おじさんは未だ謝っている。
「おじさんが何で謝るの? 誤爆事故なんでしょ? 第一、おじさんと父さんは駐屯地が違うじゃない」
おじさんは開発で基本他国にいても戦地にいることは無い。父さんは逆に医官として現地にいた。まさか、これを気にしているのだろうか。それとも優秀な医者はいないかと訊かれ、うっかり父さんの名前を軍に洩らしたことだろうか。前者も後者も、軍の決定と父さんの決断だ。召集令状とは言え徴兵ではなく志願制で、父さんが断ることも可能だったのに承諾したんだ。繁都おじさんに責任なんか在るとは考えられない。
ところが、及ばぬところから繁都おじさんの謝罪の理由を知らされる。
「香津を誤爆した戦闘機は、俺が造ったものなんだ……!」
「……」
ああ、とも、そう、とも発声されなかった。単純に、ふぅん、としか。
“何で戦争なんかするんだろうな”
“誰かが死ねば、誰かが泣くのに”
“戦争なんか、するべきじゃないんだ”
戦闘機のお披露目会で、父さんが言ちた呟きだ。僕は母さんを見遣る。微動だにしない母さん。ふと、あの話をするじいちゃんが脳裏を過った。
辰之助は、帰って来なかった。香織の前には二度と現れなかった。
まるで父さんと母さんの現状みたいに。もっとも辰之助の遺体は無いけれども。
あの日優雅に飛んだ戦闘機。さすがに型は違うだろうけど。
“こーちゃんもいっしょになろうね!”
あの戦闘機が父さんを殺した。
通夜が始まっても、父さんの棺の蓋は開けられなかった。戦闘機の爆弾は、父さんをぐちゃぐちゃに潰したようだった。現地の村で村人を診察中に誤った情報を得た戦闘機が空爆を行い父さんは逃げる間も無く、と言う経緯だった。
敵軍が潜んでいる、とされた村はこの国が『非戦地地帯』と線引きした場所に在った。村の人にテロ組織の人間も敵軍の人間も通じている者さえ、いなかった。完全な誤報。なぜこうなった。不運だった、とでも悲観すれば良いのだろうか。不運? ああ、そうかも。父さんが戦地に行かなければ。召集なんて蹴ってしまえば。だけど、父さんは言った。「僕が行かなければ、誰かが行くだけだよ」と。誰かって? だからって、父さんが行く必要は在った? わかっている。僕の父親と思えないくらいお人好しで、父さんは困っている人を放置出来ない。断って誰かが行くとしても、先にお声が掛かったんだから、と自分が行くんだろう。
誰もいなくて良かった、と思った。つい、噴き出してしまったのだ。たらればが無意味だって自明のことだ。焼香の終わった弔問客の持て成しや葬儀屋と葬式の相談をする母さんの代わりに父さんの線香を絶やさないため付き添っていた。とは言っても通夜用なのか線香は、細く長い蚊取り線香のように螺旋を描いて円状になっている。棒状のものみたいに挿して上から下へ燃えるのではなく、吊るして下から上へ燃えて逝く。ちょっとやそっとじゃ消えそうも無い。機能的だなと火を眺めていると肩を叩かれた。母さんだった。
「母さん。お客様は?」
「もう皆さん帰られたわよ。お通夜の焼香に来てくださったのはご近所さんばかりだしね」
父さんの開業医時代の患者さんが主だった弔問客は、焼香後食事をして殆どすぐ、僕たちに気を遣って帰ったようだった。明日また式に来るから、と。父さんは一人っ子だし、ここは一応鳴海の本家に当たり縁戚は大半近々に住んでいたが、遠縁の阿佐前を含んでも数が少なく通夜も患者さんのほうが多いのだ。斜め向かいに住むおばあさんに至っては、僕が挨拶したときは号泣して僕を抱き締めて来た。診療所を遊び場にしていた僕は常連であったご近所の方々によく可愛がられたせいだろう。擦れていないとは言え今のミニマムとしか言えないあのころの僕が可愛かったのだから良い人たちばかりだったなぁとしみじみする。
遠くにいる親戚や父さんの学友は明日の式に来ると聴いた。忙しいのだろうな、と言う感じだ。
「お父さんはお母さんが見てるから、香助はもう寝て良いわよ。明日も式が在るし、明日のほうが忙しいもの」
「けど、母さんのほうが疲れているでしょう?」
いいよ、僕が父さんを、と言い掛けて口を噤んだ。母さんは、父さんと二人でいたいのかもしれない。父さんは僕とほぼ変わらず今日の朝ごろ家に帰って来た。帰るなり土下座の繁都おじさんがいた訳で。父さんと二人静かに過ごしては今の今までいないのではないだろうか。思い至って、僕は母さんの勧めに甘え床に就くことにした。
「───」
寝付けないのは、非日常に引き摺られているんだろうか。僕は起きて水を飲むことにした。父さんに付いている間もちゃんと食べたし水分も摂った。喉が渇いたのではなく、気を取り直すために水を飲みに僕は寝所を抜けた。
僕の家は和洋折衷の建物で併設の診療所は二階建てになっているが、生活空間は日本家屋に在ったため僕の部屋は一階に在った。部屋は父さんの書斎の向かいでふ、と台所に向かう途中で書斎をそっと覗いて見た。
僕が夜中起きるとたまに書斎から光が漏れていて父さんが本を、殊、医学書を読んでいたりしたんだ。覗いている僕に気付くと「何だ、香助か」と振り返って笑い掛けてくれた。
当たり前だけど、書斎は誰もいない。明かりも点いていない。
「……」
あの棺の中に父さんの顔を見ていない僕は、どこかで父さんの死を信じていないらしい。現実味が無い。だから衝撃を受けて起きたことに怒りを持っても泣くことも出来ず、つい書斎を覗いてしまったんだろう。僕は台所を目指した。
台所へ行くまでの廊下に明かりが差し込んでいるのが見えた。ああ、父さんの棺が在る部屋だ、父さんと母さんの邪魔をしてはならないと足音を忍ばせるため細心の注意を払って歩いた。
通るとき物音を聞き止め僕は足を止めた。風通しだったのか戸は四分の一程度開いていた。気配を殺して中を窺った。息を呑んだ。
「……っう……」
母さんが泣いていた。母さんは、どちらかとするなら強い人だ。父さんの棺が来てからも葬儀屋と話していても弔問客を持て成していても元気こそ無いものの毅然としていた。時折笑顔さえ浮かべていた。僕は誤解していた。
母さんは、隠していただけだった。そう言えばそんな人だと父さんが昔言っていたっけ。「だから、お父さんはお母さんが好きになったんだよ」って。その母さんが泣いている。
僕はそうっと部屋の前から離れた。部屋に戻って布団に潜り込む。水を飲むのなんてどうでも良くなった。元から喉が渇いていたんじゃないし。布団を頭から被る。母さんが暑くなったからと替えてくれた夏用の掛け布団は薄手で、豆電球の投光を透かしていた。
「……」
母さんが泣いている姿を目の当たりにして僕は初めて、ああ父さんは死んだんだと合点した。母さんが泣かない人なのは勿論父さんが母さんが泣かないように尽くしていたからだ。
僕はじいちゃんがあの悲恋話をすると決まって夢を見た。写真でしか見たことの無い二人を、口伝えでしか聴いたことが無い場景で、夢に見るのだ。
煉瓦で造られた橋の上で二人佇んでいる。外套に軍服の青年と、同じく外套を纏う袴姿の少女。拳を握る青年と顔を覆う少女の、いつもの夢だった、はずだった。
ところが、夢はいつもと違っていた。軍服を着た拳を作っている青年は髪が少し長めで眼鏡を掛け、拳を作る手は片方中指で鼻当てを押し上げていた。少女も、少女と呼ぶには少々年上のようだし髪形も常の夢や写真と異なり後ろに行く程短くなる前下がりボブ。衣装は変わらないのに、別れを惜しむ二人は写真で知る二人ではなく僕自身がよく見知った人たちだった。
父さんと母さんだった。
あんな、母さんを見たからだろうか。初めて、母さんが泣くのを見たから。突然奪われる人。いきなりいなくなった父さん。
誰が納得するんだろう。父さんと母さんはインターネット通信でやり取りしていたはずだ。僕が高等学校へ行くまでしていたので、多分それからもしていただろう。昨日今日まで笑っていた人がある日忽然と消えてしまうなんて。これで説得されて頷く人なんているだろうか。遺体の確認も叶わずに。
香織もこうだったんだろうか。や、香織はもっとじゃないのか。あの時代は手紙の行き来も難しかったはずだ。じいちゃんが「香助も大きくなったらわかるよ」と笑っていた。やや寂しそうに。
“誰かが死ねば、誰かが泣くのに”
じいちゃん。父さんが言ってたよ。そして身を以て実現してしまったよ。
父さんが死んだ。だけれど実感が湧かない。だって遺体を見ていない。じいちゃんやばあちゃんのときとは違う。
棺を暴くことはもっと出来ない。
怖いんだ。僕も、きっと母さんも。
棺の中身は父さんで、ぐちゃぐちゃだが父さんで、僕たちの父さんが喪われたと思い知るのが。DNA鑑定で父さんだと断定されて、紛うこと無く父さんだと認識が在るから。
悪足掻きだとしても、直視したくない。怖いんだ。僕はゆっくりと目を開けた。
父さんの葬式は恙無く終わり納骨も済んだ。僕は納骨を無事に終えて三日後には学校へ戻る電車に乗っていた。
火葬後の、父さんの骨を入れた骨壷は、昔抱えたことが在る近所の赤ん坊と同じくらいに感じた。
事が事だけに教官らや校長先生は長期滞在を勧めて来たけど僕は休学する気も無いのでさっさと家を出た。式には父さんの昔馴染みやら軍のお偉いさんが訪れて、父さんの話をしてくれた。旧友と言う人々からは独身時代や学生時代の思い出話を、お偉いさんからは父さんの二階級特進の知らせと謝罪をいただいた。三佐だったから一佐になるのか。父さんの開業医前からの功績と技量で、元から低くない階級だったと言うのに。
母さんを残して行くことは気が引けたが、しばらくこっちに滞在する繁都おじさんと朋香おばさんがいるから大丈夫だろう。僕と言う息子がいたのでは、母さんは悲しむことも出来ないだろうから。人一倍強がる人だし。
それに。正直繁都おじさんといたくない、と考えてしまうのも嫌だから。
おじさんが悪くないのは得心している。でも何処かで及んでしまうのだ。繁都おじさんが造った戦闘機が父さんを殺した、なんて。
「……気持ち悪いんだよな……」
抱えてしまった齟齬が体内で所在無げにぐるぐるする。おじさんが悪いんじゃない。だけどもおじさんの戦闘機が父さんを罪の無い人を殺した……堂々巡りだ。
項垂れたおじさんは葬式にはいなかった。朋香おばさんと、てきぱきと母さんの手伝いをしていた。主に軍事関係の人とは率先して母さんとの間に入って話していたようだ。
繁都おじさんは良い人だ。自身の実家ゆえに思うけど、ちょっと特殊な家系だろう。朋香おばさんと父さんの関係は幼馴染みで再従姉弟にしても、密度が濃い気がする。朋香おばさんが病弱なくせに都香並にお転婆だったことも在るだろうけど、父さんが医者を目指した理由がこれである時点で他人はどん引きする。「朋香が無茶しても、自分が対処出来るように」だって。息子の僕だって、聞いたときは引いていた。どれだけ朋香おばさん中心なんだと。と、言いつつも父さんの気持ちも何となく理解してしまっている僕も父さんを言えず。
排他的、と表して違わない相互関係、連綿と培われた年数の、この濃密な仲に入ろうとした人がどれくらい過去にいたのか知れないが、最終的には玉砕したのだろう。繁都おじさんの外は。
二人の良き理解者で在ったことは嫌でも知っていた。自己の立ち位置で。当人たちはそんなつもりが無くても周囲は違う。僕と都香もそうだった。個々の差異など、今の年ごろのヤツらだって認めようとしないのに、幼児期はもっとだ。変だおかしいと揶揄と呼ぶより嘲られたと言うほうがしっくり来る調子で囃し立てられたことも多々在った。男女が行動を共にしないことが摂理な初等部の時期、マセて来る二年生辺りは特に強い傾向だった。いっしょに帰るだけで“付き合ってんだろう”だの。笑っていたヤツらみんな都香に泣かされていたっけね。僕は無視していた。低レベルな揶揄いへ抗弁するより都香を抑え付けるほうが僕には重責だった。
実体験を持つからこそ、周りがセットに見ているものに割り込む労力か如何程か予測も難くない。大方が嫉妬し、失望し、傷付いて、二人を裂こうとしたりしながら、敗れて去ったんだろう。二人が、恋愛とか単純にカテゴライズ可な仲なら骸を余分に積むことも無いのだけど。
繁都おじさんはこの完成された長年の空気に入り込んだ。そうしてから、母さんを父さんに引き合わせた。僕も都香もだから存在している。
諸々の意味で猛者だし、僕も面倒を見てもらって来た。父さんの葬儀だって……。
「……“本当は、普通の飛行機を造りたかったんだ”」
いつか聞いた繁都おじさんのぼやきだ。けれどもおじさんも父さん同様優秀過ぎた。無比と評価される腕はミスのゆるされない戦闘機の設計、製造に打って付けだった。
「戦闘機なんて、そこまで重要なのか……?」
世相なのだろうか。戦争をしているから? 良い商売なのか。
「じゃあ、」
していなかったら? 戦争を、していなかったら?
繁都おじさんは、戦闘機を造らず一般的な旅客機とか、造っていただろうか。当然、父さんは戦地にも飛ばず、今も開業医として隠居の一員みたいにご近所さんたちと談笑していただろうか。
父さんも、誰も死ななかっただろうか。
繁都おじさんは悔やむことは無かっただろうか。
母さんも誰も、泣かなかっただろうか。
僕は、……。
「……」
熟慮するまでも無い。
バスを降りた僕を校門で久保田教官が待っていた。「よう」と挨拶されたので、僕は「わざわざすみません」と頭を下げた。平時より丁寧に腰を折ったのは、やっぱり参っているのかもしれない。
下げた僕の頭を久保田教官は何も言わずただ乱暴に撫ぜた。
「もう少し、あっちでゆっくりしてりゃあ良かったのに。お袋さん大丈夫なのか?」
久保田教官がぶっきらぼうに質問して来る。父親の戦死なんて非常時は特別措置として通例の忌引きより融通が利くのだそうだ。だが僕は前述の通り早々と切り上げて戻って来た。教官は気遣ってくれているようだ。
「埋葬も終わって向こうにいても、母が疲れるだけですし」
もっとも、葬儀が終わって翌日からしばし仏具屋やら何やらが営業電話を引っ切り無しに掛けて来ていて落ち着けるものじゃなかったけれど。いよいよ我慢の限界を来して、実は誰よりも短気な朋香おばさんが最後は電話線を抜いてしまった訳だが。朋香おばさんは、清楚系お嬢様然とした外見を裏切って口より手が早い人だった。真意に都香と親子だ。繁都おじさんは、体格に似合わず手より先に口だったりするんだけど。喧嘩も言い返すより諭すほうだし。
上手い塩梅だろう。二人がいるほうが良い。
「そうか。なら、良いんだが」
「ご心配お掛けします」
「子供が、んなことを気にすんな。お前は考え過ぎるからな。もっと口より手を出したほうが良いぞ」
再びわしわし頭を撫でられた。少々痛いので頭を横に逃がして避ける。常々子供扱いはやめてほしかったが、嫌ではなかった。
「ありがとうございます」
「おうよ」
居心地の良い空間だ。実家の空気のほうが、余所余所しげでいられなかった。けどもここは戦争知識を体に叩き込む学校で。授業には、また飛行訓練が在る。
僕たちに戦闘機を本来の目的で操る資格は国家的に与えられていない。国際的な問題から軍とされているが、実務が伴うことは無いのだ。戦争している国が在って、表向きウチにも主義主張が在りますよと言う意思表示に過ぎない。事なかれ万歳の国として最低限ウチにも国としての矜持が在ると示した結果が、中途半端な軍国化なのだろう。
協力は、する。そのために国民にも徹底して戦争知識を詰め込むけれど、だからと言って自ら戦争はしない。
さて。そう巧く事が運んでいるだろうかと問えば、答えは否。戦地に赴いた人間が実際死んでいる。父さんも含めて。耳触り良く“非戦地地帯への派遣”とは言うが、国同士の戦闘はおろか暴動内乱さえ起きている場所で非戦地なぞ在り得るか。戦場は不確定要素しかないと、みんなわかっていることだ。詰まるところ、戦闘機の訓練がそのまま役に立つときが来るかもしれない。
僕が人を殺す日が来るかもしれない。
僕が人に殺される日が来るかもしれない。
父さんを、僕と母さんから消した方法で。
「……つらいんなら、しばらく休んでも良いんだぞ。ここにいるからって、明日からすぐに出て来いなんて言うヤツはいないだろうからな」
急に授業に戻ることは無い。久保田教官の助言に首を振る。縦にではなく、横に。
一人部屋ではないけど、何もしないでいるのは無理だ。クラスメートだが同室でも在る倉中は空気を読むけれど、そこに甘えるのは居た堪れない。普通科、整備士専科等の兵士コースの生徒は余らない限り二人部屋だった。士官候補コースは一人部屋だが。……“士官候補”か。
士官、それも上層部幹部候補には政治家と懇意になれたり政治家そのものになる者も多い。政界に食い込みたい人間か元から親だの家だのの関係でコネが必要な人間は何としても入りたいだろうな。
この国の現況を作っているのは政治家だ。昔の大戦と違い軍部と政局は別に動かされている。政治家が軍部の言い成りになることは無いがこの逆も無い。でも。
「────先生、」
総じて教官を呼ぶときは名前のあとに『教官』と付けるのが通常だった。久保田教官なら『久保田教官』だ。が、僕たちは『先生』と呼んでいた。他の教官は『教官』であるのに。先生がゆるしているのも在るけども多分、各々敬意や親近感を持っているからだろう。もっと砕けている者は“くぼっちゃん”になる訳だが。
僕の声に呼び掛けに教官が「どうした?」尋ね返して来た。僕は考え付いてしまった。
政治家は、軍部の言い成りになることは無い。だけれども影響力は在った。
現代の政治家は戦況と戦術に無知では無いが軍部を蔑ろには絶対しない。餅は餅屋だから。
詰まるところ、政治にも軍部の上層部の意見は多少反映される。
“何で戦争なんかするんだろうな”
“香助も大きくなったらわかるよ”
“誰かが死ねば、誰かが泣くのに”
“本当は、普通の飛行機を造りたかったんだ”
“戦争なんか、するべきじゃないんだ”
「“あの話”って有効ですか? 今も」
「“あの話”?」
「……」
“こーちゃんもいっしょになろうね!”
僕は、たとえ事故でも、殺す気も殺される気も、無い。
「士官候補コースの話です」
「……おい、鳴海」
「お受けしたいと思います。もうすぐ夏休みですから、切り替えるには限りが良いですね」
「本気か」
「はい」
渋る教官に、ご自身が言っていたことでしょう、と突っ込みたくなって苦笑する。
「手続き大変でしょうけどよろしくお願いします」
「それは良いんだが……お前だって中途編入で面倒だろうに」
「確かに。でも、良いんです」
面倒なことは僕も死ぬ程嫌いだ。何も無いのが一番だ。僕にとっても誰にとっても。
この国にとってだって、そうだろう?
僕は、身近な誰かが消えるのも。
既知の誰かが泣くのも真っ平だ。
「決めたんです」
《世界》を変えるとか、大それたことを言いも、しもしない。僕にそこまでの力が有ると思えないし。
勝手に、外の国は外の国で戦争すれば良いとか考えていた。現在だってこの辺は変わっていない。
そうでも、火の粉が近辺に掛かるのはゆるせない。
最低だろう? 知っているよ。
久保田教官が『悪の幹部』って言ったのは強ち間違いじゃないかもしれない。